2019年10月13日日曜日

ひきこもりは日本だけ、それともアジアの現象?

Hikikomori: Social Withdrawal Adolescents Japan Only or Asian Phenomenon?
「ひきこもりは日本だけ、それともアジアの現象?」

というテーマでアジア児童思春期精神医学会(Asian Society for Child and Adolescent Psychiatry and Allied Professions)で発表しました。
台風の影響でタイから帰国できず、ホテルで待機してヒマなので、発表内容をざっと日本語に起こしてみました。まだ下書き段階です。口頭発表は口語体でこんな感じですが、これからちゃんと読める日本語にしますが、とりあえずご紹介します。

ひきこもりは世界の中で日本が一番多い。学会や講演、ワークショップで中国の上海、アジアやアジア以外の国でも結構ひきこもりのことを紹介する。韓国、中国、台湾、香港でもかなり多く、日本と同じような社会現象になりつつある。同じ中国文化圏があるマレーシアやシンガポールでも同様である。
なぜ?それを5つの社会文化的視点から考えてみた。

1. 高い教育期待
私が思春期を過ごした1970-80年代は、「教育ママ」の全盛期で、親が子どもの教育に大きな期待をかけるのが当たり前の時代であった。高度経済成長時代。働けば働くだけ良い未来が約束された時代。大人も子どももたくさん働くのが良しとされていた。1990年代のバブル経済の崩壊以降は、加熱した学歴志向の凄さは以前ほどではなくなった。少子化でそれほど競わなくても大学に入れるし、偏差値の高い大学に入り、大企業に就職できたからといって、終身雇用は崩壊し、ずっとその会社にいるわけではないし、一部上場企業だって潰れるし、高学歴が高収入やより多くの幸せを得られるとは誰も思わなくなった。
それでも、子供により良い教育を、より高いレベルを目指そうとする親の期待はいまだに残っている。今の韓国や中国を見れば、日本の高度経済成長時代と同様な加熱した教育志向が見られる。
どの社会だってより良い教育を受けて良い学歴を得れば、社会の中で高い地位を得て、高収入を得られる可能性は高いから、良い教育を目指そうとする。でも、アジアの社会や親の教育期待の勢いは半端じゃない。
親が一生懸命になれば、どうしても過保護・過干渉になってしまう。それがなければ、思春期の子どもなんてほっておけばいいのに、勉強しろ、そうすればお金持ちになれるぞって子どもたちに刷り込んで、たくさん勉強させる。
思春期の子どもにとって、家族や社会の教育志向の価値観を成就することが成功と失敗の鍵になる。不登校でよくあるのが優等生の挫折タイプ。それまで親の期待を背負って、勉強ができてきた。しかし思春期に入りそう上手くは進まない。親の期待、あるいは親の期待を取り込んだ自分自身の期待を成就できなくなったら、大きなショック。挫折を味わう。もうだめだ、やーめた。一気に撤退してしまう。
アメリカの高校じゃあ別の価値観。俺が行ったNorth Carolinaの田舎では教育に大した価値はなかった。学校に行くより働け!勉強するより、高校は恋愛するところ、パートナーを見つけるところ。男子はスポーツができてフットボール選手で。女子は美人で人気者でチアリーダーで。そっちの方が高い価値だった。アメリカのデート文化。そうやって対人関係の、パートナー選びを体験していく。
日本の高校では、デートなんてダメ。勉強ばっかして、大学に受かればバイトやデートもしていいよ。アメリカの高校生は一所懸命バイトやデートをしていた。別に親はどっちでもいいというか、子どもの成長と幸せは良い家庭を築くこと、自立して良い社会人になること。そのための勉強や良い大学ってのもあるけど、もう一人前の大人として車も運転するし、恋人も作るし。日本やアジアの場合はそういうのが禁じられて、青年期の成長のプロセスが遅れるってのはあるね。
しかし、本人だけが迷って苦しんで、自分の道を見出せばいいんだけど、そこに親がなんでそんなに期待するの?不安を投影するの?それは親子の愛着でしょ。このことについては後でね。

