児童・思春期精神科医、家族療法 Child and Adolescent Psychiatrist, Family Therapist 精神科コンサルテーション(不登校・ひきこもり、家族ミーティング、男性外来、夫婦関係) 専門家支援(スーパービジョン、講演・研修、精神科医・臨床心理・教育関係者、子ども家庭福祉) International Psychotherapy; Adolescent, Marriage and Family Therapy.
2012年11月8日木曜日
安心して傷つける
相談では、とても良くご自身と向き合われていたと思います。
日常生活ではなかなかそこまではいかず、つい避けてしまうものだと思います。特に悲しみ、不安、恐れなどの辛い体験があると、無意識のうちに心の「感情装置」をまるごと冷凍庫に入れて凍らせてしまいます。そうすればマイナスの感情を感じなくて済みますが、副作用として元気や自信などプラスの感情も感じなくなってしまいます。
親の元気や自信などの感情が復活すれば、子どもに必要なことをしっかり伝えることができるようになります。
叱り飛ばせば子どもは傷つきます。「あなたはダメよ!」と伝えるわけですから。
でも、あえて親が子どもを叱り飛ばすということは、「これだけ叱ってもあなたは大丈夫、傷つきに耐えられると思っているのよ」というメッセージも子どもに伝えることができます。
この子は親が叱り飛ばしても大丈夫なはずという親の安心感を子どもに伝えることが「安心して傷つけてあげる」という意味です。そうすれば親の安心感が子どもに伝わり、安心して今までできなかったことに挑戦する勇気を得ることができます。
モンブランの万年筆
診療で使っているモンブランのボトルインクが空になりました。
今まで、仕事はボールペンがほとんどだったのですが、最近万年筆を愛用しています。
ラミーのサファリは書きやすく、しかも安価なので、細字・中字など太さの違う万年筆に各種の色のカートリッジを入れてTPOに応じて使い分けています。マジメな書類には細字の黒、パソコンで打ち出した原稿のチェックや追加には細字の赤、旅先で沸いてきたアイデアをノートに書きだすときは中字のパステル色という具合に。
大切な手紙やカルテに記入するときはモンブランの極太マイスターシュテックを使います。相談中はクライエントの話に集中しているので、大切なキーワードだけをカルテに走り書きします。後から読み返しても判別できないことがあるので、できるだけ大きな字で書きます。ボールペンのように力は入れず、滑らかに優しく書けるのが万年筆の良いところ。
カートリッジのインクはけっこうすぐになくなり取り替えますが、50mlのボトルインクを使い切るってかなり大変。この万年筆は37年前、高校留学のお祝いに頂いたものです。アメリカ滞在中の日記はこれで書いていましたが、ボトルを使い切ることはありませんでした。帰国後使わなくなり、30年以上机の奥に眠っていましたが、開業を機にオーバーホールし蘇らせました。
開業して1年4か月ほど。多くのクライエントの方々をこの万年筆がお迎えしました。
この万年筆には私の歴史が刻まれています。

すでに次のボトルをアマゾンから購入し、使い始めています。新しいボトルが空になるのはいつ頃になるかな。楽しみです。
追伸)これと同じような記事をFacebookにアップしたのですが、すぐに「いいね!」の反応が返ってきます。こちらのブログではそういうことはありません。どう使い分けようか思案中。
ラミーのサファリは書きやすく、しかも安価なので、細字・中字など太さの違う万年筆に各種の色のカートリッジを入れてTPOに応じて使い分けています。マジメな書類には細字の黒、パソコンで打ち出した原稿のチェックや追加には細字の赤、旅先で沸いてきたアイデアをノートに書きだすときは中字のパステル色という具合に。
大切な手紙やカルテに記入するときはモンブランの極太マイスターシュテックを使います。相談中はクライエントの話に集中しているので、大切なキーワードだけをカルテに走り書きします。後から読み返しても判別できないことがあるので、できるだけ大きな字で書きます。ボールペンのように力は入れず、滑らかに優しく書けるのが万年筆の良いところ。
カートリッジのインクはけっこうすぐになくなり取り替えますが、50mlのボトルインクを使い切るってかなり大変。この万年筆は37年前、高校留学のお祝いに頂いたものです。アメリカ滞在中の日記はこれで書いていましたが、ボトルを使い切ることはありませんでした。帰国後使わなくなり、30年以上机の奥に眠っていましたが、開業を機にオーバーホールし蘇らせました。
開業して1年4か月ほど。多くのクライエントの方々をこの万年筆がお迎えしました。
この万年筆には私の歴史が刻まれています。
すでに次のボトルをアマゾンから購入し、使い始めています。新しいボトルが空になるのはいつ頃になるかな。楽しみです。
追伸)これと同じような記事をFacebookにアップしたのですが、すぐに「いいね!」の反応が返ってきます。こちらのブログではそういうことはありません。どう使い分けようか思案中。
2012年11月7日水曜日
若者の「もやもや」
インタビュアー:「若ナビ」では、18歳以上の若者を対象として、人間関係の悩みや漠然とした不安などのもやもやした気持ちを抱える方々からの相談をお受けしていますが、若者の「もやもや」した気持ちっていったいどんなものでしょうか。
