2018年1月17日水曜日

男性グループ:私自身の体験

私は男性のサポート・グループ「男性塾」を主宰しております。
なぜ、私が男性グループを始めたか、私自身の体験をお話ししたいと思います。

私が一番初めに自分自身の気持ちと向き合うグループワークに参加したのは、20代なかば、精神科医になりたての頃でした。指導教授に勧められ、2泊3日のエンカウンター・グループという合宿に参加しました。
私よりも若い人もいましたが、30代、40代の人もいました。みんな心理関係の仕事をしている人たちで、男女両方いました。
何の予備知識もなく参加しましたが、参加者たちが自分たちの気持ち、特に心の痛みを語り、涙する姿に驚きました。友人の精神科医ヤマト君も一緒に参加して、別々のグループに入ったのですが、夜に「そっちでは何人泣いた?」などとお互いのグループの様子を報告し合いました。正直、そのような参加者のことを馬鹿にしていました。心理の仕事をしていながら、自分たちの方がよっぽど病んでいるじゃないか。
私の順番が回ってきても、私は何も心の痛みなどない。私は強い、、、という具合に強がっていました。すると、ファシリテーターである年配の男性が、私の肩にそっと優しく触れました。その意図がよくわかりませんでした。

二回目の体験は私が40歳、まだ新米の父親の頃でした。イタリア、ローマのMaurizio Andolfiという高名な家族療法家が、毎年夏に2週間のグループワークを主宰していました。世界各地から15名ほどのセラピストたちが集まり、専門家としての自己の話をします。これも、男女ミックスでした。
ここでも私は驚きました。始めはクライエントに向かう専門家としての自分を語るのですが、話が深まるうちに、職業ではなく、個人的な自分自身の体験を語ります。自分の子ども時代のこと、夫婦や家族関係のことなど、辛さや悲しみを語ります。みんな、よっぽど不幸な経歴を持っているんだなぁ。だからセラピストになったのかなぁ。私には語るような傷はないし、幸せなんだなぁと内心考えていました。
最終日に、主宰したMaurizioが自分を語りました。彼はちょうどその時、夫婦関係が破たんして、離婚する直前の時期でした。語りながら、感情に呑み込まれ、泣き崩れました。
私は驚きました。マスターセラピストと呼ばれる偉い先生も、本性がバレてしまった。ああ、彼もこれで崩れてしまったか。彼の専門家としてのキャリアが終焉する場を目撃したのだと思いました。
その晩に、お別れのディナーパーティーがありました。Maurizioは昼間の様子では、夜も欠席するのではないだろうか、と想像していたら、ごく普通に快活な彼に戻り、楽しく振る舞っています。
あれ?
彼は崩れてしまったのではなかったのか?
そこで、私の目からうろこが落ちました。
人は弱みを見せても良いのだ。
むしろ、弱みを恥じず、開示し、それを自分自身で受け入れ、信頼できる人に共感してもらえることが本当の強さに繋がるということを実感しました。

このような自助グループ(self-help group、ないしはconsciousness raising group)は1960年代の女性運動の中から始まりました。お互いに、素の自分を語り合う中で、自分たちの意識を高めていきます。
女性は、感情を扱うことが得意です。
しかし、男性は、感情、特に否定的な気持ちを表すことが苦手です。
男性は、「強さ」をアイデンティティにしています。
自分が強くありたいと願い、体力、学力、経済力などの「よろい」に身をまとい、自分を強く見せようとします。その下にある「弱さ」を隠します。

人は弱いものです。それを認めるからこそ、強くなることができます。
弱さを否認した強さは、独りよがりでしかありません。
Maurizioの姿を見て、そのことに気づき始めました。
ローマでの体験は、私の感性の畑を掘り起こしました。
帰国して2週間ぶりに再会した幼い子どもたちに出迎えられ、彼らを抱きしめ、なぜかわかりませんが、泣き出してしまいました。子どもたちは泣いている父親の姿に驚きました。私自身も自分の感情表出に驚きました。

三回目の体験は、アメリカでの男性グループです。アメリカでは女性グループ活動に触発され、1990年代頃から「男性運動」が盛んになりました。
学会で知り合った男性性(Men's study)を研究している研究者に紹介され、Mankind Projectという男性の集まりに参加しました。週末2泊3日の男性オンリーの合宿です。とても強烈な体験でした。男性たちが集まり、何をするのか初めはとても怖かったのですが、とても安心・安全な環境が作り出され、奥深くまで心を開くことが出来ます。それに耐えきれず、途中でリタイアする人も中にはいました。私は自分自身も気づかなかった心の底に初めて触れて、大きく心が動かされました。それを仲間たちに受け止めてもらいました。私以外はすべてアメリカ人です。言葉の違いを超えて、強い連帯が生まれました。

その後、様々な場で、男性グループを経験してきました。専門家の男性が集まる機会、一般の男性たちのグループなどです。今でも、継続して英語の男性グループを開いています。英語に不自由がなく、男性グループに興味がある方はご連絡ください。ご紹介いたします。