2. 家族内ジェンダー
日本は昔のジェンダー規範と今のそれの間で戸惑っている。それは日本だけでなくアジアに共通してるみたい。アジアの伝統的規範は儒教。中国文化圏ね。日本だってその一部でしょ。ダブルスタンダードなんだよね。伝統的なジェンダー(女性が家にいて男性が外で)というのは崩れ、男女平等、女性の社会進出は進んだものの、伝統的な価値観はまだ残っている。社会でどういう役割を取るかというのは、社会という見えやすい世界の話で変化しやすいが、家庭という見えない世界の中では、いまだに伝統的価値が残っている。家族関係、親子関係をどうするか、親の役割をどう規定するかというあたり。
子どもとの距離の取り方は、伝統的に母親が子育て役割で子どもと近く、父親は家族内というよりは家族外の役割が規定されてきて、父親と子どもの関係は比較的遠い。それは大家族・拡大家族の中での話だったので、父親がいなくても複数の人たちが家族の中で子どもに関わっていたのだが、核家族化して、他の人はあまりいなく、母親が唯一子どもと心理的に近くいるという状態になり、父親はなかなか家族の中に入っていけない。夫婦関係も、お互いに愛している、特に嫌いなわけじゃないんだけど、親密性というのはあまり伝統的に築かれてこなかった。夫からの情緒的サポートが十分でなく、夫は家庭に情緒的に不在で、子どもとの関係も遠い状況の中で、母親が子どもの成長の責任を取るという状況は続いており、仕方なく、母親と子どもとの距離は近づいてしまう。
子どもへの関わり方の伝統は、ユング心理学でも扱われているように、日本に限らず文化を通じて似ている。母親の関わり方、母性性は、子どもを守る愛。子どもは弱いもの、守らなくちゃやっていけないという脆弱性の前提のもとで、子どもに迫りうる可能性がある危険性を早く察知し、子どもを守る。そのために、常に子どもに気を配り、子どものことをちゃんとよく見ていないといけない。当然子どもとの距離は近くなる。無条件に子どもを愛し、あなたがどんな状態でも、生きているだけであなたを承認するという万能的な自己を支える。家族という安定した環境の中に子どもは留まる。
もう一方の父性性はその逆で、子どもの成長を促す。子どもは力を持っていると、子どものまだ開花せぬ可能性を信じ、あえてリスクを冒すことを促す。その前提には、子どもの可能性を信じているという楽観性が必要になる。本当に大丈夫なの?わかんないけど多分大丈夫だよ、という具合に。リスクに挑戦して傷つくかもしれない、失敗するかもしれない。でも、あえて挑戦することを求める。何も変化しなくていい、今のままで良いとは言わない。あえて、ハードルを飛べ!と促す。その結果、万能的なomnipotentな自己が傷つき、今までの自分ではいられなくなる、修正を余儀なくされる。そうやって縮んでしまった、自己を承認する。それでも飛んでも良いんだよと言ってやる。
日本の伝統的な家族関係では母親との距離が近く、母性性はたっぷり与えられ、父性性が十分に与えられない。母性・父性どっちが大切かって、両方とも大切、その両者がバランスよく与えられなければならない。元気な時はリスクに挑戦し、それが失敗してめげて傷ついたときは、家に戻り守られリスクを回避する。挑戦したり回避したり、挑戦への成功と失敗を繰り返しながら、若者は成長していく。
父性性が少なく、母性性が過剰になると、しかもそれが不安感(否定的な未来予測)に満ちていると、子どもは成長の機会を失う。あえてリスクは冒さず、やばいからうちに止まっておきなさい。傷つくよりは家にいた方が良いわよ。そういうメッセージの中で、子どもはあえて外に向かうチャンスを失い、ひきこもるようになる。
日本の夫婦の情緒的な距離は遠い。後述する遠慮コミュニケーションとも関係するし、外で過ごす時間が男性は多いので、夫婦一緒の時間が限られている。しかも、積極的な言語的コミュニケーションが活発でない。そうなると自然と関係性が希薄になっていく。以心伝心とか言って、それでもうまくやってるのが理想の夫婦なんて価値観があるわけで、うまくそうやって、限られたコミュニケーション量でもちゃんと夫婦の情緒的関係性をうまく保っている夫婦もいるんだけど、それは女性がsubmissive positionにいた時代の話で、女性だって男性だって、社会の中で多くの人と関わるような社会環境では、黙っていてもわかり合うってのは難しいでしょ。だから、黙っていても、メンテしなくてもうちの夫婦は大丈夫とか鷹をくぐって、わかり合っているつもりが、いつの間にかわかり合っていないのに、わかり合っているつもりでいる夫婦、亀裂があることを見えない、見ようとしないまま、亀裂が深まり、家族に問題がないうちはなんとかやってるけど、問題が生じてさあどうしよう、どうにかしなくちゃとお互い夫婦が向き合おうとしたってもう手遅れ。亀裂は想像以上に深く、うまく困難な状況を二人でやってられなくなってしまっている。
日本やアジア諸国の離婚率は他の地域に比べれば低い。以前に比べれば増えてきたものの、まだ低めに留まっている。別に、日本のカップルの仲が良い、うまくやっているというわけではないわけだが、離婚に対する社会的偏見は強く、離婚は結婚の失敗である、ホントはやってはいけないことをやっちゃった、ダメな人間じゃんというイメージだし、再婚率も低い。なかなか再婚できないし、再婚したってうまくいかないんじゃないか。離婚はその人の自尊心を下げ、自分にダメ出しをしてしまう。
だから、夫婦がうまくいかず、欧米ならとっくに離婚しているような状況でも、離婚には躊躇する。女性側が経済力を持たず、離婚したら生活が成り立たないというのもあるし、子どものために離婚しないってのが多い。離婚は子どもにダメージを与える、本当は別れたいけど、あなたたちが成人して結婚式をあげるまでは離婚しないわよ。つまり、本当は離婚したいんだけど、あなたのせいで離婚できないんだから。親の自由を奪ってしまうじゃんというメッセージになってしまう。
結果的に、家庭内離婚、家庭内別居状態。夫婦が一緒に生活しているけど、会話しなかったり、冷たい空気が流れていたり。そういうのは家庭の雰囲気を一番壊し、父も母も苦しい状態の中に置かれ、それは子どもに大きなダメージを与える。それくらいならいっそ思い切って離婚して、父親・母親それぞれが元気な状況であった方がよっぽど良いのだが、それができない。
その背景には、以前共同親権がなく、どちらかの親に親権が行ってしまうという現状がある。法的にもそうだし、日常生活でも、別居している親とは会わせない方が良いという考えが強い。そうなると、子どもにとってどちらかの親へのアクセスができなくなってしまう。それは子どもにとってもよくないわけで、両親が離婚した後も、父親・母親がちゃんと機能しているのが本当は一番良いのだけど、それがなかなかできないんだ。

