2020年12月17日木曜日

家族ミーティング:繋がることで癒される

12月12日(土)に行われた家族ミーティング
参加者からの振り返りをご紹介します。

今回のミーティングでは、繋がりについて改めて学びました。
数日前に日常生活で心情が波風立つ出来事があり、自分で客観的に解決できるレベルでしたが、こういうことがあったとミーティングで吐き出したいと思っていました。頭では冷静に思っていても、どこか不安感があり夜はあまりよく眠れなかったりしていました。
そのことを皆さんに打ち明けて、そして皆さんから反応をもらって、それがとても安心しました。そして、他の参加者の方もおっしゃっていましたが、参加者の方々と共通することを感じて「繋がり」を感じました。この「繋がり」が安心するんだと改めて実感しました。
自分の中の支援者性でネガティブな感情はコントロールできましたが、どこかで不安感が残っているのを感じていて、それがミーティングでの対話によって皆さんとの繋がりを感じ、残っていた不安感が安心になるのを感じました。安心を感じるということは癒しにもなりますね。癒されて元気にもなりますね。
ああ、だから私は毎回ミーティングで元気をもらって帰っていたのかと合点がいきました(笑)
私は毎回参加しているので少し慣れてしまっていた感がありましたが、古民家という先生のお宅、薪ストーブの柔らかい暖かさの中で、田村先生の半分プライベートを解放してくださっている空間、田村先生のご家族の様子も感じながらのミーティングが本当に貴重な場であると改めて実感いたしました。先生ご自身の生き方に触れさせて頂くことが、私の癒しになっているのかもしれません。

この日はたまたま東京の会社に勤めている娘がパソコンを持ち込んで、古民家でリモート仕事をしてました。ミーティングを行う土間はキッチンと引き戸で隔たれています。その引き戸を半分開放し、休憩時間には妻がお茶と参加者が持ってきてくれたお菓子を出してくれます。

通常、こういうことはご法度なんです。
保健所に診療所を申請する際、仕事場とプライベートの生活空間をちゃんと区切ることが求められています。わざわざ確認のため見に来るんですよ、ふつうは!
公私の間に境界線を設け、混同しないようにちゃんと区切りましょう!
ふつう、そう考えますし、それは間違ってはいません。
しかし、私はあえてそこを崩します。
私情(プライベート)を排除して、公的な顔(パブリック)をして仕事をします。
それを混同してはいけません。
しかし、そう簡単ではないんですよ。壁を作って区別しても、公私は繋がってしまいます。
そのメカニズムをちゃんとわかっていないとごっちゃになってしまうんです。
精神科医やカウンセラーなどの支援者は、自分の悩みを気づかぬうちにクライエントに投影したり、、、
親は自分の悩みを気づかぬうちに子どもに投影したり、、、
夫婦の間でも同様なことが起きます。。。
主観性と客観性はそう簡単に分けられるものではありません。心の中で繋がっています。
だから、保健所が言うように公私の間に壁を作るのではなく、半分開放して相互に行き来できるようにして、あえて繋げます。
支援者は悩みを抱えている主体であるからこそ、クライエントの気持ちに寄り添うことができます。
自己を投影せず純粋に相手に共感するためには、自分自身の悩みが何であるか、しっかり把握していることが求められます。
自分の悩みに蓋をしていると、気づかぬうちに漏れ出て相手に投影してしまうんですよ。
そのあたりがよくわかっていない人は、無理せずに壁を作っておいた方が安全です。

分断すると不安になるんですよ。でもそれは隠し持っている自分の弱さを守るために必要なことなんです。(アメリカのトランプ大統領のように)
自分の弱さを認め、それを含めて繋げてあげると安心します。(クリントン元大統領もそれをやってましたね)
これが私の生き方でしょう。

2020年12月2日水曜日

家族療法教室(2):家庭内暴力と祖父母の役割

2020.11.28.(土)
事例から学ぶ家族療法教室2では、家庭内暴力の親子と祖父母の役割というテーマで、私が関わった家族事例を紹介しました。
その事例についてもブログで紹介したいと思いますが(書くのに時間がかかるので)、とりあえず参加者からのフィードバックを紹介します。
 
関係性の世代間伝達のお話、とても印象的で、事例を通してお話頂き、納得出来ました。
自分自身の家族との関係性についても改めて振り返るきっかけとなりました。
子どもに問題があって、その子を何とかしたいと思ってしまいがちですが、実は関係性の問題なのですね。自分自身の不安や葛藤を無意識のうちに全てその子のせいにしてしまっているのですね。
私の原家族における関係性の問題が昨日のお話でクリアになりました。
(私がクリアになっても仕方ないですが(注1)
頭では分かっていても、とっさの時には本能的に反応が出てしまうものですね。
その辺り、すぐにはどうにもならないかもしれませんが、自分でわかっているのと、そうでないのはだいぶ違うのかなと思いました。関係性が、変わっていけるような気付きのきっかけと、自分で気づくことが大事なのかなと思います(注2)
不安が解消されることで人と繋がれる安心感を得られて関係性が変わるお話(注3)、亡くなった後でも繋がれるお話(注4)、心がほぐれるようなお話がたくさん聴けて。暖かい気持ちになれました

注1)いえいえ。支援者が自身の家族の当事者性に向き合い、クリアすることは、支援者性を発揮するうえでとても大切なことですよ。

注2)「自分で気づく」のは精神分析療法や認知行動療法の考え方です。家族療法ではそこをさらに一歩推し進め、実際の関係性の中でそれを変えちゃうわけです。自分で気づかなくても構いません。
事例のお母さんが娘との関係と、実家の親との関係の相似形に「気づく」のも有用ですが、今回は、実際に声をかけて診察室に呼び、一緒に住むことになりました。心の中だけでなく実生活の変容まで行ってしまうのが家族療法の醍醐味です。家族システムが変容すれば、IPの主訴・問題行動も自然に解決します。

注3)人とつながることは両刃の剣です。プラスに繋がれば安心して幸福をもたらし、マイナスに繋がれば傷つき不幸をもたらします。その典型例が家族関係ですね。安心して繋がる中継ぎをするのが家族療法家です。

注4)亡くなった人と現物で繋がることはできませんが、心のなかで繋がることはできます。

祖母-母親-K子と,女系の葛藤が表面化していましたが,この関係性に祖父はどんな影響を与えていたのか,気になりながら話を聞いていました。家族面接の際にも,祖父にどんな役割を担ってもらうのかも知りたいと思いました。

今回は女系の流れを強調しましたが、祖父-母親関係も同様です。祖父母の夫婦関係はうまくいっています。母親にとっては両親を含めた実家(family of origin)からの自立と再構築が課題でした。

今日のお話ですが、母子間の世代間葛藤というのは、(自分も当事者でもあり)日常的に出会うケースの話でもよくある話です。
それだけに、解決は面倒だな、いわゆる纏綿状態っていうのになってるのでは
先生はどうやってほどかれるの?
と思っていたので正直なところ、
「え?それだけ?」って思ってしまった部分もありました(注5)
でも、いろんな方の質問を通してむしろ理解が深まったと思っているのですが、つまりこのケースは先生の関わりでピンチをチャンスに替えることができたということですね。
むしろ、それだけの大きな出来事だったからこそ、長年絡み合っていたものがほぐれるきっかけを作ったというか。
そして、それぞれにそのきっかけを作れるレジリアンスがあったのだなと思いました

注5)はい、それだけなんですよ(笑)。
当事者性の中で整理・解決されていない部分は、支援者として援助するとき、とても厄介で面倒と感じます。
当事者としての体験が整理されていれば、肩の力を抜いて、難なく支援できます。

あるひきこもり経験者の物語(ナラティヴ)

 仮に太郎さんとしておきましょう。
彼との出会いは、私が群馬に移住して新たに就職した精神病院です。
親への暴力のために入院させられた太郎さんの精神療法を担当することになりました。
主治医は群馬に流れる伝統の精神療法である「生活臨床」の第一人者です。
でも300人の入院患者と200人のスタッフを取りまとめる病院長のため、ひとりひとりの患者さんに多くの時間をさけません。
太郎さんは9ヶ月の入院期間と、その後の外来治療で、多くを語ってきました。
彼はとてもよく語れる人です。毎回ぎっしりノートに話したいことをメモ書きしてきます。

「当事者研究」という考え方があります。
医師などの専門家により語られ、診断され、治療される対象ではなく、
当事者自らが自分の言葉で自分のことを語ります。
そのようにして主体性を回復していきます。
退院する際に、私からぜひそれを手記にするよう提案しました。
これが退院後、1年以上かけてまとめ上げた原稿です。
A4用紙で100枚、約10万字もの大作です。
(太字ハイライトは田村によるものです)

これは「ひきこもり」で「精神障害者」とラベルされた彼が名誉を回復し、自分を取り戻すために必要な作業なのです。太郎さんのナラティヴ(物語)はまだ途上です。これからも続くことでしょう。

なにも彼に限ったことではありません。
すべての人は、自分の人生の物語を持っています。
それを一生かけて綴っていくのが、人生という作業なのです。
人に伝えないと、それは物語として完結しません。
人はみな、何らかの形で顕在的に、あるいは潜在的に、自分の物語を他者に伝えているのだと思います。
ナラティヴ・セラピーはそれを心理支援に応用した手法です。

2020年11月12日木曜日

ピザ窯づくりワークショップ

10月30日に、ピザ窯づくりワークショップを行いました。
ワークショップは、これで3回目です。

1)201910月4日&14日:古民家お片付けWS
100年ほど人が生活していた古民家に残された大量の家財道具を家から出し、使えるものは残し、使えないものは軽トラで処分場まで運びました。

2)2020年7月12日:古民家お披露目&日干しレンガづくりWS
リノベーションが完成した古民家で、解体した土壁に藁を入れてよくこねて、日干し煉瓦を作りました。

3)2020年10月30日:ピザ窯づくり&薪割りWS
よく乾燥した日干しレンガを漆喰で固めてピザ窯(アースオーブン)を作りました。

毎回、20-30名ほどがご近所から、また遠くから集まり、一緒に作業してくれます。
人々が集まり、汗を流し、モノづくりを共同して進めます。
人々が交流する中で私はエンパワーされ、気持ちの元気をもらいます。

 今回はピザ窯に加えて、薪小屋づくりと、薪割りも行いました。私にとって薪割りは初めての体験です。なかなかうまく割れません。力づくで思いっきり振り下ろせばよいというわけにはいかないんです。無心になって、振り下ろす作業は精神統一の修行のようです。

次回は12月13日にピザ窯の火入れ式&ピザ試食WSを行います。
薪を割っているのは私の息子
炊き出しのお鍋は「農家民宿」亀久保ゆっこさん手作りのこんにゃくおでんと野菜たくさんけんちん汁です。

2020年10月28日水曜日

家族療法教室(1):患者さんを好きになること

10月24日の第一回家族療法教室には、
オンサイト(高山村)での参加が5名
オンライン(zoom)での参加者が20名ほどでした。 

内容は次のとおりでした。
  1. 家族療法の仮説の立て方を医学モデル、個人心理療法のモデルと対比しました。表にして説明すれば単純なことなのですが、個人中心の支援を行ってきた人にとって「関係性モデル」に発想を転換することが案外むずかしいものです。逆に言えば、モノの見方さえ切り替えることができれば、関係性モデルはごく自然なわかりやすい見方だと思います。
  2. 本人と面談しないで​ゲーム中毒とひきこもり​が解決したケースの治療過程を紹介しました。実例の具体的な様子をご紹介して、なぜ私がそのように関わったかを解題(タネ明かし)します。
  3. 構造派モデル(structural model)から、家族システムへのジョイニング、世代間境界、関係性の捉え方などを講義しました。構造派モデルは第1世代の家族療法です。第2世代の考え方が主流になっている現在でも、これらは家族を理解する重要な概念として押さえておくべき基本です。
参加者からの振り返りを紹介します。

昨日の家族療法教室ありがとうございました。
具体的事例とともに家族療法についての基本的な考え方などがお聞きできて、ああ、そういうことなのね!と、事例を通して考えられてとても理解しやすかったです。
世界各国、家族にしろ、組織にしろ、抱える問題や躓くポイントって同じなんだなあと、人間だから当たり前なのかもしれませんが、改めて考えることができました。
多様性・多様性といいますが、安全な場で対話し、お互いのことを分かり合えるような場を作っていくこと、これができれば多様性の先には、人間ってみんな分かり合えるよね。ということに落ち着くのではないかななんて思いました。言葉て書いてしまうととてもシンプルですが、その簡単かもしれないことが、これからますます難しく、意識してシステムをメンテナンスしていく作業が必要なんだろうなあとぼんやり考えました。
また、一人づつとの信頼関係を丁寧に構築して、じっくりとシステムが変わっていくための支援をする具体的なプロセスを伺えて、さらに理解が深まりました。
最終的に、どれだけその人のことに興味をもって好きになれるか、というお話も、実践の中からのリアルなお気持ちなんだろうなあと思って、お聞きできて一番印象的だったかもしれません。

確かにこれは私の方であらかじめ用意した言葉ではなく、 受講者からの質問を受けてとっさに口をついた、飾らない言葉なんです。
家族療法で大切にしている関係性とは契約的・理性的な関係ではなく、情緒的・感性的な関係です。クライエントを取り巻く日常の関係性を支援するためには、セラピストとクライエントとの間にも情緒的・感性的な関係性が築かれることが大切です。さまざまな問題を抱えてやってきたクライエントの話を聴いて、その人のことをもっと知りたいなと思い、それに応じてクライエントもリアルな気持ちを話してくれる時、なんとなく情緒的な関係性が築けているのだろうなと感じます。このことをクライエントに尋ねるわけにいきませんから、あくまでセラピスト側の思い込みなのですが。
その人に興味を持つとか、好きになるとか、愛するとか、もとをただせばすべて思い込み(その人の根拠のない主観的な感情)なのです。そこを出発点として関係性が築かれていきます。
ネットを介した家族療法教室でも、このことが一番印象的だったとフィードバックしてくれることは、理性の学びだけでなく、感性的な体験も得られたように感じました。

