2015年4月28日火曜日

両親ふたりで講座に参加する意味

ご両親がふたりで「ひきこもり脱出講座」に参加した方のご意見です。

二人で参加することで親同士がお互いを知る良い機会となり、感謝しております。ただ、同時に考え方の違いに驚くことも多く、この違いをどのように捉えたらよいか難しいと感じています。

両親の考え方は違って当然です。違って構いません。もし仮に全く同じなら、親はふたりもいらないでしょう。違いは、それをお互いに組み合わせる中で、より良い考えが生まれます。
しかし、お互いの考えが相反して拮抗してしまうと、前に進めなくなってしまいます。そのギャップを埋められないからです。

どうすれば、両親の考え方のギャップを埋め合わせることができるのでしょうか。
そのためにできることは、その違いを耕すことです。当初はABの意見が全く違っているように見えても、よく話し合っているうちに、どこか共通点が見出せたりします。あるいは話し合っているうちに意見が変っていくこともあります。その作業を夫婦間で行ってください。

でも、その作業はなかなか大変で痛みを伴います。夫婦ふたりだけだと、そこまで深めるだけの時間も気力も持てません。
そのような場合、どうぞご両親ふたりで参加してください。ふたりだけだと喧嘩になったり、どうしても遠慮して言いにくいことでも、グループの力を借りれば、両者の意見とも支えられ、安全に夫婦間の相違を耕すことができます。

それがグループの力です。

親自身の壁と向き合う

ひきこもり脱出講座の参加者からのコメントを紹介します。

子どもにきちんと向き合えないのは、(1) 親自身の不安や、(2) 自分の子どもの頃の親との壁と向き合うこと、(3) 夫婦がお互いに遠慮なく向き合うことができていなかったのだとわかりました。しかし、どこからどうやって手を付けていいのか迷います。

壁の比喩(メタファー)で考えてみましょう。

(1) 親が子どもにきちんと向き合えない、、、
つまり親と子どもの間に壁があるのですね。本当は子どもに〇〇と伝えたい、伝えなくてはいけないとはわかっています。でも、うまく伝えられるだろうか、うまく伝わるだろうか、そもそも伝えても大丈夫なのだろうか、伝えたらプラスの結果にはならず、マイナスの結果が引き起こされてしまわないだろうか、、、、これすべてが親自身の不安ですね。

進展のない話がとても大切ですね。その中に同じように壁や不安を持っている自分が見えてきます。先を見通せない時に行動が止まってしまいます。うまくいくかどうか、上手にできるかどうか、という結果に注目していると、とても不安になります。しかし、現状をよく理解するためにはまず自分が何に対して不安を感じているかを第三者に言葉に出して説明したり、文字にして明確にすることが必要だと思いました。そして、不安から抜け出すためには、今なにができるかを考え、いろいろ行動を起こして不安を振り切る勇気と、失敗を受け止める覚悟を持つことだと思いました。

そうです。
ふだん、我々は自分自身の「不安な気持ち」に気づきません。「今、私は不安なんだなぁ!」なんて、普通考えないでしょう。それは、不安の渦中にいるために「灯台下暗し」、自分の気持ちなんか気づきません。でも、グループで自分の気持ちを話すと、上記のようなことが起きます。そうやって、自分自身の不安な気持ちに気づくことができます。気づいてしまえば、もうこっちのものです。

不安を取り去る必要はありません。不安は人が生きていくためにとても大切な気持ちです。たとえば、(そんなことありえませんが)「不安」という感情が欠如してしまった人を想定してみましょう。その人が高速道路で運転したらとても危険です。どこまでスピードを出しても不安を感じないなんて。つまり、我々は危険を察知して避けるために「不安」という気持ちを持っています。人が生きていくうえで大小さまざまの危険に出くわします。それを避けるために不安の感情は重要な役割を果たします。

だから、不安の気持ちを取り去るというわけではありません。自分で自分の不安に気づくと、その不安感をコントロールできるようになります。不安を乗り越えることもできます。子どもが成長するためには、ハードルを飛び越える不安を乗り越えなくてはなりません。不安の気持ちが強すぎるとハードルを飛べなくなってしまいます。不安は多すぎても少なすぎてもいけません。そうやって親の不安をコントロールすれば、子どもにきちんと向き合えるようになります。

