妻は突然の心筋梗塞で亡くなり、全く予期できなかった。
喪の作業(グリーフワーク)は何も心の準備ができておらず、激烈だった。
両親の喪失は事前に十分に予期できていたので、喪失前にグリーフワークを始めることができた。父が亡くなる前、そして亡くなった後。母が亡くなる前と亡くなった後に、様々な機会を利用して、自分自身のグリーフワークを丁寧に進めてきた。
グリーフ・ワーク(grief work, 喪の作業)=身近な人が死別した悲しみから精神的に立ち直るための作業。支援を受けながら、安全に気持ちを表出していく。
その中で、父親へのグリーフの方が、母親へのグリーフよりも大きいことを発見した。母親を失ったグリーフワークを進めていても、飛び出してくるのは父親へのグリーフであった。それは、喪失の悲しみというより、「ありがとう」という感謝の涙が繰り返し出てくる。奇妙だ。一体何が起きているのだろう?
どうも私は母親との愛着に比べ、父親との愛着がはるかに強かったということが見えてきた。両親を亡くす前には気づかなかったことだ。
通常、子どもは母親との間に第一の親として強い愛着関係を形成する。
父親との愛着関係は遅れてやってくる。あるいは、希薄なままであったりする(特に日本の家族では)。
しかし、私の場合、かなり早い段階で母親から父親に愛着対象が移った。
その要因として、
1)両親のチームワークで、しっかり確保された安全基地
2)父親の家族への積極的な関与
があった。
私の原家族の「いきものがかり」は父親だったのだ。
小学校のクラスには「いきもの係」がいる。教室にあるカメや金魚はクラスみんなが飼育するのだが、係の人が責任を持って担当する。
多くの家庭では母親が子ども係なのだが、うちは、父親だった。
日中、一緒にいるのは母親だったけど、大切な意思決定や責任は父親が担っていた。
妹が語れば、また違った物語があるかもしれないが、少なくとも私にとってはそうであった。
父親は教育心理学者であった。
臨床心理学ではないので臨床活動つまりクライエントには関わらないが、キャリア・ガイダンス(進路指導)が専門で、子どもの成長をどう導くかということを、学生や学校の教師たちに教えてきた。
私が2歳の時に生まれてきた妹に、母親のおっぱいを取られた。
父親がカバーしてくれて、私は父親のオッパイを触りながら寝ていた。
それが5-6歳の頃まで続いただろうか記憶が定かではないが、子どもながらに恥ずかしく、もし小学生になってもパパのオッパイなしで安心して寝られなかったらどうしようと思い悩んでいた。今から考えれば、これが父親との強固な愛着の基盤であった。
ちなみに、友人の精神科医、山登敬之は中学生まで母親の布団で寝ていたことを著書の中で回顧している(「母が認知症になってから考えたこと」講談社、2013年)。彼は本を書いて母親との愛着関係を整理しようとした。
私は、父親との関係性を理解するために本を書いた(「家族で往復書簡のすすめ:新しい父親像を発見するために」彩流社、2007年)。
父の実家は群馬の山奥、四万温泉の老舗旅館だ。現在は私の従弟が経営している。
父親は7人兄弟の次男として生まれた。
父親自身も祖父からたっぷり愛着を受けて育ってきたらしい。
山の複式学級の分校を出たら、前橋に出て兄と下宿して中学に通った。仙台の陸軍幼年学校で終戦を迎え、高校は浦和、大学は東京に出てきた。そのまま見合いして、東京で家族を築いた。
父が幼い頃、山奥からバスで前橋に降りてきて、利根川を見て「母ちゃん、これ海なのかい?」と尋ねたそうだ。都会のデパート食堂で初めてアイスクリームを食べて、世の中にこんなに美味しいものがあるのかと驚いたそうだ。
父親は山やスキーに連れて行ってくれた。
小学校に上がるか上がらないかの頃、実家の近くにあるリフトもない山の斜面だけの四万スキー場で、長靴を履いて滑った。以来、スキーが大好きになり、毎年、親と行くスキーがとても楽しみだった。南国生まれの母親も一度同行したことがあったが、懲りて二度と来なかった。
父は職場仲間との旅行によく連れて行ってくれた。
中1だったろうか、青森の酸ヶ湯温泉に泊まり、ロープウェイで八甲田山に登り、ガイドさんと一緒に誰もいない大斜面を滑り込んだ。その素晴らしさは今でも忘れられない。その後、高校山岳部で山スキーを経験して、今、この歳になってバックカントリー・スキーにはまっている。