3. 集団主義
これがどうして引きこもりに関係するかというと、日本の場合、思春期の課題は単純に自分が強くなれば良いということではなく、グループに入らなくちゃいけないから。欧米的に考えれば、自立して、assertivenessやらself-relianceやらexpressivenessを身につけるのも結構大変だとは思いますよ。西欧的には自立するってことはひとりでやっていける力を十分につけること。意思がしっかりして、他人に影響されず、自分を押し通す力。
日本的にはそれだけじゃダメなんですよ。思春期の課題は自立、自分一人の力、、ということではなく、帰属集団の一員としてのメンバーシップを得られるかということ。他者と折り合わねばならい。独りよがりで空気を読まず、KYで、自己チューだと仲間から弾き出される。欧米的にはそれで構わない。日本はhigh context cultureの極致なわけで、集団主義、他者の眼差しの中に生きている。それがcomfortableでうまくやって行けることができれば「世間」の仲間入りできるわけで、集団の中のメンバーとしてうまく機能するし、それが支えになる。そうするためには自己と他者との折り合いのバランスをうまくとる。自己チュー過ぎてはダメだし、遠慮しすぎてもダメ。自分を大切にしながら、周りを大切にする。欧米的には周りを大切にしながら、結局は自分を大切にするのが一番。”I message”みたいな言い方をするけど、「私」がしっかりしてないとダメ。日本的には「私」も大事だし「周り」も大事。この両者を大事にするって矛盾しているというか難しいでしょ。それがうまくできず、他者と折り合えないと、仲間入りできない。なんとなく仲間・世間から疎外されてひとりぼっち。自分は受け入れられているんだという自信が持てないとならない。そりゃあ難しいでしょ。それがうまくいかないと世間に出てゆけず、家の中でひきこもることになる。