(2) 自分の子どもの頃の親との壁
親が子どもにどう接するか。そんなこと、ひとつひとつ意識して考えていません。さまざまな場目に応じて、自然に親として動いているわけですが、実は自分の親が自分にどう接してきたかという記憶が根底にあります。気づいていなくても、自然に自分の親との体験を、自分の子どもに伝えています。
その記憶にシコリ、つまりイヤな記憶や、傷を抱えていると、その反動から子どもに伝えるべきことをうまく伝えられなくなってしまいます。
では、どうしたらよいのか。昔の記憶を消せばよいのでしょうか。いえ、その反対に記憶を呼び起こします。小さな出来事の記憶は自然に消えますが、大きな記憶は消えません。自ら意図的に消したいと思っても、逆に記憶に定着して残ってしまいます。
自分の親との壁の記憶を呼び起こして人に話してみましょう。それは、とても痛いことかもしれません。しかし、肩こりをほぐすように、その痛さを通り越せば、昔の記憶から解放されます。そうすれば、自分の親との記憶に左右されることなく、自由に自分の子どもに向き合うことができるようになります。

(3)夫婦がお互いに遠慮なく向き合えない壁
遠慮なく向き合ったらどうなるでしょう?
相手を傷つけてしまうかもしれない。
相手が怒って、自分が傷ついてしまうかもしれない。
もうこのことに関わってくれなくなるかもしれない。
それを避けるためには、パートナーに遠慮します。遠慮したほうが安全ですから。
そうすると、なぜか子どもにも遠慮してしまいます。遠慮した方が安全ですから。
すると、子どももまわりの世界に対して遠慮してしまいます。遠慮した方が安全ですから。そうやって、ひきこもります。
そのために、遠慮の連鎖を断ち切りましょう。
まず、できることは?
夫婦間の遠慮のパターンを崩して、一歩前に進んでみてはいかがでしょうか。

2015年4月11日土曜日

原因探しから未来志向へ

質問。
私が混乱しているので教えてほしいです。今までひきこもり、発達障害、アスペルガーは親の責任ではないと本に書いてあるが、ひきこもりは親の責任なのですか。
私は人から
「甘やかして育てたからだ」
「がんじがらめに子どもに指示している」
と言われ責められてきました。精神疾患は遺伝があるから親の責任ではないかもしれません。ひきこもりは親の接し方で防げるものなのかわからなくなってきました。

ひきこもりに限らず精神的な問題で生活に支障をきたしている人を理解するためには、なぜそうなっているのか原因を明らかにしなければなりません。
まず、病気や障害があるかないかと考えます。

発達障害、アスペルガー障害、うつ病などの病名を付けるということは、それは背後に病気や障害があって、それは遺伝などの医学・生物学的な原因があるという説明になります。

一方、「ひきこもり」という言葉自体は一つの病気を示す概念ではなく、「家に長期間ひきこもっていますよ」という状態像を示すものであって、その原因が何かということは問うていません。
しかし、それでは困ります。なぜひきこもっているのか理解もできないし、問題解決の対策を立てられません。なんとか原因がわかるように見立てないといけません。そこで、様々な試みを講じます。

専門的な知識がない普通の人は、自分でも納得できる身近な原因を持ってきます。たとえば、一番わかりやすいのが
「甘やかして育てたからだ」
「がんじがらめに子どもに指示している」
など親の責任に仕立てることです。

一方、専門的な知識を持っているお医者さんやカウンセラーは、〇〇病や◇◇障害という概念を当てはめます。しかし、その概念は絶対的なものではありません。
診断名は、専門家が立てたひとつの仮説にしかすぎません。

精神科領域の診断はあくまで仮説であり、診断する医者の主観にしが過ぎません。そこが内科・外科など精神科以外の体の病気の診断と決定的に異なることです。身体医学ではCTなどの画像診断や血液検査など客観的で科学的なデータを証拠として診断を確定しますが、精神医学ではそのような証拠がありません。症状から判断するしかありません。それは、医学モデルを適用するための便宜的な仮説にすぎず、本質は誰にもわかりません。病気であるかないかの線引きはとてもあいまいなのです。

たとえば、専門家が用いる広汎性発達障害の診断基準一部をご紹介しましょう。
  • 目と目で見つめ合う、顔の表情、体の姿勢、身振りなど非言語メッセージの著明な障害。
  • 精神年齢に相応した友人関係を作れない。
  • 自分の楽しみ、興味や達成感を他人と分かち合おうとしない。

