2013年5月31日金曜日

人間関係を修復するワザ

人と関わることは難しい。
離れている人、どうでもいい人、自分にとってそれほど重要でない人となら問題なくうまくいく(し、たとえうまくいかなくてもそれほど問題にならない)けど、大切な人が難しい。それは家族(親子とか夫婦とか)でも職場(仕事のパートナー)でも近い人、つまり家庭や仕事をうまくこなすために、お互いに必要としている相手だ。

「支配 vs. 服従」の上下関係なら葛藤は発生しない。下側の人が自分の意思を持たず黙って服従し、不満を抑圧するから。
ヨコの関係、つまりお互いに自分の考えを持ち、自分を主張しながら協働(collaborate)しようとすると、衝突する。

それをどうしたら乗り越えられるか?
いくつか重要な発想の転換が必要になる。
これらは転換してしまえば何のことはない、ごく普通のことなのだが、転換できるまえはとても困難、、、というか、そんな考えは論外と考える。

1、関係性の視点

まず、それが関係性の問題であるという認識を持たねばならない。
これが結構難しい。
いったい、なにが起きているんだろうか、、、?
それは、相手の問題性として認知する。
そりゃあ当然でしょう。
そういう状況では、相手方も相手の問題と認知していることが多い。
AはBの問題と認知し、BはAの問題と認知する。

その視点を変換できないと、「いや先生。これは関係性の問題とかじゃなくて、相手に問題があるんですよ!そこんとこ、先生わかってくれないと困るんですけど、、、」となってしまう。
「視点の転換」とかわけのわからない人は役に立たないから、「相手が悪い」という見方をしてくれる応援者を味方につけようとする。そうすると話が大きくなり、加勢する外野も加わってドロ沼試合となる。
お互いに相手を否定するという根本姿勢は変わらないためにいつまでたっても解決できず、力で屈服させるか、無視してその場から退くしか手段がなくなる。

その枠組みを根底から変えなければならない。

2.相対的な見方(真理の追究を諦める)

絶対的な見方では善悪の判断基準がある。法律、規約、正しいプロトコール、正しい夫婦のあり方、子どもの関わり方などがあらかじめ決められており、それに照らし合わせて合致しているか否かを検討する。
自分が正しいかはともかく、相手が間違っていることを実証する。
それは尤もなんです。
でも、人間関に関わる枠組みでは、その認知を根底から変える。

相対的な見方では、正しさ(真理)を追求しない。どっちが正しい・悪いという二分法を諦める。
良し悪しというのは状況によって変化するものだ。
相手が悪い(問題がある)と判断している自分自身も含めて俎上に載せると、そこには関係性の問題という見方が生まれる。

3.自分自身を相対化する

相手はダメだ。

なぜ?

そりゃそうでしょ。〇〇や××というエビデンスがあるから。

そうですね。それは間違っていないですよね、あなたの思考プロセスの中では。
つまり、

相手はダメだ。」と思う自分がいる。

えっ、私が間違っていると言うんですか?

いや、そうは言っていないでしょ。ここでは善悪はどうでもよい。
自分自身の思考プロセスを相対化する。

4.自己の限界を認める

いや、ホントは私が悪いと思っているんでしょ?

なかなか疑い深いですね。
そうです。
ホントは、あなたが悪いんです。
ではなく、あなた悪いんです。

自分のダメを認める。
ダメで良い。ダメな部分があって当然。それと同時に正しい部分もある。
100%の人も、0%の人も存在しない。ダメな部分とOKの部分が混在している。人によってその割合が微妙に異なるだけだ。

相手にダメがあるのだったら、自分にもきっとダメがあるのだろう。自分自身のダメを否認せずに見つめてみる。別にダメを見つけたからといって自信を失う必要はない。ダメでいいのだ。
ダメをダメと認めないのが一番ダメだ。
ダメをダメと自分で受け入れることができれば、否定されるべきダメさから、相対的なだれにでもあるダメさにパワーダウンする。

そして、それが相手に対する見方を変える文脈(コンテクスト)を与える。
自分のダメを認めれば、相手のダメを否定せずに理解しようという視点が生まれる。
相手はダメなはずという前提枠を外すことができれば、相手のダメな部分と良い部分が同等に見えてくる。

もっとも、この作業は結構難しい。若く、精一杯がんばりベストを尽くしたい状況では、自分を相対化できない。
自分のことに夢中だから、相手にも同様を期待し、相手の不完全さを許容できない。
自身を相対化して、振り返るためにはタメが必要。余裕がないとできない。
最前線から一歩退き、客観的に自分を眺めてみる。
自分自身に対してメタなポジションをとることは、結構むずかしい。

自分の限界を認めれば、相手を認めることができる。

5.自分の不安・恐れに気づく

なんで相手とうまくいかないのだろう?
相性が悪いのか、性格の不一致か。
それは言い訳に過ぎない。

その根底には不安・恐れがある。
〇相手に突っ込まれ、自分の痛いところを突かれるかも。
自分の中の大切なものを壊されてしまうかもしれない。
痛いところを隠さないといけない。
〇相手がいたら家庭がうまくいかない。子どもがうまくいかない。
〇相手がいたら仕事がうまくいかない。ポカをやってしまうでしょ。まわりの評価が気になる。
このような否定的な気持ちが自己を防衛し、そのまま相手に投影する。

そのプロセスに気づき、不安は不安のままで処理する。そうすれば、相手に投影しなくて済む。相手をフラットに眺めることができるようになる。

6.相手の懐に飛び込む

柔道で背負い投げをうまくかけるには、思いっきり相手の懐の中に飛び込むしかない。

そんなことしたら相手に批判されるかもしれない。
と、恐れて自己を防衛してはいけない。閉ざしてはいけない。開く。
自分は間違っているかもしれない。
ハイ、間違っているんですよ、たくさん。それで良いんです。
批判されても構わない。それを切り返す必要はない。そのままにしておいて構わない。

否定していた相手に近づき、相手の話をフラットに聴く。
思い切って肯定する可能性を残しながら。
もちろんダメな部分を見過ごすわけではない。
ダメはダメで構わない。無理に修正しようとせず、そのまま諦観しておきましょう。
それ以外の部分で、今まで見えなかったことが見えてくるかもしれない。

そうすると、ふとした瞬間に目からウロコ。
あ~、そうだったのね、、、
今まで絶対に腑に落ちなかった部分が、ストンと落ちる瞬間がある。
それが関係性が修復さた瞬間だ。

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7.第三者のファシリテート

以上のプロセスは、相手とのガチンコ勝負だとかなりきつい。
自助努力でできないことはないが、難しい時は第三者が支援する。
支援のコツは、双方がうまく試合を継続する文脈を作ること。
試合の渦中に第三者が入ってはいけない。どちらかの味方をしてはいけない。(下記の例外以外は)
折れそうになる両者を支え、試合を安全に、でも手加減せずに続けることを支援する。
試合に勝敗がついてはいけない。試合をするプロセスの中で、既存のルールにはなかった新しいルールを見つけ出すことが目的なのだから。
そのために必要なことは、

1)安全な土俵の整備
攻撃されて傷つく不安を回避するために、Aさんと支援者の安全な関係、Bさんと支援者の安全な関係を樹立し、維持する。

2)パワーバランス
どちらかが弱くて負けてしまったら試合は終わってしまう。
試合を継続させるためには、弱そうな方にちょっと味方をする場合もある。
ずっと味方をしていてはダメで、弱い方がエネルギーを持ち直したらすっと手を引き、双方だけの力で試合を継続させる。

2013年5月29日水曜日

家族を語り、自己を語る

先生とカウンセリングを始めてから、自分を持てるようになりました。

今までは、相手のことをいつも考えていたと思います。
一番に子どもたちのことを考え、次に夫のことを考え(、、、また、これも大変なんですけど、、、)、そして自分の親や夫の親のことも考え、そしてその次ぐらいにやっと自分のことを考えていました。

家族と一緒にいると、自分の世界でなくなってしまいます。
向こうが私を支配してしまいます。というか、私が勝手にそう思ってしまうのが悪いのですが。

今は、相手と一緒にいるけど、自分の世界を持てるようになった。

そう語るAさんは家族の中に解決しがたい問題を抱えています。
それも、ひとつではない、ふたつも、三つも。それぞれ別々の問題なのですが、それらがお互いに折り重なっています。
それも、今に始まったことではなく、Aさんが若い頃から、Aさんが結婚した当初から、Aさんの子どもが学生だったころからずっと抱えてきた問題です。
Aさんは、それらを解決したくてカウンセリングにやってきたわけではありません。
Aさんは、それらを整理したくてやってきました。

そうですね、いつも話の内容はご家族のことだけど、カウンセリングはAさんお一人ですものね。
自分のことをさておいて、家族のために生きてきました。
他者指向性。それは日本女性の伝統的な生き方です。
自分を家族のために捧げ、全霊を尽くしてきました。
それは、ある意味すばらしい生き方だと思います。
それがうまく成就されれば大きな幸せにつながります。
しかし、ひとつ間違えば大きな不幸にもつながります。

もっとも、Aさんは不幸とは感じていないと思います。
関連性の中で生きているAさんにとって、家族が辛いことであっても、生き甲斐であることには変わりません。

Aさんはカウンセリングでたくさん語り、また書いてきました。日記や手紙風に家族のことを書き、家族に関わってきた自分のことを振り返るように語り綴ってきました。
語る内容は家族のことだけど、語る主体はAさん自身です。

それを繰り返しているうちに、だんだんAさん自身が見えてきました。
自分という軸を再発見しました。
すると、今まで抱えていた問題も変わってきました。
客観的に見れば、何も変わっていません。
しかし、Aさんにとっての問題が大きく変わりました。
これまでは、問題がAさんそのものでした。
今は違います。問題とは別の位置にAさんが存在し、少し離れたところから問題を眺めるようになりました。
問題は、依然「問題」として存在し続けています。
しかし、Aさんはとても気持ちが楽になりました。