私は、男性としてのアイデンティティを獲得する中で、
泣いてはいけない。弱さを見せてはいけない(否定的な感情の抑圧)
と伝えられ、必死に「強さのよろい」を作ってきました。それが男のプライドです。
鎧があるからこそ、こうやって職業人(医師であり大学教員であり)として、家庭人(夫であり父であり)としてやってこれたのだと思います。
しかし、時にその鎧が重圧となり、自分の心の足かせになってしまうことがあります。
たとえば、「怒り」です。
怒りの感情は、弱さ(恐れ、不安、悲しみなど)を隠し、自分の身を守るための武器です。怒りは相手を蹴散らし、関係性を破壊します。
怒りという鎧を脱ぎ捨て、素の気持ちをそのまま表すことが出来ると、身が軽くなり、どんなに楽になるかということを体験しました。
それとともに、苦労して作り上げてきた「よろい」を脱ぐことがどれほど怖いかということも経験しました。

普段の臨床で、家族の問題、夫婦関係の問題、個人(男性・女性を問わず)の問題など、多くの人たちの悩みや苦しみに触れています。
男性である私自身の視点からすると、それらの解決のカギを握るのが、「男性」です。
男が如何に変わることが出来るか。
無理に変えようとすると、傷つきます。
自分自身が安心して、鎧を脱ぎ、見せかけではない真の男性性・人間性を回復する場を作りたい。
そのような願いから、男性グループを主宰しています。

2018年1月1日月曜日

今年の診療方針・活動方針

新年を迎えました。

2011年の6月に田村毅研究室を東京西麻布の地に開設してから、今年で7年となります。
開業するまでは、公務員として大学に勤めていたので、経営の経験など全くなく、健康保険も、薬も使わない自由診療が、果たして成り立つのか、なんの根拠もありませんでした。
なんとか7年間ここまで続けられてきたのも、みなさんのご支援のおかげです。どうもありがとうございます。

一年の計は元旦にあり。
気持ちをリフレッシュして、今年もみなさまのお役に立てるよう、努力してまいりたいと思います。

ここで、改めて、私の診療方針と、今年の活動方針についてお伝えしたいと思います。

<診療方針>
『人」の力で問題を解決します。
心の問題や苦しみ・悩みのほとんどは、人との関係性の中から生まれてきます(非機能的な関係性)。大切な人から傷つけられたり、裏切られたり、失ったり。
したがって、大切な人との関係性を回復することにより、人々は苦しみから解放されます。
  • 人と関わる力を回復して、社会(学校や会社)の中に安心できる居場所を得ます。
  • 人と関わる元気の素は家族から育みます。親との関係、子どもとの関係、夫婦間の関係、きょうだいとの関係、祖父母世代などなど、安心できる関係を回復します。
  • それを支援する私が触媒になります。よくお話を伺い、十分な信頼関係を作ります。
「病名」は使いません。

  • 医学的・科学的に明確に診断できる場合を除いて、病名は使いません。特に使わなくても、問題は解決します。
  • うつ病、発達障害、アスペルガー障害、パーソナリティ障害などなど、多くの精神疾患には客観的なエビデンスが乏しく、操作的診断基準による仮説です。
  • 病名が必要な場合もあります。普通の人には起こらないこんなことが、なぜ起きているのか、本人が、家族が、専門家が理解する枠組みを得ます。このような場合は、その病名を尊重します。
  • 病名が元気を奪う場合もあります。偏見の対象になったり、自信を失うなどです。このような場合は、その病名から解放します。
  • 多くの精神科医やカウンセラーなどの心の専門家は、医学・生物学的な視点から心の問題を理解しようとします。つまり、身体の中の異常、とりわけ脳神経系になんらかの問題が生じているとアセスメントします。この場合は、正確な医学的診断が必要となります。
  • 私は、医学・生物学を含めた生物・心理・社会モデル(Bio-Psycho-Social Model)という広い視点からアセスメントします。医学的診断(病名)は相対的なひとつの指標として、解決のためのツールとして用います。

「薬」の力は借りません。

  • 「人の力」を有効に使うことができれば、「薬の力」は必要ありません。
  • 通常の保険診療では「病名」と「薬の処方」がどうしても必要になります。
  • 私の自由診療では、薬は必要ありません。その代わり、相手と向き合い、さらに自分自身と向き合い、深い会話が必要となります。

<今年の活動方針>
・家族の力を賦活する
精神科領域では、問題を持つ当事者が治療に消極的で会えない場合が少なくありません。本人が不在でも、家族が元気を回復することで、本人も元気になります。

・グループの力を活用する
「ひきこもり脱出講座&交流会」、「男性のサポートグループ」など、なんでも話し合える仲間を得ることで、みなさん元気を回復されていきます。このような機会を増やします。

・支援者の支援
本人を支援する家族、本人と家族を支援する支援者・専門家(教師、カウンセラー、医療者など)も、どう支援したら良いか戸惑います。専門家へのスーパーヴィジョンで、そのような人々に指針を与えます。

・学会・執筆活動
国内外の学会に参加して、後進の指導に当たります。
特に、海外のアジア地域の専門家たちとの連携を深めます。
これまで積み重ねてきた経験を、本として出版します。