田村:若者の「もやもや」には2種類あります。ひとつは、『よくわからない状態』で、何に困っているのか自分でもわからない。さらに言えば、自分がわからない、生きる意味がわからない。自分の存在が不確定で自信を持てず、これでよいのだろうかと戸惑い不安を抱くという状態です。もうひとつは、『表現できない状態』で、つらさや弱みを出したいけど、どう出したらよいかがわからない。誰かに話したいけど、話せる人やわかってくれる人がいない。恥ずかしくて話したくない、でも話さずにはいられない。どう話していいかわからない。話すべきではないと思う。自分のプライドにかかわる。いったん話すと自分が壊れてしまいそうで怖い。そういった状態です。
なるほど、若者のもやもやには『よくわからない状態』と『表現できない状態』の2種類があるんですね。その背景にはどのようなことがあるのでしょうか。
『よくわからない状態』の背景のひとつには、「肯定的に自己を評価できない」ことがあります。生活していく中で次から次へ遭遇する大小様々な困難に立ち向かうためには、自分はそれを乗り越えるだけの力を持っているはずだという肯定的な見通しが必要です。それが不十分で自分をうまく肯定できないと、「何をやってもダメ」「何に対しても自信が持てない」という思いが強くなり、毎日の生活のすべてのことに対して前に進めなくなってしまうのです。
また、『表現できない状態』の背景のひとつには、若者のコミュニケーション能力があります。他者と折り合うためには相手にメッセージを届ける能力と相手のメッセージを受け取る能力が必要ですが、そのコミュニケーションにも自信がもてないのですね。自分を主張したら、相手が自分のことを否定的に捉えるのではないかと心配し、自分の気持ちを伝えることをあきらめてしまう。そして、相手に合わせようとするが、まわりが自分を裏切るのではないか、見捨てられるのではないかと心配します。その結果、自分と相手のメッセージの折り合いがつかず、自分が受け入れられないと感じてしまいます。
2012年11月6日火曜日
ひきこもり青年と家族
私が青少年と関わる現場
私は思春期とその家族を専門とした精神科医である。受ける相談の多くが「ひきこもり」と言われる青年たちだ。投薬治療には重きを置かずカウンセリング、とりわけ家族療法という手法を取り入れている。これは一言でいえば心の問題を抱えた個人ばかりでなく、家族などのまわりの人たちにも焦点を当て問題を解決する手法である。
また、私は東京都のふたつの事業にも開設当初より関わってきた。ひきこもりサポートネットはひきこもり問題に悩む本人とその家族へ、若者総合相談(・э・)/若ナビは相談先が狭まる18歳以上の青年の悩みをインターネットや電話というメディアを通して支援している。
まず、「若ナビ」に訴えてくる内容を紹介しよう。多いのは仕事に関する相談である。たとえば就職がうまくいかない、自分に合った仕事が見つからない、どうやって自分に合った仕事を見つけたら良いのかわからない、どうやって就職活動をしたらよいのかわからないといった内容である。あるいは仕事が合わない、いろいろ仕事を試してもうまくいかない、何度転職しても気に入った仕事が見つからない、上司や仲間とうまくいかない、職場の同僚に恵まれない、上司が些細なことで怒ってくる、仲間のグチばかり聞かされて嫌だ、休み時間にどう同僚と接したらよいかわからない、自分だけ仲間はずれにされている気がするなどである。これらの悩みの背後には、人との関係をうまく折り合えない、職場を安心できる居場所として感じることができないという共通点がある。自分がこうあってほしい居場所と、実際に与えられている居場所がズレているために、自分と社会との間に違和感を抱く。
そのような体験が繰り返されるなかで、だんだんと人と関わる自信を失っていく。人とどう接したら良いのかわからなくなり、まわりの人々の眼差しを気にするあまり、自分がまわりからどう見られているか気にする。自分の存在がまわりの人たちに迷惑をかけているのではないか、自分はこの場にそぐわないのでは、自分だけ劣っているのではなどと感じる。それがさらに高じてくると、自分がいるために周りの人を不快な気持ちにさせているのではないか、悪口やうわさ話をしているのではないか、自分が周りの人を不快にさせるようなイヤな臭いを発しているのではないだろうかというような妄想(自己臭妄想)を抱くこともある。このように思い始めると落ち着かず、人の中にいるだけで緊張しストレスが高まり、その場から撤退する。一旦撤退してしまうと、なかなか社会に戻れなくなる。
もう一方の「ひきこもりサポートネット」に届く声は深刻である。生産的なことをやる気力がなくなり何もできなくなる。生活リズムが乱れ、朝起きなくなり、夜更かしして昼間に寝る昼夜逆転の生活になる。パソコンのゲームやインターネットを一日中している。一見、熱心に楽しんでいるかのように見えるがそうではない。確かにネットは時間を忘れ夢中にさせる効果がある。しかし、ネットがあるからひきこもるわけではなく、ひきこもりから抜け出せないために時間をつぶすためにしかたなくネットをやっているというのが現状だ。
このような不本意の状態になった原因を親などまわりの人に転嫁するのも特徴的である。親の対応の不適切さを責め、自分でうまくいかない責任をとらなければならないという考えは薄い。