2013年5月27日月曜日

次世代のネット相談に関する提案

 インターネットは社会におけるコミュニケーション様式を、送り手から受け手へという一方向的な流れから、送り手と受け手が双方向的な流れに大きく変革した。インターネット相談の経験を踏まえ、今までの支援の在り方を振り返り、インターネットの双方向的な特性 を生かした新しい支援の考え方を提案する。
Web 2.0とはメディア関連の実業家であるTim O'Reillyが2005年ごろ提唱した概念で、従来の送り手から受け手への一方的な流れであった状態(Web 1.0)が、送り手と受け手が流動化し誰もがウェブを通して情報を発信できるように変化した仕組みのことだ。今までの消費者(情報の受け手)が書き手(情報の発信源)になったもので、たとえばGoogle(ロボット型の検索エンジン)、Wikipedia、Facebook, ブログ、ツイッターなどがその例である。その考え方を応用したのがGovernment 2.0(ガバメント2.0)であり、「市民と政府の関係を根本的に再編し、政府は自らサービスを提供するだけでなく、民間がさまざまなサービスを開発して提供するためのメカニズムそのものを提供するためのプラットフォームになる(Tim O'Reilly)」、つまり市民がネットを通じて政治や行政に関わる仕組みだ。この発想を我々の支援活動にも応用させたものが、「次世代ネット相談」の発想、いわば「Counseling 2.0」である。
 既存の相談活動では、支援者(相談員)と当事者(コーラー)が二極化していた。支援者は支援するための知識・経験・自覚を持ち、被支援者を守り、傷つけない責任を負う。そのために支援者側・被支援者側もプライバシーを守り、支援方法についての研さんを積んできた。一方、被支援者は悩みや問題を抱えた当事者として、支援を受ける立場である。支援の流れは支援者から被支援者へ一方向的であった。

 インターネット時代の新たな支援の考え方は、この二分法を脱構築する。人はだれでも支援者であると同時に当事者である。つまり人は誰しも当事者性(人生の生きづらさ、問題、否定的な体験)を持っている。だからこそ他者の心情に共感することができ、支援者性を発揮できる。それと同時に、問題や悩みを抱え支援を受ける側の当事者も、支援者性を発揮して他者を救う可能性を持つ。

 従来の支援はあくまで現実世界の中での活動である。対面(面談)が基本であり、電話やネットなどのメディアを介した支援は不十分あるいは不適切と考える。それが生かされるのは現実生活に直結した支援である。たとえば精神疾患などの医学的治療、身体的ケア(デイサービス、身体介護など)、暴力・危険からの保護(DV、児童虐待など)、経済的支援(生活保護、ライフプランニングなど)、就労支援(ハローワーク)、現実社会へ導くような支援(SST、デイケアなど)などである。
 一方、新たな考え方では、双方向性を重視するのでインターネット利用が向いている。電話・ネットなどのメディアでは現実に即した支援ができず、仮想世界の中で本人の主観的言語のやりとりのみの関係なので、自信喪失、孤立、社会的偏見・差別、過去のトラウマ情報不足といった心理レベルでの支援に効力を発揮する。具体的には、生きる悩み・自殺念慮、若者のモヤモヤ、子育て不安、高齢者の孤独、虐待、トラウマの後遺症(PTSD)、依存症(アルコール依存症、禁煙プログラム)、社会的マイノリティー(LGTB、在日)などが考えらえる。基本的に本人の気の持ちようで、前向きになることで問題解決する可能性を秘めており、そのプロセスを他者が横から支え、心理的にエンパワーするイメージである。
  • 人は、人との関わりの中で傷つき、問題や悩みが生じる。
  • 人は、人との関わりの中で救われ、心を癒すことができる。
 人と関わることは救いにもなるし、傷つける可能性もある。支援活動でも同様である。より後者を少なくして、前者を多くするために相談員は研修を受け、「支援者」としての質の向上に努めてきた。現行のネット相談もその伝統を踏襲し、複数の相談員によるシェアリングによって相談の質を高めてきた。従来の支援者vs.当事者という二分法はそのままである。
 しかし、そのことが相談員の負担を増やし、利用者の利便性を低下させてしまうことも否めない。相談員は丁寧に返信文を作り、複数の相談員でシェアリングするために、かなりの時間と労力を要する。そのために、限られた相談員数では多くの相談に対応することができず、受け入れる相談の数を制限せざるを得ない。コーラーは返事が届くまで待たねばならず、その間、次の相談を送ることができない。その一方で、何度も同じような相談を送り、何度も丁寧に対応しても進歩のない多数回コーラーに相談員は疲弊する。

 次世代の相談では、これらの弊害を極力少なくして、コーラーにとっても利用者にとってもより有効な方法を模索する。その一例として次のような方法を提案する。
  • 短い文章のやり取り(Twitterの140文字前後)
  • コーラーは返信を待たず、いつでも次の相談を何通でも送ることができる。
  • 即答性:より早く応答できるようにする。
  • 相談員はセンターに出向かず任意の場所から、任意の時間に、任意の頻度で活動する。
  • PCばかりでなく、スマートフォンやタブレット端末など、新たなメディアでも活動できる。
  • 相談文はすべての相談員に配信され、複数の返事が戻ってくる。返信数が多かったり少なかったり、ばらつきが出るかもしれない。
  • シェアリングは行わず、相談員個人の判断で自由に送信する。
 今の方式では相談員がセンターに集まり、シェアリングしてひとつの確実な返事を届ける。新たなやり方では、相談員はセンターに集まらなくとも、普段の生活の中で身近なデバイスを用いても活動し、シェアリングすることなく相談員個人として送信する。
コーラーにはより早く返事が届き、しかも多くの人から支援を受けることができる。ひとつひとつの返信はそれほど内容の濃いお返事ではないかもしれない。「いいね!」、「あなたのことを見ています」といったようなごく短い返事もありうる。それらを複数合わせれば、多くの相談員に見守られているという感覚を得ることができる。
シェアリングせずひとりの相談員の活動では不十分・不適切な返信も出てくるだろう。現存のやり方は研修やシェアリングなどにより支援の確実性を支援者側が担保しようと努力している。次世代の考え方では、コーラーにその選択を委ねる。市民相談員としての個性(当事者性)をそのまま相手に伝える。どのような返信が適切・不適切かをあらかじめ選択せず多様な個性をすべて伝え、どの返信がコーラーの心情に「ヒット」するかはコーラーの選択である。玉石混交の「個性的」な返信があっても、それが多くの妥当な返信の中で希釈されれば、コーラーも受け入れられるのではないだろうか。
また、相談に依存しているコーラーは、変化のない同じ悩みや相談事を何度でも送りたいだけ送信することができる。相談員としては、同じような多数の相談にひとつひとつ丁寧に返信できないとしても、送信されてきたことを知り、「あなたのことを見ている」といった短い返信であれば活動の負担も少なく、コーラーも多数の相談員によって見守られている感覚を得ることができる。
シェアリングは送信の前には行わない。その代り、届けられた返信文は相談員同士で共有する。つまり、相談員たちは、コーラーの相談文に加え、他の相談員からの返信文もすべて届けられる。相談員同士が送られた返信を読み合い、ネット上でサポートしあうことができる。この部分では、コーラーには見えない、相談員だけに届くサブグループを作る。つまり相談員は返信する活動を行いながら、同時に相談員同士でのサポートを受けることになる。そのことにより、返信文の質の高さはある程度保つことができるのではないだろうか。

実際の活動のイメージは、TwitterFacebookに近い。コーラーと相談員は各自のタイムラインを持つ。たとえば、次のような構成が考えられる。
  1. コーラーのタイムライン
    • 自分の相談文と、それに対する相談員からの返事
  2. 相談員のタイムライン
    • すべてのコーラーからの相談文と、それに対する相談員たちからの返事
    • さらに、相談員の返事に対するコメント。「いいね!」、「それは言い過ぎなのでは!」といったフィードバック。
    • このようにして、オンライン上でコーラーに届けた後の「シェアリング」を行うこともできる。
  3. 相談員とスーパーヴァイザーが話し合うタイムライン
    • 各相談事例や相談方法など全体的なことについて話し合う場所

世界崩壊体験


支援者という自分が、普段どんな感情を持ってクライエントや自分に向き合っているかなんて考えたこともなかったし、そこに目を向けることから避けていたようにも思います。確固たる哲学があってやっているわけでもなく、その場凌ぎでやってきた感じもあったので、目を向けたらボロボロと砂の城が崩れていってしまうのではないかと思っていたのかもしれません。そんなことが、今回のセッションで少しだけ見えてきた気がします。

「支援者の自己を振り返るWS」参加者のひとりからのフィードバックです。(掲載了承済み)

世界崩壊体験。
これはとても大切だと思います。 (精神障碍者の妄想体験ではなくて、、、)
今まで自分が準拠していた骨組みを脱いでみて、どんな枠組みなのか、その下にあるのはどんな自分なのかを点検する作業です。
ふつう、わざわざ好き好んでそんなことはやりません。でも、心の支援者(あるいは、その分野のプロフェッショナルを目指す人)がプロとしての自信を獲得するには必要なプロセスです。

なにしろ目を向けることを避けてきたわけですから。
目を向けたら、空っぽの自分を見いだして自信を失うかもしれません。とても不安です。
確固たる哲学を体系立てて組み立ててきたわけではないですよね。その場その場での断片的な学びや経験をとりあえず身にまとい、何とかその場を凌いできました。なんだかよく分からないままに、支援者としてやっていけるはずだという仮の自分を作ってきました。改めて、それを点検してみたら、いかにも継ぎはぎだらけの自分がバレてしまうかもしれません。バラさず、見ないでいた方が無難かもしれません。

