2012年6月28日木曜日

高校生からのフィードバック

高校で「精神科医・心理カウンセラーの仕事」の話をして、彼らからのフィードバックが来た。私の話がどのように彼らに入り、どのように感じているのか、自分自身で振り返るために貴重だ。高校1年生の視点はとても新鮮だ。
大学で教えていた時も、学生からのフィードバックを活用していた。
そういえば、相談ではあまりフィードバックをもらっていないな。率直に言ってもらえるようなシステムを考えなくては。

(豊かさ)

l  精神的な豊かさとは自分と向き合い相手を受け止める包容力だという点に共感できました。信頼関係や気持ちのコントロールが大切なこの仕事をやることによって、自分自身も少しずつ成長していけるのだと思いました。
l  高校のことから自分でカウンセリングクリニックを開業するまでの経緯を聞けてとても楽しく面白かったです。物質的な豊かさと精神的な豊かさの違いや、人の話を聴くときに気をつけることなど、考えさせるためになる話ばかりでした。この講義を通して、もっといろいろな人々とのコミュニケーションによって自分の心を耕し、他人のことをもっと思いやれる人間になろうと思いました。
l  豊かさや幸せについて、生命や人について深く考えさせられました。日本では精神科医や心理カウンセラーは暗いイメージでおかしい人たちが集まる場所だと言われていると知りました。実際にはそういうことはなく欧米ではオープンだと知りました。また精神科医になるには今から自分自身の心を理解すること、体験を広げること、いろんな人生経験が必要になると知りました。患者の話(ストレス)を聞くには心を強くしなければいけないことにも気づきました。精神科医は医学だけど文系寄りで、大学の医学部に入らなければいけません。そこは理系を学ばなきゃいけないので、そこは良くないと思います。
l  「幸せ」とは何か、すごく重い質問だなと思いました。私の中での「幸せ」は家族がいて、信頼できる友だちがいて、ごく普通の生活を送れることです。欲はきっと出せばたくさん出てきます。しかし、今高校生として過ごしている日々が「幸せ」なのだということに改めて気づくことができました。そして友だちの大切さ、家族の大切さについても改めて考え直すことが出来ました。

(聴くこと)
l  人の話を聴く際に大切なポイントをたくさん学べてためになりました。これからもそのコツ(?)を生かしたいです。
l  「耳で聞くのではなく、心で聴く」という言葉は今、いじめや孤立が多発しているこの社会で大切な言葉だと感じました。ひとりひとりに対してこのような言葉を言うだろう先生を見て、心理カウンセラー・精神科医に一段と興味がわきました。
l  先生は患者さんの話を聴くとき、その人の立場になって考えるとおっしゃっていました。私も学校生活で「自分がイヤなことは人にはしない」と教わりました。それは相手の立場に立って考えるという点で共通する部分があると思います。
l  人に対して肯定的な目線で見て、人の話を心で聴くというのは心理カウンセラーでなくとも大切なことだと思うので、心がけてみようと思います。
l  「心で聴く」というのに感動しました。私は将来心理カウンセラーになりたいとか決まっていないけど、友だちの相談とかを心で聴いて誰かの役に立てたらいいなあと思いました。
l  ゆっくりじっくり時間をかけて人に接しているのがとても良く分かりました。人と接することって大切なんだなと改めて感じました。「聞く」じゃなくて「聴く」っていうのにじわっときました。ステキな職業だと思いました。
l  「自分と置き換えて心で聴く」というのを聞き、自分もこれから相談を受けた時にキチンと相手のことを考えて自分に置き換えて適切にアドバイスできるようになりたいです。