2020年10月19日月曜日

家族と支援者ミーティング:ありのままに生きる

 10月17日(土)の家族と支援者ミーティングは6名の参加でした。
4名が薪ストーブのともる古民家で、2名がオンラインでの参加。
二人の方が初参加でした。

本日はじめて参加しまして、どのような形でどんな事を話すんだろうかと内心ドキドキでしたが、蓋を開けて驚きというかあの場所いた皆様のおかげでもありますけど、心の扉がスーッと開けるとこだなって思ったのが最初の感想です。
当然そうなったら自分はすごく楽で気持ちがいいですし、今まで自分一人で悩んで苦しんでいた事を後悔しました。
よく外国では映画などでこのようなミーティングシーンを見ますけど、まさかこういったものがこんな近くなあるなんて思いもしませんでしたし、そこに参加する意義も知りました。
皆さん立場・状況は違えども、基本悩みはみんな点と線で繋がる気がして他人事とは思えない他人の悩みを通じて自分を客観的に芯から返り見る事が出来、これからの思考行動に相当プラスを与えていただきました事に感謝いたしました。

今まで「子どもと家族の研修会」と呼んでいましたが、「家族と支援者ミーティング」に名称を変えました。やる内容は今までと同様です。「研修会」的なことは「事例検討会」と「家族療法教室」でやりますので、こちらでは、よりみなさん同士の「対話」を重視したいと思います。初めての方でも「繋がる」感覚を持っていただけたことは嬉しく思いました。
次は、何度も参加している方の振り返りです。

今日の話題は自分にとっても未解決な部分に踏み込むこととなり、それなのでかえってとてもシンプルに当事者としてそこにいることができました。
半年近くも参加し、今日が一番自分が支援者でいることを忘れていたように思います。「当事者」としてそこで語っていると、自分がどうしたいか見えてくることに今日気づきました。
わたしは、わたしらしく生きたい。わたしらしいって何だろう?と思うところはあるのですが、今わたしはやはり自分の生きたいようには、生きていないんだろうなということは今日はっきりと感じてしまいました。
田村先生には、もっとありのままで生きなさいと言われてきたと思います。
一方で、そんなの無理でしょう、社会的コンセンサスや社会的役割があるのだから、と思ってきた自分もいました。
コロナ禍でさらに不自由になっている今、余計にそこに気持ちが向くのかもしれませんね。
新たなというか、今更ではありますが、目標が見えてきた気がしています。

とおっしゃいながら、かなりありのままに生きていらっしゃるように思いますけど、、、、
もうひとり、初参加の方から。

初めてお目にかかる方々でしたが不思議と自由にお話しさせていただけました。皆さまからのお話しに気づいたこともあり、また後で自分の話したことについても振り返って考えることもありました。声に出して話し、聞いていただいたことで何かが変わったのか、高山村の自然と古民家の温かさからなのか、とても元気になれました。

外気は10℃以上あるんですが、古民家の薪ストーブに火を入れたんですよ。
高山村はこれから寒くなりますが、古民家の中は暖かです。

移住相談会の動画撮影

動画撮影にあたりお聞きしたいこと  
ちゃんと原稿ができているんですね。この線に沿ってしゃべればいいわけですか!

〇移住時期(移住者の場合)、生まれてからずっと、Uターンなど 
半年前ですよ。私自身はIターンですが、父親との世代連鎖の中ではUターンかな。

〇家族構成  
妻と二人です。子どもたち2+3人は都会に残してきました。

〇この地域で暮らす魅力・感想
 (1)お住まいの地域の魅力 

(例1)都会とくらべて時間の流れる速さが全然違って、ゆっくりと流れる時間がすごく心 地いいなと感じます。
田舎の時間はゆっくりなのでしょうけど、私の心的時間は結構早いんですよ。だからせわしなく動いてしまうけど、まわりからの圧力は確かに少ないでしょうかね。
買い物や病院など、生活するには特に不便はなく、ちょうどいい 田舎だと思います。 
スーパーの駐車場は広くて品揃えも都会と変わらないですよ。むしろホームセンターは都会よりずっと充実してます。まあ都会では草刈り機とかチェーンソーとかは必要ないけど。
また、自然豊かな環境なので、季節を肌で感じられるということも魅力です。 それは至福ですね!チャリで通う沿道に季節を感じます。今は田んぼの稲穂ですね。

(例2)交通の便が非常に良く、遊びや仕事など、東京へも気軽に出かけることができます。 非常に良いというほどではないけど、上越新幹線の上毛高原駅まで車で15分。高山村民専用駐車場をタダで使えるのはイイですよ!
また、山などの自然環境も近くにあるので、都会も自然も両方とも気軽に楽しめる、 とても暮らしやすい地域だと思います。
都会を楽しもうという発想はあまりないのですけど。都会は仕事や勉強の場。自然はのんびりリラックス楽しむ場みたいに。

(例3)都会と違って「あの人」とかではなく「〇〇さん」という風に、一人ひとりの存在 が大切にされていると思います。人と人とがちょうどよい距離感を保ちつつも、地域が大きな家族のような感じで、良くも悪くも自分らしくいられる地域です。 
ちょうど良いですかねぇ、、、??? かなり濃密ですよ。私みたいにそういうのが好きなタイプの人にとっては楽しめるけど、人との関係性に苦労するタイプの人にとっては怖いかも。自分がどっちのタイプなのかちゃんとわかっていることが大切ですね。

(2)ご自身やご家族の生活について 
(例)休みは家族で近くの公園に行ったり、温泉に出かけたりすることが多いです。この地 域は近くにリフレッシュする環境が充実しているので、休みの日に余計疲れて仕事に支障をきたすということはなく、心身ともに健康で過ごしています。
村内にふたつある温泉にもよく出かけますけど、住んでいるところ全体がリフレッシュそのものですからね。休みの日に余計疲れるかって?、、、草刈り機やチェーンソーやインパクトドライバーが疲れる人と、リフレッシュになる人に分かれますね。

 (例2)地域の行事が多いので、よく家族で参加させていただいております。おかげさまで、 地域の方々との交流も深まり、いろんな人と交流させていただいております。 近くのスーパーなどで偶然会った際にも、声をかけていただくなど、地域に溶け込んだ生活をしているなって気がします。 
今年はコロナで夏祭りなど村内の行事はすべて中止。地域に溶け込んでますかねぇ。けっこう村の人は私のことを知っているみたいなのですが、私は村の人をまだあまり知りません。
ど田舎出身の友人が言ってました。移住者が田舎のコミュニティに溶け込むのはとても難しく、その例外は「名士」として入るケースだそうです。そのケースに当てはまるかどうか、、、多分当てはまるんでしょうねぇ、私の場合。

(例3)休日は、もっぱら趣味の〇〇(スポーツ)をして過ごすことが多いです。この地域は運動場や体育館などのスポーツ施設が充実しているので、スポーツを通して地域の方との交流する機会も多いです。
体育館みたいなスポーツ施設は充実してませんよ。
でも、私の場合は山がスポーツ施設ですからね。
まだ子持山には一回しか登ってないんですよ。また行かなくちゃ!
これから冬シーズンはBCスキー三昧です。まあそれが目的で移住したんですけど(爆笑)。
趣味のチャリンコは東京でもこっちでもやってますよ。渋川から高山までの2時間弱のヒルクライムはなかなかのトレーニングですよ!

 (3)不便(?)なところ ※ポジティブに言い換えられるもの
言い換えるところがミソなんですね。難しいなぁ。。。
(例1)坂道が多いのと、冬の空っ風は本当に飛ばされそうになるくらい強いので、子供の
通学は大変だと思います。ただ、体も鍛えられるし学生時代の良い思い出になるのでは
ないでしょうか。

(例2)冬の雪の多さは本当に大変で、雪かきが連日続くと嫌になってしまいます。ただ、
地域の方々と一緒になって行う雪かきは、この地域に住む住民としての意識が強くな
りますし、お互いの安否確認的なことにもなっています。

(例3)田舎ならではのバスの本数や買い物する場所が少ないなどありますが、人の温かさ
を実感するので精神的には心地いいです。ご近所は農家が多く、よく野菜を持ってきて
くださることもあり、非常に助かっております。

(4)お気に入りや思い入れのあるスポット、イベント
(例1)〇〇から見える景色は絶景で、心が疲れた時などは癒されに行きます。特に秋の紅
葉の時期は言葉にならないくらい見事です。

(例2)〇〇祭は、この地域の伝統行事で、とにかく「熱い」イベントです。地域の方との
交流も深まり、自分にとってなくてはならないイベントです。

(例3)〇〇公園は、この地域の住民にとってシンボル的な公園で、遊具も充実しており、
イベントも多く開催しているので、我が家は大変お世話になっている場所です。

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結局、収録はなんとかこなし、後でYouTubeに上げるそうです。
話しながら一番感じたのは、ライフスタイルの変化でしょうかね。
東京ではプライベートとパブリックの分離。家から電車に乗って仕事場まで行き、くたびれて、帰りに赤ちょうちんに寄って、家に帰って、腑抜けて寝るみたいな。
こちらでは自宅で仕事もしてるし、渋川まで車で仕事に出かけても、同じコミュニティの中を移動している感覚です。夜の街はないんですよね。そういうのに行きたくなるとも思うけど、別に行かなくても家で新鮮な美味しい野菜を食べて、家族や来た人たちとくつろげますからね。都会の居酒屋や赤ちょうちんって、飲む場所・癒される場所として他の場所(仕事や家庭)とも分離してるんですよ。そういう意味で、こちらでは全部一緒で連続してるかなと思います。

2020年9月30日水曜日

10月からの研究会とSVの概要

 今年の5月に古民家がオープンしてから、グループSVと研究会をオープン記念+コロナ支援ということで無料でやっていましたが、10月からはお金をいただこうと思っています。
 それに伴い、すこしやり方を変えようと思います。

事例から学ぶ家族療法セミナー
今回の新たな企画です。
講師(田村)が関わった事例を紹介し、解題します。
・どのように家族システムに関わり(ジョイニングして)
・どのように家族システムを見立てるか(アセスメント)
・どのような技法を用いて、家族の問題を解決したか
「木を見て森を見ず」
個人から視野を広げ、そのまわり(家族や学校、地域など)や過去・現在・未来など全体を俯瞰することが大切ということは誰でも理解できますが、その具体的な方法がわかりません。心理学、精神医学、システム理論などの基本を学びながら、そのやり方と応用を実践を通して理解します。
セミナーの後半には、参加者からの質問にお答えします。
当事者の体験を理性的・理論的に理解する支援者性を磨きます(基礎編)。
去年、蛙トープでやっていた頃の「子どもと家族の研修会」の雰囲気を目指します。
月1回、2時間。高山村の古民家で開催します。

家族療法事例検討会&スーパーヴィジョン
参加者が提示した具体的な事例を素材にして、どのようなアセスメントや介入が可能か検討します。支援者性を磨くための臨床編です。
また、クライエントに向き合う支援者自身の内面にも迫り、支援者の持っている癖や得手不得手について理解します。
月2回、各回2時間。高山村と大森で開催します。

家族と支援者ミーティング
今までの「子どもと家族の研修会」の名称を変えました。
安全・安心な場を確保し、参加者みなさんの家族としての、また支援者としての体験を自由に当事者目線で語り合います。他者から教え込まれるのではなく、自分自身の中から新たな気づきを見出します。
べてるの家などで行われている「当事者研究」、フィンランド発の実践「オープン・ダイアログ」の考え方に似ています。
家族と支援者自身の当事者性に向き合います。
月1回、3時間。高山村の古民家で開催します。

ジェノグラム合宿
従来の夏合宿です。
家族療法のジェノグラム(家系図)技法を用いて、参加者自身の家族システムに向き合い、理解を深めます。
支援者自身の当事者性に気づき、真に共感できる人間性を磨きます。
グループ・スーパーヴィジョンの応用編であり、POTT (Person of the Therapist) トレーニングであります。
二泊三日の集中トレーニングです(一泊二日の部分参加も可能です)。年に数回、高山村の古民家で開催します。

メタ合宿
過去に田村が主催する「スーパーヴィジョン合宿」に参加した経験者を対象にした合宿です。
今までの研修体験をふまえ、参加者の人間性・支援者性をさらに深めます。
二泊三日の集中トレーニングです。年1回、高山村の古民家で開催します。

対象者)いずれのイベントにも共通します。
・家族や自分自身の課題について、新たな見方や解決策を見出したい方
・子どもと家族の支援者(医師、看護師、心理師、教師、福祉士、相談員など)

オンライン参加
いずれのイベントも、zoomによるオンライン参加が可能です。

オープンダイアログと客観性:研究会の振り返り

 9月26・27日の研修会のご報告です。

9月26日(土)子どもと家族の研究会
古民家に5名、オンラインで4名。計9名の参加でした。
参加者からの振り返りをご紹介します。

普段関りが少ない職種の方や保護者の方が参加され新鮮でした。オープンダイアローグ形式は初めてでしたので当初は戸惑いましたが、皆が自由に意見を述べるなかで様々な発見があり勉強になりました。
正論と本音、感性と理性の話は考えさせられました。
田村先生が仰っていた、「親の感性を子供に伝えることが大切」との言葉が心に残りました。