Scrap and Build。
でも、真の自信は再建していくプロセスから生まれるんですよ。
継ぎはぎだとしても、なんとか枠組みがうまく成り立たせていた要のボルトが見つかるかもしれません。それは大きな安心につながります。
もしかして、何も見つからないかもしれません。それが不安だから崩したくないわけですけど。

今朝のNHKの天野アキちゃんもそうしたよね。
生まれて初の失恋を経験し、世界が崩壊しちゃっています。でも、若い彼女は一週間も経てば立ち直っていく(というストーリーのはず)だろうけど、現時点では完全な世界崩壊体験。我々も似たような経験があるから連ドラを見て共感できます。

村上春樹の作品(全部は読んでいないけど)の共通したテーマでもあります。突然、大切な支えを喪失するところからストーリーが展開します。

悩みや不安を抱えるクライエントさんたちも、自分が大切にしてきたものを失い、あるいは失うかもしれない恐れに立ち止まっています。それは、大切な家族、子どもの将来、夫婦の親密性、自分の子ども時代の宝、自分の将来の幸せ、、、などなど。

児童養護施設の子どもたちは壮絶だと思います。
安全で絶対的に準拠するはずの家族という愛着関係が崩れています。
そこから、どうやって立ち直り、安全な自分の骨組みを作っていくんでしょう。
うまくいく可能性も、うまくいかず失敗するリスクも、どちらも大きいです。

立て直すためには、まず崩れた(崩した)自分を見ないといけないんですよ。
それはとてつもなく不安です。
敢えて向き合うためには、とてつもなく大きな安心感(信頼感、支え)が必要です。

2013年5月25日土曜日

支援者の自己と向き合うワークショップ

さあ、今日から始まります。
あと1時間ほどで始まる前に、私自身、どのようにワークショップを進めるか、自分の考えと向き合っています。特に前もって定められたプロトコールがあるわけではありません。その都度、参加者とともにかじ取りしていきたいと思います。進めるのは私ではなく、参加するみなさんの力ですから。

「支援者の自己と向き合う、、、」
、、、って、どういうことですか?
どう向き合ったらよいのですか?
何に向き合ったら良いのですか?

この問いに、すぐに、何となくではあっても答えられる人もいるでしょう。
前々から思っていました。
自分は〇〇こ向き合いたいのです、、、と、自らお題を持ってきます。

良いですよ。この場所を使って、それを展開してゆきましょう。
まず、安全な場所を確保すること。
それが何よりも大切な準備作業です。

「支援者の自己と向き合う、、、」
、、、いやあ、よくわからない。
何となくその必要性は感じる、というかその大切さは理解できるけど、、、実際に何をどうしたらよいのか、よくわかりません。

そのような人もいるでしょう。
その場合、私がお手伝いしましょう。

自己と向き合うにはさまざまな方法があるのですが、ひとつの方法として支援者が日常関わる臨床経験から糸口を導き出すことができます。

もしクライエントを理性的・理論的にのみ理解しようとするのであれば、支援者は自己と向き合う必要はありません。感性を耕す必要はなく、たくさん勉強して、知識を仕入れて、理性を耕してください。
しかし、クライエントを感性的に、気持ちの動きを理解(というか共感)するのなら、まずその元となる自分の感性を耕すことが必須です。

どこを、どうやって耕すのでしょうか?

それを見出すカギは、普段の臨床活動の中に埋め込まれています。
Q)いったい私は支援者としてクライエントの中に、何を見ているのですか?
Q)いったい私は、その部分にどのような自己の体験を投影しているのですか?
結局、他者の中に見ているものは、他者という鏡に映し出された自分自身なのです。
それを明確にすることで、自然に自己と向き合うことができます。

これ以上は理屈で説明できませんので、具体例として私の場合をご紹介しましょう。
といっても、ここで紹介できるのは耕し済みのことばかりです。
現在、取り組み中の部分は残念ながらまだご紹介できません。

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問い)次の小問に答えながら「私が投影しているもの」を見つけなさい。
 小問1)私は、どういうクライエントと関わっているのでしょうか?
 小問2)私は、彼らにどのような眼差しを投げかけているのでしょうか?
 小問3)私は、そこに自分自身の体験をどのように投影しているのでしょうか?

★ひきこもりの若者たち:本人から話を聴く場合

私はひきこもる気持ちを本当にわかっているでしょうか?
⇒私自身は今も、若い頃も「本当にひきこもりたい」、、、というか「ひきこもざるを得ない」と感じた経験がありません。だから彼らの気持ちを本当にはわかっていないと思います。
でも彼らの心情を細かくみていけば、私自身の体験に通じるところがあります。

彼らは不安がいっぱいです。まわりの人たちに対して不安を抱きます。周りの人たちと渡り合える自信がありません。
⇒私にとって「自信」ってどんな具合だっただろう?
自信があった時もありました。自信がなかった時もありました。
今現在だって、半分は自信があり、半分は自信がありません。
自信を喪失した体験は多分いろいろあります。でもそれらを思い出し、語ることは辛いです。あまり思い出したくありません。
自分だけ場にそぐわないのじゃないだろうか。周りの人たちはわかっていることを、自分だけわかっていないんじゃないだろうか。
まわりは自分のことをどう見ているんだろうか。まわりから受け入れられているか不安だ。周りの人は自分のことをヘンと思っているのではないだろうか。あるいは、ぜんぜん無視して私の存在なんて気にも留めていないのでは?
自分だけ仲間から外されているんじゃないだろうか? 
だれも言ってくれないからわからないけど、そうかもしれないと思い込んでしまう過剰な自意識。
小学生の頃はそんな風に感じたことは多分ありませんでした。中学生・高校生の頃に一番強かった思います。大学に入ってからは、そんなことバカバカしくてあまり考えなくなった、あるいは考える必要がなくなったのだと思います。

彼らは、本来は自分の居場所であるべき所属する場所(学校や職場や友人関係、そして何よりも家庭)を自分の居場所として受け止めることができません。
⇒私がそう感じた体験はまだ耕されていません。断片的にしか思い出すことができません。
怖いし不安だった感触は何となく記憶しています。
それほど苦労せずに乗り越えてきたはず、、、としか思い出せません。

彼らは、まだそれを乗り越えていません。
⇒私はどうやって乗り越えたのでしょう?
よくわかりません。この部分を耕しても、多分成功体験しか出てこないような気がします。
当初は失敗していても、その後、なんとか成功に繋げた体験が多いと思います。
多分、イギリス留学時代、あるいは高校時代のアメリカ留学時代にもたくさん失敗を体験したと思います。これらは、まだ耕す余地がありそうです。

彼らは親に対する気持ちも語ってくれます
父親を毛嫌いしたり、反抗したり、衝突したり。
⇒私にとって父親は子ども時代は尊敬する人、思春期は反抗して乗り越えようとする壁でした。反抗した末に、乗り越えられたという実感も得たのだと思います。それは、いつだったか、この辺りはピンポイントで振り返ることができます。

彼らは母親に対して、「うまくいかないのは母親のせいだ!」と良く言います。
⇒私もその気持ちは良くわかります。
要するに「甘えている」んですよ。
自己責任をとれません。だって、母親が責任を先取りしてくれてしまいますから。親の私が悪かったって。口にはださなくとも、そう感じているのはわかってしまいます。
私にとって母親は無条件に受け入れ、泥沼のように吸い取ってくれる存在です。
だからこそ、私には安定した部分があるのだと思うし、とても感謝しています。
でも、そこから抜け出したいと思うし、この歳になっても抜け出せないとあきらめる気持ちもあります。
親に依存したくなる気持ちは私自身もよく体験しました。ものごとが順調な時は良いのですが、自信が打ち砕かれると親に頼り、親のせいにしたくなりました。

★ひきこもりの子ども:親から話を聴く場合
⇒私の3人の子どもたちは、今のところひきこもっていません。
だから、親の本当の気持ちは多分わかっていないと思います。
しかし彼らの気持ちをよく伺うと、私自身の親としての体験・気持ちと共通点が見つかります。

子どもを生み育てるって、どんな気持ちに直面するのでしょう。
⇒とても不安です。子どもが成長してちゃんと大きくなってくれるだろうか。
この子は大丈夫だろうか。
まわりから見れば「大丈夫よ。なぜ心配しているの?」と言われても、際限なく心配です。

両親の間で意見が異なり、折り合いがつきません。父親はもっと厳しくしなければ。母親はもっと優しくしなければ。。。ふたりとも必死です。
⇒私も必死でした。
過去形ではなく、今でも必死なのだと思います。
特に問題もなく、親の気持ちも平穏なときは両親で差があってもそれほど気になりません。しかし、たいへんだ、困った、このままではダメになる、、、などと危機感を持つと、親の余裕がなくなります。必死になると、他の意見を受け入れられなくなりました。相手が自分と同じように考えたり振る舞わないことが許せなくなります。

★夫婦間の問題
さまざまな問題・不一致で相談にやってきます。
彼らはちゃんとケンカできていないなと思います。相手を否定するだけ。
正しくケンカするって、とても大切だけど、とても難しいんですよ。
⇒私も苦労しました。
何度、「離婚しかないかなぁ、、、」と思ったか、、、。
ちゃんとケンカできていませんでしたね。面と向きあえなかったし、ホントに言いたいことを言えませんでした。
自分の中に「痛い」部分があります。それは、自信のなさ、恥、知られたくないこと、考えたくないこと、悲しいこと、辛いこと、、、などなど、とにかく自分でも見たくないことです。
自分でも見たくないものを相手に指摘されると、自分の大切にしているものを台無しにされたように感じます。すごくイヤです、、、

まだまだ私自身の話は続きますが、この辺で留めておきましょう。

要するに、こういう具合なんですよ。
「彼らは(クライエントは)、xxxxです、yyyyなんです、、、」
というように、支援者が相手に見ている部分(投影している部分)を自分自身に戻してみます。

「私は、xxxxですか? yyyyですか?」
そこから、支援者の自己を掘り下げる作業が始まります。

これは多種の掘削方法のうちのひとつで、他にも方法はあるのですが、割と有効な方法なので紹介しました。

2013年5月19日日曜日

ウェブページに投稿された「つぶやき質問」は、ここでお答えしたいと思います。ツイッターのように、200文字程度で質問やご意見をお寄せください。

そしたら、私の方で答えさせていただきます。どうぞいろいろなご質問・ご意見をお寄せください。サイトに立ち寄っていただく方々とのコミュニケーションを図りたいと思います。ただし、すべての投稿にはお答えできないと思います。私の方でウェブでみなさんに公開する価値があると判断させていただいたら、お答えを載せたいと思います。そうでない場合は、失礼ながらお答えを控えさせていただきます。悪しからずご了解ください。

質問したら、先生は必ず答えてくれるのですか?