万能的自我から社会的自我へ
なぜ社会の人々とうまく折り合えないのか、多くの青年たちとその家族と接する中でいろいろ考えてきた。その根底には子どもから大人へ心が成長する中で社会性を十分に獲得できなかった状態と私は捉えている。
子どもと大人の心のあり方は大きく異なる。子どもの心は万能的、つまり100%の自分でいることができる。乳幼児期から思春期にさしかかる10歳前後までの子どもは無力で、まわりから自分を守る術は持たない。親や先生などの保護してくれる人に守られ、無条件に愛されているという絶対的な安心感の中にいる。問題や困難があったら自分の力で解決できず、まわりの人が解決してくれる。この時期の子どもの自己万能感は保護者によって保障されたものである。
思春期にさしかかると自立心が少しずつ芽生えてくる。保護者によって支えられた万能感をてこにして、守られたウチの世界を抜け出しソト世界を試す。そこで生きていくためには自分の責任で他者と交流し、自分自身を守る社会的自我が必要だ。ウチの世界は安全性が担保されていたが、ソトの世界は危険に満ちている。攻撃をかわし、異質な人たちと折り合わねばならない。自分の枠組みをずらして相手に合わせたり、自己を主張して相手を近づけたり遠ざけたりする。相手は自分の期待どおりには動かず、自分のことを無条件に受け入れてもくれない。子どもの世界では当然保証されていた安心感を得ることができないので、多かれ少なかれ必ず傷つく。その経験を何度か繰り返す中で、今までの自己万能的自我ではもはややっていけないことに気づく。自分の思い通りになる100%の世界をあきらめ、他者と折り合うために自分の思いを削り70%に縮小される。完全な100%でもなく、全く捨てた0%でもない、その中間の妥協点という意味であり、70%でも60%でも50%でも構わないが、ここではかろうじて合格点の70%ということにしておこう。縮小された自分を良しと捉え、自分自身で受け入れることができたら、社会的自我の原型が芽生える。このようにして異質な他者と折り合う世界に居場所を確保できるようになる。
しかしそれだけでは十分でない。万能的自我を捨て、社会的自我が確立するためには傷ついて70%に縮小してしまった自分を肯定してくれる他者の存在が必要である。それは条件付きの肯定である。子ども時代の万能的自我を支えた無条件の母性愛に対比すると、社会的自我を支えるのは、傷つき、否定された自我を肯定する条件付きの父性愛である。父性愛を担うのは子どもの心を安全に傷つけ、受け入れるのは至近距離でもなく、遠くもない斜めの位置から関わる大人である。学校の先生、部活の顧問や先輩、地域のスポーツクラブの監督などである。しかし最も大切なのは至近距離から母性的に愛する親ではなく、少し離れた距離から父性的に関わることができる親である。
子ども時代は親の母性機能が重要であり、父性機能は十分でなくても子どもはウチの世界の中で問題なく成長する。しかし、思春期以降にソトの世界に出て社会的自我を確立するためには父性的な機能が重要になる。旧来の権威的な父性ではなく、成長を促すために現状の一部分を否定し、傷ついた自我を支え、さらにそれを肯定する健全な父性である。ひきこもりの家族にはこの父性機能が不足している場合が多い。そのため父性・母性のバランスが崩れ、過剰な母性が子どもの自立プロセスを遅らせている。
父性と父親は異なる概念である。父性機能が不足していることと、父親が家庭に不在であることとは一致しない。父親がいなくても父性機能を与えることができるし、父親が家族と多く関わっていても父性機能を与えられない場合もある。伝統的な家族では父親が父性を、そして母親が母性を担っていたが、現代の家庭はかなり様相が異なる。
父性機能が得られない状況は、いくつかのパターンがある。代表的な例を4つほど紹介する。第一に、父性を担うはずの父親が不在の場合である。父親が仕事に忙しいというのは表向きの理由で、その背後には父親自身が子ども時代に自分の父親と関わった経験が希薄だったり、自分の父親に傷つき否定的な父親イメージしか持てず、自分がどう父親の役割を果したらよいのか見当がつかないこともある。関わろうとしないというよりは、どうやって関わったらよいのかわからないというのが本音だ。
第二に、両親の夫婦関係に顕在的あるいは潜在的な葛藤があり、両者が協力して子育てに関われない場合である。厳しく叱りつつ温かく受け入れるというように父性と母性はある意味反対のメッセージを同時に伝えるために両者の相互理解と協力が必要になる。このふたつを担当する夫婦間に葛藤があり十分なコミュニケーションがとれていないと、父性・母性という矛盾した両者を同時に与えることが出来ず、どちらかが撤退を余儀なくされる。母性の勢力の方が強いと父性が撤退し、家庭が母性一色になってしまう。
第三に、父性の表現方法が不適切な場合である。父親は子どものことを心配し、どうにかうまく成長して欲しいと願っている。心配・不安が高じて怒り・攻撃性に転じ、暴力的な父性となることがある。その背景には親自身が自分の親から暴力的に扱われてきたという否定的な記憶を持っていたりする。そのような扱いは絶対繰り返すまいと思っても、親となりいざ子どもに向き合うと自分が受けてきた親からの関わり方の記憶が無意識のうちに再現さてしまう。