 参加した率直な感想は、楽しかったなぁ、やはりこのグループは好きだなぁということです。何が好きなんだろうと考えると、人ってやはり奥深いなぁと感じることができたからです。人の考えていることって、そう簡単にはわからないしわかってるなんて思っちゃいけないよなぁと余韻に浸る夕暮れ時でした。
 今回、正論かそうでないか、正論をかざすのはやはり男か!?という話がわたしにとってはグループの話の中心だったような気がします。わたしからすると「正論」と思えることをおっしゃった方が、次の発言のタイミングではわたしからすると「リベラル」に聴こえることをおっしゃったり、本人は「正論」と思って話されているんだろうなということが、わたしからすると「いやいやそれは世間の軸とは違いますよ」と“思える“ことだったり、本当に面白いものだと思いました。そして、それが生きている人の面白さ、ではないでしょうか。

 すごく元気をもらって帰りました。認めてもらうと安心して、これでいいと元気をもらったような感じになります。
 お陰さまで、反抗期の娘にも「それでいい」と承認を伝えることができて、親子で笑い合いました。その日は親子バトルは無かったです(笑)
 その「これでいい」という安心感をいつも心にもてるようになると親子関係や自分自身についてもだいぶ楽になると思いました。
 「正論」と「本音」、「理性」と「感性」について学び、安心を保持した形で正論を伝えることが大事だと学びました。
私がいかにたくさんの安心を得るか?を考えたときに、こちらの会に参加することで確かに安心をもらっているなあと思いました。私と同じような問題を抱えた方のお話を伺っているととても共感的な気持ちになり、人生を頑張っているのは私ひとりではないと感じられて繋がりを感じます。又、普段は支援者としてお仕事をされている方の当事者性のお話を伺うこともものすごく安心します。同じ人間なんだと思えて、親近感や信頼の気持ちがもてます。こうした人との繋がりにとても安心を感じることに改めて気付きました。

この研究会は進化しています。
広尾→大森を経て高山村に移ってからは蛙トープ→いぶき会館→村役場の会議室→古民家と1年半ほど経つのですが、当初のやり方・雰囲気とはだいぶ変わってきたように思います。
やはり古民家の醸し出す雰囲気もあるのでしょうか?
今回は意図したわけではないのですが、オープン・ダイアログの雰囲気に近かったと思います。参加者が自由に、その時に語りたいことを語ります。私も参加者のひとりとして、その時に感じたことや頭に浮かんできたことをしゃべりました。その多重の語り(ポリフォニー)が参加している人々を繋げ、安心感を生むのでしょう。

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9月27日(日)グループ・スーパーヴィジョン
こちらは古民家7名、オンライン1名、計8名の参加でした。

 私は当事者としての参加なので、GSVに参加することはとても緊張します。支援者の方がいる中で、自分がとんちんかんな発言をしてしまったら恥ずかしいなという気持ちがあります。子どもと家族の研修会に参加するときとは違う視点で、立ち位置を変えて参加すべし、と思っているので何だかリラックスできない身を引き締めるような心持ちで参加していました。今回の参加でその視点が、客観的な視点なのだということがわかりました。私はいつも感情に引っ張られて物事をみる癖があるかもしれないと思いました。子どもと家族の研修会の中でも田村先生が「1本の木ではなくその周りの森全体をみる」とおっしゃっていたのを思い出し、そのことをGSVで実感しました。
客観的にみる、俯瞰してみる。この点を意識しながら今後参加していこうと思います。
でもそうは言っても、どのようにして俯瞰力を鍛えたら良いのだろうか?
支援者の方がジェノグラムを描いて下さったのは、とても解りやすくて助かりました。
引き続き、自分の中の支援者性を育むために学んでいきたいと思っています。

そう、客観的な視点ですね。
実は、「子どもと家族の研究会」に参加する支援者も、とんちんかんなことを言わないかと緊張したりするんですよ。

「子どもと家族の研究会」は当事者スタンスの会です。
当事者スタンスとは主観的な感情体験の世界なんですね。
システム(洗濯機)の中にはまって、いったい何がどうなっているか見失い、グルグル目が回っている状態です。
システムにはいろいろあります。
学校や職場システム:子どもや会社員が学校や職場に行きたいんだけど、まわりの目が気になったり苦手な人がいたりして、行けなくなっちゃったり。
家族システム:子どもの問題にどう関わっていいかわからず、両親の間でも足並みが揃わず、変に関わってバトルになって、問題も一向に解決せず困っていたり。
治療者・患者システム:どう理解して、どう支援したらよいかわからなくなり、この方は私、苦手だなぁ、どうしたらよいかわからなくなっちゃったり。
多職種連携システム:病院で医師や看護師や心理士やワーカーや。学校で担任や学年の先生や管理職や養護教諭や保護者や。みんなそれぞれ違う動きをするので、やりにくくてしょうがないとか。
そのような渦中の困り感を出し合って言葉にすると、お互いに共感できるので、孤独から解放され安心します。すると元気になって、グルグル流されるだけではなく、自分から流れを作る元気が出てきます。
あるいは、自分で語ることで、人の語りを聴くことで、はっと気づいて、そうか、そういうことだったんですね!と客観性を獲得し、洗濯機の中から抜け出せたりします。

一方、「グループSV」は支援者スタンスの会です。
支援者スタンスとは客観的な理性の世界なんですね。
感情論を抜きにして、起きている問題を冷静に俯瞰して、何が起きているのか分析して整理します。これをメタポジションとも言います。
それは支援対象者に起きていることも、自分自身や自分の周りに起こっていることでも同様です。
何が正しくて、何が正しくないかという正論もあります。
だから、とんちんかん(へんなこと・正しくないこと)を言ってしまわないか緊張します。

「子どもと家族の研究会」は当事者スタンスなので正解も正論もなく、誰でも言っていることをそのまま受け止めます。そういう文脈なのに、つい支援者の癖が出てしまって、正論を言いたくなるんですね。ふつうの支援場面ではそれも正しいのですが、この文脈ではとんちんかんになってしまうかも、、、と緊張したりします。

でも、とんちんかんって思い込みですからあっても良いと思うんですよ。
恥ずかしがらずに当事者スタンスと支援者スタンスを自由に行き来できるような文脈を、研究会やSVでは作りたいと思っています。

2020年9月22日火曜日

第三回スーパーヴィジョン合宿

9月20-22日の連休中に今年3回目のSV合宿を行いました。
今回も参加者は4名。期せずして3回とも4名ずつの参加でした。
これは、今までの合宿と比較すると少ないほうです。
二泊三日のたっぷりの時間を4人の語りで過ごせるのは、ある意味とても贅沢な充実した時間でした。
それは、参加者にとっても、また合宿をコーディネートする私にとっても同様です。

毎回、合宿の雰囲気は異なります。それは参加する皆さんの特性ばかりでなく、私自身の文脈からも来ているのでしょう。高山村の古民家に住み始めて4ヶ月。まだまだ落ち着いてはいないとも言えるし、臨床活動も始め、地域の人達とも関わりながら、月単位で進化・成長しているように思います。今回は特に妻の役割が大きかったように思います。彼女も去年から合宿のサポートに参加する中でだいぶ慣れてきて、私のストーリーの中に出てくる妻の立ち位置や、参加者に食事を振る舞ってくれる妻の役割も大きく進化したように思います。

今回は、第一回SV合宿のブログに出てきた「心のパンツ」のフレーズがよく使われました。

今回はそれだけユーモアに満ちた雰囲気でもあり、合宿の真髄をついている言葉でもあります。これは、POTT (Person of the Therapist Training) modelのsignature themeにも該当します。

The idea of the signature theme is based on two assumptions: One, we all carry within us a particular psychological issue that is at the heart of our human woundedness, coloring our emotional and relational functioning throughout our lives. Two, for therapists to be able to relate most effectively to their clients, they must be able to selectively open themselves up in judicious vulnerability so they can feel and experience something of their clients’ pain and struggles. (Aponte, 2017)

二泊三日のSV合宿は支援者向けです。

効果が非常に高いこのモデルを当事者向けの支援にもうまく活用できないか。。。
そんなことも考えています。
参加者からの振り返りです。

 直前になってあれこれ迷っての参加でしたが、思い切って高山村の古民家にお邪魔し、皆さんと寝食を共にする中で、いろいろと家族の中の自分を振り返るきっかけとなりました。あれから数日経ちますがぼーっと父や母のこと、自分が幼かったころのこと等を思い現在の自分のルーツやこれからの自分のことを考えています。
 先生から「誇りは何ですか?」
と訊かれてあれこれ言ってから「娘です」と言いました。そうあの場で言った自分は決して意外ではなかったです。やっぱりねーという感じでした。私自身の価値観や大切にしているものを改めて確認することができました。
 古民家の生活を感じさせていただくことも今回のひとつの目的でした。ワークをしている場から目に入る、優しい灯りの下で食事の支度やパンを作る奥様の姿、先生との関わりはよい眺めでした。(笑)そして、柔らかい雰囲気の中でいただくおいしい食事やみんなの笑顔…素に戻ることができる場。本当に気持ちが安らぐ空間を感じ、家族の中での自分の在り方を反省しました。まずはご飯をちゃんと作ろう。
 2度目のジェノグラムをどうですか?とメッセージをいただきました。支援者として、ぜひ理論も学ばせていただきながら2度目のワークをしてみたいなあ、楽しみだなあと思います。

どうぞ、再び参加してみてください。きっとまた新たな気づきが得られますよ。
次の方のように。

 昨年に続き、2度目のジェノグラム合宿に参加しました。
 昨年はちょっとした事件があり、私はとてもイヤな気持ちになっていました。最終日が私の発表だったのですが、前夜、1人で事件の反省会をし、「こんな思いをさせられるんなら、全部ぶちまけてやろう」と怒り心頭で臨んだのを懐かしく思い出します。怒りは、私の感情的な主題だと思います。
 この怒りが何に由来するのかを見つめることは、私の問題解決に役立つはずで、今回の合宿でも少しいらだつ場面があり、そのことについてしばらく考えていました。
 そして、振り返りをして得たものは、私の人生における父子関係を中心とした、家族との関わりが私の人生台本の雛型になっているかもしれないという気づきです。合宿に参加してかなり感情がほぐれてきましたが、雛型をベースに他者からいろんな感情を投影され続けてきたため、相手の問題と自分の問題の境界がかなり緩んでいるように思います。私がよい支援者になるためには、自己分析が必要です。今後もスーパービジョンで自己理解と他者理解を深めていきたいと思っています。

自己分析、、、と聞けば何だかとても難しいことのように思えますが、そんなことはなく、素朴でごく単純なことです。気づくまではさっぱりわからないことも、ふと気づいて腑に落ちてしまえば、素の自分をそのまま受け入れるようになります。余計なところにエネルギーを使わなくなり、頭がスッキリして、大切な人に向き合えるようになります。
次の方のように。

 自宅に戻り、合宿で何があってどんな気づきがあったのかを素直に話そうと思っていましたが、しばらくはなかなか言い出せずにいました。2日くらいその様な状態でしたが、ついに感情が溢れ出し耐えきれずに話をする流れとなりました。
 そして合宿で心の奥底にあった罪悪感に気づいた事を告げ「幸せだったけど、ずっと辛かった」と本当の気持ちを伝え「本当にごめんなさい」と謝罪をしました。パートナーも「そんな気持ちにさせていたんだね。ごめんね。」と言ってくれました。何年も一緒にいて本音でコミニュケーションをしている様でしていなかったんだなと、改めて気づきました。
 それからしばらく、感情が溢れ出し子供のように泣いてばかりいました。でも、それを止めませんでした。気がすむまでそのままにし自分を静かに見守り、心の動きを静観する事にしました。
 2日くらい心が揺れ動いていました。今までの自分はなんだったんだろう?とか、そもそも今までがすべて間違いなのではないか?もうやめた方がいいのではないか?などと、気がつけば逃げる事ばかりを考えている自分がいました。
 そして「辛い現実に直面すると逃げたくなる」という自分の中のパターンを見つけ、いつからそれが始まったのか?を探る事にしました。
 境目はだいたい3歳頃、家に帰りたくたくないのに帰らなくてはならない現実に限界を感じ、辛い現実から逃げるため、自分の感覚を操作した事がわかりました。
 自分の感覚を操作すると、辛くても辛いと感じないし、痛くても痛いと感じない感覚にできるので、辛い現実から逃げるためには、そうするしかなかったのでしょう。無力な子供の私にとっては、これしか手立てはなく本能的にそうしたのだと思います。それを境に、私は自分の感覚を失い自分を感じる事ができなくなったと、過去を振り返り確認し腑に落ちました。
 それから、今までの人生をフッと振り返りかえっては「だからそうだったんだ〜」と腑に落ち納得するという事をしばらく続けていました。そして自然と落ち着きを取り戻しました。
 以前と今の私の感覚の違いを簡単に表現するならば「思考がうるさくなくなった」という感じです。ごちゃごちゃした頭の中が片付いて、余計な物がなくなったという感じでしょうか。
最初は落ち着かない感じでしたが、今は落ち着いて自分でいられるようになりました。
頭がスッキリして余計なところにエネルギーを使わなくなった気がします。
 今回の合宿に参加する事で、私は大きな気づきを得ることができました。心の根底にある罪悪感が人生にどのような影響を与えるのか、現実から逃げるために自分の感覚を操作する事が、その後の人生にどのような影響を及ぼし続けるのかなど、私にとってこの気づきは、人生の大きな転機となる出来事となりました。
 先生のこころの診療所は、本当に素晴らしい所だと思いました。やはり奥さまとのコンビネーションが作りだす場が、何とも口では表現できないほどの不思議な安心感を与えてくれました。そして奥さまの作ったパン、カレー、シリアルが忘れられません(笑)。今でもちょくちょく思い出し恋しく思っています。

ここが古民家療法の真髄なんですよ。
理論でも技法でもないんです。
古民家の空間がつくりだす雰囲気と、そこに住まう人の空気が、匂いが、味が、作り出す安心感なのでしょう。
妻も私も意図してそれを作りだしているわけではありません。
妻に言っても、多分さっぱりわからないでしょう。ただ単に料理を作って、一緒に食べているだけですからね。
なんだか理屈はわからないけど、人々がここに集い、語り合い、気づきを得て、癒やされていく。
それは、私にとって大きな喜びでもあります。