これらの判定は、判断する人の主観に任されています。検査データはありません。
思春期・青年期の人は、いや大人であっても、友人関係をちゃんと作れているかどうか疑問です。「精神年齢に相応している」かどうかも全くあいまいな基準です。それが正常範囲内か、正常域を超えているか、あるいはどの程度までを精神年齢に相応しているかという判断もその人の経験と主観です。

伝統的なカウンセリング手法である精神分析療法は過去志向でした。今現在起きている心の問題は幼少時の親子関係や昔の否定的な人生体験など過去の出来事が原因と考えます。それを突き止めて、自分自身がそれをしっかり認識することで問題を乗り越えます。

原因探しは意味がないと言われましたが、問題を解決するには原因を突き止め、その原因を取り除くことが問題解決の方法を会社の中でやってきました。

そのとおりなんです。
我々は、「原因を明確にする」という近代社会に生きています。そこでは誰もが共通して理解できる客観性が大切です。企業も、国家も、司法も立法も、すべて原因を突き止めることによって、対策を講じます。
ところが、人の心の中身はその人自身の主観的な世界です。意識・感情といったものを明確に定義したり客観的に記述することはできません。会社組織という客観的世界と、心や家族関係という主観的世界の成り立ちは根本的に異なります。客観的な思考方法に慣れた人は、主観的な感情の世界を扱うことに苦労します。典型的な例が、社会の中で活躍する男性にとって、会社のトラブルはいくらでも解決できるけど、家族のトラブルはまったく理解できずお手上げという場合です。それを乗り越えるには、この二つの世界の成り立ちの違いを「理解」しなければなりません。

精神科の診断は医者によって変わるし、時間の経過とともに十分変わりえます。あまり深刻に受け止めないで下さい。
こんなことを言うと、医者仲間から批判されるでしょう。お医者やカウンセラーの先生自身は深刻に受け止めます。しかし、本人や家族はそれを永久不動の真実としての診断ではなく、もう少し自由に柔軟に受け止めます。つまり、この先生と共に問題を解決していくためには、その診断(=仮説)を有用なんだという具合に受け止めると良いです。

ひきこもりの背後に発達障害などの病気・障害が隠れているか否かということを鵜呑みにせず、し「〇〇病・◇◇障害と診断された」現実を客観的に吟味します。診断名を持つことが、本人やまわりの人たちにどんな功罪を生むのか考えてみましょう。

まずプラス面からです。

何が起きているのか理解できます。
「こういう理由だから、ひきこもっているんだ」と説明する言語が生まれるので、今まで「なぜなんだろう???、、、」とわからなかったことが、「なるほど、そういうことなのね」と腑に落とすことができます。

解決策が生まれます。
〇〇病・◇◇障害とわかれば、それに合った治療法や対策が見つかります。必ずしも治癒、つまり問題がすべて解決しないかもしれません。しかし、本人の特性を見出し、それを踏まえて今後どのようにしたら、本人もまわりの人も楽に生きてゆけるかがわかります。

到達目標を下げることができます。
単なる「怠けやサボり」だったら、怠けずにちゃんと他の人と同じように行動することが求められます。〇〇病・◇◇障害とわかれば、普通の人とは違うのだから、(人間、みな個性があって違うとは思うのですが)本人の特性に合った生き方、ライフスタイルを選択できます。多くの場合、それまで掲げていた目標を下げることができます。

自分の責任から免責されます。
「ひきこもりは親の責任」と言われなくなります。それまで親の接し方に問題があったのではないかという悩みや自責から解放されます。
本人にとっては、「努力が足りない、怠けだ、甘えている」と言われなくなります。
担任の先生にとっても、自分のクラスに落ち着きがなく授業に集中できない子や、学校に来なくなる子が出ると、先生の指導力が足りないからと仲間の先生や保護者から見られがちですが、診断がつけばそれもなくなります。あるいは、家族に問題があるのではと、親に責任を押し付けなくて済みます。
お医者さんにとっても助かります。診断名がつかないと、治療することができません。そもそも、医者は「病気を治療する」ことが仕事ですから、病気でない人に対して仕事をできません。病名がつかなければ、医療保険も使えませんし、薬を処方することもできません。