(自己理解)
l  勉強して資格を取るだけでなく、いろいろな人を知り、いろいろな体験をして自分の心を知り、それを耕すことが大事だということを知り、今からやれることがより具体的に見えてきました。他の人の心をケアして救うには、まず自分の心をケアすることがいかに大事かわかりました。人の命を扱うことにもなるので、とても責任が重い仕事だと感じました。
l  人と接するときは、自分の体験、気持ちとも重ね合わせたり、信頼関係・安心感を築くためにも相手のすべてを否定するのではなく、良いところを見つけるために肯定することが大切だとわかった。自分の心のケアも大切にしていこうと思う。
l  精神科医になるには自分の心を理解し、相手の心を理解してあげなければいけない。でも患者さんが元気になった時にはやりがいを感じられるという所にとても興味を持ちました。
l  自分の心をしっかり持っていることはすごく大切なんだと思いました。人のいろんな気持ちを受け止めるためには自分が自分の心をよく知っていて、自分がその人の気持ちになって苦しい時の対処法を考えてあげたりすることが大切なんだということも勉強になりました。コップを自分の心に例えてお話ししてくださったとき、すごく分かりやすかったです。
l  精神科医は勉強すればできるものだと思っていたのですが、話を聞いていると自分の心をきちんとコントロールすることが必要だとわかりました。私はそういう点にあまり自信がないので修業が必要ですね。
l  これからは自分のことを肯定できるようになりたいです。肯定出来たら周りの人のことを支えたいです。
l  田村さんは自分にストレスがあまり無ければ人の話を聞いても重い気持ちにならないと話してくださいましたが、これはとても大変なことだと思った。信頼関係や自分のことを理解することなど、どれも生きていくために大切なことだと思う。でも人の悩みを解決できたときの達成感はとてもすごいと思う。

(マイナスのイメージ)
l  精神科医ときくとイマイチ何をしているのかわからなかったけど、少し仕事の内容を知れてよかった。薬をあまり使わず話をきくという内容は決してネガティブなものじゃないとわかった、、、というより自分は精神科医にすごく否定的なイメージを持っていたんだとわかった。話をきき、すごくハードな仕事だと思ったし、継続するには自分にも精神力が必要で大変だとわかった。
l  他者の心をいやすということは簡単ではないと改めて感じました。勉強しなくてはならないことが多いこともあるし、人対人なので複雑であることも知りました。また日本と海外の認識の違いには驚きました。私は恥ずかしながら典型的な日本人の考えでした。
l  日本で精神科医とか精神病がネガティブに思われているというのが印象に残りました。身体の病は目に見えるけど、心の病は目に見えないからもっと周りの人の理解が必要だし、人々の精神病に対する先入観を取り払って意識を変えていくべきだと思いました。

(当事者)
l  私も何度か精神科医・カウンセラーの方にお世話になり救われた一人ですので今回の言葉は良い経験になりました。
l  私はうつ病の家族がいるので先生の話を聞き対応のバリエーションが増えたと思います。人間の感情・気持ちはなんであるのだろうという疑問についてもっと深く考えていこうと思います。
l  私は中学生の時、学校での友だちとの関係でひどく気分が落ち込んで学校に行けなくなってしまったことがありました。それを何とか乗り越えた後、今度は自分が周りの悩んでいる人や苦しんでいる人の気持ちがわかるようになり、そういった人たちの助けになりたいと思うようになりました。
l  私は精神的に悩むことがたくさんあり、家族も情緒不安定なときがあって精神科に興味を持つ機会がありました。今日のお話を聞いて、自分自身すこし楽になりました。

(その他)
l  私はどちらかというとpositiveに物事を考えるので、カウンセリングなど人の悩みを聴くことは得意だと思います。
l  精神科医や心理カウンセラーになるために必要なことを具体的に知ることが出来ました。この仕事はなるまでも大変ですが、なってからも患者さんの「心」という一番むずかしいものを扱うので容易にできる仕事ではないことも感じました。
l  精神科医と心理カウンセラーは違うものだと今日はじめて知りました。
l  精神科医はアドバイスをしてあげるものだと思ってましたが、話をすることによって新たな答えを出す手助けをするものだと知り驚きました。
l  私は将来外国で仕事したいと考えています。今日の講座で心理カウンセラーとして活躍していきたいと思うようになりました。
l  海外に留学したときに精神科医に触れて興味がわいて、精神科医になられたということで、将来の夢はふとしたところにあるんだと思えた。

2012年6月26日火曜日

子どもから思春期へ。子どもの心の発達と社会性の獲得


なぜひきこもるのでしょうか。いろいろな識者がいろいろなことを言っていますが、これが定説だという考え方はまだありません。その中で、私の経験に基づいた、私なりの見方をご紹介します。
ひきこもりは心の病気ではない、怠けや甘えでもない、友だちからのいじめでもない、親のしつけの責任でもない、学校の責任でもない、世の中(社会)の責任でもないと考えています。いえ、もっと正確に言えばこれらのことすべてが微妙に関連しています。でも、その根っこにあるのは子どもから大人へと心が成長していく過程におけるつまづきです。別に誰が悪いわけでもありません。本来なら自然に成長していくはずの心が、なぜかうまくいきません。子どもは「ウチ」の世界にいて周りから守られ、大人は「ソト」の世界で自分自身を守ります。この「子どもの心」から「大人の心」へ十分に移行していないまま「大人の社会」に入ってしまったための矛盾がひきこもりです。
子どもの心とは、大人の心とは、そしてそれがどのようにして切り替わっていくのかを順に説明しましょう。