いいえ。
必ずお答えできるとは限りません。
出来る限りお答えしたいとは思いますが、
お答えするか、お答えしないか。それは私に判断させてください。

スーパーヴィジョンの理論と実際


スーパーヴィジョン(Supervision; SV)とは?
  • 心の支援者(スーパーヴァイジー)が臨床体験をとおして指導者(スーパーヴァイザー)と交流し、話し合うことで臨床の腕を磨き、より良き支援者を目指すことです。
スーパーヴィジョンが必要な理由
  • 心の支援者は二種類の学習が必要です。ひとつは、カウンセリングやセラピーの理論や知識を講義や本などを通して学ぶ理論学習です。もうひとつが実際の事例を通して学ぶ体験学習、つまりスーパーヴィジョン(SV)です。このふたつは車輪の両軸のようなもので、片方だけではうまく動きません。特にSVは臨床に関わっている限り継続することが大切です。そうしないと自己流に偏ってしまいます。
  • 支援者は、支援するための軸が必要です。人の心をどう理解し、問題を解決するために何を目標として、どう関わるかを考える軸です。初めは理論学習から入ります。臨床心理学、医学、福祉学などの知識を学びます。しかしそれらは机上の空論に過ぎず、それだけでは生身の人間を扱うことができません。実際に人と関わりながら、その体験を振り返り、学んできた理論をクライエントの特性や活動する文脈、そして支援者自身の特性に合わせて自分自身の軸を作っていきます。その作業が体験学習としてのスーパーヴィジョンです。
  • しかし、実際の現場ではSVの機会が得にくいものです。忙しいとおろそかになりがちですが、個人個人が自ら進んで機会を求めたり、職場の責任者がSVの機会を確保します。
SVの多様性・柔軟性
  • SVやり方は広く柔軟に考えます。また、SVはこのようにしなければならないという決まった枠組みはありません。有能なスーパーヴァイザーはカウンセラーのニーズに合わせて柔軟にスタイルを選択します。
頻度
  • ひとつの特定ケースについて理解する目的であれば、一回だけ単発で行うことも可能です。しかし支援者の臨床能力を高めたいなら、1回のみでは果たせず、継続します。
  • 頻度は月に1回程度から3-4ヶ月に1回ほどの間隔です。継続することが大切です。
いつまでやるの?
  • 期限は区切るのですか、それともエンドレスに続けるのですか?
  • 質の高い臨床家を目指すなら、常にSVが必要です。私のSVでは定期的(半年~1年ごと)に見直します。今までの過程を振り返り、このSVが役に立っているか、方法や内容は適切か、ニーズに合っているか。それによって継続するか、一旦お休みするか、他のSVを選択するかなどを相談します。
料金
  • 単発のSV(=コンサルテーション):1時間3万円。
  • 継続した個人SV:1時間2万円
    •  割引制度あり(ご相談ください)
    • 非常勤勤務など経済的な限界がある場合
    • 日本家族研究・家族療法学会の会員
  • グループSV
    • 人数と回数により異なります。
  • 個人SVより割安になります。詳細はご相談ください。
人数(個人SVとグループSV
  • 1対1の個人SV
    • プライバシーが守られ、SVのすべての時間を自分のために使うことができます。時間・頻度・やり方・内容などを自由に選択できます。
    • ひとりのヴァイザーと深いやり取りは出来ても、多様な情報や考え方は得にくいです。料金が比較的高くなります。
  • 少人数(2-3名)のグループSV
    • 自分の事例を取り上げる時間が少なくなります。ヴァイザーとのやり取りに加え、グループとのやり取りから多様な考え方や意見を得ることができます。
    • 他の人の事例やヴァイザーとのやり取りから学びます。
    • 料金負担が軽くなります。
    • 同僚や友人と一緒にグループを作る場合、信頼できるグループ関係を築きやすいです。SV内で展開された関係性や情報が、SV以外での人間関係に良い意味・悪い意味で影響を及ぼす可能性があります。
    • 知らない人とグループを組む場合(ヴァイザーがその場を提供します)、安心できるグループ関係を築く手間がかかります。SV内で展開された関係性や情報が、SV外の生活に引きずられることがありません。
  • 大人数(7-8名~十数名)
    • 自分の事例を取り上げるチャンスが限られ、多くの時間は他の人の事例に費やされます。観客として気楽だが間接的に学ぶことが多くなります。
    •  同じ機関や友人・知人同士など、ヴァイジーたちがグループを集める場合と、ヴァイザーがグループを集める場合があります。
話し合う手段(対面と電話)
  • 対面で話し合うSVが基本ですが、電話で行うことも可能です。
  • 電話でのSVにはお互いの表情が読めないなどの限界があり、深い話し合いよりはワンポイントアドバイス的なSVに向いています。対面と電話を併用することも可能です。
  • スカイプなどで音声と画像を使えば対面の面談に近くなります。海外では広く行われています。私のところでも可能です。
取り上げる素材
  1. 通常は臨床事例(支援対象者、クライエント)を取り上げます。支援者として関わってきた経験を展開する中で、事例の理解を深め、より有効な対応方法を見出します。
  2. 事例を深めていくと、支援活動の枠組みが見えてきます。ヴァイジーとクライエントの関係性、つまり支援を行っている相談機関の特性や機関内での役割分担や連携、他の支援機関との関係性などです。それも大切なSVの要素です。
  3. さらに深めると、臨床事例に投影された支援者自身の属性に焦点を合わせる場合もあります。ヴァイジー自身の専門家としての、さらには一人の人間としての内面に迫る深いSVとなります。
  • これら3つの素材をヴァイザーの希望とニーズに応じて臨機応変に使い分けます。
継続中の事例と終結した事例
  • 継続中の事例を取り上げることで、その後のより良い支援に直接結び付けることができ、ヴァイジーばかりでなくクライエントも恩恵を受けることができます。ヴァイジーが行き詰まった事例を取り上げると効果的です。
  • 終結した事例を振り返ることで、ヴァイジー自身の支援体験を振り返ります。事例を客観的に整理して理解するとともに、ヴァイジーの支援特性を自己理解して、今後の臨床活動に役立てます。
ライブSV
  • ライブSVではクライエントと関わりながらSVを行います。
  • 面接室に陪席する方法、ヴァイザーとヴァイジーが共同治療者として同時に関わる方法、リフレクティング・チームの手法、ワンウェーミラーなど様々な方法があります。
  • 複数の治療者が関わるので、家族療法など複数のクライエントがいる場合によく用いられます。
  • ライブSVは支援を行いながらその場で学ぶことができるので、具体的な学習効果が高いですが、クライエントへの配慮など手の込んだSVとなります。
振り返りSV
  • カウンセリングの様子を後で振り返るSVが一般的です。そのやり方も様々です。
  • 実際の支援場面を記録した録画ビデオ・録音テープを持ち込み、ヴァイザーと共に振り返る方法は、機材を用意し、クライエントに承諾を得て、SVでもレビューする時間がかかるなど手の込んだSVとなります。その分、具体的な言葉かけや介入方法など、実際の場面のミクロな分析が可能です。
  • 逐語記録、つまり記録(あるいは記憶)した支援場面の会話を文章化します。クライエントに記録してSVに用いる承諾を得ます。記録に起こす手間と時間がかかります。録画・録音法と同様に、ミクロな分析が可能です。
  • 各セッションごとの記録を提示する方法は、日常の活動記録(カルテ)をそのままに近い形で用いるので、比較的手間が省けます。複数回のセッションを提示することで、支援全体の流れや事例の概要をつかむことができます。継続中の事例では、今後の方針を立てることができます。
  • 事例全体をひとつの流れにまとめる方法は、継続中より終結した事例に向いています。各セッションの多くの情報をうまくまとめる作業は手間がかかりますが、まとめる力を得ることができます。学会発表や論文執筆に応用できます。事例の細かい分析には向かず、全体の振り返りができます。
  • 記憶に頼った振り返り法は記録を作る必要がないので手間がかかりません。記憶に頼るために大切な情報が抜け落ちることがあります。初学者は手間がかかっても記録を作る方が良いでしょう。ヴァイジーが事例に関わった記憶を振り返ることは、事例そのものに加えヴァイジー自身の内面を深めます。
ヴァイジーの経験年数
  1. 学生・院生など資格取得前後の初学者は新たな知識・経験を吸収する段階です。ヴァイザーからの指導や情報提供が比較的多くなります。
  2. 経験年数2-3年から7-8年の中級レベルでは支援者としての自分のスタイルを獲得し、自信を深める段階です。事例をヴァイジー自身の言葉で表現し、全体像を把握し、支援方法のレパートリーを増やします。事例から離れ、ヴァイジーの内面を深める時期です。
  3. 10年以上の経験者でもSVは重要です。豊富な経験を下地に困難な事例にも柔軟に対応し、自らも後進を指導する能力を身に着けます。ヴァイザーから新たな理論や技法を学ぶことよりも、ヴァイジー自身が積み上げてきた経験をまとめ、整理する作業を、ヴァイザーが支援します。

私の内なるアビューザー(虐待者)