次にマイナス面です。

ショックを受けます。
病気・障害というレッテルを貼られることは、この子は普通の健康な子どもではないんだという事実を受け入れなくてはなりません。心の病気は治るようになってきましたが、まだまだ「心の病気は治らない」という偏見が社会には根強く残っています。実際、うつ病など長期化することもよくあります。一生、病気・障害と付き合わねばならないんだという諦めと覚悟が必要です。これを「障害受容」と言います。受け入れるまで苦しんだり、なかなか受け入れられない人もいますが、覚悟を決めて受け入れることができれば、その後は楽になります。

「放す愛」から「守る愛」に傾きます。
病気・障害を持っているということは、弱さを抱えていることを意味します。普通の健康な人のように冒険はできません。まわりの人は、その弱さを認め、カバーしてあげなければなりません。そのために、親の愛はどうしても「放す愛」が少なくなり、「守る愛」が中心になります。

子どもが幼いころ、多動、偏食、言葉が遅いという理由で臨床心理士から「自閉的傾向あり」と言われました。でもその後に診てもらった専門のお医者さんからは「異常なし」と言われました。
結局、今となってみれば、子どもは人の気持ちがわかる優しい青年へ成長しました。しかし、幼い時に自閉傾向と言われてから、親の私は不安を抱えてしまいました。「子どもに問題が起きないように、、、」と常に子どもの行動を見張っていたように思います。

子どもの成長を見守る親は、常に不安との闘いです。子供が成長する中で大小さまざまな危機や危険に遭遇します。子どもが危機にさらされるそうになったら親は子どもを守り、子どもがそれを乗り越えられたら親はひと安心します。親は不安と安堵を繰り返しながら子どもを見守ります。不安が多ければ守りの態勢に入り、安心感を得ることができれば子どもの冒険を許し、飛躍するチャンスを与えることができます。

子どもに病気・障害という名前が付けられると、親の不安にも名前が付けられ、親の不安が固定化してしまいます。問題がない時でも次に来る問題に備え、常に警戒態勢を敷いていなければなりません。それは親にとって負担となるばかりでなく、子どもはハードルを乗り越える危険に挑戦できなくなってしまいます。

何ができないのか?
病気や障害が根底にあれば、無理してはいけません

何ができるのか?
成長の階段を登るためには、今まで怖くてできなかったことをひとつずつつぶして、できるように進歩していくプロセスです。そのためには、多少とも無理をしなければなりません。

何が無理で、何が可能なのか。それを慎重に見極めます。

過去志向から未来志向へ。

以上のような診断名がもたらす功罪の効果を踏まえた上で、本人と家族は未来に向き合います。
今後、本人が何をできるか、そのためにまわりの家族は何ができるかということに焦点を当てます。
一番大切なことは、その人に一番合った「治療法」を本人とまわりの人が創造していくことです。
つまり今現在の本人の状態を把握して、何ができて、何ができないのか、そして、家族や学校など周りの人はどのようにして関わったらよいのかということをよく相談してみんなで共有します。

診断名は専門家が持つひとつの仮説に過ぎません。薬を処方したりドクターストップをかけるための根拠に診断名が使われるものではありません。この人はこういう弱さを抱えており、何ができなくて、何ができるのかを見極めるための仮説を立てるために使います。

仮説を持つのは専門家だけではありません。本人や家族も、それぞれ仮説を持っています。なぜ、ひきこもっているのか全く理解できないというご家族が多いのですが、よく話し合ってみると、多分こういうことが関係しているのではないだろうかというおぼろげな仮説を持っている場合が多くみられます。本人、家族、専門家、それぞれが持つ仮説は異なる場合が多いので、それらをよく話し合い、すり合わせて、本人がこれから出来ること・出来ないことを見極めていきます。

親が何をできるのでしょうか?
それを見出すためには、今までどうしてきたか、どのように子どもや家族と関わって来たかということを解明しなくてはなりません。その意味では過去もしっかり見つめます、しかし、それはあくまで解決策を見出すための手段であり、悪者さがしをするものではありません。

十分に振り返って、十分に反省して下さい。反省といっても、しょぼんと気落ちする材料にするのではなく、そこから解決策を見出すための材料にします。
もし今までの関わり方が良くなかったと振り返ることができたら、これからは今までとは違った関わり方をできるはずです。それを具体的に解き明かせば、新しい親の関わり方が見えてきます。