子どもの心

乳幼児から思春期に入る前、つまり10歳くらいまでは家庭や保育園・幼稚園・小学校など「ウチ」の世界に留まり、親や教師など保護してくれる人によって守られています。
子どもは基本的に無力な存在です。外敵から自分を守る力はまだありません。保護者が守ってくれなければ自分は成り立たちません。無条件に愛し、肯定・承認してくれる人が必要です。多くの場合そのような愛着対象は親ですが、保育者や小学校の先生などのこともあります。子どもは心も体もその人にピッタリくっつき全面的に頼ります。保護者はちゃんとそれを受け止め、子どものニーズに応え、何をしても見捨てられることなく守られているという安心感を与えます。そのような基本的な安心感と信頼関係が成立していると自分はこの世に生まれてきて良かったのだ、この世は基本的に安心できる場所なんだという感覚を抱きます。
保護者が自分のことをすべて面倒みてくれ、うまくいかなければ保護者が責任をとってくれます。このような安全な居場所の中で子どもは「100%の自分」になることができます。それは絶対的な自己肯定の感覚、つまり保護者によって約束された自己万能感です。それが元になり、思春期以降に他力から自力へと肯定感の基礎を徐々に移行してゆきます。子ども時代の肯定感は他者によって与えられたもので、大人が持つ自己肯定は自分の力によるものです。でも子ども自身はその違いに気づきません。
保護者からの承認(愛情)を十分に得ることで、自己万能感が満たされ、満足し、そこから安心して離れていくことができます。しかし十分な承認が得られないと、思春期以降になっても他者の愛着を求め続けます。自分ひとりでできる実力を獲得しても、自分としてはできているんだという感覚を持てません。そのためにいつまでも愛着対象を求め続け、うまく自立できません。

大人の心


このようにして作られた子ども時代の自我は、10歳から12-3歳くらいの思春期に大きく変化します。まず男の子、女の子らしい身体の変化が現れ、少し遅れて心の変化が現れます。親の庇護から抜け出し自分の力で生きようという欲求が自然に湧いてきます。
子どもの心から大人の心への移行は時間がかかります。行きつ戻りつ徐々に成長してゆきます。そのプロセスは複雑です。しかし通常はあえてそれを理解しなくても自然に成長してゆけるから大丈夫です。でもそれがうまくいかない場合や、そういう人を支援するためには「子どもの心」と「大人の心」の違いを理解しなければなりません。

試練が成長を促す

大人の心への変換のきっかけ(試金石)は失敗体験やトラウマ体験です。生活が平穏無事なときには、心をたくさん働かせなくても生活できます。しかし何かの困難に直面した時に、心をどう使うかということが試されます。それをどうにか乗り越える過程で心の力を育むことができます。ふつう失敗やトラウマは心が痛いですから避けようとします。でも、本当はそれが成長できるためのよいチャンスなのです。
思春期は「子どもの心」と「大人の心」の両方を持ち、場面に応じて使い分けます。大人になっても、「子どもの心」が全く消える訳ではありません。ほとんどの場面で「大人の心」を使いますが、逆境の時などは「子どもの心」に逆戻りします。それが退行現象です。
私が小学校5年生くらいの時だったでしょうか、それまで仲良く一緒に登校していた友だちにいじめられました。といっても大したいじめではありません。小学校の若い美人の「先生のおっぱい大きいね」と友だちに気を許して洩らしたら、まわりの友達に言いふらしてみんなから「エッチな田村!」とからかわれました。今から思えば思春期の性の発来で普通のことですが、当時の私はとても恥ずかしく、自分が否定された気持ちでした。辛くて我慢できず、夕食の時に親に話して泣いた覚えがあります。でも、それに対して親が何をしてくれたかは覚えていません。多分、私の話を聞いて受け止めて、軽く慰めてくれたように思います。自分でも、親に言ってもどうしようもないことはわかっていました。その後の出来事はあまり覚えていません。その近所の友人とはそれまでの近しい関係から少し距離を開け、別々に登校するようになったくらいで、ふつうに付き合っていたように思います。
このような試練に出会うと、「子どもの心」は自分で対処せず保護者に期待します。でも保護者が手伝ってくれないと自分でどうにかするしかないという「大人の心」が芽生えます。小学生だった私の窮地を親はわかってはくれたものの、何も手助けをしてくれませんでした。上手ではなくてもどうにか処理できた時、自分でできるのだという感覚を少しずつ積み上げてゆくことができます。