4. 遠慮コミュニケーション
このように集団性を維持するための秘訣が日本的な遠慮コミュニケーション。遠慮とは日本人なら誰でも知っているが、これを日本以外の人たちに説明するのは難しい。遠慮とは文化的に好まれるコミュニケーション方法。受動的あるいは自己主張的でないコミュニケーション、あるいは相手との間の取り方。自身のニーズを後回しにして、他者のニーズを満たそうとする配慮。お互いが相手を配慮すれば両者のニーズは満たされて、両者の関係性も良好になるわけで、日本人はそのようなやり方を好む。欧米的には自分を主張すること、自分を適当にうまく主張して周りにわかってもらうことが重要で、相手の配慮なんかいちいちやってられない。自己責任。自分の主張は相手の配慮に期待しないで自分でやりなさいという考え方でしょ。日本では、自己主張する自我を持つと返って問題が起きる。自己チューと揶揄され、そんな奴はダメなんだと否定的に評価される。かと言って全部相手中心だと自分がなくなっちゃうでしょ。欧米的なしっかり自分を主張できる自我も必要で、それを踏まえた上で、相手に配慮してあげるという高等テクニックが求められる。
それがうまくいかないと、non-assertiveな関係性になってしまう。自分を主張できない。相手への配慮が頭の中をしめてしまって、何も言えなくなる。思春期の子供に何も言えない親。Frozen parenting。凍りついた親の関わり、しつけ。腫れ物に触るような関わり方。子どもが思春期前であればそんなに反抗せず親の言うことを聞いているからいいけど、思春期になると子どもが反抗してnoと言ってくる。すると、親はビビって何も言えなくなってしまう。そのような親のこれまでのコミュニケーションスタイルを見ると、夫婦間でも、遠慮し合い、傷つけることを恐れて意見の相違が予想されるような発言はしない。黙っちゃう。喧嘩したことない夫婦とか。あるいは、世代間伝達のように、その親も腫れ物対応してきて、子どもに甘いというか、ちゃんとノーというべきところでノーと言ってこなかった親。そのような親に育てられ、自分もノーというすべを知らない。そのため、万能的な自我が傷つけられず、ずっと守られた世界の中に生きてきて、傷つけ合う仲間同士の「世間」にびっくりしちゃって耐えられない。人っていうのはお互いに自己主張し、傷つけあい、妥協し、折り合って、他者との関係性を作っていくわけだが、そのような異種な人と関わることに対する不安が強くて関わることができない家族。