もし、「お母さんが甘やかした」ということでしたら、多分そういう要素もどこかにあったのでしょう。親の育て方・接し方がベストではなかったのでしょう。だからと言って親が悪者にされる必要はありません。

No parent is perfect.(完璧な親なんていません)

親は不適切で良いのです。みんな多かれ少なかれ不適切さを持っています。そのことをまわりから責められる必要はありません。自分で責める必要もありません。

でも、そのことをよく深めます。「お母さんが甘やかしたから、、、」という仮説は誰が持っているのでしょうか?お父さんからそう見えるのでしょうか。お母さん自身がそう思っているのでしょうか。それとも、祖父母や学校の先生などにそう言われているのでしょうか。
なぜそのように見えるのでしょうか。どういうところを指して「甘やかし」と判断しているのでしょうか。そういう場合、どうするべきと考えているのでしょうか。もし今までやりすぎていたのなら、どう手を引くことができるのでしょうか。ということをしっかり話し合って見極めます。そして、どうこれから具体的に何をどう改善できるのかを吟味すれば、今までやってこなかった新しい親の関わりを創る事ができます。

このようにして、これからどう子どもに関わることができるのかという可能性が見えてきます。このことは病気や障害があってもなくても全く同じです。

まとめますと、病気・障害の有無にかかわらず、
  • 本人を十分に理解すること。
  • 本人とまわりの複数の人たちが持つ仮説を相互に分かち合うこと。その中には第三者や専門家も含めます。
  • 親や周りの人が元気を失わず、諦めずに、これからできることを考えます。
  • 今、本人ができること、家族ができることをよく考え、無理のない適切な目標を立てます。


家族は、ただ見ているだけ、本人が自発的に気づくのを待つだけではダメです。
結局、困難を乗り越えて次の階段に進むのは、本人自身の力です。自分の力で困難の壁に立ち向かい乗り越えなければならず、まわりが手を貸すことはできません。


しかし、家族は本人が力を発揮できる環境を積極的に作ります。そのために、家族は知恵を出し合って、よくよく話し合わねばなりません。
諦めてはいけません。

2015年3月7日土曜日

家族療法スーパーヴァイザー養成講座

定員に達しましたので、申し込みを締め切らせていただきました。
次年度も開催予定です。ここでご案内いたします。

目的
システムズ・アプローチにもとづくスーパーヴィジョンの理論を学び、実際のスーパーヴィジョン経験をとおしてその技法を学びます。
対象者
臨床経験5年以上の専門職(医師、看護師、臨床心理士、社会福祉士、精神保健福祉士、教師など)で、後進の指導に当たる立場の方。
日程 (全6回)
(1) 5月16日、(2) 6月20日、(3) 7月18日、(4) 9月26日、(5) 10月17日、(6) 11月21日
いずれも土曜日の午後8:30-10:00(1.5時間)
日程は変更する場合があります。
前半はスーパーヴィジョンの理論と技法を講義中心に行い、後半は各参加者のスーパーヴィジョンのスーパーヴィジョン(メンタリング)を行います。
場所:田村毅研究室(東京都港区)

定員:3-6名

講師:田村 毅(精神科医、日本家族研究・家族療法学会認定スーパーヴァイザー)

教科書:Lee & Everett著「家族療法のスーパーヴィジョン-統合的モデル— 」金剛出版, 2011

受講料:30,000円(税別)

申込み・お問い合わせ
下記をご記入の上、電子メールでお申込みください。
お名前(ふりがな):
性別・年齢:
所属・役職:
臨床経験年数:
連絡先電子メール:
連絡先電話番号:
備考:(講座に対するご希望など)

家族療法グループ・スーパーヴィジョン

4月よりグループ・スーパービジョンを開始いたします。
どうぞ、ご参加ください。

目的
参加者が提示する家族ケースをもとに、家族システムの見立てと効果的な支援策についてグループで検討します。また具体的なケースをとおして家族療法の理論と技法について学びます。
対象者

  • 正参加者:専門家としての守秘義務を遵守し、継続的に関わるケース(臨床事例)をお持ちの専門職(医師、看護師、臨床心理士、社会福祉士、精神保健福祉士、教師など)
  • 準参加者:上記の専門職を目指す大学院学生など、自らの事例は提示しない方