本年も、どうぞよろしくお願い申し上げます。

2017年12月22日金曜日

年末年始の過ごし方

今年もあと1週間を残すまでになりました。
お歳暮・忘年会・年賀状・クリスマス・大掃除・松飾・お年玉・おせち料理・大晦日、、、年末年始の準備であわただしくもあります。

家族が楽しく集まり、新年を迎えおめでたいはずの年末年始ですが、楽しいことばかりではありません。

Aさんは夫の両親と二世帯同居しています。普段は距離を保ち、付かず離れすしているのですが、お正月は一緒に過ごさねばなりません。お姑さんの何気ない一言で傷つきます。お正月の過ごし方で、夫婦の意見が合いません。いつもケンカになってしまいます。

Bさんは年一回、お正月には実家に帰省します。年老いた老親と過ごすのはとても複雑な思いです。子どもの頃のことはあまり思い出したくありません。でも、弟夫婦に任せっきりで、弱ってきている親の姿を見るのは辛く、孫の顔も見せてあげられない自分が不甲斐なく思います。

Cさんの息子は家でひきこもっています。毎年、お正月には親族で集まるのですが、今回は息子に声をかけない方がよいのか、子どもを残して親だけが楽しい思いをして良いものか迷います。

Dさんは今年、親を亡くしました。毎年、正月には親戚で集まっていたのですが、今度の正月はそれもなさそうです。子どもは就職して、正月は友人と旅行に行くからと、家に戻ってきません。ひとりきりの正月になりそうです。

Eさんは、別居中の妻に連絡するべきか迷っています。普段は仕事が忙しくて引き延ばしにしているのですが、年末年始をひとりで過ごす妻のことを思うと可哀そうでなりません。でも、妻は私と会ってくれるか心配です。妻からは何の連絡もありません。

年末年始のホリデー・シーズンは、良い意味でも、悪い意味でも人に向き合い、自分自身に向き合う楽しい時期です。逆に言えば、人に向き合い、自分自身に向き合わねばならない辛い時期でもあります。
普段は会社や学校など、普段のルーチン・ワークの枠組みの中にるので、向き合っている余裕はありません。しかし年末年始は普段の仕事もお休み。家族のための特別な時間が流れます。

大切な人と向き合うことは、大きな喜びになる場合と、大きな痛みを伴う場合と両方あります。
普段は、向き合いたくない人は遠ざけていますが、年末年始は家族など親しい関係を変化させる良いチャンスでもあります。

Aさんは、まずご夫婦でお正月の過ごし方をよく相談しましょう。毎年のことですから、特に話し合わなければ例年どおりになってしまいます。Aさんの複雑な気持ちを夫にわかってもらいましょう。そして、夫の気持ちも理解しましょう。その上で、いつもとは少し違うお正月を過ごしてみてはいかがでしょうか。

Bさんは、実家に向かう前に、親と弟さんへ手紙を書いてみましょう。ご自身の率直な気持ちを伝えます。実家では例年と同じように、当たり障りなく過ごしましょう。そして、帰りの別れを告げるとき、手紙をそっと手渡します。「私がいなくなってから読んでね」と伝えましょう。
面と向かって伝えるより、時には手紙の方が気持ちをうまく伝えられることがあります。

Cさんは思い切って息子に声をかけてみましょう。できれば、普段は会わない親戚の人が居るところで話しかけると良いです。第三者が介在すると、普段の膠着した家族関係が変化することがあります。親とは話さなくても、祖父母やいとことは普通に話せることがよくあります。

自分と向き合うためには、まず人との関わりを絶ち、ひとりにならなければなりません。それは辛いことです。孤独を恐れ、避けなければ、孤独の中から深い意味が生まれてきます。

Dさんは、ひとりのお正月を楽しみましょう。
だれしも、一人ぼっちの寂しさを忌み嫌います。確かに辛いです。
しかし、その辛さを乗り越えると、孤独が人生の豊かさをもたらします。
ひとり旅に出かけてみましょう。慣れないと戸惑いますが、実行してみると案外楽しいものです。
ひとりの時間を大切に使いましょう。読書も良いでしょう。
これがお勧めの本です。

鴻上尚史 「孤独と不安のレッスン」 (だいわ文庫) 
齋藤 孝「孤独のチカラ」 (新潮文庫) 
山折 哲雄「ひとりの哲学」(新潮選書) 
森 博嗣「喜嶋先生の静かな世界」 (講談社文庫)

こんな本を読むと、落ち込んでしまう?
いいえ、そんなことはありません。今までとは異なる新たな世界が見えてきます。

Eさんは、別居中の奥さまのことを心配する前に、まずご自身のひとり正月を充実して過ごす計画を立てて下さい。Dさんと同じく、ひとりで楽しむ体制をまず作りましょう。それが整ったら、奥さまに連絡して下さい。Eさんご自身が元気でいれば、奥さまもEさんと会って元気になります。Eさん自身の寂しさや不安を、奥さまに投影しないようにしてください。