5. 一生続く世代間の愛着関係
欧米の親子関係と比べるとやっぱり何かが違う。どうやってそれを概念化しようかと色々考えてきましたが、どうも愛着理論を拝借してみようかなという気になりました。
愛着理論attachment theoryは心理学の基本。ワインズワース、ウィニコット、ボウルビイなど欧米アングロサクソン系の文化を背景にして生まれた理論で、乳幼児の他者(保護者、親とか)との関係性に関する理論で、人生早期の愛着(他者との関わり)の経験の良し悪しによって、他者との関係性を規定するプロトタイプが決まる。以降の人生は、その鋳型に従って人との関係性が築かれていくという理論なわけです。
愛着が取り上げられるのは乳幼児期の心の中に、いかに重要な他者がうまく関わることによって、乳幼児の中に鋳型を作っていくかという話で、その後の人生の話はあまり出てこなかった。それが応用されるようになり、大人の愛着。そこにもsecureとinsecureがあり、それによって親しい人との関係性が決まっていく。それを使って夫婦療法なんかをやるわけです。つまり、大人の愛着はあくまでパートナー同士、カップル同士の話なのであります。
しかし日本やアジアの家族関係を見ているとそれだけではうまく説明がつかない。一生続く親子間の愛着という価値を作ればうまく説明できるわけです。それは親から子どもへ愛着を与え、子供に愛着の鋳型が形成されるという一方的なものではなく、親子双方に愛着を向け合う。例えば、子どもの成功は親の自尊心の向上につながったり。子どもが親をケアすることにより、親はより安心した生活を送ることができる。親から子どもへの眼差しだけでなく、子から親へのまなざしも等しく重要なわけです。
家族ライフサイクルを見てみましょう。アメリカのMcGoldrickが体系化した家族ライフサイクルでは、まず青年期に原家族から離れる(Leaving home)するわけです。そして一人になって、結婚により新たな家族を一から作ります。そして子供を産み育て、青年期になったら、子どもを手放します。港から船を大海に追い出します。そんで、老後は二人慎ましく暮らすわけ。これみて、日本じゃあちょっと違うんじゃねえかと考えたわけです。日本なりの家族ライフサイクルが必要だね。日本では、青年期になれば進学とか就職で実家から離れます。しかし、それは物理的に離れただけであり、心情的な巣立ち(leaving home)というのはあり得ないわけです。
結婚にしたって、欧米的な愛し合う二人が新たな家族を築くってのは間違いじゃなく、二人の生活、新たなスタートってのは誰もが認めるところですが、実はそう単純なわけではない。二人の船出だけじゃなくて、結婚による双方のネットワークの中に組み込まれ、相手の家族や友達ネットワークの中にどう入り込んでいくか、うまいポジションを見つけるかという集団主義的なより複雑なネットワークに入っていくということを意味します。こりゃたまらん!すごく難しいわけですよ。そして、親は子どもを産み育て、青年期になったからって、子どもを船出させるわけじゃあない。岸壁の母じゃないけど、とりあえず船出したけど、傷ついたらいつでも母港に戻ってこれるように待機してるわけです。
この自立主義と相互扶養主義のダブルスタンダードというのは厄介というか、面倒くさい。親も子も元気でしっかり自分のことをできていれば相互扶養は必要ないんです。しかし、親子どちらかが自分一人じゃ無理という状態になった時に、相互扶養の価値がにわかにactivateされるわけです。欧米では子どもがハタチくらいになった段階で「独立」し、相互扶養ってのは基本的にないわけですが、日本では、一生を通して、どっちかがうまくいかなくなったら、相互扶養の責任をとるわけです。子どもが乳幼児期はそりゃあケアが必要だし、高齢者が弱ってきても同様です。あとは病気・障害とか、事故とかなんらかの危機状態になると、親子相互の責任です。「オレオレ詐欺」とか「振り込め詐欺」というのはこの日本の習慣を悪用した詐欺な訳で、欧米ではこんなこと有り得ません。認知が弱くなった高齢者に息子が助けてくれと言ったって、助けるわけがないのです。
残念ながら、どの社会にもうまく社会で機能できない若者たちはいるわけです。一人では生きていけない。その時、どこにいるか、誰が面倒を見るかということの違いです。欧米では若者がうまくいっていようがいまいが親は家族から追い出します。日本的には、そんなのひどいと思いますが、欧米的にはひどくもなんともない、当たり前のことなんです。そういう若者たちは社会の中で居場所を失いホームレスになるわけです。日本やアジアでは高齢者のホームレスはいても、若者のホームレスは非常に少ない(そりゃあ多少はいるけど、欧米の比ではありません)。親が責任をもって家に居させて面倒を見るわけです。それが良いとか悪いとかではない。当たり前のことなんです。だからそういう若者の居場所が違うだけ:欧米では街のホームレス、日本やアジアでは家の中で引きこもりになるわけです。どっちだって良くはないけど、家族が若者の面倒を見ることによって、社会の治安が保たれているという見方もできなくはないわけです。
親孝行(filial piety)は、国内では時代遅れの考え方、ほぼ死語になっているけど、アジアの親子関係を説明するときのキーワードなんです。我々の中にもその意識はないし、儒教的な時代遅れの、、、と思うけど、実は我々の心情の中に生きているように思います。一方で、自分自身でありたい、周りから影響を受けず、自分の自由にしたいと願い、その一方で、家族に問題があれば、どうにかしなくちゃと考えます。私も、老親の終末期にそれを強く感じました。