昨日の朝の通勤時の出来事。
気持ちよくチャリを走らせていた、若い女性が道路に出て通行人と車を止めている。その近くで映画かテレビのロケをやっている風な人だかりが見えた。
女性は通行人たちに「済みません、済みません!」と懇願している。
なんで、公道を止める権利があるんだ!
公共工事とかなら止まるけど、自分たちが、多分許可もなく勝手にやっていることで、公の道を止めるなんてふさけるな!
女性の静止を振り切って、突き抜けた。

この間、およそ3秒ぐらい。瞬間の気持ちの動きと行動だった。

突き抜けてから、、、思った。。。

まあなあ、、、特に急いでいるわけでもなく、待ってあげても良かったのだけど、どうして強行突破してしまったんだろう。。。
そういうことが交通事故につながるんでしょ。もっと余裕を持ち、譲る気持ちでいなくちゃダメじゃない!
何となく反省モード。

自分の信念を曲げることができない。
そのささいな信念が絶対的なものである確証はないのだけど、いったん自分で身に着けてしまうと、手放すことができない。

あれが気弱そうな若い女性でなく、いかつい男性だったら、自動的に言うことを聞いていたかもしれない。
それも私の弱さのひとつ。

橋下氏の慰安婦発言と男性心理学


橋下氏の慰安婦発言はツッコミどころ満載で話題になっている。
国際問題・外交問題や、女性問題としてのツッコミが多いが、私は「男性問題」として男性心理学の視点からツッコミましょう。

「あれだけ銃弾が雨嵐のごとく飛び交う中で命をかけて走っていくときに、そんな猛者集団というか、精神的にも高ぶっている集団は、どこかで休息をさせないと、、、」

高ぶった神経を鎮めるために性行動に走るという構図は、射精によってエネルギーを抜くという具合に男性にとっては自分の身体体験になじみ分かり易いが、女性にとっては何を言っているか理解しがたいと思う。

でも、戦場で戦闘した夜に慰安所に走るだけではないでしょう。
神経が昂ろうが昂るまいが、いずれにせほ男性たちは慰安を必要としている。

男性も女性も、大人も子どもも、精神的なストレスやトラウマが加われば、それを処理するためにさまざまな反応を起こす。
その主なものは3つある。

  1. 心理化(抑うつやパニック発作とか)、
  2. 身体化(頭痛、肩こり、疲労感など多様な不定愁訴)、
  3. 行動化(攻撃性・暴力、いじめ、盗み、食行動異常、セクハラ、性的逸脱など)

男性にとってsexualityはストレスの対処機制の手段でもある。
愛するパートナーと心も身体も一体になり、射精するという行為は、究極の親密性である。愛情が成就し、孤独を癒してくれる。
Sexualityは両刃の剣。うまく使いこなせば至福が得られる。愛情を持ち、社会的・対人関係的に許容された形でうまく具現化すれば、人生の究極の幸福と生きがいに繋がる。
逆に、社会的・倫理的に許容されない形でやってしまうと、多大な加害性を帯びた暴力となり、他者にとんでもない迷惑をかけてしまう。たとえば性的虐待など、女性や子どもの尊厳を根底から破壊する。

戦士たちが慰安を必要としているのは高ぶった神経(攻撃性)を鎮めるというより、戦時下のストレスによる不安を癒すためだ。
「高ぶった神経」は攻撃性の象徴的表現として男性の規範に合致する。なにしろ戦場では最大の攻撃性を発揮しないといけないわけだから。
その陰にある「不安」というマイナスな心情は女々しく、男らしさを旨とする戦士には許容されない感情だろう。
でも、実際には戦地で精神の破綻をきたすケースはたくさんあるわけで、PTSDという概念も、もともとは戦士たちの事例から見出された。
日本軍はそのこともタブー視して、見ないように抑圧してきたに過ぎない。

「おい、オンナ遊びしに行こうぜ!」
というセリフは酔っぱらったワル男仲間でのみ通用する、「度胸のないヤツにはできないだろう!?」的な勇気ある行為として扱われるのだが、実は女性に甘えて(依存して)、男性の内面にある言語化できない不安・孤独を癒そうとしているのだ。(私もその昔、経験があるので懺悔を込めて振り返ってます。ハイ。)

逃げるメスを追いかけ、オスは攻めなければならない。
その対象を、愛し合うパートナーに向けるか、セクハラとか売春とか浮気とか規範的に問題のあるカタチで向けるか。その違いは加害性と規範性という観点からはとんでもなく大違いなのだが、男性心理学的にみて、そのエネルギー(衝動)の発するところは大差ない。

橋下氏の「慰安婦を使え」発言に、「そんな男と一緒にするな。男性への侮辱だ!」と抗議する男性たちは、男性自身が誇りを持って死守するsexualityの実態(厄介さ)に気づいていない。本来、男性は規範を逸脱しないと癒すことができない心理的対処規制の未熟さ(弱さ)を抱えている。橋下氏の乱暴な発言が、男の隠し持つ弱みに触れてしまい、抵抗しているわけだ。

男性は、自らの内なるabuser(加害性)に気づかねばならない。マッチョで野蛮な攻撃性は、男性に求められる社会的性役割であると同時に、内面の弱さを隠す鎧なのだ。
自身の弱さに気づくことができたら、男性たちは慰安婦というヘンな対処機制を用いずに、もうちょっとマシな方法で心の健康を維持することができる。たとえば、私が経験した中では、、、

  • 大震災の直後に陸前高田に入った時のこと。被災地を回った晩には支援者たちを集めて、一日の体験をシェアし合うミーティングを開いた。悲惨な状況に触れた二次受傷によるバーンアウトを少しでも和らげたかった。
  • アメリカの男性グループMankind Projectは男性たちの自助グループである。定期的に男性たちが集まり、心理的に安全な環境をつくり、鎧の下の隠されたナイーブさを分かち合っている。私も何度か参加した。
  • 東京都の児童相談所で、子どもを虐待した父親たちのグループをファシリテートした。女性たちのグループ(子育てグループや、ACのグループや、女性運動のグループやら)は結構あるけど、男性のグループはめずらしい。酒場ではしょっちゅうやっているが、マジメに関連し合う能力が弱い男性が多いから。

そのほかにも、いろいろな方法はあるだろう。
カウンセリングもそのひとつだ。

2013年5月18日土曜日

レイト・ブルーマー

体操服のブルマ―じゃなくて。(英単語は同じなんですけど)。
Late Bloomer。
遅く、花開く人のこと。
英語圏では昔からあった言葉で、能力や資質が発達するのが人より遅れているが、後にはキャッチアップし才能を開花する人のことを指す。

ところが最近、この言葉を今の日本の若者の状況に当てはめ、流用し始めた。
大阪発の若者プロジェクトによると、
レイト・ブルーマーとは「ニートの中で、働く意思を持ち行動を起こしている若者」を指すのだそうです。新しい定義ですな。
略してレイブル。

ニートもそうでした。
もともと英国の雇用問題の用語。 NEET = Not in Education, Employment, or Training の略で英国の経済状況や階級問題や移民問題が背景にある。専門用語であり、一般の人はその意味を知らない。
それが日本に輸入され、広く使われるようになった。時代の世相を解くキーワードになり、だれでも知っている。

日本では用語がみるみる変遷している。

学校恐怖症、登校拒否、不登校、ひきこもり、フリーター、ニート、そしてレイブル。

それぞれ微妙に対象年齢や概念が異なり、全く同じ意味というわけではない。
たとえば不登校は学校年齢の子どもたちの学校への忌避であり、
ひきこもりはそれ以上の年齢で、社会参加への拒否である。
というような差異はあるものの、その根っこにある心理機制はよく似ている。

ひとつの言葉に落ち着かず、転々としている。
学校恐怖症:恐怖症って、なんか精神病みたい。
登校拒否:拒否しているやつが悪いみたい。
不登校:理由は問わず、学校に行かない子どもたちに広く使おう。
ひきこもり:内向きの暗いイメージ。
フリーター:このあたりから和製英語が活躍する。「フリー・アルバイター」なんていう英語はありません。
ニート:よくわからないあちらの概念だから、マイナスのイメージなしで使うことができる(少なくとも使い始めた当時は)
レイブル:またよくわからない新しい言葉がやってきた。「ニート」もかなり使い古され、マイナスイメージがついてしまったから、言葉を変えて心機一転がんばりましょう。

まあその発想は悪くはないし、新しいラベルでがんばることができるのなら、それで良いのですけど、、、

精神分裂病 ⇒ 統合失調症
呆症 ⇒ 認知症
 ⇒ 障碍

なども同じ発想ですね。
コトバに含まれたマイナスイメージを極力取り払おうと。
まあ、根本は同じなんですけど、、、

ひきこもって楽をしている?