Aさんに二つ目のアドバイスです。年末年始の時期に、敢えてひとりの時間を作ってみましょう。この時期は家族との関わりを求められます。そこに流されず、夫やご両親に断り、半日でも構いません、家族から切り離された自分のための時間を作ってください。お正月ではない普段に自分の時間があったとしても、この時期にあえて家族に断り、家族よりも自分自身を優先することに意味があります。

2017年11月16日木曜日

家族を失い見えてきたこと(2)親子の愛着

前回のブログを読んでくれた方々が、お悔やみのメッセージを送ってくれました。


相次いでご両親を看取られ、さぞお疲れのことでしょう。お寂しくなられますね。どうぞくれぐれもお疲れでませんよう。

ありがとうございます。
でも、今回の母親の喪失は、なぜかそれほど悲しくないんです。
3回目の喪の作業で、慣れているからか?
それもあるでしょうが、40代の妻を失うのと、80代の老親を失うのでは、根本的に異なります。

妻は今現在(here and now)の愛着喪失だったとすれば、両親の喪失は過去の愛着への振り返りのプロセスだ。悲しみ(グリーフ)の量は両親よりも妻の方がはるかに大きいことは言うまでもない。
家族ライフサイクルの考え方では、
40代の妻を失うのは予測不能で不自然な出来事。
老親を見送るのは、誰もが体験する自然な出来事だ。

家族がライフサイクルに沿って発達する中で、二種類のストレッサーがある。
1)発達的な(Developmental)ストレッサー:ライフサイクルの移行に伴うストレス。これは多くの家族が共通して体験するもの。たとえば、入学・卒業、就職、巣立ち、結婚、出産、子育て、退職、親との死別、身体の減退、病気、パートナーとの死別など。この中には喜ばしいものも含まれるが、生活の大きな変化はストレスを生む。
2)予測不能な(Unpredictable)ストレッサー:一部の家族しか体験しない。例えば、早すぎる死、トラウマ、事故、慢性疾患、失業、自然災害、移住など。
(引用:日本家族研究・家族療法学会編「家族療法テキストブック」金剛出版、2013)

親を失っても、妻の時のように「悲しみ」は前面に出てこない。
しかし、両親を失い、親との愛着関係が良く見えてきた。

愛着理論は、幼少期の親子関係をもとに組み立てられた。
幼い頃の対象関係が、その後の人格形成に決定的な影響を与えるという考え方だ。
子ども時代に安定した「心の鋳型」がその後の人生を大きく左右する。「心の鋳型」は子ども時代に作られるものであり、大きくなったらもう鋳型の粘土は固まるものと考えられている。
子どもが成長し、思春期になり、親から心理的に自立したら、もう親との直接的な関係性はあまり関係なく、心の中に形成された愛着という鋳型をもとに心が機能する。
大人になってからは、自分の親との関係性はあまり重要ではない。なぜなら、すでに巣立って離れているから。

そのような従来の「愛着理論」の考え方と、私の体験は異なる。
親との対象関係は子ども時代に留まらず、一生メンテナンスが必要だ。
鋳型は子ども時代に完成されるのではなく、一生を通じて作り直されている。粘土は一生かたまらない。親を失い、今そのことを実感している。

私が大学生になり、東京から離れた頃に、父親が地方に転勤になり、東京を離れた。当時は東京の家は残したまま、付かず離れずの生活をしていた。
私が30歳で結婚し、父親が定年退職したことを機に、都内の狭い敷地に二世帯住宅を立て直し、両親が下に、私の世帯が上で生活していた。
玄関もリビングもバストイレもすべて別々だ。二つの世帯を結ぶ鉄の扉は閉めて、それぞれの独立性を保っていた。

9年前に妻が突然亡くなり、家族は危機に陥った。その時は必死で、それが「危機」と感じる余裕さえなかった。
鉄の扉は開けられ、ふたつの核家族が、ひとつの拡大家族になった。
両親は、小・中・高校生だった3人の子どもたちの面倒を見てくれて、私は仕事で家を続けることができた。両親は私と子どもたちを見守ってくれた。

子どもたちが高校を卒業し、巣立ちの準備に取り掛かり始める頃、父親のガンが再発した。
父親は60歳になる前に腎臓にガンが見つかった。幸い進行がとても遅いガンで、腎臓を摘出して健康を取り戻した。その10年後に膵臓に転移が見つかり膵臓を全摘した。ふつう膵臓をとれば長くは生きていけないが、父親は几帳面にインスリンを自己注射して、退職後の日々を平穏に過ごしていた。さらにその10年後に肺に転移が見つかった。大きな手術を2回経験して、もう積極的な治療は望まなかった。膵臓なしで20年間生きていたのはすごいことなんだ。
 「尊厳死の宣言書」を書き、家で最期を迎えたいと願う父に、私は在宅ホスピスを整えた。最近は在宅医療が整い、ケアマネさんと相談して介護ベッドを導入し、医師、看護師、介護士、マッサージ師、在宅入浴など、多くの人々が毎日家に来て介護・看護してくれる。父の希望どおり、家族に見守られながら安らかに最期を過ごした。