日程

  • 2015年4月25日、5月16日、6月20日、7月18日、9月26日、10月17日、11月21日、12月19日
  • 2016年1月16日、2月20日、3月12日
  • 全11回。いずれも土曜日の午後6-8時(2時間)
  • 日程は変更する場合があります。
  • 年間を通じてのご参加を原則としますが、1回のみの参加も可能です。

場所:田村毅研究室(東京都港区)

講師:田村 毅(精神科医、日本家族研究・家族療法学会認定スーパーヴァイザー)

教科書:日本家族研究・家族療法学会編「家族療法テキストブック」(金剛出版)

受講料(税別)

  • 正参加者:各回5,000円(全11回一括40,000円)
  • 準参加者:各回4,000円(全11回一括32,000円)

(年度途中より一括お支払いただく場合は、残りの回数合計の2割引といたします)

定員:正参加者:6名、(準参加者:若干名)

申込み
下記をご記入の上、電子メールでお申込みください。
お名前(ふりがな):
性別・年齢:
所属・役職:
連絡先電子メール:
連絡先電話番号:
備考:(講座に対するご希望など)

2015年3月1日日曜日

高齢のご両親についてのご相談

【つぶやき】からのご相談です。

70代の両親について相談先を探しています。母はもともと発達障害があったと思われ、依存心が強く、自己中心的で被害妄想があり、私(長女40代)も子供の頃から気持ちを理解してもらえたことがあまりありません。私が父と仲良くすることを嫌悪し阻止するので、思うように父と関われませんでした。

父と私は母をカウンセリングに連れて行きたくこれまで何度も努力しましたが、母が激高することを心配する親類の協力を得られず、父が奮起して一人でカウンセリングに行ってみたことがありましたが「本人を連れて来なければ話にならない」との対応で父は懲りてしまいました。

トラブルの多い母には家族も親類も腫物に障るようその場凌ぎの対応でここまできましたが、最近父がステージ4の癌と判り闘病が始まりました。当初は献身的に向き合っていた母ですが、過剰に頑張ってしまうためストレスで被害妄想が酷くなり、父への暴言が始まり看護できそうにない状態で、さすがに父も家を出たいと言っております。

このようなケースですが、田村先生でしたらどのように対応していただけますか?

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お返事が遅くなり、失礼いたしました。
お母さまの対応と、お父さまの闘病とが重なり、とてもストレスの高い状況とお察しいたします。
ふたつの方法が考えられます。

1)本人を連れて来ないで解決を図る。
娘さんであるあなたが、もし可能であればお父さまもご一緒に、いらしていただき、どのようにお母さまと関わることができるか相談します。

もともと性格に問題のあるお母さまと家族との関係性が、長い間に悪循環のスパイラルに陥っている可能性があります。その当事者ですと見えないのですが、専門家が客観的な立場から家族のやりとりを伺い、悪循環を外すためのツボを見つけ出します。そのツボは、多分、今まで実行することのなかった想定外の関わり方になると思います。それが、具体的にどのような関わり方かということは、これだけの情報からはわかりません。もう少しお話を丁寧に伺う中で見えてきます。

2)お母さんの問題ではなく、別の問題にすり替える。
たとえば、「お父さんの看病の問題」として、お母さまを連れていらっしゃるという方法です。
お母さまの意識の中ではご自身が問題であるとは全く認識せず、まわりの人が問題であると認識していらっしゃるでしょう。その「困り感」に沿った形で相談に入ります。たとえば、お母さんにとって、「夫が自分の言うことを聞かない、夫がすぐ怒る、夫が妻を無視する・冷たくする」などの困り感をお持ちでしたら、そのような「困った夫の問題」をどうしたらよいかという視点から相談に誘います。自分のことでは相談する気持ちがなくても、「問題の夫」という構造であれば相談にいらっしゃるかもしれません。

もし相談にいらっしゃっても、「実は、あなたが問題ですね」という流れには持って行きません。あくまで「夫の問題」を相談していく中で、お母さま自身が抱える葛藤や感情を表出されて、他者に支えられているという感覚を抱くことができれば、気持ちが落ち着きます。