やる気=内発的動機づけ(親のエンジン・子のエンジン)

何ごとでもやる気を出して取り組むためには原動力(エンジン)が必要です。子どもは親のエンジンで動きます。自分自身では何をどうしたら良いのかわからず、保護者が朝起きなさい、学校行きなさい、歯を磨きなさい、ゲームをやめなさい、勉強しなさい、テレビをやめて風呂に入りなさい、もう寝なさいなどなどこと細かく注意して、子どもはそれに従うことで物事を達成できます。
思春期以降は言うまでもなく自分自身のエンジンで動きます。まわりの状況を見渡し、自分のおかれた状況を把握し、将来のことを見通して今なにをしなければならないのか見通し実行する能力です。これはほっておいても成長と共に自然に芽生えてきます。
ここでエンジンの比喩を使った理由は、エンジンがふたつあると困るということを伝えたいからです。子どものエンジンを使うためには、それまで使ってきた親のエンジンを止めなければなりません。しかし、子ども自身のエンジンに任せることは思いのほか難しいものです。なぜなら、子どものエンジンは親のエンジンよりも性能が低く、たびたびエンストを起こしてしまうからです。このころの子どもは「子どもの心」と「大人の心」を行きつ戻りつしています。「子どもの心」に戻ると、親に期待して自分のエンジンを止めてしまいます。そこで親がすぐにエンジンを貸すと、その場は良いのですが結果的に子どものエンジンを試す機会が失われます。エンストしそうになって親のエンジンを貸してくれと言われても、すぐには貸さず子どものエンジンがまた動き出すまで見守る対応が大切です。

(この話題についてはすでに何度か書きました)

子どもが成長して高校生や大学生になっても、親の目に映る子どもは可愛かった小さい頃の姿です。小学校に上がるまでは、親が一生懸命に子どもに手をかけて、愛情をたっぷり与えるのがベストです。それは、中学生くらいで終わりにしなければならないのだけど、その時期を逸してしまったようです。大学に入り、つまづいたタロウ君に、相変わらず一生懸命親のエンジンを差し出していました。
エンジンの付け替え作業には親の協力が必須です。いくら子どものエンジンが動き出しても、親のエンジンも動いていたらうまくいきません。ひとつの車にエンジンがふたつもあったら暴走してしまいます。親のエンジンを停止させること。その作業が必要です。

コミュニケーション能力

ソトの世界では異質な人たちがお互いに折り合いながら自分のニーズを満たします。他者のニーズと自分のニーズは完全には一致しないものです。相手と折り合うためには自己を部分修正し、相手も部分的に修正してもらうよう依頼します。それがコミュニケーションです。そのために相手にメッセージを届ける能力と、相手のメッセージを受け取る能力のふたつのスキルを使います。
自分がこうしたいという欲求を相手が理解できる形ではっきり伝える能力が自己主張性(アサーティブネス)です。相手の都合を保留にして、自分自身を押し出し正当に主張します。いくら丁寧に伝えても相手に届かなかったり、否定的にとらえられたり、誤解されるリスクを覚悟しなければなりません。
もうひとつは他者からのメッセージを理解して、その気持ちを受け入れる共感能力です。相手が伝えようとしていることを理解し、まわりの状況と照らし合わせながら相手の気持ちやニーズを受け取り、自分自身を曲げてそれに適合させます。
このふたつの調整は結構むずかしいものです。自分のことばかり押し出すと自己中心的なり、まわりから浮いてしまいます。逆に相手のことばかり受け入れてしまうと自分がなくなってしまいます。自己をしっかり押しだしつつも相手に適合し、うまく折り合わねばなりません。
日本文化では自己主張性があまり好まれず、他者指向性つまり相手や場の雰囲気に自分を合わせようとします。その傾向が強まると相手の言動に過度に敏感になり、自分を抑え込みます。すると相手の些細な言動によって自分が全面的に否定されたと感じ、自分が受け入れられない場を諦めて全面撤退します。