しかし、母親の精神的な負担が大きかった。家の番人だった母親は、入れ代わり立ち代わり家に入ってくる人たちを把握しきれなかった。もうたくさん、止めて欲しいとパニックになっていた。
私が海外に出張するたびに父親の具合が悪くなった。父親の不安が高まり、「もう自分は死ぬ」と思っていたそうだ。いつも2時間ほどの距離に住む妹が駆けつけてくれた。

父親を見送ってから、母は、「もういつおさらばしてもいい」と口癖のように言い、認知症がみるみる悪化していった。再びケアマネジャーの登場だ。介護認定を受け、デイサービスを利用していたが、ついにトイレの始末もできなくなり、老人ホームに入居した。料金は高いが、24時間、丁寧なサービスを受けられる。私も毎朝近所のホームまで様子を見に行き、しばし落ち着いたとホッとする時間を持てた。しかし入居後3ヶ月して肺炎で熱発。救急車で大学病院に運ばれ、肺炎は治ったものの、嚥下困難となり経口摂取ができなくなった。中心静脈栄養も血管が破たんして、わずかな末梢血管への点滴のみの栄養しか入らなくなり、伴侶を亡くして1年半後にあっという間に夫のもとに旅立っていった。

結婚して実家を離れた妹は、自分自身の家庭を築いた後もよく実家をサポートしてくれた。
特に兄である私が妻を失ってから、公私に渡り私を支えてくれている。
両親が自立できなくなってからは頻繁に訪ね支えてくれた。
妹と私できょうだい喧嘩しながら、両親を見送った。
振り返れば、うちの家族は愛着に満ちていたのだと思う。

「親孝行」という言葉は時代錯誤、儒教的・封建的なイメージを抱くが、実は日本文化の中に脈々と生き続けている。
私が国際学会で日本の家族を説明するときによく使うキーワードだ。「親孝行(filial piety)」はアジアの家族に特徴的で、他の文化ではあまり見られないとされている。欧米では、子どもが成長して家を出れば親子それぞれが独立して、親も子も相互に扶養しあうことはない。しかし、実は、文化や時代を問わず、親が子を想う気持ち、子が親を想う気持ちは一生続いているはずだ。その表現方法ややり方が違うだけだ。

私にとって、それはごく自然な、当たり前のこと。なにも善い行いをしているわけではない。家族ライフサイクルの中に組み込まれている。人が自活できれば、関わる必要もない。自立できない時、つまり子どもが自立するまで、あるいは親が自立できなくなったら、家族が面倒を見る。子どもの保育機能と高齢者の介護機能が高まり、社会のケア機能も発達してきたが、最終責任は家族の心の中にあるように思う。

海外で自立し、活躍している同年代の友人たちの老親に介護が必要になると、帰国するケースを最近よく耳にする。特に女性が多い。ライフスタイルは欧米化しても、心は日本のようだ。

家族を失い見えてきたこと(3)父親との愛着

妻は突然の心筋梗塞で亡くなり、全く予期できなかった。
喪の作業(グリーフワーク)は何も心の準備ができておらず、激烈だった。

両親の喪失は事前に十分に予期できていたので、喪失前にグリーフワークを始めることができた。父が亡くなる前、そして亡くなった後。母が亡くなる前と亡くなった後に、様々な機会を利用して、自分自身のグリーフワークを丁寧に進めてきた。

グリーフ・ワーク(grief work, 喪の作業)=身近な人が死別した悲しみから精神的に立ち直るための作業。支援を受けながら、安全に気持ちを表出していく。

その中で、父親へのグリーフの方が、母親へのグリーフよりも大きいことを発見した。母親を失ったグリーフワークを進めていても、飛び出してくるのは父親へのグリーフであった。それは、喪失の悲しみというより、「ありがとう」という感謝の涙が繰り返し出てくる。奇妙だ。一体何が起きているのだろう?

どうも私は母親との愛着に比べ、父親との愛着がはるかに強かったということが見えてきた。両親を亡くす前には気づかなかったことだ。

通常、子どもは母親との間に第一の親として強い愛着関係を形成する。
父親との愛着関係は遅れてやってくる。あるいは、希薄なままであったりする(特に日本の家族では)。
しかし、私の場合、かなり早い段階で母親から父親に愛着対象が移った。
その要因として、
1)両親のチームワークで、しっかり確保された安全基地
2)父親の家族への積極的な関与
があった。

私の原家族の「いきものがかり」は父親だったのだ。
小学校のクラスには「いきもの係」がいる。教室にあるカメや金魚はクラスみんなが飼育するのだが、係の人が責任を持って担当する。
多くの家庭では母親が子ども係なのだが、うちは、父親だった。
日中、一緒にいるのは母親だったけど、大切な意思決定や責任は父親が担っていた。
妹が語れば、また違った物語があるかもしれないが、少なくとも私にとってはそうであった。

父親は教育心理学者であった。
臨床心理学ではないので臨床活動つまりクライエントには関わらないが、キャリア・ガイダンス(進路指導)が専門で、子どもの成長をどう導くかということを、学生や学校の教師たちに教えてきた。