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以上、ふたつの方法をご紹介しました。
いずれの方法でも、お母さまの性格自体を変えることはおそらく無理でしょう。しかし、このようにして、家族関係の悪循環を緩和することは可能です。それは、お母さまご自身ばかりでなく、癌と闘うお父さまにとっても、とても重要なことは言うまでもありません。

2015年2月10日火曜日

「先々心配性」と二種類の親の愛

「ひきこもり脱出講座」の参加者のお話です。

皆さんの話を聴いていて、私は「先々心配性」だと思いました。
子どものことについて、先回りして心配して、何かを言ってしまいます。

とても大切なことに気づかれましたね。
「心配性」と言われると、なんだか良くないことのように思われますが、親が子どもを心配することは当たり前。とても大切なことです。
逆のことを考えてみましょう。もし、親が子どものことを心配しなかったら、どうなるでしょう?子どもは危険にさらされますね。親は子どもを危険から守らなければなりません。子どもの先々のことを心配してしっかり守ってあげることが、親の愛情です。

しかし、もう少し深く考えてみましょう。親の愛情って何でしょうか?
私は親の愛情には二種類あると考えます。それをよく理解して、バランスよくこの二種類の愛情を子どもに与えれば、子どもはうまく育ちます。

二種類の愛とは、守る愛と放す愛です。順番に説明しましょう。

1) 守る愛
子どものことを心配して、予想される危険をあらかじめ予知して子どもの身の安全を守ります。
この世の中は危険に満ちています。安心していると痛い目に遭います。子どもはまだ自分を守ることができないので、親がしっかり保護してあげなければなりません。
この愛情は、子どもがまだ小さい時に特に重要です。子どもは、守られているんだという安全感を得て、この世の中は基本的に大丈夫なんだ、自分はこの世の中に生まれてきて良かったんだ、自分を守ってくれる親はありがたい、つまりいろんな人がいるけど基本的には自分の味方でいてくれて、自分がどんな悪いことをしても良いことをしても、変わらず絶対的な愛情を注いでくれるんだという、人格の核となる自信を得ます。人は自分のことをわかってくれるはずだ、守ってくれるはずだという安心の期待を得ることで、この世の中に安心して留まることができます。

2) 放す愛
もう一つが放す愛、これは様々な点で守る愛と180度異なります。正反対なんですね。
子どもは自分で身を守ることができるだろうと、子どもの潜在能力を信頼します。もしかしたら危険なことが起きるかもしれないと予期しても、親が子どもをも守らず、子ども自身がどうにか難局を切り抜けることを遠くから見守っています。
この世の中は危険に満ちています。何かに挑戦しても失敗がつきものです。しかし子どもが転んで痛い目にあっても(失敗しても)、自分で機嫌を直して立ち上がり、また歩いてゆけるだろうと信じています。親は心配だとしても、子どもに任せて、あれこれ手を出しません。
この愛情は、子どもから大人へ自立する時に特に重要です。親が手を出さず、自分に任せているんだ、つまり親は自分のことを信じてくれているんだという安心感を得て、自分でどうにか困難を切り抜けてみよう、がんばってみようというやる気が芽生えます。親は助けてくれないんだという諦めが、親に頼らず自分でどうにかしなくてはならないという気持ちに切り替わります。
でも、きっとそううまくはいかないでしょう。何度か失敗します。もう親に助けてもらいたい気持ちです。それでも、親が助け舟を出さずに子ども自身に任せているということは、よっぽど自分でできると思っているんでしょうか。そのような親の肯定的な期待感を受けて、子どもは辛いけどまた挑戦します。何度か失敗しているうちに、いつか成功する時が来ます。そのことを親はしっかり見ていてくれます。自分の力で難局を切り抜けることができたのだという体験が、辛くても自分でどうにかできるという自信につながり、親やまわりの人に頼らずとも自分でどうにかする自立心が芽生えます。保護者に守られ世界だけでなく、危険なことが起きるかもしれない世の中に飛び出しても、なんとか自分でやっていけるという自信を得て、社会の中に安心して留まることができます。

ただ、注意しないといけないのは、「放任」とは異なるということです。放任は子どものことに関心を払わず、忘れてしまっています。それではいけません。子どもが今どんな様子か、遠くから見守っています。近くで見守り手を出しません。子どもが転んだり失敗する様子をちゃんと把握しますが、救いの手を差し伸べず、黙って見ています。よっぽどひどい状態になれば手助けすることもあるでしょう。どれくらいひどくなるまで手を出さないのかが放す愛の難しいところです。