2020年9月2日水曜日

第二回スーパーヴィジョン合宿

 8月28−30日に今年の夏2回目のスーパーヴィジョン合宿を開催しました。
今回も第一回合宿と同じく4名の参加でした。
2名が古民家に宿泊し、2名が宿泊なし、家から通いの参加でした。
第一回はリピーター限定の合宿でしたが、今回は4人とも初めての合宿参加です。
スーパーヴィジョンも初めて、
自分のジェノグラム(家系図)を書くのも初めて、
始めはみなさん緊張していましたが、二泊三日の中でだんだんと解れていきました。

合宿では、各自のジェノグラムづくりを軸に進めていきます。
第一に、私が自分のジェノグラムを描き、そこに埋め込まれた感情体験を掘り下げるモデルを示します。
第二に、二人組ペアになり、対話の中でお互いのジェノグラムを描きます。
第三に、各自のジェノグラムを参加者全員でシェアします。

こころの支援者はクライエント自身の体験や感情の表出を促します。
しかし、普段の臨床では支援者自身の感情を表出する機会はほぼありません。
  • 本音を、自分の体験と気持ちを、語ることがどれほど困難なことか?
  • 語り、他者に受け入れられることで、どのような変化が起きるのか?
そのことを合宿で体験していただければと思います。
参加者からの振り返りをご紹介します。

 3日間の合宿から日常に戻り、仕事・臨床の場へ戻って、今回の合宿について参加し学んだことを反芻し、落とし込んでいる最中です。まだ、まとめきれず散らかっている状態ですが、参加した感想として書かせて頂きます。
 まず一つは、自分の事を語ることがこんなにも、辛く大変なことであることを再認識しました。どうしても、面談という場になれば、あれやこれを患者さんに対して聴きます。相手にとってはプライベートで聞かれたくないこともあるでしょう。そんな中で、その事を話して貰うことにどんな労力を割いていることかと言うこと、そして、相手が話すことがうまくまとまらないことも多々あるのは、当然だとも思いました。
 次に、先生から、「私が経験したことは、プラスに働いていると思うか、あるいはマイナスに働いていると思うか。」と質問をされ、私は戸惑いました。なぜならば、過去の体験がプラスに働いているものだと思い込み、支援者としての自分を作ったきっかけが、まさにそれだったからです。しかし、よくよく考えて見ると、本当にそうだったのか?と思います。これについては、まだ自分の中で消化しきれていないので、今後も考えて行きたいと思います。
 最後に、自分が自分を語り、他者から反応を貰える機会は、そう滅多にありません。自身と他の人から見た自分を知ることにより、少しではありますが、自身の思考の癖への理解と、それに伴い視野が広がった気がします。支援者としての自分・本来の自分というのを見つめなおすきっかけとなりました。私という人が果たして支援者で支援して良いものか?と疑念がわき始め、自身の感情との折り合いもまだできていない現状ではありますが、少しずつ自分自身に落とし込み、歩んでいければと思っています。

プラス・マイナスを体験してきた当事者としての自分を受け入れることができたら、支援者としての自分を受け入れられると思います。

 合宿前は緊張や3日間どう過ぎていくのか・自分のことをどこまで話せるかなど、不安でいっぱいでしたが、初日に田村先生がご自身の話をしてくださったことで、”ここで自分のことを話したいな”という感情に変化していきました。この心の変化は、初日に合宿が安心・安全な場所であると感じられたからだと思います。
 そして、今回の合宿で支援者としての一番の気づきは、自分の事(特にネガティブで、出来れば周りの人に隠しておきたい経験)を語ることの大変さです。自分の家族や体験を話す事がこんなに大変で、その時の感情や感覚を思い出すことの辛さ…。今まで、私が面接してきた患者さんは、こんなに大変な作業をしてくださっていたんだと、恥ずかしながら自分がその立場になって本当の意味で気づきました。
 一方で、自分のネガティブな体験を語ることで、長い間心の奥にひっかかっていた物が、少しとれたような感覚もあります。それはきっと、今までずっと誰かに話したかったけど話せなかった事を、この合宿で皆さんに聞いてもらえたからだと思います。聞いてもらうことで、自分の感情や体験が少し整理できたという感じでしょうか。
 支援者であるとともに、当事者でもあることに気づくことができた3日間でした。

自分でその感覚を体験したら、クライエントさんたちが経験しているその感覚も受け取れると思います。我々が支援することで、クライエントさんたちは言葉には出さなくても結構そうやって癒されているんですよ。

 合宿初参加、もう大丈夫だと思っていても、何度か語ってきたことでも、それでも振り返ると上手く話せなかったり、冷凍保存されていたような感情の処理はまだ出来てないなと感じました。けれど、残すものと手放すものの分別が少し進んだように思います。
 数年前まで、自分の弱点は、決して人に知られてはならないものでした。それが、社会生活に影響し始め、当事者として2年ほど過ごす中で、そこまで嫌わずにいられるようになってきたのですが、やはり、合宿終えて数日経って、何度か振り返るうちに、何とも言えないどうしようもなさや、恥ずかしさが込み上げます。誰でも何かしらあることなはずですが…職場のクライエントのいない場での差別的な会話にも、心が痛むものがあったことを思い出します。それは、そんな会話をしてしまう側もまた、痛みがあるんだろうということ。当事者になってより分かったことです。
 けれど、弱さって、そんなに隠せるものでもない気がします。触られると痛くて恥ずかしいのに、結構透けていたりする…弱さを自覚しているだけの状態で表に出てしまった後に待っていたのは、出すことに違和感を持つ強がりさんからの攻撃でした。隠してもダメ、出してもダメなんですね。
 受け止めてもらえることで肯定はできるけれど、もう一歩、悪さしない形まで昇華するのも、一人だと難しいところ。別の視点を頂けることで、「今ここ」これでOKになる。沼の上に足場ができるといくらか動けそうに思えます。ただ、やっぱり、正直、一歩目は怖いです。助けてが言えない、どう助けてと言ったらわからない、言葉にすることの大変さは改めて感じましたし、どんなに信頼してる人であっても、言えないことは残るんだろうと思います。言葉にならないその重みと尊さと、その人の人生を大切に思う気持ちは、絶対忘れずに持っていたいと思いました。
 先祖代々、受け継がれてきたものに、がんじがらめになっていましたが、それが少し解け、助けるとは何かということも、考えることになりました。自己犠牲的なもの、干渉的なものも混じっていたと思います。縛られていたけれど、同時に自分を助けていたものもありました。それを手放しても残る「助けたい」は、今見えている社会の仕組みの穴に落ちた経験からのものなので、そこに何ができるかはわからないけれど、もう暫くよく見つめたいと思っています。頂いた言葉に勇気づけられました。

ここまで深めることができたのは、素晴らしいと思います。

2020年8月20日木曜日

孤独感から安心感へ!

8月15日の「子どもと家族の研修会」にはオンラインからの参加者が1名のみでした。
ひとり参加ですと、その方のニーズに合わせ話を深めることができます。なかなか一名のみという機会は巡ってこないので、参加された方はラッキーだったと思います。

8月16日のグループ・スーパーヴィジョンには6名の方が参加しました。
大森に来訪された方が2名、オンラインで参加された方が4名でした。
参加者からの振り返りをご紹介します。

8月16日のグループスーパーヴィジョンに参加させて頂きました。今回で2回目の参加。考えが行き詰っていた日々の仕事の中、あえて自分が症例検討を出してみようと考えました。
コロナで世間が騒がれているこの猛暑の中でも学ぼうとされている方は必死だなぁと。
そして症例に関しては、多角的な目線からものごとを見ることができ、アイデアが膨らんでいき、田村先生はじめ今回参加された皆様には大変感謝をしています。
病院で働いていると他職種連携はありますが、どうしてもヒエラルキー的なものを感じ、自分がいつの間にか孤独な気持ちに苛まれることもあります。しかし、この会では、そういったことも気にせず自由に平等に意見を出し合っていく、そういった環境がセッティングされている事が、素晴らしいと思いました。やはり、参加して良かったといった思いと同時に安心感が芽生えたような気がしました。


私も病院と学校の現場に長くいたので、病院システム・学校システムのhierarchicalな構造は痛感します。その方が効率的なのだと思います。医療現場では医師にオールマイティーな権限を持たせ、他の職種(看護・心理・薬剤師・ソーシャルワーク・療法士、、、)に「オーダーを出す」わけです。
学校は、国の次世代を育成するわけですから勝手な教育をするわけにいかず、文科省⇒教育員会⇒学校長・管理職⇒教室の教員と、やるべきことが決められています。
責任を持たされ意思決定をする立場の医師や管理職は、自分の裁量が認められる反面、これでいいのだろうかという疑問を確認できず孤独感が付きまとうというのもよくわかります。
Hierarchicalの反対がCollaborativeでしょうか??
意思決定のプロセスを一方向的なモノローグではなく、双方向的なダイアローグで行います。私のグループスーパーヴィジョンでは、スーパーヴァイザー(私)が「教える」わけではなく、事例提供者や他の参加者たちの語りをうまく引き出し、それをどう統合するか整理するかというあたりも、グループみんなでやっていきます。
とはいえ、参加者の多くは「先生に教えてもらう」ことを期待しますから、私の経験や知識ももちろんお伝えします。しかしそれがhierarchicalになってしまったら面白くないわけで、私の語りも披露しつつ、みなさんからいろいろ突っ込みをいれてもらい、より厚みのある語りに醸成できたら面白いと思います。
それがうまくいけば、孤独から解放されて安心できるのだと思います。

2020年8月11日火曜日

研修会とグループSVのご報告

8月8日の子どもと家族の研修会には11名の方が参加しました。
オンライン(zoom)で参加した人が2名、オンサイト(高山村)にいらした方が7名。
初めての方が4名。
当事者のスタンスで参加した方が7名、支援者のスタンスで参加した方が4名でした。

8月9日のグループ・スーパーヴィジョンには5名の方が参加しました。
オンライン参加者はおらず、全員古民家にいらっしゃいました。
初めての方が1名。
当事者のスタンスで参加した方が2名、支援者のスタンスで参加した方が2名、両方半々という方が1名でした。
遅れて、終了5分前に参加した方が1名いました(今まで午後1時だったのを午前10時スタートに変更したんですよ。)

参加者からの感想を紹介します。

今日は、みなさんのお話を聞かせていただくだけの参加で失礼しました。お話をきいていただけで会の終わりには、なんだかすっきりした癒された感じがしました。
機会がありましたらまた参加したいです。今度は落ち着いて発言もできたらと思います。


 昨日は初めてのスタイルの研修会に多少ぎこちない参加となってしまったような気もしますがありがとうございました。

「人との関わりの中で生き抜く」ために今できることは何だろうかと考えているところでしたので、新たな方たちと知り合う機会になるかと参加させていただきました。

 皆さんのお話を伺ったり自分で話すことで頭と心を見直すことができました。又、信頼関係、オープンマインドについて改めて考える時間となりました。のびやかな高山村で深呼吸をし新鮮野菜をたっぷりと求めて、先生の新たなお幸せそうな空気のお相伴に預かり、たっぷりと話すことができて貴重な時間を過ごすことができました。


やはり「話す」ことって大事だなぁと思いました。会が終了した後に、胸がスッキリして爽快感がありました。参加者全員に話す順番がぐるぐると回ってきたので、自動的に話し足りなかったことを次の番で話すことができ、たくさん話せた感がありました。最初は緊張もありましたが、2巡3巡していくうちに、会が深まっている感じがありました。参加者の方の正直な気持ち、本音のお言葉を聴くことができると、私も正直に話すことができました。

「ああ、ここまでご自身のお気持ちを皆さんの前でお話されるのか!?」と驚きと話してくれたことの嬉しさのような感情が込み上げてきました。お話を伺いながら、その時その時自然に笑ってしまうことが度々ありましたが、そのような「人との関わり」がとても嬉しかったですし、心が満たされるのを感じました。

会が終わる頃には、初めて参加された方とも心の距離が近くなったような感じがあり、度々お会いしている方とはさらに親近感を覚えました。参加者の方がご自身が救われたお言葉をおっしゃっていて、それを聴いた私もまた、救われました。言葉の力が人から人へ繋がっていくことを感じました。

休憩時間は先生からの差し入れや参加者の方が美味しいミニトマトを持ってきてくださり、皆さんと一緒に頂きながら肩の力を抜いて雑談して、ホッとできるなんともあったかいひとときを今回も過ごさせて頂きました。

このような研修会の場が、私にとって本当に貴重であると最近実感しつつあります。それは古民家に移ってからさらに強く感じるようになりました。おそらく私の癒しの場になっているのだろうと思います。(でも、上手く言葉にできないんですよね…表面的なものではなく、もっと深いところだからなのかな…)

とにかくまた来月まで日常をがんばれそうです。(^-^)

支援者としては何の事例もない私が、参加させていただいていいのかな?と思いながら
うかがいましたが、皆様のお話を聴けて、色々な考えや状況が知れたことは、自分にとっても、意識が広がったので、思いきってうかがって良かったです。
言語化することで客観視できる。お話しながらご自分でリフレクションしているのが見ていてもわかって、私も一緒に自分の中の意識のリフレクションができたかなと思っています。自分の気持ちを言葉にするのは難しいですね。私もそれを言葉にして、人に伝えるのは照れ臭かったり恥ずかしかったりとても難しく苦手で、普段なかなか出来ません。今日のような安心な場所で少しずつできるようになったらいいなと思います。
またお邪魔して、今度は私も思いきってお話出来たらなと楽しみにしています。