私が2歳の時に生まれてきた妹に、母親のおっぱいを取られた。
父親がカバーしてくれて、私は父親のオッパイを触りながら寝ていた。
それが5-6歳の頃まで続いただろうか記憶が定かではないが、子どもながらに恥ずかしく、もし小学生になってもパパのオッパイなしで安心して寝られなかったらどうしようと思い悩んでいた。今から考えれば、これが父親との強固な愛着の基盤であった。

ちなみに、友人の精神科医、山登敬之は中学生まで母親の布団で寝ていたことを著書の中で回顧している(「母が認知症になってから考えたこと」講談社、2013年)。彼は本を書いて母親との愛着関係を整理しようとした。
私は、父親との関係性を理解するために本を書いた(「家族で往復書簡のすすめ:新しい父親像を発見するために」彩流社、2007年)。

父の実家は群馬の山奥、四万温泉の老舗旅館だ。現在は私の従弟が経営している。
父親は7人兄弟の次男として生まれた。
父親自身も祖父からたっぷり愛着を受けて育ってきたらしい。
山の複式学級の分校を出たら、前橋に出て兄と下宿して中学に通った。仙台の陸軍幼年学校で終戦を迎え、高校は浦和、大学は東京に出てきた。そのまま見合いして、東京で家族を築いた。
父が幼い頃、山奥からバスで前橋に降りてきて、利根川を見て「母ちゃん、これ海なのかい?」と尋ねたそうだ。都会のデパート食堂で初めてアイスクリームを食べて、世の中にこんなに美味しいものがあるのかと驚いたそうだ。

父親は山やスキーに連れて行ってくれた。
小学校に上がるか上がらないかの頃、実家の近くにあるリフトもない山の斜面だけの四万スキー場で、長靴を履いて滑った。以来、スキーが大好きになり、毎年、親と行くスキーがとても楽しみだった。南国生まれの母親も一度同行したことがあったが、懲りて二度と来なかった。

父は職場仲間との旅行によく連れて行ってくれた。
中1だったろうか、青森の酸ヶ湯温泉に泊まり、ロープウェイで八甲田山に登り、ガイドさんと一緒に誰もいない大斜面を滑り込んだ。その素晴らしさは今でも忘れられない。その後、高校山岳部で山スキーを経験して、今、この歳になってバックカントリー・スキーにはまっている。

山梨県の四尾連(しびれ)湖にキャンプに行っ際には、二人乗りのボートで湖に漕ぎ出すと霧が出てきて周りが真っ白の何も見えなくなった。父親との二人だけの世界をよく覚えている。

中学では野鳥観察クラブに入り、早起きして双眼鏡を持ち近所のお寺の森に出かけていた。
軽井沢の雑木林が野鳥観察のメッカだった。しかし、中学の教員だけでは遠出する許可が降りない。父親に頼んで、保護者の引率ということで、理科の先生も加わり、軽井沢の早朝探鳥が実現した。

父親は、私をソトの世界に連れ出してくれた。

小4でトランジスタ1石ラジオ作った。
その頃、模型工作にはまり、父親と一緒に神田の電気街に行き、ラジオ制作キットを買った。慣れない半田ごてを使いながらどうにか仕上げたとき、父親はとても褒めてくれた。
母親は電気工作など興味もなく、何も言わずに台所で料理していた。

私は体育会系だ。
中学は柔道部、高校は山岳部、大学はアメリカンフットボール部で過ごした。
男同士のラフな世界。
中学の1年生と3年生では、大きな体格差がある。中1の頃、3年生の先輩から寝技で首を絞められ、苦しむ私を先輩は上からニヤニヤ見ている。息ができず、とても怖かった。しかし、練習が終われば、気さくな優しい先輩に戻る。
高校山岳部の合宿では、大学生のOBがよく参加していた。
私は、運動部の先輩と気楽に付き合っていたように思う。ヒエラルキーを受け入れる一方で、どこか気楽に親しめた。これも父親との関係性が根底にあるのだろう。

大学生の頃、山スキーで遭難した。
北アルプスの栂池高原から登り、乗鞍岳を超えて蓮華温泉に滑り降りる予定が、とんでもない沢筋にはまり、友人とふたりで一晩ビバークした。翌朝、天気が回復してどうにかふもとまで降りてきたものの、今なら、捜索が出ていただろう。
そのことを後で、父親には話した。ビバークがどんな危険な状態か理解して、でもそれはありうることだから、怒ったり過剰に心配はしないだろうと予想したから話せた。
しかし、母親には話せなかった。話しても山の様子は理解できず、心配するだけだと思ったからだ。
父親は理解者で、母親は理解者ではなかった。

