前回のブログを読んでくれた方々が、お悔やみのメッセージを送ってくれました。
相次いでご両親を看取られ、さぞお疲れのことでしょう。お寂しくなられますね。どうぞくれぐれもお疲れでませんよう。
ありがとうございます。
でも、今回の母親の喪失は、なぜかそれほど悲しくないんです。
3回目の喪の作業で、慣れているからか?
それもあるでしょうが、40代の妻を失うのと、80代の老親を失うのでは、根本的に異なります。
妻は今現在(here and now)の愛着喪失だったとすれば、両親の喪失は過去の愛着への振り返りのプロセスだ。悲しみ(グリーフ)の量は両親よりも妻の方がはるかに大きいことは言うまでもない。
家族ライフサイクルの考え方では、
40代の妻を失うのは予測不能で不自然な出来事。
老親を見送るのは、誰もが体験する自然な出来事だ。
家族がライフサイクルに沿って発達する中で、二種類のストレッサーがある。
1)発達的な(Developmental)ストレッサー:ライフサイクルの移行に伴うストレス。これは多くの家族が共通して体験するもの。たとえば、入学・卒業、就職、巣立ち、結婚、出産、子育て、退職、親との死別、身体の減退、病気、パートナーとの死別など。この中には喜ばしいものも含まれるが、生活の大きな変化はストレスを生む。
2)予測不能な(Unpredictable)ストレッサー:一部の家族しか体験しない。例えば、早すぎる死、トラウマ、事故、慢性疾患、失業、自然災害、移住など。
(引用:日本家族研究・家族療法学会編「家族療法テキストブック」金剛出版、2013)
親を失っても、妻の時のように「悲しみ」は前面に出てこない。
しかし、両親を失い、親との愛着関係が良く見えてきた。
愛着理論は、幼少期の親子関係をもとに組み立てられた。
幼い頃の対象関係が、その後の人格形成に決定的な影響を与えるという考え方だ。
子ども時代に安定した「心の鋳型」がその後の人生を大きく左右する。「心の鋳型」は子ども時代に作られるものであり、大きくなったらもう鋳型の粘土は固まるものと考えられている。
子どもが成長し、思春期になり、親から心理的に自立したら、もう親との直接的な関係性はあまり関係なく、心の中に形成された愛着という鋳型をもとに心が機能する。
大人になってからは、自分の親との関係性はあまり重要ではない。なぜなら、すでに巣立って離れているから。
そのような従来の「愛着理論」の考え方と、私の体験は異なる。
親との対象関係は子ども時代に留まらず、一生メンテナンスが必要だ。
鋳型は子ども時代に完成されるのではなく、一生を通じて作り直されている。粘土は一生かたまらない。親を失い、今そのことを実感している。
私が大学生になり、東京から離れた頃に、父親が地方に転勤になり、東京を離れた。当時は東京の家は残したまま、付かず離れずの生活をしていた。
私が30歳で結婚し、父親が定年退職したことを機に、都内の狭い敷地に二世帯住宅を立て直し、両親が下に、私の世帯が上で生活していた。
玄関もリビングもバストイレもすべて別々だ。二つの世帯を結ぶ鉄の扉は閉めて、それぞれの独立性を保っていた。
9年前に妻が突然亡くなり、家族は危機に陥った。その時は必死で、それが「危機」と感じる余裕さえなかった。
鉄の扉は開けられ、ふたつの核家族が、ひとつの拡大家族になった。
両親は、小・中・高校生だった3人の子どもたちの面倒を見てくれて、私は仕事で家を続けることができた。両親は私と子どもたちを見守ってくれた。
子どもたちが高校を卒業し、巣立ちの準備に取り掛かり始める頃、父親のガンが再発した。