今回、私は開始時間を間違えてしまいました!!!終了5分前に古民家に到着しました(笑)
でも、先生も参加者の皆さんも温かく迎えてくださり、私は自分が遅れてきたことに全然気が付かなかったです(笑)
時間の変更を先生から告げられたときの恥ずかしさといったら!!!(///∇///)
しかしながら、その5分の間、皆さんから「本日のダイジェスト」を聴かせて頂き、有り難かったです。
あー!でも本当にもったいなかった!
今回のことで「思い込み」ってなかなか自分では気付けないなと思いました。
きっと「ものの見方、考え方」も同じなんだろうなと。
私の本日の学びは「思い込みを疑え!」です(笑)
次回はきちんと時間を確認して参加しようと思います。
それでも、会が終わってから参加者の方が外でお話してくださったこと、ありがとうございました!今まではあまり個人的にお話することはなかったので、とても嬉しかったです。お互いに対して感じていたことを伝え合えて、「いいね!」を送り合えたことがとても嬉しかったです。
土曜日の午後に「子どもと家族の研修会」
日曜日の午前に「グループ・スーパーヴィジョン」
を行っています。両者の目的は異なるんですよ。
前者は「子どもの心と家族の関わり方について自由に話し合い、具体的な理解と支援策を見出す」
後者は「参加者が提示する臨床ケースをもとに、個人と家族の見立てと効果的な支援策について検討する」
しかし、グループSVも支援者以外にも開放してだれでも参加するようになってから、私の中で両者で目指していることがとても似てきました。
支援する「ケース」について、あるいは問題を抱えた自分の子どもについて語るなかで、結局はそういう関係性(支援関係あるいは家族関係という)の中にいる自分自身のことを語っているように思います。
自分のことがよく見えてくれば、相手のこともよく見えてきます。

9月で研修会・SVの無料期間を終え、今年度下半期10月からは有料とさせていただきます。
どのようなカタチにするか考えています。
  • 「子どもと家族の研修会」と「グループ・スーパーヴィジョン」はこの形で継続します。参加対象者もオープン(誰でもOK)にします。
  • オンラインのみの会、現地参加のみの会を作ります。やはり両者だと温度差があるように思います。両方ミックスの会も残しますが。
  • 「家族療法講座」も考えています。家族療法の考え方や技法について、誰でもわかりやすいように講義します。
まだ思案中でして、9月までには正式に発表します。


2020年7月31日金曜日

高山村民価格を設定した理由

料金規定を改定し、高山村こころの診療所での診察料に、
「高山村民価格」を設定しました。
  • 高山村にお住いの方は半額です。
  • さらに、尻高の役原地区の方は無料、もしくは農作物・薪の原木など。
その理由を説明します。
群馬は私の「こころのふるさと」です。
私の父親の実家は四万温泉です。子どもの頃、よく家族で里帰りしました。
結婚して子どもたちが生まれ、彼らに自然を体験させたく、草津温泉の近くに小さな別荘を買いました。
ひとり目の妻は万座温泉スキー場から昇天しました。

移住するにあたり、高山村がとても気に入りました。
四万温泉のような谷間の集落ではなく、中山盆地は田畑で満ち、谷川岳や北アルプスのような急峻な岩山ではなく、子持山や三並山などなだらかな緑の山々に囲まれています。
高山村は、道の駅「中山盆地」、ロックハート城、群馬県天文台があるくらいで、温泉地などの観光資源も宿泊施設もほとんどなく、4千人に満たない人たちが暮らしています。
私自身は東京生まれです。ずっと大都会で生活してきて、還暦を過ぎて移住してきた新参者です。
どうやったら、村の一員になり、村の人たちと共に安心して生活できるだろうか。
どうやったら、村の中に私がいる意味を見出すことができるだろうか。
農業も林業もできない私ができるのは「こころの診療」くらいしかありません。
この価格設定は、村の人たちのためでもあり、私自身のためでもあります。

私が住む高山村の役原地区は60世帯ほどの小さな集落です。
先日、初めて村の寄り合い集会に参加しました。
まるで大家族のように、地域の問題をみんなの力で解決しようと真剣に話し合っていました。
良い意味でも悪い意味でも、都会では見られない凝集性の高さです。
私ができるのは「こころの診療」くらいです。季節の新鮮な野菜とか薪の原木とか、お気持ちをいただければ何でも良いんですよ。

また、高山村で私の思い描く心理臨床を実践したいという思いもあります。
群馬で50年前に始まった「生活臨床」は、本人の「生活」に焦点を当てて、精神病などを立て直していこうという取り組みです。全国に広まりはせず、今ではあまり盛んではありませんが、榛名病院の院長がその継承者でもあります。群馬の地で生まれた視点であるというのも、何となくわかります。
北海道の小さな浦河町で始まったべてるの家の取り組みは、当事者も支援者も一緒に生活して、徹底的に語り合うことで精神病の回復を目指します。その活動は有名になり、全国から患者さんたちがやってきます。
Open Dialogueはフィンランド北部の過疎の極寒の地から始まった、これも関係者たちが集まり、徹底的に語り合う取り組みです。
これらのユニークな臨床は、一般的なお薬中心の精神医療とは一線を画し、人と人とが出会い、言葉をたくさん交わすことで問題を解決します。傷つける言葉を、癒しの言葉に変換していきます。ナラティヴ・セラピーもそのような考え方です。
そのような実践をここ高山村で展開してみたいと思います。

2020年7月26日日曜日

第一回合宿の振り返り

8月23-25日の第一回合宿には4名が参加してくれました。
今回は「メタ合宿」。
過去の合宿にも参加した人が、その経験を踏まえてメタなポジションから「当事者であり支援者である自己の統合」を目指します。
参加者からの振り返りです。

 ウグイスのさえずりやひぐらしの鳴き声、木々や竹林が風に揺れる音、白木の香る田村先生邸。夜のセッションでは、温泉に入って美酒と美食に舌鼓。まさに、五感で味わったメタ合宿でした。
 今回のメタ合宿では、ここ数年の個人的な課題としていたテーマが出てきました。これまでの合宿でも自分を振り返り、しこりとして残っているエピソードをきっかけに自分の未解決の課題を整理してきましたが、今回は田村先生のガイドの下で、最後まで残っていたエピソードと向き合いながら、そのエピソードに隠されていたテーマを見つけ、語りを通じて自身を受け容れるプロセスを体験してきました。
 自分の未消化の課題を語るということは、心のパンツを脱ぐようなものですが、田村先生の作り出す安全な、そして安心感のある空間の中で勇気を出して、心のパンツを脱ぎました。本当だったら見たくない自分の恥部を直視した上に晒すわけですから、痛いやら恥ずかしいやら、さまざまな感情が入り混じった、よくわからない気持ちになります。ただ、
 今年のメタ合宿とは、例年と異なる体験もしました。それは、昇華作業の結果、「もう、大丈夫」「なんとかできそう」という感覚が湧き出てきたことです。この感覚をメタ合宿のテーマに沿って表現するのであれば、「現時点における等身大の支援者としての自己を統合できた」と感覚があったと言えるでしょうか。地に足のついた、たしかな手応えとしてこの感覚を体験しました。
 田村先生の合宿に参加し続ける中で、自分の過去を掘り起こして耕してきましたが、今回の作業を通じて、次のフェーズへの移行段階に来たと思えました。これからもいろんな壁にぶち当たると思いますが、この合宿に足を運び続けて、自分を成長させていきたいと思います。自分自身のこれからの変化が、自分でも楽しみです。

 私も講師として、支援者として、当事者として参加しましたが、当事者ポジションとしての感想を書きます。
 安全な愛着(secure attachment)を形成するには、相手を深く信頼し、自身の心の内側をどれほど素直に伝えられるかにかかっているように思います。それがうまく伝われば、相手もちゃんと受け入れることができます。それは、単純といえば単純なことなのですが、難しい時にはバンジージャンプより怖くなります。
 愛着の基盤が不安定だと(insecure attachment)人は理性がぶっ飛び感性のコントロールが効かなくなり狂ってしまうし、それが安定すれば、昭和基地から極寒の極地でもどこでもブレずにに冒険できます。
 新しい古民家に新しい人と共に住み始めてまだ2ヶ月です。ここで新しい生活、新しい臨床、新しい冒険に乗り出していけそうです。
 この愛着の関係性は当事者としてばかりでなく、支援者としてセラピーやスーパヴィジョンの対象関係でも全く同じです。
 参加者から「センセ、合宿とかやって疲れないんですか?」と尋ねられました。
 いや、ウチにいろんな人がゴチャゴチャ来てても、自分がエンパワーされるとむしろ疲れが回復するんですよ。

今回の合宿、本当は行かないつもりだったのですが、結果的に参加してよかったです。
誰もがみんな、問題を抱えています。
だけど、普段はそんなことを意識してなくて、自分が一番苦しいと思ってしまいます。
しかし、人の生き様を聴かせてもらうと、みんなそれぞれ苦しみながら必死に生きていることがわかります。
だからこそ、その人の人生に敬意を払える器の大きい支援者になりたいと思います。
いろんな気づきをありがとうございました。

語ることができず一人で抱えている問題は、私だけが持っている、誰にも理解されない、特殊な問題と認知されます。
語ることができて、他者に受け止められた問題は、話せば他の人も理解しうる、他の人にも起こり得る、苦しいけど一般的な問題に変換されます。
するとだいぶ楽になりますね。

 昨年の夏合宿で自分の問題を棚卸ししようと試み、今年は「原点回帰」の年にしようと決めていました。
 「原点回帰」には、いろんな想いを込めています。夏合宿の時にはまとまっていませんでしたが、時間が経って落ち着いて来て、ようやくことばにできるようになってきました。昨年の田村先生からのフィードバックで、「なりたい自分」を見つけることができました。今思うと、今年はなぜ「なりたい自分」に近づけないのかを考えて答えを見つけたかったのではないかと思えて来ました。
 私の人生の転換期には、必ずと言っていいほど、ナルシシストが関わっていました。これまで、彼らから攻撃されたり、批判されたりして自我を傷つけられるのは、全て自分が悪いからだと思い、どうしたら関係をよくできるのか試行錯誤し続けて、ついに私はエネルギー切れを起こしてしまいました。今回のエネルギー切れは重症で、なかなか回復しません。それだけ彼らは強烈に私を傷つけたのだと思います。今もその傷は癒えることなくジクジクしています。活気は相変わらず出てきません。自分を責めるクセもそのままです。
だけど、一つ変わったことがあります。「自分については十分振り返ったから、相手について知ってみよう」と考えるようになったことです。ナルシシストから下ろされていた役割から卒業するために、相手について知ってみようと思うようになりました。
 自分を知り、相手を知り、自分と相手の相互関係を知る。そして、支配される恐怖から自由になりたい。「原点回帰」は本来の感情を相互関係の中で表現できることなのかもしれません。


2020年7月20日月曜日

希望に気づけるグループSV

7月19日(日)のグループ・スーパーヴィジョンには8名の方が参加しました。
高山村に来てくれた方が4名、オンライン参加が4名。
当事者の立場で参加した方が4名、支援者の立場で参加した方が4名でした。
参加者からの振り返りをご紹介します。

発言は少なかったですが  自分が関わった場面や子供が成長過程で悩んだ事などが頭を過ったりしました 。イヤホンをつけていなかったので聞き取りにくい所がありましたが、これでリモート参加ができると思うとそれだけ嬉しいです。皆さん優しいし高山村で田村先生と関わっていられて何だか本当安心と励みで元気になっています。

リモートからの参加はいかがだったでしょうか?
オンライン参加と現地参加のミックスを、もう少し施行してみようと思います。
普通に考えれば、この両者は分けた方がやりやすいです。
どうしても距離感の違いが出てきます。その理由は、
  1. ハードウェアの問題。まず、Zoomにどれほど使い慣れているか、そして、ネット回線が安定しているかが重要です。安定していないと音声が途切れたり画像がフリーズしてしまいます。
  2. 画面構成の問題。オンラインの方は通常、顔あるいは上半身のクローズアップ画像です。また、自分の画像を消す方もいます。一方、現地参加の場合、カメラで部屋全体を写しているので、一人ひとりの姿は遠影になってしまいます。
  3. オンラインでは、空気感(その場の雰囲気、お互いのアイコンタクト・表情などによる微妙なメッセージのやり取り)が伝わりません。
これらの問題をどう解決するかが重要になってきます。(1)は技術的に改善できます。(3)を改善するのは困難です。(2)の部分をもう少し改善してみます。

みなさんのお話しや事例を、田村先生のカウンセリング手法を見ていて、本当は皆心のどこかに答えを知っているんだと気付きました。怒りが出たり心が落ち着いてない時はまだ向き合うタイミングではないこと、もう少し休憩の時間が必要だと感じました。家族にとって安全で安心な環境を作り、いつの日にか本来の家族本来の自分たちに戻れるようになる。と希望が持てました。

知っているはずなのに見えなくなっている本当の答えに気づく体験というのは素晴らしいですね。

わたしはこの当事者と支援者一緒にというミーテイングが好きです。
特に何もなければ、支援者同士よりもこちらを選ぶと思います。
これがオープンダイアログだとするなら、もっと学びたいと思うぐらいは好きです。
理由は、わたしがカウンセラーを志した根っこにもつながると思うのですが、どうしてもうまく表現できないのですが、懸命に生きる人の姿というものにものすごく惹かれるのです。ただ、そういう言い方だと、物見遊三とか、興味本位と言われても仕方ないのでうまく言えないです。

Second Order Cyberneticsの考え方を具体化したのがReflecting TeamでありOpen Dialogueです。そこでは客観的な観察者という立場はあり得ないんですよ。クライエントに関われば、必然的に治療システムのなかに組み込まれます。セラピストが主観的に関わり、自身も変化していく中で、システムが良い方向に変化していきます。
当事者・支援者という区分けと、当事者性・支援者性とは違う概念であることは他の記事に書きましたが、懸命に生きる人の姿というのが当事者性であると考えます。
 今回も、支援者の人が、必死に当事者性を語って、当事者の方が支援者性を発揮して良いサポートしてましたね。懸命に生きると主観性の中に入り込んで時に動きが取れなくなってしまうので、そこに客観性を加味してちょっと離れた立ち位置から自分を眺めると、希望が持てるようになります。

支援者性を磨くってのは、そういうことだと思います。

2020年7月18日土曜日

「一歩 踏み出す」研修会の振り返り

本日(7月18日)の「子どもと家族の研修会」には高山村での現実参加が2名、zoomのオンライン参加が2名、計4名の会でした。

今のところ、オンラインとオフラインをミックスさせた研修会のやり方を実験中です。
オンラインはオンラインに限定して高山村か大森で、
オフラインはオフラインに限定してzoomで、
やった方が、やりやすいのではないだろうか。
あるいは、ミックスしてもやれるだろうか。
それを実験しています。

今日の研修会の印象では、オンとオフのミックスも十分やっていける感触を持ちました。
・オンラインを介した音声・画像の伝達がスムーズにいくか?
→前回は、私のネット回線状況が悪く、zoomが途中から固まってしまいました。
今回は、そのようなこともありませんでした。
今日のリモートからの参加者もzoomには慣れていらっしゃる方達でした。

・現実で会っている参加者に比べ、オンラインの参加者は気持ち的な距離感が遠く、置いてきぼりを感じるのではないだろうか?
→以前オンラインで参加した方からはそのような感想もいただきました。
今日は、私はそのようなことは感じず、オンラインの参加者とも気持ち的には近い距離でいれたように感じました。参加した方々はどうだったでしょうか?