本人は学校も行かず、仕事もせず、家にいてマトモなことは何もしない。ゲームやネットや自分の好きなことを延々とやっているだけ。楽をしているだけとしか見えません。

いいえ。
ひきこもりは楽をしているのではありません。
とても苦しいのです。
なにもせず好きなことだけやっている状態にも二種類あります。
夏休みと失業状態です。
どちらもお休み状態ですが、大きな違いはその後があるかないか。

夏休みは仕事や学校のストレスから解放され楽をします。
休みが終われば、また仕事とストレスが待っています。未来が迫ってきます。
だから、休みを楽しむことができます。

失業状態は、いつそれが終わるのか、その後が見えません。
仕事に就けず、ずっと失業しているかもしれません。未来が見えません。
大きな不安を抱えています。
だから、一見何もせず楽な事しかしていなくても、気持ちは不安と焦りでいっぱいです。
何もしないことを楽しんでなんかいません。

やる気スイッチが入らない子どもの育て方

うちの息子はやる気を出してくれません。
勉強はもちろん、スポーツ、部活など何に対してもやる気がありません。ゲームとマンガ、楽をして面白いことだけは熱心にやります。その結果、ついつい親からの小言が多くなります。勉強でなくてもいい、スポーツ・趣味など何か熱中できるものを作ってほしい。勉強や精神的にもどん底まで落ちて、目を覚ましてやる気を出してくれるのかどうか不安です。子どもを放っておくべきとはわかっていても、そのまま這い上がれなくなるのではとつい思ってしまいます。
信じる強い心を持つにはどうすればよいでしょうか。

お子さんは、いわゆるlate bloomer(レイト・ブルーマー)なのですね。
遅咲きの花。

子どもは思春期のどこかでやる気というエネルギーを芽吹かせ、自立する拍車がかかります。
その時期は人によって異なります。小学校高学年くらいに早く芽吹く子もいれば、20歳過ぎて芽吹く遅めの子もいます。
芽吹く時期が異なるだけで、どちらが良いというわけではありません。早く芽吹いた方が綺麗な花が咲くとは限りません。

しかし、親にとっては早く芽吹いてくれた方がずっと楽です。心配しなくて済みますから。
遅く芽吹くlate bloomerは、親の負担が大きいです。
いつ芽吹くのだろうかと待っている間、ずっと気にかけて心配しなくてはなりませんから。

うちの子は、本当にいつか芽吹くのでしょうか?
芽吹かないまま終わってしまうのではないでしょうか?
ニートやひきこもりや、大人になってもずっと芽吹かない人の話をよく聞くので、、、

まず、お子さんの心の状態をチェックします。

1) 潜在力はあるけど、まだ芽吹かない遅咲きタイプなのか。
それとも
2) 病気や障害があって根腐れを起こし、潜在力がないタイプなのかを見極めます。

お子さんとお話しして診察すれば、両者の区別はつきます。

2) 〇〇病や〇〇障害といった問題があれば、それを取り除く治療が必要です。

1) 病気ではなく、遅咲きタイプであることがわかれば、基本的に放っておけば自然と芽吹きます。


子どもを放っておくべきとはわかっていますが、ただじっと待っているだけなのですか?
親が何かできることはありませんか?

相当しつこいですね(笑)。
親として何かしたいのですね。
待つことができないのですね。

それでは、こう考えましょう。
「やる気」は子ども自身が自ら作り出すものですから、親が子どもの心の球根に手を突っ込んで引っ張り出すわけにはいきません。
子どもが根を生やしている家族(親)がどのような土壌を用意しているかチェックしましょう。
土壌のpH度をチェックします。
ホントのpH度とは酸性・アルカリ性の度合い(水素イオン濃度)ですが、ここで言うpH度とは安心感の濃度です。

親の安心度がマイナスとは?
親の気持ちが不安に満ちています。
いったいこれからどうするつもりなの? 
このままではダメでしょ!
このままでは生きていけないでしょ!
このままではうまくいかない、どうにかしなくてはダメだと、親が焦り、大きな不安を抱えています。
この状態で子どもに接すると、親のマイナス・パワーを子どもに伝えてしまいます。

親の土壌の安心度は、子どものやる気スイッチの入り具合に大きく影響します。
十代という時期は親もその昔に経験したと思うけど、たくさんの不安に満ちています。
親の保護から巣立ち、自立しなければなりません。
自分の力で、危険に満ちた恐ろしい社会の中に入ってゆくのです。
うまくいくだろうか。失敗しないだろうか。
★勉強して成績を上げなければなりません。
★社会人になって収入を得なくてはなりません。
★人とうまくやって友人や仲間や、親密なパートナーを見つけなければなりません。
★結婚して自分の家庭を築かなければなりません。
そんな将来のことを考えると、とても自信なんか持てないですよね。
とっても大きな不安を抱えています。
それと同時に、希望の片りんも持っています。
とにかく前に進もう、「大丈夫だよ、きっと、、、」というプラスの要素(自信・希望)も持っています。
思春期は、その両者で柳のように大きく揺れています。

子どもは家族という土壌に根を生やし、成長しています。まだ土壌から抜け出して離れてはいません。
土壌(親)の安心度が、根を伝ってそのまま子どもに伝わります。
親が不安だと、子どもも不安になります。

逆に、親の土壌に安心の土壌を多く含んでいれば、子どもはそれを吸収し、心細い自立のプロセスを自信と希望の力で乗り越えることができます。

安心度がプラスの親は、本人のエンジンが始動するまで待つことができます。
そして、肯定的な期待感を与えることができます。
思春期は、勉強も、受験も、人間関係も、部活も、不安なことだらけです。
それに耐えられないと撤退します。

「でも、きっと大丈夫だよ!」
未来のことなど、だれもわかりません。大丈夫か大丈夫でないかなんて、だれも予想できません。
親が持つ「きっと大丈夫だよ!」という(究極的には)根拠のない安心感(希望)が子どもに移ると、子どもも根拠なく安心して、不安を乗り越えることができます。
だから、ほめるべき時は思いっきりほめてください。
肯定的に評価してあげて下さい。
ただし、ほめたからといってすぐにエンジンが起動するわけではありません。
あとはその時期が来るまで待つことです。それが親にとって一番つらいのです。親の勝負どころです。

また、ほめることと甘やかすことは違います。
ほめることは、子どもの社会的自我の部分に働きかけることです。
甘やかすことは、子どもの万能的自我に働きかけることです。
ほめる時はしっかりほめ、厳しく叱る時はしっかり叱りましょう。

安心度がプラスの親はこんな風に考えるでしょう。
「たしかに、early bloomerの方が有利ですよ。受験や進学・就職という節目のハードルで評価されますから。
学歴のレールを考えれば、二十歳を超えてハードル(選別)が済んだ段階で芽吹いても遅すぎますから。
でも、ホントに遅いですか?
長い人生を考えれば、学歴のハードル以外にも、就職、結婚、子育て、中年期の危機、更年期、退職期、そして老年期。
一生たくさんのハードルがあります。
学歴が優れて一流の会社に勤めても、その後不幸になる人がたくさんいるし、その逆も真。
我々親世代が育った高度経済成長時代は「狭き門より入る」価値観が世の中に満ちていました。「選ばれた人が良い(幸せな)人生を送れるんだ」という成長神話が十分に通用していました。
今の日本社会は物質的には豊かになり、狭き門より入らなくても、物質的には十分に豊かになれます。むしろ大切なのは精神的な満足感・幸福感。それは学歴や高収入のみで成就するものでもないはずです。
真の豊かさは何?
真の幸せとはなに?
それを考えると、むしろlate bloomerの方が有利かもしれません、、、」

心配しないで、あまり干渉せず、放っておくことが大切なのはよくわかります。
でもどうやったら良いのかよくわかりません。

まだしつこいですね(笑)。
いえいえ、失礼。
そのお気持ちは良くわかります。
でも、残念ながらそう考えるあなたの安心度はまだまだマイナスであることにお気づきですか?
子育てはとても不安です。どの親でも、子どもへの不安はとても大きいものです。
親自身の心がマイナス(不安)なのに、口先だけプラス(安心)にしなさいと言っても無理です。無理にやろうとしたら苦しくなるばかりです。

まず、親自身の気持ちの除染作業を行わなくてはなりません。
子どもにどう接するかという表面的な口先レベルの問題ではないのです。
その元となる親の気持ちをマイナスからプラスに切り替えなければなりません。
相当、根が深いですよ。
電気のスイッチみたいに、オン・オフをそう簡単に切り替えることはできません。

親の除染作業って何ですか?

それは深い話なので説明しにくいのですが、たとえば次のような要素が挙げられます。
親の期待値。親が子どもに期待するのは当然のことですが、その値がどうか。適切にセットされているか。親が優秀で成功している場合、時にセット値が高すぎる場合が見られます。
親自身が育った土壌との関連。自分の親との関係がまだ十分に整理されていない場合もあります。
両親の協力体制。夫婦間のコミュニケーションに課題があったり、夫婦の間に横たわる長年のシコリがじゃまをして、親としてのうまい体制を組めない場合もあります。

このように考えると、子どものやる気スイッチは、TVコマーシャルのように、身体のどこかに隠されているスイッチを探せばよいといった簡単な事ではないと理解していただければと思います。

2013年5月16日木曜日

臨床は疲れるけど、エネルギー源です。

ふぅ。。。
今日はくたびれた。
8名の方と面接した。
普段は、おひとり1時間プラスアルファ ⇒ 1日最高5名までです。
今日は来週から始まるセミナーの事前面接が入ったため多くなった。
まあ、普通のお医者さんは1日20名、30名というのがザラだし、私も病院勤めの頃はそうだった。
でも、ひとりの人に対する密度がぜんぜん違う。

私はつくづくMBTIでいうExtroversion typeだと思う。
Introversion(内向)typeはひとり落ち着いて内省を深めることでエネルギーを得る。
Extroversion(外向)typeは他者と交わることでエネルギーを得る。
人と交流すれば相手を気にかけ気を遣うことが疲れるというより、その行為自体が自分へのエネルギーとなり跳ね返ってくる。自分の閉ざされた思考回路に他者が入り込むことで、新たなアイデアや動機が得られる。

Q) 先生はたくさんの悩みを聞いて、自分が疲れたり悩んだりしないのですか?

A) というのは定番の質問なのですが。
答えはYes and No.
疲れますよ。たくさん気を遣うから。

でも、基本的に悩みません。
クライエントの悩み・苦しみの内容はとても重たいです。共感し、心の底まで共に下りていく作業は怖く負担になります。でも、その苦しみはあくまでクライエントのもの。自分自身のものではありません。主観性と客観性をうまく使い分けるのがコツ(というか必須)です。
共感するという行為は、相手の心情を自分の心に映し出し、自分自身の感情体験を用いるという点ではすごく主観的な行為です。
それと同時にクライエントの感情体験が自分の主観的世界に投影されず切り分けることができる枠組みが基本にあります。
高層ビルの耐震構造ですね。クライエントの揺れに深く共振しつつ、基礎はしっかり固定されぶれることはありません。だから、クライエントの悩みが自分の悩みにはなりません。

とまあ、8名の面談の合間を縫ってこれを書けたので良しとしましょう。
さあ、帰ろう。
お腹すいた!!