第四に、両親とも母性的に関わっている場合である。子どもに明確な限界を設定して「ノー」と言えない。成長できず立ち止まっている子どもを全面的に受け入れるだけで、社会的自我を育成するために傷つけることが怖くてできない。
青年と家族への支援
子ども時代の万能的自我から社会的自我に移行する課題は誰にとっても困難であり、何年もかけて徐々に達成していく。最近は高学歴化・青年のモラトリアム化が進み、大人の年齢に達しているのに、心理的には万能的自我を捨てきれずうまく社会に適応できない青年たちが多くいる。
だれでも本来は成長する力を持っている。青年たちは家族や社会の人々と関わり多くの経験を積む中で成功体験と失敗体験を得ながら自分自身の力で成長してゆく。しかし失敗体験が一定の限界を超えてしまうと自分の力ではどうしようもできず立ち止まってしまう。そうなると家族だけに任せていてもうまくいかない。社会がこのような青年と本人に手を差し伸べ支援していく必要がある。このような青年たちに社会はどう関わり、何が出来るのだろうか。
一言でいえば、社会の中に健全な父性を作っていくことだ。旧来の家制度にあったような専制君主的で暴力的な父性ではない。相手を尊重しつつも健全な権威性を保ち行方を見失った子どもを非暴力的だが確実にしっかりと導き、傷ついた子どもを承認するような父性が現代社会には求められている。それを達成するにはつぎの二つが重要だ。
第一に、本人をとりまくコミュニティーの中に父性を発揮できる斜めの関係をつくる。友人、先輩、学校などの教師、指導者、親戚などとの絆を大切にしたい。第三者がカウンセラー的に関わってもよい。「ひきこもりサポートネット」や「若ナビ」では、傷ついた青年たちの声をしっかりと聴いている。
第二に、社会が家族を支援するという考え方もある。困難さが家族の解決能力を越えてしまっている場合には、社会が家族とつながり家族自体が成長できずもがいている青年をうまく支援できるように、家族に対して外側から社会が支援する。私は家族療法というカウンセリングを通してそのお手伝いをしている。子育てが失敗したと思い込んで自信を失っている家族とよく話し合い、家族に信頼と自信を回復してもらう。そうすれば潜在的に持っていた「家族の力」がよみがえり、家族が躊躇せずしっかり子どもと向き合えるようになる。
(ある雑誌に投稿した原稿です)
2012年11月2日金曜日
仕事にケチがついた話の続編
私が弱気になった記事を読んで、
http://tamuratakeshi.blogspot.tw/2012/10/blog-post_26.html
教え子やサポーターが応援してくれる。
先生でもケチを付けられることがあるんですね。
そしてそれが気になることもあるんですね。
どうもありがとう!
みんな応援してくれるんですね。そのことが支えになります。
でも、大丈夫ですよ。
みんな弱くて良いんですよ。弱さをカラダの中に埋め込ませ隠しているんじゃなくて、取り出して眺めるんです。それはひとりの孤独な作業。他の人は何も出来ない。自分でどうにかするしかないんです。でも、そういう私を、「センセイ大丈夫?」と見ていてくれる人かいるだけでかなりがんばれるんですよね。
ということの大切さを身を以て示したくてブログに書いたんですよ。
誰だってブルーになるし。
ブルーになって構わないんです。
でも先生が弱気になっちゃったら困る。。。??
先生が不安になったら、自分も不安になっちゃう?
そうですよね。私も昔は自分の先生や親にそういうのを期待していたかもしれない。
自分が不安の時、自分が頼りにする人は、大樹のようにしっかり根付いてブレないことを求めていた。絶対的な存在。自分がブレたとき、ブレない絶対的な存在に依拠したかった。
でも、そんなのありえないですよね。自分が親とかセンセイの立場になってよくわかる。ホントは大樹であること(世の中にはそれを生き甲斐にしている人々もけっこういるけど)をやめたいのだけど、依拠する対象であることから逃げるわけにはいかないんでしょうね。
では、こうしましょう。建築学のことは何も知らないのだけど、ビルの耐震構造が二種類あるとしましょう。
- ガッチリ構造:岩のように強く地震が来てもびくともせず、揺れのエネルギーを跳ね返す。
- しなやか構造:地震の揺れに合わせて自分もうまく揺れて、揺れのエネルギーを吸収してダメージをうまく逃す。
地震(大地の揺れ)に限らず、心の揺れの場合も、ふつう前者を期待しますよね。
でも、ホントは後者の方がうまくいくと思いますよ。
揺れが襲ってもビクともせず跳ね返して揺れないのではなく、揺れを感知してそれを周りに伝え、共に揺れ合うこと(共振)で揺れのエネルギーを分散させるわけ。
ということを伝えたかったのだけど、みなさんを心配させてしまったようで済みません。
でも、ホントは言わなくたってわかってるし、そんなこと心配してないよね!?
2012年11月1日木曜日
弱腰サービスとクレーマー
飛行機の機材変更とかで出発が1時間遅れた。
まあ良くあることだししかたないなと思いつつ出発ロビーで待っていたら遅延のお詫びに千円の飲食券をくれた。ラッキー!
どこで使えるんですか?
あちらとこちらのショップでお使いになれます。
あっちに行ってみると、お店の人は「使えません!」
航空会社のカウンターに戻って「使えないってよ!」
済みません。今、確認します!