参加者からの振り返りをご紹介します。

 自分の価値観や言語的、あるいは非言語的コミュニケーションのパターンは、自身の原家族に依拠していると改めて実感しました。
 結婚後、生まれも育ちも違うパートナーと生活する中で、相手の価値観やコミュニケーションパターンと折り合いをつける作業をしていますが、自分にとっての当たり前は、全然当たり前ではないと身をもって実感しています。
 本日の対話の中に、「夫婦にとって子どもは等距離だが、親は等距離ではない」「昼食のメニューは譲れても、子育てや親の介護では譲れないこともある」という言葉ありましたが、なるほどと思いました。私の祖母の世代では、「結婚して半人前、子どもを育てて1人前」という言葉あったそうですが、この文脈で考えれば、なるほどと思わされます(注:私は、結婚しな
い生き方、出産しない生き方を否定するつもりはありませんので、あしからず・・・)。
 特に、祖母の世代では、寿命の関係で介護が問題になってくる方たちは少数だと思いますので、まさに上記の言葉は、自分を変化?成長?させることができているのか?ということが、問われているのかと思いました。
 翻って、現代の事情に目を向けると、夫婦間の決断場面に、従来の子育てに加えて介護問題も加わり、穏やかではないなと思いました。子どもは授かりものですが、親の介護問題は避けては通れません。いろいろ勉強になった会ですが、その一方で、胃が痛くなってきました(苦笑)

本日は、家族内のコミュニケーションのパターンとして、
・感受性による折り合い方
・言葉による折り合い方
のふたつについて説明しました。
 感受性とは、どちらかと言うと受け身の姿勢。相手の意図を受け取り、それに合わせようとする姿勢です。文化的にも「以心伝心」の受け取り方は日本人が得意とします。お互いに相手のことを知っているという前提で話が進み、うまくいけば言葉を使わずにスムーズにことが進みますが、基本的に我慢することを前提にしているので、うまくいかないと我慢しすぎて辛くなります。
 言葉とは、どちらかと言うと能動的な姿勢。自分の意図を相手にうまい言葉で伝えようとする姿勢です。文化的には欧米的というか、日本人はあまり得意ではありません。お互いに相手とは異なることを前提として、うまくいけば合理的に整理します。言葉の発信力が必要なのですが、やり過ぎると喧嘩になって分裂してしまいます。
 このふたつのどちらが良い悪いということではないのですが、人それぞれにどちらが得意かという好みがあります。私は後者が好きです。サイコセラピーも基本的に言葉を使って自分自身や他者を理解しようとしますので、後者を志向しているのだと思います。

 今日のお山は 雨が降ったり止んだりして晴れたり曇ったりする中、初めてお会いする方々
そして今日もよろしくお願いしますの方々との研修会でした。
 元々が人前に出るのは緊張しいなので、研修会等に参加させて頂く時はいつも少し自分の中のアクセルを踏んでいきますが、ここは いざ古民家の玄関から土間に足を踏み入れるとかえって落ち着く感覚には、いつも不思議さを感じています。
 この空間の中で、今日も本当に心のエネルギーになる言葉に出会うことができました。
そのひとつが、参加者の方から
「一歩を踏み出す」お話がありました。それをお聞きしながら、私の中では 「踏み出す」= 当然「前へ進む」ものとして勝手に解釈しながらお聞きしていたのですがその際、他の参加者の方からの
「その一歩を踏み出すのはあなたにとって、横(右?左?)ですか? それとも 後ろとか斜めもありますね〜?」
の一言に
「え〜? あ〜?お〜?なんだ? そうですよね? 一歩を踏み出すって 前だけじゃないですよね!    それもOKですものね!」(と、私の心がガランガランと鐘を鳴らしていました)
 もしかしたら、そんな事は考えなくても普通にできていることだから、今更そんなふうに驚くなんて返って私のその反応にびっくり!と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、とにかく私の中ではブラボーでした。
 自己弁護させて頂くと、生きづらさを抱えた家族との生活は、本当に必死で大変なんです。それでも無理やり笑顔を作って生きていることもあります。そんな中、一歩でも前へ進むことが(良いほうへ向かってくれることが)親としての使命感にも近いものがあったのかもしれません。というか、それしかなかったのですね、今までは。
 今はこうして、田村先生のもと安心できる場所で 、古民家の包容力と言葉の力を頂きながら、少しずつ少しずつしなやかに生きていければと願った一日でした。

 反抗期について皆さんのお話を聴かせて頂いてとても良かったです。自分のことを語っているうちに、私にも反抗期があったことに気付かさせてもらいました。もしかしたら私の場合は「気付く」というより「認めた」のかなぁ…。
 以前に家族には『こんなこと(父親に反抗したこと)あったよねえ』と話をしたことがあったのにも関わらず、あの場では「私には反抗期がありませんでした」となぜ話始めたのか?
 多分私は「私は過酷な子ども時代を生き抜いてきた」という自分の悲劇のヒロイン(?)物語を土台に持っていたかったのかもしれません。真っ先にネガティブな記憶が自分の中で甦り、他人に解ってもらいたいと思っていました。でも話しているうちに自然にポジティブな記憶に繋がって「あっ!反抗期あったな」と素直に認められました。そしてその私の心の流れを丸ごと皆さんに受け入れてもらったような感覚があります。
 娘の反抗期について「これでいい」とだいぶスッキリして家庭に戻りましたが、あっという間に日常に飲み込まれ気持ちが波立ってしまいました(笑)。でも、今までよりどこか余裕を感じているのは確かです。又、私の妹に私の反抗期について聞いてみました。すると実際は私が覚えているよりもっと激しい反抗を私は親にしていたことが判明しました(^_^;私の過去の物語を妹の立場で見ると決して悲劇ではないのです。なんだか笑ってしまいました。
私の心のこだわりが一皮むけた感じです。ありがとうございました。

 自分の人生の物語を更新していくのが物語療法( ナラティヴ・セラピー)というやり方です。人はいろんな物語を持っています。ネガティブな物語が十分に表出され、他者によって受け止められると、パンドラの匣の底から全く別の物語が飛び出してきます。
 過去の歴史は変えられませんが、歴史の教科書は改定されます。

2020年7月9日木曜日

古民家療法14)ワークショップ

明日から週末にかけて3日間、おひろめ会とワークショップを開催します。

今回のワークショップは「土壁を再利用したカマド作り」
その第一弾として解体して崩した土壁に藁を練り込み、日干しレンガを作ります。
古民家リノベーションを手掛けてくれたアトリエDEFさんが主催してくれます。
そのウェブサイトには次のように書かれています。
  • 誰もが安心して過ごせる健やかな暮らし
  • 自然との調和・一体感
  • 自分で創る暮らし
  • 庭で野菜を育てたり、薪を割ったり、釜戸でお米を炊いたり
  • 輸入材や合板材ではなく、無垢の国産材を使う
  • 自然に還し、再利用する、環境と共存した暮らし
これらは私のこだわりとぴったり相通じる部分があります。
、、、一部、それほど相通じない部分もありますが(笑)
私は無垢の国産材でなくても、輸入材や合板材で安心して過ごせます。
国産材に越したことはないですけど、コスパが、、、
シックハウス症候群や化学物質過敏症の方も時々診察しますが、状況は複雑に絡んでいる場合が多いです。

誰もが安心して過ごせる健やかな暮らし

私もそれを一番大切にしています。
工務店のDEFさんは住まいの観点から、
精神科医で家族療法家である私にとって、住まいもそうですけど、むしろ人と人との繋がりの観点から、それを実現したいと考えています。

安心感=それは心の感性です。
環境や住まいという側面から生み出されるものでもあり、
人と人との繋がりの中で生まれるものでもあります。

心の病や、家庭や学校や職場での生活に適応できず、悩んで困っている人たちに多く接していると、身近な人たちと安全に繋がれていない場合がとても多いです。
安心の愛着(secure attachment)の形成不全なんですね。
なにも、世界平和や人種差別を問題にしているわけではありません。
大きな社会レベルのマクロな話というよりは、
小さなひとりの精神科医としては、小さなミクロレベルの話をしています。
毎日の生活で関わる大切な人たち:家族や、友人や恋人や、近隣・地域の人たちや、学校の先生や、職場の同僚などです。
これらの人たちと安心して繋がると、心理的には健やかな暮らしと幸せが実現します。
逆に、不安のままで繋がってしまうと、たいへんです。心の病気になったり、学校に行けなくなったり、暴力を振るわれたり、恨んで殺されちゃったり、、、

どうやったら安全に、心安らかに繋がることができるのか?

そのことを、長年、多くの人たちと接する中で考えてきました。
その試みが古民家療法です。
安心できる環境の中で、
人々が安心して交わります。
  • 言葉を介して、
  • 生活の営みや共同作業を介して、
前者の方は、私がやります:古民家で診療します。そのための広い土間と薪ストーブなんですね。
後者の方をワークショップで実現したいと考えています。
ひとりで土壁をコネコネしても楽しくありません。
家族や仲間と一緒に、ワイワイしながらコネコネします。
ものづくりの楽しさと、大切な人と気持ちよく繋がる楽しさを体験します。
そのついでに、言葉を介して繋がります。
いきなりカウンセリングはなかなか敷居が高いものです。
古民家を体験して、コネコネして、そのついでに、、、
なら家族を説得しやすいし、
のびのびと安心した環境の中だと、普段の日常生活の中とは違う言葉が生まれます。

安心感・不安感などの感情は、コロナ・ウィルスのように人から人へ伝染します。
ひとりが不安だと、まわりの人も不安になります。
安心な人がいると、まわりの人も安心します。
もっとも、これは親しい人同士の間に限りますが。
そのためには、心理的な三密が必要になります。
  1. 心理的密閉空間(換気の悪い密閉というよりも、安全とプライバシーが保たれた密閉空間である)
  2. 心理的密集場所(その人にとって大切な人が密集している。家族や親せきや学校の先生や)
  3. 心理的密接場面(互いに気持ちを伸ばしたら届く距離での会話や発声が行われる)
これを確保できる場所がうちの古民家です。

そこに関わる私自身も安心感を保持していたいです。
そうすれば、私の安心感を人に伝染させることができます。

どんな共同作業をやりましょうか?
例えば、私中心で考えると次のようなことです。
私はアウトドア派なので、インドア派の人にはちょっと違和感があるかもしれませんが、
  • レンガでカマドを作って窯焼きピザ、バーベキュー、燻製ベーコンづくり
  • ウッドデッキでのんびりコーヒーとケーキ(あるいはお酒)
  • 野菜・果物の手作り。花壇。
  • 夏のたそがれ時の焚火
  • 木の実を採取して料理(栗、柿、梅、琵琶、、、)。
  • 薪割り
  • 薪ストーブの前で語らい
  • 味噌づくり、コンニャクづくり、、、あとどんな伝統食があるだろう??
これらのことを、ひとつひとつ実現してゆけたら嬉しいです。

「死」を支援する

7月4日の「子どもと家族の研修会」のご報告です。
参加者は3名。
みな、支援者の立場の人たちだったので、グループSVのようになりました。
参加者からのフィードバックです。

 今日は、「死」をテーマとなった事例を2つ出しましたが、事例を出してよかったと改めて思いました。クライエントを失った経験を自分の中で消化し切れていなかったため、クライエントの死を経験したスーパーヴァイジーのサポートの仕方に自信を持てずにいました。結果的には、計画していた内容でよかったので安心できましたが、この場は、自分にとっても、スーパーヴァイジーにとっても重要になる場だと感じました。
 スーパーヴァイジーの臨床家としてのキャリアは、これからも続くわけですし、そんな彼らのキャリアに影を落とすトラウマ体験となるのではなく、この経験が学びに、成長につながるようにサポートしなければいけません。しかし、そのような時に、スーパーヴァイザーがグラついていては話になりませんので、このような場で自分の方針を複数の視点から検証してもらうことは、スーパーヴァイザーとしての成長につながると感じました。

クライエントが語る「死」にどう向き合い、どう支援するかということは、セラピストにとって試金石であります。クライエントうまく支援できるという体験がセラピストの成長につながりますが、「死」に関わることはそれが最も顕著に現れます。
なぜなら、「死」はさまざまな強い感情を呼び起こすからです。
たとえば、
一人称の死:自分の死に対する恐怖・不安
二人称の死:大切な対象を失う喪失に伴う悲しみ
三人称の死:クライエントの死は、セラピストにとって失敗体験であり自信喪失につながります。また、クライエントとの治療的な愛着関係を形成していれば、セラピストにとっての喪失体験でもあります。
自殺・自傷行為:自ら死を選ぶことは、生きている我々の価値観に真っ向から相反しますからその気持ちに共感することが困難であり、タブー視、偏見、怒りなどの気持ちが表れます。

クライエントが語る「死」を冷静に受け止めることはセラピストにとって困難であり、
家族であればなおさらのことでしょう。クライエントの家族も支援することが重要になります。
共感する中で巻き起こる心の中の強い感情に向き合い、その危機に対処します。
嵐の渦中にいながら、いかに冷静さを保つことができるか。
それが、支援者性を試される試金石であります。

客観的に考えれば、つまり距離を開けて理屈で考えれば、それほど難しいことではないのですが、
主観性の渦中にいて、感性的に巻き込まれた状況の中では、自分の客観的な立ち位置を確保することはとても困難です。

閑話休題。
毎年繰り返される梅雨末期の豪雨災害ニュースを昨夜もテレビで観ていました。
高台で安全を確保しているアナウンサーが大量の水が氾濫しそうな河川の様子をバックに、危機的な状況を、冷静にしゃべっています。
現場は危機です。
しかし、テレビで観ている私は、その危機感を理解しても、危機的な感情は伝わりません。
もし身内や知人が現地にいたとしたら、ドキドキしてパニックになるでしょう。

スポーツ中継のアナウンサーは、自身も興奮した口調でしゃべりますよね。サッカーのゴールとか、オリンピックの中継とか。
災害中継でも、アナウンサーが同様に興奮してしゃべったら、どうなるんでしょうか???
エンターテイメントではないから、興奮は伝える必要がなく、冷静な対処行動を伝えたいんですよね。
コロナでも同様か!?