痛みが心を占拠し、いつまでもどいてくれない状態

連休中、ごく軽い車の事故を起こした。
上り坂で渋滞中、気づかずバックしてしまって後続車に追突してしまった。お互いにバンパーが少し凹んだだけだから、大したことはない。

でも、気持ちは凹んだ。
約1日ほど、そのことでアタマが一杯だった。

どうしてやっちゃったんだろう、、、
あ〜あ、反省、、、、
お金が飛んでくなぁ。意味のない出費だ、、、
カーナビなんかいじってなければよかったなぁ、、、
取り返しがつかない、、、

後悔、自責、怒り、悲しみ、喪失感、、、
マイナスの感情がずっと気持ちを占領し、どいてくれない状態だった。
この状態が心の痛み、あるいは落ち込んだ状態である。
一応、他のことも考えたりいつもの日常生活もうわべでは普通だか、心の中はそのことで占拠されている状態だ。軽い解離状態かもしれない。

あなたはどこかよそにいるみたいに私は感じられた。、、、
あなたの頭の中には何か別のものが入り込んでいた。少なくともそういう隔たりに似た感触があった。
(「色彩を持たない他崎つくると、彼の巡礼の年」p.105)

これがもっと大きくなると、抑うつ症状が出たり、仕事や学校に行くとか家事をするとか日常生活が出来なくなる。もっとひどくなると自殺念慮も出てくる。

心が凹む期間は、凹み体験の大きさによる。
軽い物損事故なら約1日で済んだ。
もっと大きな凹み、たとえば大切な家族を喪失した場合など、どんなにうまくケアされたとしても3年以上はかかる。

大震災で家や家族を失った人々は、少なくとも数年間、地域ぐるみで凹みに向き合っていかねばならない。

それでも事故とか喪失とか、済んだことであれば時間とともに回復の道を歩むことができる。
福島のように被災状態が継続していれば、心の凹みもずっと続き、回復することができない。
ひきこもりや、夫婦関係がうまくいかないとか、家族の中に問題(=凹む出来事)が続いていれば、心の凹みもずっと続く。それは、とてつもなく痛く苦しいことだ。

心の凹みは、それが回復してからでないと、どれくらい凹んでいたか、痛かったかということはわからない。回復した今と比べて、あああの頃はあんなに凹んでいたんだと客観的に振り返ることができる。
凹みの渦中にいると、自分の凹み具合さえ把握する余裕もない。

2013年5月12日日曜日

思春期の自然回復力

講演の後、久しぶりにクライエントさんに出合った。

その節は大変お世話になりました。田村先生のおかげで、息子はすっかり元気になりました。
いやあ、私は何も、、、


謙遜ではなくて、ホントに何もしていないんです。
ひきこもっていた高校生とその両親に2−3回会い、家族背景が見えてきた。
さあ、これから本格的にカウンセリングに取り組もう。
もっと自立しやすい家庭環境を整えるために、私がお役に立てることが見えていた。
それをじっくり両親と共に取り組もうと思った矢先に親からキャンセルが入り、以降もう来なくなっちゃった。
だから、私がやるべきこと(やりたかったこと)はまだ何もやってないんですよ。

でも、ムスコくんは元気に学校に行き出し、今はしっかり受験に向けて取り組んでいるという。
私がやったことを敢えて挙げれば、母の不安感を伺い、子どもにどう関わるかで異なる両親の意見を調整したこと。
本人とは1-2回会って元気づけたくらいで、そんなにたくさん話していない。

だから私の力ではない。
思春期の力なんですよ。
思春期の成長力はすごいですよ。逆境を乗り越え、元気を回復する力を持っている。

あまり私は関わり過ぎない方か良いのかもしれない。
少しだけ関わり、何かのきっかけを与えたら、あとはや本人と家族が持つ力を発揮して前に進めるのかもしれない。

夫婦間の秘密の花園

先日は、おふたり別々によくお話を伺えてとても良かったです。
私にとっておふたりとも良識のある方々です。家族のことを、パートナーのことを真剣に考えていることなどを、よく理解できました。

でも、そのことが相手に上手く伝わっていないのではないかとも感じました。
なぜなら、ご主人が感じていることと、ご主人がどう感じているか奥さまが受け取っているいることにかなり隔たりがあります。
全く同様に、奥さまが感じていることと、奥さまがどう感じているかご主人が受け取っていることがにかなり隔たりがあります。

おふたりともプラス面のたくさんある方々と私は受け取りました。しかし、おふたりともパートナーのマイナス面をとても強調されておられました。
確かに、お二人ともマイナス面もお持ちです。でも、それは人間だれだって持っているわけで、おふたりが特にマイナス要素が強いとも思えません。

おふたりとも、家族にとって、夫婦にとって、本当に大切なことをお話してくれました。もしかして、それらがお互い相手にうまく伝えられていないのではないし、うまく受け取られていないのではないだろうか。そんな感想を持ちました。
もしそうであったら、どうにかして伝え合うことができないでしょうか。

お互い、率直に話し合うことをとても恐れていらっしゃいます。
私の話を聴いてくれない。
私のことを理解してくれない。
私を傷つけようとしている。

私から見ると、おふたりとも恐い人ではありません。とても繊細で、優しい方々です。
私にお話していただいたように、パートナーにお話してみてはいかがでしょうか。

よろしければ、私も立ち会います。
私は第三者。家族の一員ではありません。もともと他人、距離があるからこそ自分の思いを切り離して、話をそのまま受け止めることがができました。
お二人はもっとも大切で親密なご夫婦です。おふたりの間に距離はありません。近すぎると、本当の姿をかえって見えなくなってしまいます。もう少し離れた位置から落ち着いて伝え合えば、あまりブレずに冷静に受け止められるのではないでしょうか。

深く話せば、どうしても敏感な部分に立ち入ってしまいます。
人生の中で最も大切にしてきた部分です。不用意に触れられたくない、壊されたくないと思います。
でも、そこに入らなければ真実の姿に近づくことができません。
私が安全を確保しますので、よかったらご一緒に秘密の花園を探求してみましょう。
そこを制覇すれば、新たな関係性が生まれます。

Tribute to 小田晋先生

 精神科医(犯罪病理学)、筑波大学名誉教授の小田晋が亡くなった。
 私の気持ちの中ではどうでもよい人なのだが、メディアにもニュースが流れ、私のまわりでも結構つぶやかれているので、私もつぶやくことにする。

 私は彼を理解できなかったし、彼も私を理解してくれなかった。
 私にとって、彼はアスペルガー障害だ。ちゃんと彼の生育歴を調べて診断したわけでなく、あくまで私の気持ちの中での主観的診断に過ぎないのだが(注)。
 学部時代の彼の講義は内容が難しく、滑舌も悪いので何を言っているか理解できない、板書の字は小さくて読めない、試験の文字(当時はワープロではなく手書きだった)を判読できない。つまり意思の疎通が困難だった。
 当時、筑波大学の精神医学の指導体制は惨憺たるものだった。まず臨床系の精神科教室と、社会医学系の精神病理学が仲が悪く分断していた。社会医学系の教授が小田晋、助教授が稲村博で、このふたりが犬猿の仲だった。そんな事情も知らず、卒後の進路を相談に小田先生の研究室へ行き、「稲村先生につきたい」と言ったら口をきいてもらえなかった。
 大学院の授業で覚えているのはテレンバッハの「メランコリー」を輪読したことくらい。貴重なことを教えてくれていたのだろうけど、私は理解できなかったし興味の対象も違っていたので理解しようともしなかった。
 稲村先生の指導を受ければ、自動的に小田先生の指導は受けられなくなる。一応、学位論文の主査だったけど、何も指導してくれなかった。
 大学院を修了した翌年に結婚した。仲人を稲村先生に、主賓を小田先生にお願いした(最近の結婚式はそういう習慣も薄れたみたいだが)。小田先生は(主賓スピーチを避けるためとしか思えないが)1時間遅刻してきたのに、稲村先生の仲人スピーチが1時間と超長かったので、間に合ってしまった。
 稲村先生は、上に小田先生がいたために筑波大では教授にどうしてもなれず、別の大学に移っていった。研究室は解散し、私は既に卒業していたので災いは免れたが、後輩たちが路頭に迷い大変苦労した。(思えば我々は旧態依然とした狭い徒弟制度の中にいたんですねえ)。
 という具合に、小田先生に関して良い思い出はほとんどない。批判ばかりしていたけど、小田研究室の仲間に聞けば、面倒見の良い親しめる先生だったという。きっとそうだったのだと思う。
 私にとって、師弟間の愛着関係を築くことが出来なかっただけなのだ。
 お葬式にも出ませんけど、ご冥福をお祈りいたします。

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注:私の大学生・院生の時代にアスペルガー症候群という診断名は精神科医の間でさえほとんど使われなかった。今は使われすぎているが。
 私が小田晋をアスペルガーと言うような主観的判断で、今、多くの子どもたちがアスペルガーと言われている。教師や親にとって、理解できない、気持ちが通じないと感じると、この子はヘンだ➡普通ではない➡何かの病気か異常なのではないだろうか?➡アスペルガーの「相手の気持ちを読み取れない」特徴に照らし合わせて、この子もアスペに違いないと思い込んでしまう。しかし、そのように言われた子どもたちの多くはアスペルガー障害ではない。

2013年5月10日金曜日

居てよい場所と、居てはいけない場所

中学生の息子は学校に行けません。緊張するから絶対に教室に入りたくないと言います。
でも、風邪をひいたら自分ひとりで医者に行くんです。受付したり、お医者さんの診察を受けたり、そっちの方がよっぽど緊張すると思うのですが、平気みたいなんです。さっぱりわかりません。