山梨県の四尾連(しびれ)湖にキャンプに行っ際には、二人乗りのボートで湖に漕ぎ出すと霧が出てきて周りが真っ白の何も見えなくなった。父親との二人だけの世界をよく覚えている。
中学では野鳥観察クラブに入り、早起きして双眼鏡を持ち近所のお寺の森に出かけていた。
軽井沢の雑木林が野鳥観察のメッカだった。しかし、中学の教員だけでは遠出する許可が降りない。父親に頼んで、保護者の引率ということで、理科の先生も加わり、軽井沢の早朝探鳥が実現した。
父親は、私をソトの世界に連れ出してくれた。
小4でトランジスタ1石ラジオ作った。
その頃、模型工作にはまり、父親と一緒に神田の電気街に行き、ラジオ制作キットを買った。慣れない半田ごてを使いながらどうにか仕上げたとき、父親はとても褒めてくれた。
母親は電気工作など興味もなく、何も言わずに台所で料理していた。
私は体育会系だ。
中学は柔道部、高校は山岳部、大学はアメリカンフットボール部で過ごした。
男同士のラフな世界。
中学の1年生と3年生では、大きな体格差がある。中1の頃、3年生の先輩から寝技で首を絞められ、苦しむ私を先輩は上からニヤニヤ見ている。息ができず、とても怖かった。しかし、練習が終われば、気さくな優しい先輩に戻る。
高校山岳部の合宿では、大学生のOBがよく参加していた。
私は、運動部の先輩と気楽に付き合っていたように思う。ヒエラルキーを受け入れる一方で、どこか気楽に親しめた。これも父親との関係性が根底にあるのだろう。
大学生の頃、山スキーで遭難した。
北アルプスの栂池高原から登り、乗鞍岳を超えて蓮華温泉に滑り降りる予定が、とんでもない沢筋にはまり、友人とふたりで一晩ビバークした。翌朝、天気が回復してどうにかふもとまで降りてきたものの、今なら、捜索が出ていただろう。
そのことを後で、父親には話した。ビバークがどんな危険な状態か理解して、でもそれはありうることだから、怒ったり過剰に心配はしないだろうと予想したから話せた。
しかし、母親には話せなかった。話しても山の様子は理解できず、心配するだけだと思ったからだ。
父親は理解者で、母親は理解者ではなかった。
1年間のアメリカ高校留学は、私の海外デビューであった。
両親との安定した愛着は、1年間お世話になったhost parentsとの愛着形成も容易にした。
1970年代はAmerican Dreamが健在だった。現地で体験すること全てを理想化した。
Host fatherは朝鮮戦争を戦った空軍の退役パイロットで、繊維工場の副社長をしていた。5時に終業して、毎日5時15分過ぎには帰宅。料理したり、庭の芝を刈ったり家族にたくさん関わっていた。夏時間の夜は遅くまで明るく、広い庭を見下ろすテラスで、いつまでも夫婦そろって会話していた。子どもの前でも毎朝ハグしてキスしていた。当時の日本ではありえないことだった。これが私にとって夫役割のモデルになった。
Host motherは専業主婦。うつ病の薬を飲み、時々ソファで伏せっていた。一度、主治医の精神科医に会わせてくれた。「アジア系のアメリカ人で、家族思いのとてもいい先生なのよ。」というMomの言葉が、精神科医を選択した動機の一つになったのだと思う。Host fatherは強く、host motherは弱かった。
なぜ、私は海外に行きたかったのだろう?
今は高校留学も一般的になったが、当時はまれなことだった。
そこにも父親の影響が色濃くあったように思う。
私が子どもの頃、父親はときどき海外のゲストを家に招いていた。母が料理を作り、会食した。40歳を過ぎて国際学会にも出かけたが、英語が十分ではなく、思いを果たせなかったようだ。
父親の旅路は四万温泉から東京までだった。私の旅は東京でスタートして海外へ。父親の旅路を私が引き継いだ。
高校3年生で留学する希望を伝えると、担任教師は、「お前、大学に行けなくなるぞ」と反対した。母親にとっても高校生の息子が一人で海外に行ってしまうなんて、想像を絶することだったのだろう。でも、父親が全面的に賛成して、留学が実現した。
父親は、私のすぐ近くにいた。
僕の知らない外の世界に導いてくれた。押し出してくれた。
そこには、未知の新たな世界があった。
父親がモデルだった。父親の期待が、私の到達目標だった。
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