あちこち電話して、お店にも掛け合っている。
誠に申し訳ございません。あちらはダメのようです。こちらのお店にご一緒に行って、今確認して参ります。
と若いANAの兄ちゃんが走って行った。
別のオッサン客は「今頃こんなものもらっても仕方がないんだよ〜。くれるならゲートに入る前にもっと早く渡してくれなきゃダメだよ!
はい、どうも申し訳ございません。
よっぽどオッサンに何か言いたくなったけど、そこは抑えた。
おかげでミックスナッツのおつまみを千円分買えたのは良かったのだけど、内心そこまでしなくても良いのになあ。まあライバル会社とのサービス競争もあるんでしょうけど。
アメリカの国内線では突然飛行機がキャンセルになり、半日空港で待たされても何もくれなかったよ!!
---
半年ほど前の講演会。
事前に担当者から、「打ち合わせをするから1時間前に来てくれ」と言われた。レジメも既に送ってあるし、打ち合わせは15分もあれば足りると思うんだけど、、、と思いつつ1時間前に行くと、やはり打ち合わせは10分で終わってしまう。
これでもう結構です。まだ時間までありますから一旦解散して、10分前になったらまたお戻りください。
と言うヘラヘラ担当者の気弱な眼差しがどうしても見えてしまう。すると、思わずムカつきを表現してしまった。
あなたね〜〜。。。
一時間も前に来させておいて、一旦解散って、それは大変失礼なことわかってる!!
担当者はわかったのだかわかってないのか、へらへらのまま一礼して向こうへ行ってしまった。
となりの講師は何も言わない。私も何も言わなかった。
何かなあ、こんな風に言わなくても良かったのだけど、、、
言ってから、何となく後味の悪い自己嫌悪モード。
そういえば、だいぶ前にも同じように1時間も早く集合させられて、同じようにヒマだったけど、そのときは強面のしっかり担当者だったので、ムカつきも表さず、というか自分自身の中でムカつく気持ちも隠蔽されて、何も感じずポケッと待っていたこともあった。
優しく、丁寧に、下から目線で謙譲サービスしてくれるのは尊重してくれる心地よさを抱く反面、過剰な弱腰サービスはお客さんをおだて上げ、高慢ちきな心情を増長させる。お客のクレームが始まってしまうと、途中から姿勢の高さをレベルアップする訳にもいかず、悪循環のスパイラルに嵌ってしまう。
同じような現象が、思春期臨床でもよく見られる。
子どもを愛する親が過剰にサービスすると、子どもは満足するものの、万能的自我(わがまま)が炸裂して自分の思いどおりに振る舞うことを周りの人に求める。うまくいかなかった原因を周りの責任に押し付け、自分で責任をとろうとしない。つまりホントは十分満足しているのに、あえて満足していないことをまわりにアピールする。すると親はサービスがまだ足りないから満足していないものと思い込み、さらにサービスを加える。こうやって悪循環が回り出しサービスがどんどん過剰になり、子どもは満足していないことをさらにアピールするはめになり、退行が進み、今まで出来ていたことも出来なくなってしまう。
こういう場合、どうしたらよいのだろうか?
弱腰な過剰サービスが発端の場合、それを適切なしっかりサービスに変えれば良い。飛行機が遅れてもサービス券など配らなくても良い。様々な事情で遅れるのは仕方がないのは十分に理解できる。そのあたりの事情をしっかり理解できるように説明してもらえれば良い。
講演の1時間前に呼ぶのも、◯◯のアクシデントに備えて早く来てもらっている。支障がなければ早く済むが、過去に◯◯の問題が起きたので、念のためこのようにお願いしている、、、という具合に明確に説明してくれれば良い。
それでもダメで納得しない場合、「責任者を呼べ!!」となる。
しっかり責任を取れる人に対応者が代わると、一旦クレームもリセットできる。責任をとるとは、お客に譲歩して際限なくサービス券を上乗せすることではない。あなたのことを理解しましたという意味である程度の譲歩も必要だろうが、どこかで限界を設定しなければならない。NOを言い渡すときは譲歩しない会社の決まりだから、我が家の方針だから、、、理由は何でも良いからきっぱりNOと言い渡す。
その前に、最も大切なことは自分が過剰サービスをしていることに気づかないといけない。いくら人から「あなたのサービスは過剰よ」と言われても、「いや、適切だ」と言い張る。その逆に、うまくいかないのはサービス不足と勘違いしてさらにサービスを追加してしまう。客観的にみれば逆の方向なのだけど、本人は一生懸命だから気づかない。
というか、内心は気づいている。サービス券を追加するのではなくしっかり「もうダメよ」と言うべきということはわかっているのだけど、「でも私、言えないのです。」
はい、そのお気持ちよくわかります。
しかし、そこが大切なんです。ご自身で「私は言えない」と決め込んでしまっている人が言える元気を獲得できるようにするのがセラピストの役目です。
でも、無理に言わせようとしても無理です。出来ないことを無理にやらせるのは拷問みたいなもの。無理難題をふっかけられるいじめみたいなものだから、そんなところにはもう二度と行きたくありません。
「私は言えない」背後には、それなりの深い理由があります。それを解き明かし、整理すれば、「言えない人」から「言える人」にグレードアップできます。
いろいろな理由が考えられます。
過去にひどい客がいて、しっかり言ったことが裏目に出てひどい目にあった経験を持つ場合です。
ひどい客って誰でしょう?