息子くんにとって、お医者さんは居てよい場所、学校は居てはいけない場所という風に頭の中でプログラムされているのでしょう。
お母さんにとって、緊張する場所、居ることがとても辛い場所ってありますか?
誰にでもありますよね。私にもありました。

大学院生の頃、学会に出席して自分の研究を発表するんですよ。
心臓が胸から飛び出すほど緊張しました。
なにしろ、周りの人は自分より経験あるし知っている。自分ひとりが劣っていると感じ、何を突っ込まれるかドキドキしました。

ロンドン留学の初めは英語に自信がありません。講師の話を黙って聞いているレクチャーはまだよかったのですが、グループディスカッションが辛かった!
英語が分からず、話についていけません。ひとり取り残され、日本だったらまわりの人が気を使い水を向けてくれたりするのですが、英国ではそんなことありません。ホントにひとりだけ取り残されていました。参加するのがイヤで、何度かサボりました。

息子くんにとって、風邪をひいたら学校を休んで、堂々とお医者さんに行って良いんです。お医者さんの診察や注射は緊張するけど、それは構いません。

でも、息子くんの教室は、私の学会や英語のディスカッションみたいなものだったのでしょう。自分だけが劣り、取り残され、居づらく緊張する場所なんだと思います。

始めは誰でも緊張し、居づらいものです。
でも、我慢して続けていくうちに、必ず慣れてくるものです。
私も今では学会も英語のディスカッションも全然平気です。
でも、辛いから諦めて撤退してしまうと、だんだんと慣れてゆける機会を失ってしまいます。

息子くんがどうやったら「慣れる機会」を得ることができるか、それがこれからの課題ですね。

女性の仮面


男性が「鎧」を着ているとすれば、女性は「仮面」になるのでしょうか?

それはうまい比喩ですね。
鎧も仮面も素の自分の上に覆いかぶせるものです。ふたつの違いはその付け方です。鎧は本来の自分をかさ上げし強く大きく見せて敵の攻撃をはね返します。仮面は本来の自分を隠し、別の自分に取り繕います。
鎧とはできるだけ良い学校の卒業証書、資格・免許、できるだけ良い職場の肩書きなどです。自分は有能であることを誇示し、お金を稼ぎ、社会でポジションを確保するために必要です。子どものころから一生懸命がんばって、勉強して、自ら好んで着装します。
女性が教養を身に着け、化粧して美しさを装うのも鎧です。その結果良いパートナーと結婚して家庭に入ると、妻・嫁・母親役割という仮面を着けます。それが似合って良くフィットすれば素晴らしいのですが、仮面のために心の健康が損なわれることがあります。

男性から「うちの妻を診てほしい」と診察の申し込みがありました。A子さんは食欲が低下して、不眠に悩んでます。普段ご主人の前ではほとんどしゃべらないのですが、時々些細なことで怒り狂います。これがもしうつ病なら治してほしいとご主人が救いを求めてきました。 さっそくA子さんを診察したところ「うつ病」ではありません。よく話を伺うと、ご主人の話とは違うストーリーが見えてきました。
A子さんは有能な看護師でした。有能な外科医と幸せな結婚をして、看護師という鎧を脱ぎ主婦になって二人の子どもを育て、同居する夫の親に尽くしてきました。しかし、夫婦の気持ちはだんだん離れてゆきます。多忙なご主人は家で過ごす時間が短く、家のことに無関心です。職場ではとても快活で社交的なのに、家で見せる顔は全く異なります。無口であまりしゃべらず、機嫌が悪いと妻に当たり散らします。それでもA子さんは一所懸命尽くしてきたのですが、だんだん元気がなくなり、体調を崩し、時々気持ちがキレて自分でも訳が分からなくなります。
A子さんとのカウンセリングを始めました。でもA子さんの気持ちがなかなか表現されません。A子さんの気持ちを訪ねても、いつのまにかご主人がどう思っているか、子どもや家族のために私はどうしたらよいのかなど、自分自身の気持ちというより家族の話にシフトします。Aさんは結婚以来、このように自分の気持ちを仮面の下に隠してきました。

ご家族を大切にするA子さんは素晴らしいと思います。でも、A子さんご自身のお気持ちもとても大切ですね。どうぞご自身の気持ちをお聴かせください。

A子さんは徐々に自分を取り戻してきました。A子さんは夫や義母に対して複雑な思いをたくさん抱えていました。

あまり愚痴るのはイヤなんですけど、、、

そうですね。愚痴ってばかりいると自己嫌悪に陥ります。でも、それで良いんですよ。

どの夫婦もアンビバレント(両価的)です。相手にプラスの気持ち(愛情、思いやり、喜びなど)とマイナスの気持ち(怒り、イライラ、憎しみ、落胆など)の両方を抱いています。プラスの気持ちは楽ですが、マイナスの気持ちを表現するのはイヤなものです。愚痴も大切、つまりマイナスの気持ちを抱いている自分を偽らず大切にします。そのようにしてカウンセリングの中で本当の気持ちを解放できるようになりました。

ところで、その気持ちはご主人に伝えましたか?
いいえ。どうせわかってくれませんから、伝えていません。

A子さんひとりのカウンセリングに続いて、ご夫婦でカウンセリングを行いました。伝えにくいこと、伝わりにくいことを相互に伝えあいました。普段ふたりだけの話し合いだとうまく伝えることも、受け取ることもできません。カウンセラーが同席してうまく話し合える雰囲気を作りました。
そうこうしているうちに、何か特別なことがあったわけではないのですが、A子さんの体調は自然に良くなり、気持ちも明るくなっていきました。キレることもほとんどなくなりました。

A子さんは結婚して幸せを願ってつけた仮面が災いして心と体の調子を崩してしまいました。カウンセリングを通して、仮面の下の素顔の気持ちを確認し、パートナーに伝えることもできました。その後も妻・母親・嫁という仮面はつけていますが、以前と比べると素顔も覗かせることができるようになり、かなり風通しがよくなりました。

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B子さんもA子さんと同様に妻という仮面を着け、本当の自分を仮面の下に隠してきました。娘はうまくいかない両親を見て「お母さん、もう離婚しちゃいなよ!」と言います。B子さんもホントはそうしたいのだけど、子どもたちの結婚式までは頑張るつもりでした。カウンセリングを進める中で、この気持ちが変わってきました。

「ホントは離婚したかったのに、子どものために離婚できなかった」という方が親として無責任じゃないかしら。

両親がお互いの悪口を子どもに愚痴るのは子どもの負担が大きすぎる。
一緒に住んでケンカしているより、離れた方がB子さん自身の気持ちが安定して子どもたちにも優しく接することができるような気がする。
B子さんは知人のお菓子屋で見習いのアルバイトを始めました。

これまでB子さんにとって離婚という選択肢は人生の失敗。絶対あり得ない選択肢でした。今でも離婚は失敗だと思っています。なにしろ結婚式で「一生寄り添います!」と誓ったのですから。でも失敗の質が微妙に変わってきました。今までは、離婚が人生そのものの失敗と考えていました。今では離婚は経済的にも気持ち的にも大きな痛みを伴うけど、家族や自分が希望を取り戻すための選択肢と思うようになりました。

B子さんは妻という仮面を捨て去りました。それはパートナーにとって好ましくない、裏切りの選択肢でした。でも、B子さんにとっては自分の心の健康と子どもの成長を守るためのギリギリの選択でした。

2013年5月9日木曜日

イワシ時代を懐かしむサメ


昨晩は研修医時代の仲間の教授就任祝賀会に昔の仲間が集まった。
司会から「何かひとことをお願いします」と言われ、つい昔のノリでツッコミを入れてしまった。

そう、あの頃は群れていたんですよ。
一緒の病院で研修して、よく失敗して上の先生から叱られていた。
その上の先生に30年ぶりに出会った。
「ああ、田村くん。あの頃はよくイジメて済まなかったねえ。」
えっ、イジメていたんですか?
確かによく突っ込まれたけど、イジメられたとは思っていなかったんですけど。
マトモな指摘は素直に受け入れ、理不尽と感じた指摘は無視していた。
休みになると、まだ結婚したての妻たちと一緒に飲み明かしたり、泊りがけで旅行に出かけたり。
昨夜は酔いにまかせて教授クンの当時の恥ずかしいネタをばらしてしまい、今反省しています。
あの頃はみんなイワシでした。
泳ぎ方もわからず、泳ぐ力もなく、ひとりで泳ぐ自信なんかなかった。
社会に入ったばかりの職業人としても、家族を作ったばかりの家庭人としても。
お互いにツッコミを入れながらなんとか泳いでいた。
「ほら、遅れてるぞ。その泳ぎ方は違う。こうやって泳ぐんだよ!」
「そんなに早く泳ぐなよ!自分だけ偉くなって群れから離れるなよ!」
よく迷い、失敗し、傷ついていた。
先頭を走るボスが道を迷い、群れが解体したこともあった。

やがてイワシたちは力をつけサメに変身した。力も、自分なりの泳ぎ方も、自信も獲得した。
英国で家族療法を学び、他の人とは違う自分独自の泳ぎ方を会得した。
(患者側も医者側も)医療保険に守られなくともやっていける自信も得てしまった。
そうなると、群れにいることが逆に窮屈になる。
そうやって群れから離れていった。

その離れた仲間と久しぶりに会った。
昔の居心地を思い出し、とても懐かしくもあり、寂しくもあった。
もうツッコミを入れることができない。
イワシの頃は、ツッコミがないと不安だった。
サメになると、突っ込まれるとムカついてしまう。
もう、群れには戻れない。お互いに離れて自分のテリトリーを確保し、ひとりで泳ぐしかない。
泳ぐ方向が違っても、誰もツッコミを入れてくれない。入ったとしても、素直に修正することができない。

自由と共に、孤独を得た。