2020年7月1日水曜日

合宿スーパーヴィジョン

2020年度 合宿スーパーヴィジョン

 

目的)二泊三日の集中合宿で当事者としての自己を語り、真に共感できる支援者性を磨きます。

 

期日

第1回)2020723日(木・祝)〜25日(土)<メタ合宿(経験者のみ)>

第2回)2020828日(金)〜30日(日)

第3回)2020920日(日)〜22日(火・祝)

 

参加対象者: 

l  守秘義務を遵守できる専門職(医師、看護師、臨床心理士、社会福祉士、精神保健福祉士、養護教諭・教師、相談員など)

l  参加者のプライバシーと安全を確保するため、原則として各機関より一名の参加といたします。

l  第1回は過去にSV合宿に参加した方のみを対象とします。

 

内容

第1回)過去の合宿経験を踏まえ、当事者であり支援者である自己の統合を目指します。

第2・3回)ジェノグラムや家族造形法などの手法を用い、自己と家族を振り返ります。

 

日程(各回共通)

1日目)午後2時集合。14-17時(セッション1)

2日目)9-12時(セッション2)、14-17時(セッション3

3日目)9-12時(セッション4)、正午に終了。

 

講師:田村 毅(精神科医、日本家族療法学会認定スーパーヴァイザー)

会場:田村毅こころの診療所(群馬県吾妻郡高山村尻高3025

定員:各回8名(先着順に受け付けます)

受講料:22,000円(税込)

 

宿泊(下記の選択肢からお選び下さい)

1.     通いの参加(宿泊なし)

2.     近隣の温泉旅館をご紹介します(伊香保温泉、四万温泉など。一泊2万円程度)

3.     古民家合宿(高山村こころの診療所)。一泊につき3千円(食費込み)

 

申込み・お問い合わせ

l  田村毅の公式ライン、もしくはウェブサイトよりお申し込み下さい。

2020年6月25日木曜日

7月の活動予定

●▽●▽ 7月の活動予定 ●▽●▽

★7月4日(土)13:00-15:00
子どもと家族の研修会(誰でも参加できます)
大森相談室+オンライン参加

★7月10日(金)〜12日(日)10:00-15:30
古民家おひろめ会+ワークショップ

★7月18日(土)13:00-16:00
子どもと家族の研修会(誰でも参加できます)
高山村こころの診療所+オンライン参加

★7月19日(日)13:00-16:00
グループ・スーパーヴィジョン
(主に支援者向けですが、誰でも参加できます)
高山村こころの診療所+オンライン参加

以上、研修会とスーパーヴィジョンは、今月も参加費=無料といたします。
参加希望者はご連絡ください。

研修会とスーパーヴィジョンの様子はブログに逐次掲載しております。

支援者性・当事者性とスキー場

これまでは、
子どもと家族の研修会→当事者向け
グループ・スーパーヴィジョン→支援者向け
と区別していました。

しかし、今回その垣根を低くしてみようと思い立ちました。
研修会には支援者もOKです。
グループSVも支援者ではない当事者に開放します。

当事者とは、家族や自分自身に解決すべき「問題」を抱えている人。つまり患者さん(クライエント)です。
支援者とは、自分自身のことではなく、他者のために支援しようとする人です。たとえば、守秘義務を遵守できる専門職(医師、看護師、臨床心理士、社会福祉士、精神保健福祉士、養護教諭・教師、相談員など)
ということです。
「この両者は支援する側・される側という別のカテゴリーだから研修なども分けるべし!」
というのが、一般的な、無難な、というか当然の考え方です。
でも、私はその常識に挑戦したいと考えています。
なぜなら、
当事者性と支援者性は循環しているから。
というのは、私がいつもお話ししていることなのですが。
人は自分自身の人生を生きているから、他者の人生もわかるし支援できます。
しかし、みなさん
「私は問題を抱えた患者です。」
「私は患者さんを支援するプロです。」
という二分法のラベルを持ちます。ラベルがなければわかんなくなってしまいますから、まあラベルは必要なんですけど。

でも、支援者は自身の当事者性を、当事者は自身の支援者性を忘れてはいけないんです。つい、忘れてしまうのですが。
忘れてしまうと、うまくいきません。
支援者が忘れてしまうと、忘れている自分自身の当事者性を支援対象(患者さん)に投影してしまいます。しかも、そのことに気づけません。
当事者が忘れてしまうと病気が治りません。当事者は自分の支援者性に気づくことによって回復していきます。

ですから、張り付けられたラベルの色が異なるだけで、もとをただせば人はみな同じなんですよ。

支援者(医者とか)・当事者(患者とか)は、その人に与えられたラベル(色分け)ですが、支援者・当事者は、異なった概念です。

当事者性とは、自分の人生を必死に生きている主体です。主観性の世界、感性の世界であり、余裕なんかない、頑張って必死に生きています。平穏で楽しさに満たされている時は幸せだし、逆に大変な時は辛くて、困って、身動きができない状態に陥ることもあります。良くも悪くも、とっぷりその気持ちの中に浸っている状態です。まあそれがあるから幸せも不幸も感じることができるのですが。

支援者性とは、そういう自分(あるいは他者)をどこか冷めて眺めています。客観性の世界、理性の世界です。感性に流される自分という主体(あるいは他者)の気持ちを受け止めながらも、今、どういう状態で、どんな気持ちでいるかを頭で理解していて、じゃあどうしたらよいのか、解決策を理屈で考えることができます。

これは、Bowenの言う自己分化(Self Differentiation)にも近い概念です。

支援者性だけでは人生おもしろくありません。当事者性があるからこそ人生の楽しみや苦しみを「感じる」ことができます。しかし、当事者性だけで支援者性が機能していないと、気持ちのコントロールが効かなくなってしまいます。「幸せの当事者性」に浸っているときはコントロールしなくても構わないのですが、「苦しみの当事者性」に浸っているときは、そこから抜け出すために自分自身の、あるいは他者の支援者性が必要になります。

隠された支援者性を磨き、自分自身や他者(クライエントや自分の家族など)の当事者性をうまくコントロールしてあげる。

当事者さん対象の研修会も、
支援者さん対象のスーパーヴィジョンも、
やってることを突き詰めれば、上記の言葉に還元されます。
では、何が違うかというと、難易度が違うんですね。
参加者の言葉をご紹介します。

 私は当事者の立場でしたので、今回初めてグループ・スーパービジョンに参加させて頂きました。支援者の方がどんなことをされているのか、とても興味深く楽しみでわくわくした気持ちで臨みましたが、終わる頃には全く反対の感情が出てきました。
「グループ・スーパービジョンって、なんて厳しいのだ!これは自分と向き合うことだわ!しかも事例を出すことは皆さんの前で自分と向き合うこと!うわ~怖いな。。。あっ、だから事例を決めるジャンケンのとき、私はなんとなく5と4は避けてしまったのかな、、、グループ・スーパービジョン、さすが支援者向けだわ。」
これが私の率直な感想です。

スキー場で例えれば、緑の初心者コースか、赤の中級者コースかという違いなんです。
当事者さん対象の研修会は緑のコース
支援者さん対象のスーパーヴィジョンは赤のコースです。
スキー道具や滑り方自体は何も変わらないのですが、斜面の角度が違います。
斜面とは、自分の(相手の)見たくないものです。そこに滑り込んでいきます。
自分の人生の、見たくないものを見てしまうと、とんでもない感情が押し寄せて圧倒されてしまいます。
やっぱり私はダメな人間なんだ。
生きてる価値なんかないんだ。
自尊心が底をつき、落ちてしまいます。

緑のコースでは優しく滑ります。
スピードはゆっくりだし、怖ければ滑らなくても、迂回しても構いません。
赤のコースでは斜度がもう少し急になります。怖くなります。
でも、怖いから嫌だとか言ってられません。仕事で人さまを支援するためには、どうしても滑り降りなければなりません。怖さを乗り越えなんとか経験できれば、怖さが軽減します。その斜面はもう怖いものではなくなり、ほかの人が滑る支援もできるようになります。

黒の上級者コースも用意してます。
合宿スーパーヴィジョンです。
何しろ2泊3日の集中コースですから逃げられません。
合宿に参加してスキルアップしたい(と理屈ではわかる)のだけど、怖くて参加できない人が結構います。
参加してしまえば、何とかなるものなんですけど、参加するまではビビりますよねぇ。
逆に、いったん参加したらやみ付きになり、毎年参加しているリピーターさんもいます(笑)。
参加者さんの言葉の続きです。

 やることは厳しいけれども、古民家と田村先生が醸し出す雰囲気に、又この日は皆さんとお茶タイムがあったりしてなんともあったかいひとときを過ごさせて頂きました。この場にいることがとても嬉しくなりました。
 参加者の方が「今まで言えなかったことを言ってよい場、言える場」とおっしゃっていたことがとても印象的でした。

どのコースでも、支えてくれるガイドさんの存在が大切です。
勇気を出して、自分の見たくないものに踏み込み、自尊心の底に落ちてしまっても、
「それでもイイんじゃない!!」
と無条件の承認を与えてくれる人がいれば、安心して滑り降りることができます。

、、、赤塚不二夫の「これでいいのだ!」は名言ですね!

急坂でもうまく滑り降りる人もいれば、
コケてひっくり返って、グルグル斜面を転がる人もいます。
でも、しょせんスキー場は危険を排除された安全な場所なんです。
コロコロ雪まみれで息苦しくなり、何が何だかわからなくなっても、骨折などの致命傷を負うことはありません。

初めて参加される方は、どのコースを選べばよいのでしょうか?
そう迷ったら、緑のコースからどうぞ。
それを難なくこなし、物足りなくなったら、徐々に難易度を上げていってください。
自信があればいきなり赤の中級コース黒の上級コースから始めても結構です。
その結果、やみつきになるか、散々な目にあってスキーは二度とやらないことになるかは、あなたの自己責任です

、、、と書いてはダメですよと、ベテラン参加者に指摘されました。
訂正します。

スキーが大好きになるか、大嫌いになるかはあなたの判断ですが、ベテランのスキーガイドはあなたが新たに挑戦したスキーを安全に楽しめるよう、責任を持ってガイドします。

ちなみに、このリンクが去年の合宿SVの様子と、参加者からのフィードバックです。

蛇足)私は幼い頃から今でもスキーをやっています。ゲレンデで滑るときはガイドは不要ですが、危険なバックカントリー・スキーに出かけるときは必ず山を熟知した地元のガイドさんと同行します。

2020年6月23日火曜日

言葉が心を変える

2020.6.20-21.
先週末は
土曜日に、子どもと家族の研修会(参加者は3名)、
日曜日に、グループ・スーパーヴィジョン(参加者は9名+オンライン2名)
を行いました。
まず、参加者からの振り返りをご紹介します。

 専門職の方々とご一緒させて頂き、緊張しながらも初めて参加させて頂いたGSV、すみません 家族療法とは少しポイントが離れたケース提案だったかと思いますが、とても勉強になりました。

いえいえ、ポイントはずれてませんよ。
家族が話題にのぼらなくても、本人と本人を取り巻く人間関係についてのお話だったので、家族療法の考え方そのものです。
それに、ここで提案するケースは、家族療法うんぬんにこだわる必要はありません。
どんなケースでも、どんな視点でも構いません。