たとえば、子どもにしっかり向き合おうとすると、親自身の子ども時代に父親が母親にひどいことを言ったり暴力を振るった思い出がよみがえりフリーズしてしまう場合。
あるいは、自分のきょうだいと親がひどいバトルを繰り返し、ひどいことになっちゃった場合。
あるいは、夫がひどいことを言ったりやったりしていて、立ち直れないくらい傷ついている場合など。
そういう過去の体験があると、また同じことが起きるのではと自動思考してしまい、自分の子どもにもっとしっかり伝えようとしても自動ブレーキがかかり言えなくなってしまいます。
そういう場合、どうしたらよいのでしょう?
安全感・安心感を回復することです。
世の中、そんなひどい人ばかりではないという安心感です。しかし、自分でもトラウマと意識していない隠れたトラウマはかなり根深いものです。一見ふつうの人でも、ちょっと突っ込んで刺激したらとんでもないことが起きてしまう不安がどうしても残ります。
その場合、当該のひどい人の記憶と、他の一般の人々との連結を外します。連結されたままだと、あの人がそうだったから、この人もそうなるかもしれないと予期不安が連結してしまいます。そうではないことを自分自身の思考の中で実証しなければなりません。あの人は、ふつうの人とは違う特殊な事情があったからひどかったんだ、普通の人とは連結されていないのだということを改めて理解します。
しかしその作業はかなり困難です。理屈で説明するのは簡単ですが、だいたいその人や出来事を思い出すこと自体がトラウマの再現で、もっとも遠ざけておきたい事象です。ひとりでは無理で、セラピストなど、安全に手伝ってくれる人が必要です。なぜあの人はそんなにひどかったのだろう?よくよく考えると、その人の個別の事情が見えてきます。あの人には、「自分が不幸だ」と思い込ませるに十分な事情があったのかもしれません。
でも、こんな作業は大変だし、やっても意味がないのではと思いますよね。過去を取り返すことなんてできるはずないし、第一、あの人はもうこの世にいません、、、。
いえ、それで良いんです。過去は過去で構わない。それを現在によみがえらせるわけではありません。その逆で、過去は過去だったんだ、現在とは違うのだと、はっきり境界線を引き、忘れられない過去を丁寧に葬ってあげることです。
こんな風にイヤな過去をほじくり出すことは、とても不快です。だからこそ、誰にも言わず、自分自身も心の片隅に隠して封印しています。
しかし、それでは解決しません。自分自身に隠さなくてはいけないということは、どこかで現在と繋がっているからなんです。もしその過去が現在と切り離されているとしたら、隠す必要がなくなりますから。
そのようなネガティヴな過去の体験が、今を強く生きる自信を、必要なときに必要なことをはっきり「言える」力を鈍らせています。ホントは強く生きて良い人なのに。
「言えない人」のもうひとつの理由は、単純に、そういう経験をしてこなかったから。
子ども時代からずっとサービス券をたくさん与えられ、過剰サービスが当たり前の世界で育ってきた場合です。自分がそうやって育ってきたのだから、そのことを問題視する発想は持ち合わせません。
そう、つまづかなければ過剰サービスはぜんぜん問題ありません。つまりずっと一軍でプレイすることができれば。しかし、過剰サービスの問題点はケガをして戦力外通告を言い渡されて一時的にせよ二軍に落ちたときです。二軍落ちの経験のない親は、二軍に落ちた子どもをどう支えたら良いのか見当がつきません。
「しっかり言う」ことが、今までやったことのない、新しい体験となります。そういう場合はしっかり練習することで、新しいやり方を会得できます。それまでの旧式のやり方にこだわらず、新しいやり方に慣れることが出来れば目から鱗が落ちます。
そして家族の問題も解決します。
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以上、空港のちょっとした出来事からイマジネーションが飛行機とともに飛び立ち、機内でメモしたことです。まだまとまっていないけど、公開してしまいます。後悔したりして(失礼)。
まあ良くあることだししかたないなと思いつつ出発ロビーで待っていたら遅延のお詫びに千円の飲食券をくれた。ラッキー!
どこで使えるんですか?
あちらとこちらのショップでお使いになれます。
あっちに行ってみると、お店の人は「使えません!」
航空会社のカウンターに戻って「使えないってよ!」
済みません。今、確認します!
あちこち電話して、お店にも掛け合っている。
誠に申し訳ございません。あちらはダメのようです。こちらのお店にご一緒に行って、今確認して参ります。
と若いANAの兄ちゃんが走って行った。
別のオッサン客は「今頃こんなものもらっても仕方がないんだよ〜。くれるならゲートに入る前にもっと早く渡してくれなきゃダメだよ!
はい、どうも申し訳ございません。
よっぽどオッサンに何か言いたくなったけど、そこは抑えた。
おかげでミックスナッツのおつまみを千円分買えたのは良かったのだけど、内心そこまでしなくても良いのになあ。まあライバル会社とのサービス競争もあるんでしょうけど。
アメリカの国内線では突然飛行機がキャンセルになり、半日空港で待たされても何もくれなかったよ!!