父親は60歳になる前に腎臓にガンが見つかった。幸い進行がとても遅いガンで、腎臓を摘出して健康を取り戻した。その10年後に膵臓に転移が見つかり膵臓を全摘した。ふつう膵臓をとれば長くは生きていけないが、父親は几帳面にインスリンを自己注射して、退職後の日々を平穏に過ごしていた。さらにその10年後に肺に転移が見つかった。大きな手術を2回経験して、もう積極的な治療は望まなかった。膵臓なしで20年間生きていたのはすごいことなんだ。
「尊厳死の宣言書」を書き、家で最期を迎えたいと願う父に、私は在宅ホスピスを整えた。最近は在宅医療が整い、ケアマネさんと相談して介護ベッドを導入し、医師、看護師、介護士、マッサージ師、在宅入浴など、多くの人々が毎日家に来て介護・看護してくれる。父の希望どおり、家族に見守られながら安らかに最期を過ごした。
「尊厳死の宣言書」を書き、家で最期を迎えたいと願う父に、私は在宅ホスピスを整えた。最近は在宅医療が整い、ケアマネさんと相談して介護ベッドを導入し、医師、看護師、介護士、マッサージ師、在宅入浴など、多くの人々が毎日家に来て介護・看護してくれる。父の希望どおり、家族に見守られながら安らかに最期を過ごした。
しかし、母親の精神的な負担が大きかった。家の番人だった母親は、入れ代わり立ち代わり家に入ってくる人たちを把握しきれなかった。もうたくさん、止めて欲しいとパニックになっていた。
私が海外に出張するたびに父親の具合が悪くなった。父親の不安が高まり、「もう自分は死ぬ」と思っていたそうだ。いつも2時間ほどの距離に住む妹が駆けつけてくれた。
父親を見送ってから、母は、「もういつおさらばしてもいい」と口癖のように言い、認知症がみるみる悪化していった。再びケアマネジャーの登場だ。介護認定を受け、デイサービスを利用していたが、ついにトイレの始末もできなくなり、老人ホームに入居した。料金は高いが、24時間、丁寧なサービスを受けられる。私も毎朝近所のホームまで様子を見に行き、しばし落ち着いたとホッとする時間を持てた。しかし入居後3ヶ月して肺炎で熱発。救急車で大学病院に運ばれ、肺炎は治ったものの、嚥下困難となり経口摂取ができなくなった。中心静脈栄養も血管が破たんして、わずかな末梢血管への点滴のみの栄養しか入らなくなり、伴侶を亡くして1年半後にあっという間に夫のもとに旅立っていった。
結婚して実家を離れた妹は、自分自身の家庭を築いた後もよく実家をサポートしてくれた。
特に兄である私が妻を失ってから、公私に渡り私を支えてくれている。
両親が自立できなくなってからは頻繁に訪ね支えてくれた。
妹と私できょうだい喧嘩しながら、両親を見送った。
振り返れば、うちの家族は愛着に満ちていたのだと思う。
「親孝行」という言葉は時代錯誤、儒教的・封建的なイメージを抱くが、実は日本文化の中に脈々と生き続けている。
私が国際学会で日本の家族を説明するときによく使うキーワードだ。「親孝行(filial piety)」はアジアの家族に特徴的で、他の文化ではあまり見られないとされている。欧米では、子どもが成長して家を出れば親子それぞれが独立して、親も子も相互に扶養しあうことはない。しかし、実は、文化や時代を問わず、親が子を想う気持ち、子が親を想う気持ちは一生続いているはずだ。その表現方法ややり方が違うだけだ。
私にとって、それはごく自然な、当たり前のこと。なにも善い行いをしているわけではない。家族ライフサイクルの中に組み込まれている。人が自活できれば、関わる必要もない。自立できない時、つまり子どもが自立するまで、あるいは親が自立できなくなったら、家族が面倒を見る。子どもの保育機能と高齢者の介護機能が高まり、社会のケア機能も発達してきたが、最終責任は家族の心の中にあるように思う。
海外で自立し、活躍している同年代の友人たちの老親に介護が必要になると、帰国するケースを最近よく耳にする。特に女性が多い。ライフスタイルは欧米化しても、心は日本のようだ。
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