人は、心の中に安心のタンクを持っている。
その中に入っているのは安心感の水である。それは、自分は見守られている、大切な人に認められている(承認欲求が満たされている)といった確信的な感情である。
この水は、人間ひとりでは生まれてこない。大切な人から愛され、認められることにより、相手から与えられ、自身の心の中に生成される。親密な人との対象関係の中から生まれてくる。
水はたっぷりもらっているはずなのに、安心が生まれてこない場合もある。それは、愛情が安心色ではなく、不安な色に染められている場合である。対象の心のタンクが不安色だと、そこに注がれる水も、どうしても不安色になってしまう。
水が十分にあると、ひとりでいることもできるし、イヤな人とも交わることが出来る。ひとりでいても「孤独感」に苦しまず、ある程度は安心を保持できる。人からイヤなことを言われても過剰に不安になることはなく、きっと次は挽回できるはずだと期待をつなげられる。失敗してもめげずに何度も挑戦できる。何度かやっていればそのうち成功して、安心の関係を得ることができる。そうやって、水をさらに増やしていくことができる。
逆に、心の水量が減ると、不安感が増えてしまう。すると、(1)必死になるか、(2)諦めるかのどちらかに陥る。
1)足りていないという飢餓感から、必死になって相手にたくさん求め、時としてやりすぎてしまう。限度を超えて求めすぎると、相手は負担に感じ引いてしまう。すると、さらに輪をかけて求めてしまい、人にひっついていないと心配になり、依存的になってしまう。またルールをわきまえず求めるのでトラブルが生じたり、不安感が怒りに転じて攻撃的になったり、(男性に多いのが)暴力を振るったりする。
2)人を求め、安心の関係性を作るのは結構難しい。こちらからアプローチしても無視されたり裏切られたり、失敗することは多々ある。水のリザーブがあればある程度の失敗にも耐えて再挑戦できるが、水が底をついているときは、一度失敗すると不安になって苦しくなり、人を求めることをやめてしまう。怖くなって、人との関係性から撤退してしまう。
心のタンクの水量は子ども時代に決定するものではなく、一生を通じて増えたり減ったり、その時の天気(生活状況とストレス)と降雨量(親密な関係性)に左右される。
★例えば、幼児。
生まれた子どもは親(保護者)から愛情という水をたっぷり受け取る。無力な自分に対して、無条件の愛情を与えられ、この世に生きていて良いんだ、自分は愛されるべき、善き者なのだということを確信する。すると、安心して親から離れ、外の世界に飛び出して冒険できる。なぜなら、困ったときにはいつでも戻ってくれば良いという安心感を心に抱いていることができるから。
逆に、愛情の水をもらいそこなうと、心の中に安心が生まれず、必死に求めようとしがみつく。あるいは、諦めて無関心になる。
その結果、何らかの問題が生じると「愛着障害」と呼ばれる状態になる。
★例えば、思春期の若者。
思春期前の子どもたちは小学校や家庭などに見守られた環境で生活する。
思春期・青年期に入ると、自立心が芽生え、ソトの世界に飛び出し、自らの力で新たな関係(愛着対象:友人や恋愛対象)を求めるようになる。
タンクに水が十分に入っていれば、多少はいじめられても、叱られても、傷つけられても、失敗体験にめげずに何度も挑戦し、100%とまではいかなくても60-70%程度の成功体験を必ず獲得できる。
タンクに水が十分に入っていないと不安感が先行してしまい、安心の関係をうまく作れない。傷つきに堪えることができず、自信を喪失し、ソトの世界への挑戦を諦めてしまう。その結果、不登校やひきこもりと呼ばれる状態になる場合もある。
★例えば、夫婦関係。
夫婦は最も親密な関係である。
夫婦間で相互の水を増やすことができるし、逆に減らすこともある。
夫婦は本音で気持ちを伝え合うことによって、真の親密性を獲得できる。
良いこと、表面的なことばかりでなく、辛いことや心の痛みも思い切って伝えると、本音で分かり合えた感覚を得る。深い信頼で結ばれ、私の本当の気持ちをわかってくれているんだ、大切にされているんだという温かい気持ち、守られた気持ちになる。このようにして、お互いの水を増やしていくことができる。