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半年ほど前の講演会。
事前に担当者から、「打ち合わせをするから1時間前に来てくれ」と言われた。レジメも既に送ってあるし、打ち合わせは15分もあれば足りると思うんだけど、、、と思いつつ1時間前に行くと、やはり打ち合わせは10分で終わってしまう。
これでもう結構です。まだ時間までありますから一旦解散して、10分前になったらまたお戻りください。
と言うヘラヘラ担当者の気弱な眼差しがどうしても見えてしまう。すると、思わずムカつきを表現してしまった。
あなたね〜〜。。。
一時間も前に来させておいて、一旦解散って、それは大変失礼なことわかってる!!
担当者はわかったのだかわかってないのか、へらへらのまま一礼して向こうへ行ってしまった。
となりの講師は何も言わない。私も何も言わなかった。
何かなあ、こんな風に言わなくても良かったのだけど、、、
言ってから、何となく後味の悪い自己嫌悪モード。
そういえば、だいぶ前にも同じように1時間も早く集合させられて、同じようにヒマだったけど、そのときは強面のしっかり担当者だったので、ムカつきも表さず、というか自分自身の中でムカつく気持ちも隠蔽されて、何も感じずポケッと待っていたこともあった。
優しく、丁寧に、下から目線で謙譲サービスしてくれるのは尊重してくれる心地よさを抱く反面、過剰な弱腰サービスはお客さんをおだて上げ、高慢ちきな心情を増長させる。お客のクレームが始まってしまうと、途中から姿勢の高さをレベルアップする訳にもいかず、悪循環のスパイラルに嵌ってしまう。
同じような現象が、思春期臨床でもよく見られる。
子どもを愛する親が過剰にサービスすると、子どもは満足するものの、万能的自我(わがまま)が炸裂して自分の思いどおりに振る舞うことを周りの人に求める。うまくいかなかった原因を周りの責任に押し付け、自分で責任をとろうとしない。つまりホントは十分満足しているのに、あえて満足していないことをまわりにアピールする。すると親はサービスがまだ足りないから満足していないものと思い込み、さらにサービスを加える。こうやって悪循環が回り出しサービスがどんどん過剰になり、子どもは満足していないことをさらにアピールするはめになり、退行が進み、今まで出来ていたことも出来なくなってしまう。
こういう場合、どうしたらよいのだろうか?
弱腰な過剰サービスが発端の場合、それを適切なしっかりサービスに変えれば良い。飛行機が遅れてもサービス券など配らなくても良い。様々な事情で遅れるのは仕方がないのは十分に理解できる。そのあたりの事情をしっかり理解できるように説明してもらえれば良い。
講演の1時間前に呼ぶのも、◯◯のアクシデントに備えて早く来てもらっている。支障がなければ早く済むが、過去に◯◯の問題が起きたので、念のためこのようにお願いしている、、、という具合に明確に説明してくれれば良い。
それでもダメで納得しない場合、「責任者を呼べ!!」となる。
しっかり責任を取れる人に対応者が代わると、一旦クレームもリセットできる。責任をとるとは、お客に譲歩して際限なくサービス券を上乗せすることではない。あなたのことを理解しましたという意味である程度の譲歩も必要だろうが、どこかで限界を設定しなければならない。NOを言い渡すときは譲歩しない会社の決まりだから、我が家の方針だから、、、理由は何でも良いからきっぱりNOと言い渡す。
その前に、最も大切なことは自分が過剰サービスをしていることに気づかないといけない。いくら人から「あなたのサービスは過剰よ」と言われても、「いや、適切だ」と言い張る。その逆に、うまくいかないのはサービス不足と勘違いしてさらにサービスを追加してしまう。客観的にみれば逆の方向なのだけど、本人は一生懸命だから気づかない。
というか、内心は気づいている。サービス券を追加するのではなくしっかり「もうダメよ」と言うべきということはわかっているのだけど、「でも私、言えないのです。」
はい、そのお気持ちよくわかります。
しかし、そこが大切なんです。ご自身で「私は言えない」と決め込んでしまっている人が言える元気を獲得できるようにするのがセラピストの役目です。
でも、無理に言わせようとしても無理です。出来ないことを無理にやらせるのは拷問みたいなもの。無理難題をふっかけられるいじめみたいなものだから、そんなところにはもう二度と行きたくありません。
「私は言えない」背後には、それなりの深い理由があります。それを解き明かし、整理すれば、「言えない人」から「言える人」にグレードアップできます。
いろいろな理由が考えられます。
過去にひどい客がいて、しっかり言ったことが裏目に出てひどい目にあった経験を持つ場合です。
ひどい客って誰でしょう?
たとえば、子どもにしっかり向き合おうとすると、親自身の子ども時代に父親が母親にひどいことを言ったり暴力を振るった思い出がよみがえりフリーズしてしまう場合。
あるいは、自分のきょうだいと親がひどいバトルを繰り返し、ひどいことになっちゃった場合。
あるいは、夫がひどいことを言ったりやったりしていて、立ち直れないくらい傷ついている場合など。
そういう過去の体験があると、また同じことが起きるのではと自動思考してしまい、自分の子どもにもっとしっかり伝えようとしても自動ブレーキがかかり言えなくなってしまいます。
そういう場合、どうしたらよいのでしょう?