ひきこもりの支援
以上が、なぜ日本にひきこもりが多いかという社会文化的な仮説です。アジア諸国でも多いというのは、割と以上の部分が重なっていたりするんですよね、特に中国文化圏、儒教文化圏の東アジアでは。
では、これを踏まえて、ひきこもり支援に何かを言えるか、と考えると、、、
集団主義の中、ひきこもる若者ひとりを切り出してきて支援しようとしてもうまくいかないわけです。その若者個人が含まれている文脈(システム)全体を視野に入れて、システム自体を支援しないといけない。それがシステム的な視点につながるわけです。
システムは安心システム(secure system)と非安心システム(insecure system)の二つに分かれます。ひきこもりを含む家族や学校のシステムには不安が満ちていることが多いです。家族や学校の不安が、本人に投影されてしまい、本人が問題を呈するわけですが、実はシステム全体の不安をどうにかしなければならない。ひきこもり問題は、そのシステムの不安を表現しているだけにすぎません。
具体的には、家族の不安を下げるために、家族同士のコミュニケーションをうまい具合に促す。お互いに傷つけること傷つくことを恐れて、腫れ物コミュニケーションになっていることが結構あります。そこにセラピストという媒介者が入ることによって、少しでも交流がスムーズになるように支援します。
本人・家族・学校・地域などを含めた心理教育も必要でしょう。ひきこもりに対する理解を深めます。偏見とか病理に満ちた眼差しを持っている人たちも多いので、システムの中で、ひきこもりについて気楽に率直に話し合える、話題に出せるような支援です。
家族のジェンダーから見れば、典型的に見られる母子密着・父親不在家族では、母親を密着した関係性から救い出し、離し、父親を家族サポートシステムに呼び込みます。外野席から内野席に呼び込み、中心になって関与してもらいましょう。夫婦関係の支援も必要です。一見まともに見える夫婦でも、実はそうでもなく、闇の部分を隠していたりします。プラスもマイナスも恐れずに表現できるような関係性に持っていきます。
学校との関わりも大切でしょう。ひきこもりというストレスのために、家族・学校が対立構造になっている場合も少なくありません(夫婦間も同様ですが)。家族や学校が「問題」のなすりつけをするのではなく、両者を問題解決の「資源」として使います。学校での担任、学年、主任、管理職、養護、カウンセラーと多くの人たちがいるわけで、彼らをうまく組み合わせれば大きな力になるし、彼らが相殺したら大きなマイナスになります。本人・家族・学校が支援関係にあるように持っていきます。
社会の支援システムもたくさんあるけど、医療、教育、心理、福祉など、これらはそれぞれの考え方と方針を持って支援しようとするわけですが、その考え方の違いによってうまく利用できなかったり、組み合わせられなかったりするケースも結構あります。それをどううまい具合に持っていくか。それが腕の見せどころです。
ということをやるためのセラピストの立ち位置は?ひきこもりシステムの触媒として、本人にとっての、家族にとっての、学校にとっての一時的な安心・信頼できる他者になります。システム全体が安心(secure)できるような支援が望ましいのですが、それをするためには重要なことは、セラピスト自身の安心感(security)なんですね。具体的なテクニックとか介入方法とかではなく、その背後にあるセラピスト自身の安心感。これは理屈ではなく感性のレベルの話だから、なかなか理屈では説明できません。セラピスト自身が他者との関係性に、そして自分自身との関係性にどれほど信頼・安心できているか。そんなことなかなかわからないわけで、最近私は、クライエントに対するセラピーと並行して、次の世代の支援者を育成する活動にも力を入れています。Person of the Therapist Training (POTT)というのがそれに当たります。スーパーヴィジョンや「合宿」をとおして、個人やシステムを本当の意味で支援する人たちを支援しています。

というようなことを1時間かけてお話ししました。

0 件のコメント:

コメントを投稿