家族生活は仕事の負担、お金の心配、家事育児の負担、子どもの教育、親や親戚との付き合いなどなど、負担になることが山積みだ。本当の気持ちを伝え合おうとしても、上手く受け止められないこともたくさんある。心の水(安心感)が不足していると、伝える方はうまく送れず、受け止める方もうまく受けとれず、自分が責められていると勘違いしたり、うまく伝えられない。結局、お互いがイヤな気持ちになってしまい、喧嘩になる。それを避けるために、相手を遮断し、コミュニケーションをとらなくなってしまう。
いずれの場合も、最も分かり合えるはずのパートナーがわかってくれない、信頼できない関係に陥ってしまう。この相互のやり取りが悪循環にはまり、ふたりの水が激減していく。
夫婦のやりとりで、水を増やせるか、減ってしまうか。
どちらにころぶかは、偶然というよりも、二人の水の総量による。二人あわせて、十分な水があれば、多い方から少ない方に分け与えても、まだ水は足りているし、自己増殖も可能だ。
二人合わせた水が不足していると、どうしようもない。分け与えられないし、相互作用自体が、ますます水を抜かせてしまう。
★例えば、子どもの成長を見守る親たち。
親子間の水は、親→子だけでなく、子⇒親へも流れるものだ。つまり、子は親からの承認を得て安全の水を貯めるばかりでなく、親は子どもからの承認を得て親自身の水を増やす。
子どもの成功体験は、子ども自身の水ばかりでなく、親の成功体験ともなり、親の水を増やす。日本の場合、学校での成功体験が顕著な例だ。
逆に、子どもが問題を起こすしたり、いじめられたり、成績が落ちたり、先生に叱られたり失敗すると、親は心配する。親の心に十分水が入っていたら、子どもの多少の失敗でもそれほど不安にならず、試行錯誤を繰り返し、失敗の次に成功が来ることを期待して、先回りして心配せず、遠くから見守ることができる。親が心配せず、干渉せず、暖かく見守ってくれていると、子どもは信頼されているんだなと安心して、何度も挑戦し成功に到達できる。
親の水が不足していると、子どもの小さな失敗でもとても不安になってしまう。口をだしすぎたり、叱ったり、先回りして心配する。すると、親の心配が子どもにも伝染し、不安な気持ちが増えてしまう。すると、失敗体験が大きな痛手となり乗り越えることが出来ない。
親は子どもから非承認(拒否・無視)を受けることもある。思春期の子は、親を無視したり、反抗して、自立していく。親の安心の水が十分にあれば、ふつうの反抗期のプロセスとして大して気にせず、反抗しようが無視しようが、親としてのメッセージを普通に伝え続ける。しかし親の水が少ないと、子どもからの非承認に耐えられない。必死に承認を得ようと叱ったり、甘やかしたり、なだめすかしたりする。子ども側からすれば、それはウザいだけだ。逆に、拒否を恐れ、子どもに対して腫れ物に触れるように関わり、親として当たり前のメッセージさえ伝えることに大きな不安を抱き、何も言えなくなってしまう。
過剰に叱ったり、何も言えなかったりという親の対応は、親の不安を暗黙の裡に伝えている。それが子ども自身の心の水を抜いてしまうことにもなる。
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以上は、愛着を「心のタンク」という比喩を使って説明したものだ。
従来の説明と異なる、私独自が考え出した説明である。その要点は2つある。
1)ライフサイクルを通じた可塑性・柔軟性
従来、愛着は「心の鋳型」という比喩が用いられてきた。
つまり人生早期の体験を重視する精神分析的な見方である。5歳以前の幼少期の愛着関係により、その人の愛着パターンが
安心型(secure attachment)、もしくは
非安心型 (insecure attachment)
に決定づけられる。いったん作られた心の鋳型はもう固定され、残りの人生はその愛着パターンで対人関係の質が決まる。非安心型の人は苦労することが多いといった具合である。