子どもが幼い頃は守る愛がメインです。子どもはまだ自分を守る力を持っていませんから。
しかし、子どもが成長して、自分で自分を守ろう、自立しようとする思春期以降は、放す愛がメインになります。
だからといって、放す愛だけで守る愛が必要ないということではありません。子どもが小さい時も、大きくなった時も、この両者は必要です。ただし、大切なことはその配分です。子どもが自立しようとしている時期に、守る愛の配分が大きすぎて、放す愛が少ないと、子どもは自立できません。

このように理屈で整理すれば簡単に聞こえますが、親がこの二つの愛を使い分けるのは実はとても難しいのです。

子どもに、親として言いたいことを言えないんです。
子どもに遠慮するなんておかしいのに、なぜか遠慮してしまいます。
親が言ってしまうと、子どもの状態がもっと悪くなるんじゃないだろうか、ひどくなるんじゃないかと心配します。
せっかくここまで話せるようになってきたのに、親が言うと、また自分の部屋にひきこもり、親子で話せなくなってしまうのではないかと心配します。
以前、子どもから「うるさい!」と言われたから、それ以上言えません。
子どもから拒否されたから、それ以上言えません。
子どもに言われて、親ががんじがらめになっています。

「親として言いたいことを言う」のは放す愛です。そんなことを言ったら子どもは傷つきますから。
「親が言うと、ひどくなるんじゃないか」というのは守る愛です。危険性を予知していますから。
両方が重なっています。これではどうしたらよいかわかりませんね。だからがんじがらめになってしまいます。

ひきこもりの子どもに、「親の気持ちを伝える」のはタブーだと言われてきました。
親の気持ちは何も言ってはいけない。「これからどうするの?」などと将来のことや、本人の不安を煽るようなことを言って、刺激してはいけません。

その通りです。ただし、それは守る愛がメインの場合です。
守る愛の基本姿勢は不安感です。危険を早期発見しなくてはいけないので。親が不安だと、子どもも不安になります。
放す愛を与える場合は、どんどん親の気持ちを伝えます。「これからどうするの?」と将来のことを言って刺激します。放す愛の基本姿勢は楽天的(安心)です。この子は今は転んでいるけど、自分で立ち上がり歩き出す力を持っているに違いないとなぜか根拠なく安心しています。「立ち止まらなくて良い。前に進んでごらん。失敗しても構わない、また立ち上がれば良いのだから」その言外には「だって君、そうできるだけの生きる力を本当は持っているんでしょ?」という安心感を子どもに伝えていることになります。子どもは言わなくても親の気持ちが伝わります。親の楽天的な安心感が子どもにも伝わります。だから、親が「これからどうするの?」と将来のことを言っても、本人は不安になりません。なぜなら、親が不安になっていないからです。

つまり、放す愛で子どもに接するためには、親の基本姿勢を悲観論(不安)から楽観論(安心)に切り替えなければなりません。子どもが小さい時は守る愛(不安)中心でやってきましたから、子どもが大きくなってもなかなか切り替えられません。しかし、きっかけが与えられ、親が一旦切り替えることができれば、親も楽になるし、子どもも楽になります。

従来は、
守る愛=母親の担当(母性性)
放す愛=父親の担当(父性性)
と言われてましたが、今はほとんど関係ありません。
性役割分業が明確だった一昔前にはこの色分けにも根拠がありましたが、今は違います。
ひとり親でも構いません。ひとりの親が、子どもの状況に応じて、このふたつの愛を使い分けます。守る愛が多すぎても、逆に放す愛が多すぎてもいけません。

ひとり親でも十分に可能なのですが、実際にはかなり難しいです。親自身がしっかりとした基盤を持ち、ぶれずにどちらの愛を使い分けるか状況に応じて判断しなくてはならないからです。
そのために、親自身もまた、誰かによってしっかりと支えられていなくてはなりません。
パートナーによってお互いに支えあいます。そういう意味ではふたり親は確かに有利です。
あるいは、家族以外の親族や友だち、あるいは第三者の専門家でも構いません。要はひとりだけでがんばろうとしないこと。だれかと共に、試行錯誤しながら二つの愛を大胆に使い分けます。