安全感・安心感を回復することです。
世の中、そんなひどい人ばかりではないという安心感です。しかし、自分でもトラウマと意識していない隠れたトラウマはかなり根深いものです。一見ふつうの人でも、ちょっと突っ込んで刺激したらとんでもないことが起きてしまう不安がどうしても残ります。
その場合、当該のひどい人の記憶と、他の一般の人々との連結を外します。連結されたままだと、あの人がそうだったから、この人もそうなるかもしれないと予期不安が連結してしまいます。そうではないことを自分自身の思考の中で実証しなければなりません。あの人は、ふつうの人とは違う特殊な事情があったからひどかったんだ、普通の人とは連結されていないのだということを改めて理解します。
しかしその作業はかなり困難です。理屈で説明するのは簡単ですが、だいたいその人や出来事を思い出すこと自体がトラウマの再現で、もっとも遠ざけておきたい事象です。ひとりでは無理で、セラピストなど、安全に手伝ってくれる人が必要です。なぜあの人はそんなにひどかったのだろう?よくよく考えると、その人の個別の事情が見えてきます。あの人には、「自分が不幸だ」と思い込ませるに十分な事情があったのかもしれません。
でも、こんな作業は大変だし、やっても意味がないのではと思いますよね。過去を取り返すことなんてできるはずないし、第一、あの人はもうこの世にいません、、、。
いえ、それで良いんです。過去は過去で構わない。それを現在によみがえらせるわけではありません。その逆で、過去は過去だったんだ、現在とは違うのだと、はっきり境界線を引き、忘れられない過去を丁寧に葬ってあげることです。
こんな風にイヤな過去をほじくり出すことは、とても不快です。だからこそ、誰にも言わず、自分自身も心の片隅に隠して封印しています。
しかし、それでは解決しません。自分自身に隠さなくてはいけないということは、どこかで現在と繋がっているからなんです。もしその過去が現在と切り離されているとしたら、隠す必要がなくなりますから。
そのようなネガティヴな過去の体験が、今を強く生きる自信を、必要なときに必要なことをはっきり「言える」力を鈍らせています。ホントは強く生きて良い人なのに。
「言えない人」のもうひとつの理由は、単純に、そういう経験をしてこなかったから。
子ども時代からずっとサービス券をたくさん与えられ、過剰サービスが当たり前の世界で育ってきた場合です。自分がそうやって育ってきたのだから、そのことを問題視する発想は持ち合わせません。
そう、つまづかなければ過剰サービスはぜんぜん問題ありません。つまりずっと一軍でプレイすることができれば。しかし、過剰サービスの問題点はケガをして戦力外通告を言い渡されて一時的にせよ二軍に落ちたときです。二軍落ちの経験のない親は、二軍に落ちた子どもをどう支えたら良いのか見当がつきません。
「しっかり言う」ことが、今までやったことのない、新しい体験となります。そういう場合はしっかり練習することで、新しいやり方を会得できます。それまでの旧式のやり方にこだわらず、新しいやり方に慣れることが出来れば目から鱗が落ちます。
そして家族の問題も解決します。
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以上、空港のちょっとした出来事からイマジネーションが飛行機とともに飛び立ち、機内でメモしたことです。まだまとまっていないけど、公開してしまいます。後悔したりして(失礼)。
村上春樹と自分(2)
- 才能の次に、小説家にとって何が重要な資質かと問われれば、迷うことなく集中力をあげる。自分の持っている限られた量の才能を、必要な一点に集約して注ぎ込める能力。これがなければ、大事なことは何も達成できない。、、、僕は普段、一日に三時間か四時間、朝のうちに集中して仕事をする。机に向かって、自分の書いているものだけに意識を傾倒する。ほかには何も考えない。ほかには何も見ない。
私はこれが大の苦手なんですよね。意識をまわりに分散させて全体を把握する力はあると思うのだけど、その逆の意識の一点集中ができないんですよ。だから個人への深い精神分析より、複数の関係性を扱う家族療法やグループ・セラピーが向いていると思うんです。1−2時間の短期なら集中できると、3−4時間はきついなあ。だから原稿を書いていてもすぐに飽きて他のことを始めたり、他のことはやらずに机に自分を縛り付けたとしても頭の中が勝手に他の方に行ってしまいます。
しかし全く一点集中ができないこともないですね。思い返してみれば、若い頃の受験勉強や徹マン。今でも出来るとしたらテニスなどのスポーツや料理かな。でもそれもせいぜい1−2時間でしょ。だからブログは書けても本の原稿が書けないんです。(言い訳ばかり)
- 集中力の次に必要なものは持続力だ。1日に3−4時間、意識を集中して執筆できたとしても、一週間続けたら疲れ果ててしまいましたというのでは、長い作品は書けない。日々の集中を、半年も一年も二年も継続して維持できる力が、小説家には求められる。
でも、村上春樹によれば才能はダメだけど、集中力と持続力は意図的に鍛えられるということなので、がんばるしかないかな。この歳で??
こんなブログ書いている暇があるなら、本の原稿をまとめなさい>自分!!
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