有識者として原稿を依頼されましたが、個人的な体験でも良いということなので本音を書かせていただきます。「パパの子育て」とか「イクメン」は、私の体験に照らし合わせればあえて取沙汰せずとも自然なことです。それは、私の身近に「パパの物語」があったからだと思います。
まず、私の父親の物語。パパは群馬の山奥(今でこそ有名になった四万温泉)から、ママは愛媛県の海辺の町から東京に出て、お見合い結婚から核家族をスタートさせました。親類縁者たちから離れ、私と妹ふたりの子育てに孤軍奮闘したのだと思います。高度経済成長期の標準からすれば公務員だったパパの帰りは比較的早く、土日もふつうに家にいて、子どもたちによく関わってくれました。「もっとがんばれ!」と過剰に期待されることもなく、学区の都立高校に進学しました。アメリカ留学を希望した時も、「大学に行けなくなるぞ!」という高校担任の忠告をさえぎり、私を認めてくれました。
次に、祖父の物語。家族の中で繰り返し伝えられる話を「家族神話」と言います。旅館業を営んでいた私の祖父はいつも家にいて子煩悩だったそうです。私のパパが幼い頃、寝ている体がふんわり浮き、父親が自分の寝床に持って行き一緒に寝ていたそうです。多くの物語の中でこの話が家族神話として記憶に留まっているのは、父から息子へと代々受け継がれる伝統に含まれるからでしょう。それを私は無意識に子どもたちに伝えるのだと思います。
さらに、アメリカの父親の物語。留学中1年間お世話になったホスト・ファーザーは、午後5時に仕事を終え、5時半には家にいて、庭の手入れと食事の支度、夕食後には庭のテラスで日が暮れるまで近所の人たちとおしゃべりしていました。日本人の私にとって特筆すべきことですが、彼らはには普通のことです。
これらの物語は、精神科医として出会った父親の物語と大きく異なっていました。思春期の不登校やひきこもりなどの家族の多くには、物理的にも心理的にもパパがいません。仕事で不在がちだし、親子や夫婦の会話すらありません。その分、ママがぴったり子どもにくっついています。幼い頃はそれでも構いませんが、思春期になると親離れ・子離れが難しくなります。思春期はウチ(ママ)の世界から、パパ(ソト)の世界に飛び出します。緊密なママと子どもの絆にパパがクサビを打ち込み、夫婦関係を取り戻せば、子どもは自然にママから離れてゆきます。子どもだけを治療しても一向に良くならないので、家族全体を元気にできる家族療法を勉強しました。
さて、次は私自身がパパになった物語です。30歳で結婚した私は妻に家にいてほしくないと思いました。男が経済力と自由を占領した方がホントは気持ちよく、好きなことをできるのだろうけど、結局は家族を顧みず、仕事に埋没する男になっても面白くありません。妻が夕飯の支度をして私の帰宅を待つよりは、妻が自分を成就している方が、自分も同じようにできます。
今までの人生で一番嬉しかった瞬間を3つ挙げるとしたら、1)高校留学試験に受かった時、2)妻が私のプロポーズを受け入れてくれた時、そして3)妻の出産に立ち会い、長男に出会った時でしょう。親になった喜びをふたりで分かち合い、妻も私も働き続け、保育園と両親の力を借りながら子育てしました。私もパパとしてがんばっていたつもりでしたが、妻から、「あなたは口ではきれいごとばかりで、結局は私にやらせるのね」と言われていました。確かに、週末も仕事やゴルフに行ってました。
そんな妻も2年前、家族でスキーをしているさ中に心臓発作で急死。享年45歳でした。私は生涯経験したことのない深い悲しみと心の危機に直面しつつ、シングル・ファーザーとして格闘してきました。
悲しみは隠さず、子どもたちと共有するよう心掛けています。外食でさえ焼肉かスパゲッティか意見が合わない3人の子どもたちも、ママのお墓参りに行く時は必ず意見が一致します。4人そろって車で小一時間、三浦半島の公園墓地のママに会いに行きます。
子どもたちにとって、スキーは母親を奪った敵です。「もう絶対スキーなんか行かない」と宣言していた次男も、2年目となる今年の正月に友だち家族と一緒にスキーに行くことができました。
子どもたちと悲しみを共有しつつ、ふだんは父親の元気な姿を見せてあげたい。スポーツ好きな私は体を動かすことで心も元気になります。自転車で大田区から32kmの道を通勤し、テニスやスキーを楽しむ父親を見て、高2の長男はバレーボール、中2の娘は水泳、小6の次男は体操にがんばっています。
普段の炊事・洗濯は二世帯同居の母親が支えてくれますが、子どものお弁当は私が作ります。保育園時代の弁当はほとんど妻が作っていました。小中学時代は給食ですが、高校はまたお弁当です。保育園時代のママ友たちが「交代して作ってあげるわよ」と申し出てくれましたが、幸い家事の中で料理は好きな方です。当初頼りにしていた「男子弁当」の料理本を見なくても冷蔵庫の残り物で作れるようになりました。食事作りは子どもたちを養っている実感をダイレクトに得ることができます。ついでに自分の弁当も作り、外食が減りました。
中2の娘は気が強く、反抗期の真っ只中です。挑戦してくる無理難題に甘やかしたくはありません。厳しく限界を設定する一方で、娘にとっても甘えたりおねだりするのはパパしかいません。昨年、オーストラリアに住む友人家族が訪ねてきました。好奇心の強い娘は「遊びにおいでよ!」という誘いに乗りたい一方、まだひとり旅は不安です。「大丈夫だよ、行ってごらんよ。」私の父親と同じように娘を励まし、結果的にはとても楽しんできました。私が成田空港まで迎えに行くと、いつもの父親に見せるブスっとした顔。「あーあ、日本に帰ってきちゃった!」という気持ちは私もよくわかります。でも言わなくちゃと、とってつけた口調で一言「パパありがとう」。パパはそれだけで十分報われます。
多忙のため限られた時間の中で、子どもたちと気持ちがつながる瞬間の温かさを感じます。それはおそらく自分自身の父親との関係の中で育まれた感性です。妻を失った今の方が、私にとっても子どもたちにとっても一層かけがえのない親子の絆となりました。父親の物語は過去から現在、そして未来につながってゆきます。
すべての人は心の中に光と影を持っています。そしてすべての親は子どもを愛そうとします。親から愛された記憶が光の中にあると、子育てほど楽しく幸せなことはありません。反対に、それが影の記憶に埋め込まれていると、子どもと関わることがとても苦しくなります。それは私自身、そして私が出会うすべての家族に当てはまります。幸い、光と影は陰陽太極図のように循環します。私は、家族の支援者として、光の中で親子が関われるようなお手伝いをしたいと願っています。
小金井市男女平等情報誌「かたらい」へ書いた原稿
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