1年間のアメリカ高校留学は、私の海外デビューであった。
両親との安定した愛着は、1年間お世話になったhost parentsとの愛着形成も容易にした。
1970年代はAmerican Dreamが健在だった。現地で体験すること全てを理想化した。
Host fatherは朝鮮戦争を戦った空軍の退役パイロットで、繊維工場の副社長をしていた。5時に終業して、毎日5時15分過ぎには帰宅。料理したり、庭の芝を刈ったり家族にたくさん関わっていた。夏時間の夜は遅くまで明るく、広い庭を見下ろすテラスで、いつまでも夫婦そろって会話していた。子どもの前でも毎朝ハグしてキスしていた。当時の日本ではありえないことだった。これが私にとって夫役割のモデルになった。
Host motherは専業主婦。うつ病の薬を飲み、時々ソファで伏せっていた。一度、主治医の精神科医に会わせてくれた。「アジア系のアメリカ人で、家族思いのとてもいい先生なのよ。」というMomの言葉が、精神科医を選択した動機の一つになったのだと思う。Host fatherは強く、host motherは弱かった。

なぜ、私は海外に行きたかったのだろう?
今は高校留学も一般的になったが、当時はまれなことだった。
そこにも父親の影響が色濃くあったように思う。

私が子どもの頃、父親はときどき海外のゲストを家に招いていた。母が料理を作り、会食した。40歳を過ぎて国際学会にも出かけたが、英語が十分ではなく、思いを果たせなかったようだ。
父親の旅路は四万温泉から東京までだった。私の旅は東京でスタートして海外へ。父親の旅路を私が引き継いだ。

高校3年生で留学する希望を伝えると、担任教師は、「お前、大学に行けなくなるぞ」と反対した。母親にとっても高校生の息子が一人で海外に行ってしまうなんて、想像を絶することだったのだろう。でも、父親が全面的に賛成して、留学が実現した。

父親は、私のすぐ近くにいた。
僕の知らない外の世界に導いてくれた。押し出してくれた。
そこには、未知の新たな世界があった。

父親がモデルだった。父親の期待が、私の到達目標だった。

家族を失い見えてきたこと(4)母親との愛着

このように、父親との思い出はよく出てくる。
短気で、些細なことで怒り出す否定的な側面もあるが、ほとんどは肯定的な記憶だ。


一方、母親の記憶を辿ろうとしても、スムーズに出てこない。
と言っても、母親を嫌いとか、関係が薄かったということではない。
思い出を探れば、良いイメージも出てくる。


母は、呑気で楽天的で、明るかった。主婦でいつも家にいて、安心して家に戻ることができた。
子どもたちの学校のPTAでは生き生きと活躍していた。私の代にPTA役員にデビューして、それほどリーダーシップがあったとも思えないが、妹の時には小学校でも中学でも副会長までやっていた。


母親から勉強のことを言われた記憶がない。
教育係は父親だったし、父親は教育者のプロであったので、母親の出る幕はなかったのかもしれない。
大学の英文科を卒業した母親は実家に戻り、お茶やお花の花嫁修業をしながら、近所の子どもたちに英語を教えていた。私が子どもの頃も同じことをやっていた。小学5-6年の頃だったか、近所の子どもに交じって私も英語を教えてもらった。勉強というよりは、英単語のカルタをしたり遊び感覚だった。
中学に上がり、海外の国際文通や高校留学に興味を持った。すると父親が職場からアメリカの学校の教科書を仕入れてきて、一緒に読んだ記憶がある。母親は、熱心な父親の陰に隠れ、あまり出番がなかった。


同性の親である父は、尊敬する成長モデルであり、思春期には反抗して乗り越える対象だった。
母親は、弱かった。乗り越えたり反抗するほど強い人ではなかった。やさしく、いつもそばに居てくれる存在だった。


母親は方向音痴だった。
新婚の頃、買い物に出かけて迷子になり、家に帰れなくなったらしい。


小学生の頃、横浜方面に出かけたことがあった。
横浜・東京間はJRの京浜東北線と、私鉄の京浜急行が並走している。大森駅は京浜東北線を使う。
なのに、母は京浜急行に乗ろうとする。
小学生の私でも、電車の色が違うのは明らかだ。
「ママ、この電車でいいの?」と尋ねても
「『品川行き』と書いてあるから良いのよ。」
確かに、両方とも品川には行くんですけどねぇ。。。


母は気管支喘息があり、ホコリを吸うと発作を起こしていた。布団の上げ下げができず、父親がやっていた。それも私が二十歳くらいまでで、その後は発作もとまりケロッと良くなった。今から思えば何らかの心因があったのかと想像するが、実際のところはよくわからない。


私が小学生の頃、母が倒れたことがあった。トイレから出て、気を失い、洗濯機の角に頭をぶつけて、2−3日意識が朦朧としていた。今から振り返れば、起立性的低血圧による機能性脳虚血、一過性の健忘症だったのだろうが、当時は、これで「ママは一生頭がパーになるのか」と心配した。


私が大学受験の時、母は喘息の調子が悪く、寝込んでいた。
受験に出かける朝、「お弁当を作れなくてごめんね。」という。
弁当作りが子どもへの愛情を託すとても良い媒体であることは、私自身が親になってよく理解できる。しかし受験生だった当時の私は、弁当の良し悪しによって集中力も頭のキレも変わるわけでもないし、なぜそんなことで母が謝るのか、よく理解できなかった。