 今回は先生が寝室としてお使いになられているお部屋での研修会ということで、また雰囲気が違いました。
 最初にお部屋に入って目に入ったのが昭和時代、いや、もっと昔?を彷彿とさせる「ちゃぶ台」!なんだかこのちゃぶ台を囲んでの会の雰囲気に妙に落ち着いてしまいました。人数も少なく、参加者の方とも初対面ではなかったので、じっくりと話すことができて「繋がり」を感じることができました。
 会の中で先生から、「なぜお子さんは回復したのですか?」との問いに一瞬答えに詰まってしまいました。意外でした。私なりにわかってたつもりがよくわかってなかったのかな。。。改めて今振り返りました。
 子どもがうつ状態になったことで本当に心の底から感じた「学校行かなくていい。生きていてくれればいい」という私の感情。スキンシップをたくさんして、なんとか家の中では生活できるようになり、しかし外へは出られない日々が続く、、、。
 田村先生のもとで家族療法に取り組みました。その中で、夫の一言で私の気持ちが変わり、夫婦関係が変わり、親子関係が変わりました。子どもに対して「守る愛」から「放す愛」に変わりました。私が「放す愛」を学びました。親子3人の間で本音を話すというコミュニケーションに最初はカウンセリングの場で挑戦して、徐々にカウンセリングの場でなくてもなんとなく言えるようになってきたと思います。夫の存在が心理的に近くなり、私自身が家族の中に安心を感じるようになりました。
 少しずつ少しずつ、新しいコミュニケーションを慣らしていくうちに子どもも少しずつ回復してきて今に至っているように感じます。
 これは私の振り返りですが、子どもにも「なぜ自分が回復したと思う?」と尋ねてみました。すると、「田村先生が『もうウツは治ったよ。少しずつ良くなっていくよ』と言ったから。お医者さんが言ったから大丈夫だと思った。ママが言っても医者ではないから」と。
私の変化は夫の一言で、子どもの変化は田村先生の一言のようです(笑)。

「一言」の言葉は人を回復に導きます。

言葉は人を変える力がある。
というのは、誰でも経験しているし、説明しなくても納得できると思います。
それができれば、薬を使う必要もありません。

家族の力は絶大です。
家族の言葉で、人の気持ちはとても変わります。
良い方向にも、
あるいは、悪い方向にも。

この子のように、私の言葉で患者さんが変わることもあります。
でも、せっかく家族という大切な資源があるのですから、家族の言葉を使わない手はありません。
悪い方向ではなく、良い方向に変わることができる言葉を、家族がお互いに伝え合える土俵(下地、文脈)を用意するのが私の役割であり、家族療法の考え方です。

2020年6月21日日曜日

古民家療法13) 古民家おひろめ会

内覧会とワークショップを開きます。


2020年6月15日月曜日

古民家療法12) 二ヶ所拠点の生活

二ヶ所拠点の生活が始まった。
毎月、4-5日間は東京に戻り、診察と雑用を済ます。
今月も先週木曜の晩から東京に戻り、月曜の晩に高山村に帰ってきた。

☆木曜の晩は友だちと夜の繁華街で遅くまで呑み、
★金土の晩は子どもたちと飯を食った。
☆東京の家は三人の子どもたちに任せてある。彼らもテレワークと大学のオンライン授業で家に閉じこもり、いい加減ストレスを溜めていた。
★IKEA港北店で家具類の買い出し。ベッドやソファなど、重点項目は良いお店で揃え、非重点項目はニトリ、イケア、カインズなどでコスパ重視で選ぶ。
☆行きつけの歯医者さんに行き、群馬北部の知り合いの歯医者を紹介してもらった。
★広尾開業以来十年来お世話になっている税理士さんと打ち合わせ。

まあ、盛り沢山の用事をこなしてきた。
そして高山に戻る。
東京・横浜は蒸し暑く、雑踏はゴミゴミしていた。
高崎・前橋あたりまでは都会の延長で、蒸し暑い。
渋川まで来ると少し空気が変わり、
山を越えて高山村まで来ると、空気が完全に入れ替わる。
田んぼの中を、ヒンヤリ涼しい空気が吹き渡る。

戻る場所が二つある生活。
今まで私のふるさとは、子ども時代に親と帰省した群馬や愛媛だと思っていた。
こうやって東京から離れてみると、東京も私のふるさとだったんだ。
都会の雑踏が懐かしい。
子ども時代から雑踏の中で生活していた。
小学生はラジオ作りやアマチュア無線にハマり、秋葉原の電気街(今はオタク街となっている場所)をウロウロしていた。
高校は都心の靖国神社の隣だった。
桜の季節には授業をサボって、北の丸公園の千鳥ヶ淵のボートを漕いだり、
神保町の古本屋街とスポーツ用品店街にもよく行った。
新宿は紀伊國屋、桂花ラーメン、歌舞伎町のジャズ喫茶「木馬」が定番だった。

ひとりでうろうろした街の雑踏が懐かしい。
東京も過去の街になったから、懐かしく回顧できる。

、、、とか、ノスタルジックなことを言っている場合でもないんだ。
東京も群馬も昔ではなく、今を生きている。
東京のオフィスでは前からのクライエントの診療で忙しい。
スーパーヴィジョンもある。
もう積極的には新患を取らないけど、知人からの紹介やウェブサイト経由でやってくる。
群馬でも同様だ。
新たな生活の枠組みを整えつつ、仕事も始めていく。

楽しいけど、大変だ!
なんでこんな生活を選んでしまったのだろう??

6月14日グループSV)レジリエンス発現の場

6月14日(日)午前中のグループSVは、
現場での参加が1名、
オンラインでの参加が10名、
計11名で行いました。
参加者からの振り返りを紹介します。

まず、初参加の方から。

 初参加ということもあり、少し緊張してしまいましたが、とても有意義な時間でした。
 教育現場など、第一線で活躍されている方々多くいらっしゃいましたが、私のようなあまり専門的な知識や経験のない者が、意見を述べて良いものかどうか、少し躊躇してしまいました。このような状態での参加でもよろしいでしょうか?
 来週も参加したいと思いますが、参加費等々の事を聞くのを忘れてました。どのようなシステムで、どうしたらいいのか教えてください。
 また、出欠はその都度先生の方にお知らせする形でよろしいのでしょうか?

人を支援するのに、知識や経験も必要だと思いますが、それだけではない、もっと大切なものがあると考えています。それをSVでは皆さんとともに見つけたいと思います。私自身も、それが何だか、よくはわかっていないんですよ(笑)。
専門的な知識を体系的な形で伝授する機会も、このグループSVとは別に作る計画です。
コロナ禍対応と、高山村こころの診療所オープン記念で、9月ごろまでは無料で行います。
今年度下半期からは参加費をお申し受けいたします。
はい、参加希望はその都度ご連絡ください。

 今回は先生の診療所に何人かがいる状況でのzoomでの参加でしたが、全員がzoomではなくとも円滑に行えるのだと感じました。普段は出会えない群馬県や北海道の先生方のお話も聞けたので非常に有意義でした。
 一つ目の事例については、母が依存していることとそのキーパーソンを決めていくことが重要だと学びました。子どもへの支援から介入していき、社会的資源を活用しながら母を支援していくことが大切だと学びました。
 二つ目の事例は、SCとしての環境設定が結果的に家族のレジリエンスを引き出したのだと学びました。「安心不登校ライフ」のような素敵なネーミングは、家族を安心させ元気づけるものだと感じました。

一つ目の話題を提供した方からです。

 今日は事例を皆さんに考えていただき、ありがとうございました。
 お母さんも、息子も、そしてお姉ちゃんもそれぞれに相当な支援が必要な家族。人は誰かに支えられて生きているのですが、教員としては、子供が自立して生きていく力を付けていきたいと常に思っています。そこをまず中心に据えて、私が出来る事、SCさんが出来る事、管理職が出来る事、などを整理しながら、かかわる者達での情報共有、整理をしていこうと思います。こちらの主観だけでは偏りが出てしまうので、きちんと客観的な情報の整理をした上でこの事例に向かい合うべきだと感じました。

 一時期zoom疲れがあり、久しぶりの参加となりましたが、やはり事例について様々な視点から話を聞くことができとても有意義な時間でした。
 今回は2つのケースを扱いましたが、振り返ってみると、最初に田村先生から話にあった「支援者と当事者」の関係性について改めて考える時間となりました。保護者は、子供の支援者でもあり、親としての当事者でもあり、それは切っても切れない関係であるとケースを通して改めて感じました。教員も、当然のことながら子供や保護者の支援者であり、近くに行けば行くほど当事者的な色合いが濃くなるようにも感じます。スペクトラムのようなイメージでしょうか。自分が今どのような役割でそこに存在しているのかを常に客観的に捉えておく必要があると感じました。また、保護者が家で子供に関わる際も、そういう考え方があるということを教員と保護者とが共有することで、さらに見えてくるものがありそうだと感じました。まずは、自分の存在の役割と意味を考えながら過ごしてみたいと思います。

「支援者と当事者」という観点から付け加えると、教員は職場(職員室)の中では完全に当事者ですよね。管理職・学年・養護・SC・校務分掌など、様々な関係性が錯綜する中で、どう自分の役割を見出していくかが大切だと思います。

明日からの学校再開を控え、現場の様子をゆっくりシミュレーションする機会となりました。
高校でも、このような過程を経て入学してくるのだろうと、色々考えながら、聞かせていただきました。高校でも、ようやく最近では、児童相談所や子ども家庭センターとの連携が日常化されてきつつありますが、管理職が少々ピリピリしていますので、必ずしも円滑とはいえません。
今年は、入学式が中止された一年生の担任で、明日からは保護者との初めての懇談会が始まりますので、特に、中学校の時に不登校だった家庭には「安心不登校ライフ」を私の中のキーワードにしてみようと思います。

 聴くこと、話すこと、見ること、感じること、意識すること、考えることって大事なことだと改めて感じた研修でした。皆さんとお話しする中で、「そうだ、私、いつもこんな風に思っていたじゃない」と我とわが身を振り返ることができました。
 「どんな苦境にあってもそれを跳ね返すしなやかさがそもそも人間には備わっている」とういリジリエンスの考え方は、支援する者にとっても、当事者にとっても希望が持てます。それを信じ、その人の持つ強みを生かし働きかけ、共に未来を描くソーシャルワークに可能性を感じました。
 マイケル・ウンガ―は「レジリエンスとは重大な逆境のもとで、自らの幸福を維持するための個人の持つ心理的、社会的、文化的、身体的、社会的資源に舵をとるための能力であり、なおかつ、それらの資源が文化的に意味のある方法で提供されるよう折り合いをつける個人的、集団的な能力である」と言っています。たとえリジリエンスが備わっていても、それを発現させるためのきっかけは必要です。しかも提供される資源が本人にとって価値あるものでなくてはなりません。私は、当事者・支援者協働して価値を創造するソーシャルワーク、対話による協働がリジリエンスを発現させるのではないかと思っています。「人の心を動かすものは人なんだな。リジリエンスを発現させるのはやっぱり対話なんだな」と実感する研修でした。
 オンライン研修は、全国の多様な地域、立場、職種の方々が一同に会す貴重な機会です。
このような機会を提供くださったことに、心から感謝します。あまり外見に気を配れない私でしたが、画面に映る我が身に驚きました(笑)!自分のことが自分自身、一番わかっていなかったことに気づき、あわてて美容院に飛び込みました。画面に自分が映ることで否応なしに自身をふりかえれる。オンライン研修の副産物(笑)に感謝します。

期せずしてレジリエンス(Resilience)が今回のキーワードになりましたね。
レジリエンスを発揮させるのは対話、、、
そういう意味では、この研修会・スーパーヴィジョンは参加者にとってのレジリエンス発現の場になれば嬉しいです。
私自身にとってもそうなんですよ!

2020年6月14日日曜日

救える命もあるけれど、救えない命もある

6月13日の「子どもと家族の研修会」には4名のご参加、全員オンライン(zoom)でした。
参加者からのフィードバックです。

田村先生の臨床観に安心感を覚えた。
「救える命もあるけれど、救えない命もある。」
この言葉がとても響いた。
支援者として仕事をするとき、「ミスは許されない」という覚悟をする。それは当然で異論を挟む余地はない。しかし、どこか違和感を感じていた。その違和感をハッキリ自覚した。それは「支援者としとの万能感」ではないのか?「支援が奏功すれば、クライエントは改善する」という前提にたち、「これまでも支援は成功してきた」という奢りがあったのではないか? 支援者は、「救えない命もあるけれど、全力を尽くす」という地に足をつけた謙虚さが必要なのではないか?
この姿勢を忘れてはいけないと思った。そして、今さらこんな大切なことに、今頃気づく自分に失望した。

いや、別に失望しなくてもイイと思いますけど(笑)。
これは支援者目線の文脈でしたね。
自分のクライエントを、
自分の家族・子どもを、
支援しても上手くいかないことがあります。
十分にしてあげられなかったんじゃないだろうか、、、
不適切だったんじゃないだろうか、、、
そんな不安に駆られます。
上手くできて当たり前、失敗は許されないと考えると、
上手くいかない自分はダメなんじゃないだろうか。
支援者として未熟・不適切なんじゃないだろうか。
そう考えます。
それは悪くはないと思います。そう考えることが、もっと上手くなりたいという動機づけになりますから。
その流れの中で、冒頭の言葉が出てきたんですよね。

私は、以前「いのちの電話」の相談員さんたちの研修を担当していました。
多くの方々が匿名で「生きているのが辛い、死にたい」などと訴えてきます。
相談員さんたちは一生懸命話を聞いて、なんとか生きてもらおうと願います。
しかし、電話を終えたあと、その方がどうなるかわかりません。
自殺を抑止できたかもできない。
できなかったかもしれない。
相談員さんたちは、その不安に向き合わねばなりません。

病院では、多くの患者さんたちが亡くなっていきます。
医療者はベストを尽くします。
しかし、人の死亡率は100%ですから、みなさん亡くなります。
それがいつ起きるかという違いだけです。

支援者の力なんて、ちっぽけなものなんだと思います。
人のいのちは、人の心は、大きな全体の力のダイナミクスの中で動き、進化しています。
そこに支援者が関わり、うまい方向へ変更しようとします。
それが上手くいくときもありますが、それほど容易いことではありません。
支援者の力量うんぬん以前の問題です。
自分の力のちっぽけさを受け入れれば、その範囲内で、ベストを尽くすことができると思います。