私の「心のタンク説」は、社会構成主義(ポストモダン)と家族システム理論から来ている。つまり、愛着のパターンは、その時の親密な関係性の量と質によって、いくらでも変化しうる。幼少時期の体験は重要であるが、そこで決定するわけではなく、その後もいくらでも変化しうるということ。
2)親子間の双方向的な愛着の備給
もう一つは、アジアの伝統としての緊密な親子関係から得られる、欧米ではあまり強調されない愛着の授受関係である。イギリスで生まれた愛着理論は親(または保護者)から子どもへ愛情が伝えられ、それによって子どもの愛着パターンが決まるという、親から子へという一方向的なものである。その根底にはヨーロッパ的な家族観がある。つまり、子どもは成長と共に親から分離するものであり、成長した後の親子間の情緒的な関係性についてはあまり議論されていない。
その後、アメリカでの臨床研究により大人の愛着も研究されるようになった。それはもっぱら夫婦もしくはパートナー間の愛着関係であり、成長した子どもとその親の愛着関係は議論されていない。
アジア的な家族観はこれと異なる。親子の愛着関係は一生続くものであり、親から子へのみならず、子から親への愛着の備給もありうる。つまり、子から親は承認を受けると親の安心が生まれ、子からの拒否は親の不安を生む。
この二つの視点を、従来にない「心のタンク説」を用いて説明した。
支援者の役割について
親子間あるいは夫婦間の愛着の水の総量が十分でないと、家族システム内での安心できる関係性(secure relationship)が不足し、お互いが交流することでますます消耗してしまう。従来の精神分析的な支援では、そのことを解釈し、気づくことでどうにか乗り越えようとする。
私の考え方は異なる。支援者がシステムに加わり、支援者の安心の水(secure attachment) を家族システムとの交流の中で具現化し、家族システムの水を増やすことが考えられる。家族メンバーの誰かの水が増えれば、家族相互作用の中で、安心感の水は他の家族メンバーにも行き届くことになる。
それを行うためには、支援者自身が十分な心の水を保持していないといけない。クライエントの心が開くために、支援者自身が心の鎧を開くモデルを示し、安心感・承認感を家族に伝えていく。
これはテクニックや技法の問題ではなく、自己の感性にどれだけ気づくか、どれほどコントロールできるかということになる。支援者もひとりの人間であり、タンクの水が少ない場合もよくある。むしろ、少ないがために対人援助職(心理精神・福祉・看護・教育など)に興味を持ち、無意識のうちに進路として選択したのかもしれない。
支援者自身の個人史・家族史に含まれた肯定的・否定的な愛着体験に気づくためには、理論の習得では果たせず、体験学習、つまりスーパーヴィジョンやグループワークなどの臨床的トレーニングが有効である。精神分析では教育分析、家族療法の分野ではSelf of the Therapist Trainingなどと呼ばれる。信頼できる指導者や仲間との交流の中で自己を開示し、承認を得る。その体験により、支援者の心の水を増やすことができる。
実際の支援現場には心の傷が修復されず、安心の水が少ない支援者はよく見かける。彼らは、クライエントの心の不足状態を共感的に理解できる。クライエントもまた、支援者の少ない水を敏感に察知し、自己を支援者に投影する。そのような共感性で結びつくことはできるが、支援者はクライエントに水を分け与えることが出来ない。つまり、支援関係を樹立することはできてもなかなか回復に至らず、長期化すると依存関係に転じることもままならない。
また、逆に、心の水がたっぷり満ちている(安定した愛着関係を保持した)支援者がもしいるとしたら、水の不足状態を体験的にイメージすることは困難だろう。
一番良いのは、ライフサイクルの中で水が底をついた苦しみを否認せず向き合い、そこから、信頼し親密な他者との関係によって愛着を回復する安心感を経験した支援者である。クライエントの不安を自身の体験を参照して共感でき、またそこから回復するプロセスをイメージできる。
実は、これは私自身の体験であり、目指しているイメージでもある。
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