受験会場に行くと、母親が付き添っている受験生が結構いた。合格発表でも同様だ。
私はそんな連中の気が知れなかった。


アメリカ高校留学に出発する時、私は母親に
「僕は1年間、死んだと思って忘れてくれ!」と言ったそうだ。
私はそのことを覚えていないが、後で母が語ってくれた。
今から考えればひどいことを言ったものだが、当時の私としては、母親が私を心配する気持ちを解放してほしかったのだと思う。


私がアメリカにいる間、父親も文部省の在外研究員としてアメリカに1年間滞在していた。母と妹が日本に残り、父と私がアメリカに居て、家族がバラバラだった時期が半年ほどあった。
母と妹が、夏に父がいるミネソタを訪問した時、私がいたNorth Carolinaにも訪ねたいと電話で言ってきた。
私はその願いを断った。家族は滞在先を訪問しないという留学機関のルールもあったが、その時は、私がまだアメリカに来たばかりで、現地に溶け込もうと努力していた。Host Parentsとの愛着を形成しようとしている時に、Natural Parentsに来てほしくない。
親から離れたかった、自立したかった、自分の世界を作りたかった。それを親に邪魔されたくないという気持ちだったのかもしれない。
その半年後、12月のクリスマスには父親ひとりで訪ねて来てもらうのは問題なかった。その時は、留学生活も半年経ち、Host Parentsとの関係性にも自信を得られたのか。あるいは、父親なら問題なかったのか。

母親の心配の渦に巻き込まれるのはイヤだけど、父親とはその心配がないと思ったのかもしれない。

家族を失い見えてきたこと(5)家族体験と職業選択

こういう私の家族体験は、職業選択にも当然のことながら影響した。

医師になり、不登校・ひきこもりなどの思春期臨床を選んだのは、それを強く勧めた稲村氏の影響だ。まだ新しい分野だから手を付けている人が少ないという彼の熱意に動かされた。
しかし、彼には熱意はあっても理論モデルがなかった。我々弟子たちは各自それぞれが発達障害・統合失調症などの疾患(医学)モデル、精神分析などの心理モデルなどのさまざまな準拠枠を模索した。私が家族システム理論に乗り込んでいったは師匠や研究室の仲間に影響されたわけではなかった。1984年にミニューチンが来日して家族療法学会が立ち上がった時、私は27歳で大学院生だった。家族に興味を持っていたのだと思う。

私は30歳で結婚し、その翌年から3年間、ロンドンで家族療法を学んだ。
Virginia GoldnerがFeminism and family therapyについて講演した。
セラピーにおけるGenderの視点を初めて知り、とても新鮮だった。
当時は新婚時代で、夫婦関係の基礎を築こうとしていた。
帰国して、ふたりとも就職して、子どもを作る準備が整った。
36歳で父親になった。
私にしっかりとした父親が居てくれたように、私も子どもたちのしっかりした父親になりたい。父親モデルがあったのでイメージはつかめたはずだが、もっとしっかり極めたい。
当時、ジェンダーの視点は主に女性側からのアプローチだった。
家族療法の学会で、二人の年上の男性(中村伸一とDavid MiGill)が男性性のシンポジウムをやっていた。私も後輩として仲間に入れてもらい、その関係性は現在も続いている。

初めてMaurizio Andolfiと出会ったのも私が40歳の頃、駆け出しの父親をやっていた頃だった。2週間の集中グループトレーニングの中で、セラピスト自身の感性に迫り、男性も弱さを感情表出しても良いということを彼は示してくれた。Maurizioとの関係も、今でも継続している。

このようい振り返ると、私は多くの年上の男性と出会い、親密な関係を継続し、男性モデルとして取り込んできた。
一方、女性はモデルとはならなかった。今の臨床スーパーヴァイザーは女性で、多くの示唆をもらってはいるが、人生のモデルではない。恋愛対象はほとんどが年下だった。

-------

不登校・ひきこもり臨床では本人とは会えず、親と面談する場合が多い。臨床で出会う家族は、私が過ごした日米ふたつの家族と大きく異なっていた。父親が不在で、母親との距離がとても近い。なぜそうなるんだろうか?
支援者は、クライエントの病理や関係性を認知する時、自分の体験を準拠枠にする。
母親が心配するのはよくわかる。
それなら、なぜ父親はもっと関わらないのだろうか?

思春期の子どもたちを救うために、親の悩みをなんとかしたい。
戸惑っている家族を、特に男性を応援したい。
家族の関係性を変えれば、きっとうまくいくのではないだろうか。
そのような動機から、家族療法に入っていった。

母親のまなざしは、いつも不安を抱えていた。危険を察知し、守ろうとしてくれた。
それは、ありがたくもあり、束縛でもあった。
父親はソトの世界に連れ出してくれた。
山やスキーや、未知の世界へ。
危険を乗り越えて到達した達成感と解放感。
自分のテリトリーを増やせた自信。
そこには、遠くから見守ってくれる家族がいた。

人は、学校、仕事、結婚、子育てと、前に進んでいく。
不安も伴う。
思春期に前に進めなくなり、親は子どもの背中を押せなくなっている。
不安を乗り越え、前に進んでいく手助け。

リスクを乗り越え、変化を促す父性的な関わりが、私の原体験に由来した、支援の基本姿勢です。