痛みを請け負う(感情のコントロール)

ソトの世界では自分の思いどおりになることは不可能で必ず傷つきます。自分の思いが達成できず落胆したり、相手から自尊心を傷つけられたり、大切な物や人を失い悲しんだり、奪った人に対して怒ったりします。このようなマイナスの気持ちに向き合うのは辛く痛いことです。子ども時代は保護者が責任をとりカバーしてくれますから、自分が痛みを請け負わずに済みます。しかしソトの世界に飛び立つと、自分でどうにかして痛みに向き合わねばなりません。自分の気持ちをなんとかコントロールして自己が崩壊せずに平常心を維持できれば、痛みを切り抜けた成功体験となり自信を得ます。逆に痛みをうまくコントロールできないと、不安が大きくなりパニックになったり、怒りが爆発したり、感情を遮断してうつになったりします。何度かこのような失敗を繰り返す中で、だんだんとうまくコントロールできるようになっていきます。いきなり一発でうまくできるようになることはありません。必ず失敗します。

自己責任

「大人の心」は成功も失敗も自分の責任です。しかし痛みを自分自身で引き受けることが辛すぎて処理しきれないと、「大人の心」をあきらめ「子どもの心」に戻り、保護者に責任を取ってもらいます。自分の失敗は保護者のせいですから、もっとちゃんとしてくれと要求したり不満や怒りをぶつけます。
だからと言って「ソトの世界」に踏みとどまるためには、すべての責任を自分でかぶるのが良いというわけではありません。客観的にみて学校、学校、職場、社会などを含め相手の責任が問われるべき状況もあります。自己責任か相手の責任かという判断は難しく、やみくもに自己責任を避けようとするのではなく、自分も相手も完璧な100%はあり得ないという前提のもとで冷静に判断します。自己責任論を拡大解釈すると「努力が足りない、もっとがんばりなさい」といった根性論になってしまいます。どうすることもできない困難さを抱えた現実を認め、限られた資源の中で折り合いつつも、どう自分のニーズを最大限に実現させるかと考えます。

このように試行錯誤しながら、徐々に「大人の心」に成長すると次のような資質を獲得してゆきます。

自信(肯定的な自己評価)

子ども時代は、保護者が守ってくれるという条件のもとで何でもできるという受動的な期待(自己万能感)を持っています。万能感の由来は自分自身ではなくまわりの保護者なので、プライドが高く守られたワク組みのなかでは高慢に振舞います。それとソトの世界における自信(自己肯定)は全く異なります。ソトの世界で自分は他の人たちと肩を並べるだけの資格があるんだ、引けを取らないのだという感覚です。それは自分の能力・資質の認知と成功体験に由来します。自分の能力、たとえば学力、体力・運動能力、容姿などを含め、自分は他の人たちと対等に渡り合えるだけのスペックを持っているんだという感覚です。さらに自分の能力・資質を認めてもらうためにはコミュニケーション能力も必要です。多分大丈夫だろうという予測があれば、思い切って試してみることができます。うまくいかなくても何度かトライしたらうまくいったという成功体験を積み重ねることにより自信を獲得してゆきます。
もちろん、ひとりだけの力ではうまくいきません。まわりに助けを求めることも必要です。しかし、まわりの力を導き出すことも自分の責任であり、まわりがうまく助けてくれなくても、責任をまわりに押し付けません。

等身大の自己像(70%の自己、傷ついた自分を受け入れる自信)

ウチの世界では自己万能感、つまり100%の自分でいることができます。しかし、外の世界では自分の思い通りの100%をキープすることは不可能です。小学3-4年生くらいまではまだのんびり子どもで居られますが、思春期に入るとさまざまな試練が待ち受けています。中学・高校、大学、就業、結婚、子育てなどなど、勉強や仕事、役割に求められる要求水準はだんだん高くなっていきます。すべてかなえられるのはごく少数の限られた人でしょう。また、人と折り合うためには自分がOKであると同時に相手もOKであると認めなくてはなりません。自分も肯定しつつ、相手も肯定するという不可能な選択を迫られます。スポーツ選手やケーキ屋さんなど子ども時代に描いていた将来の夢を縮小・変更し、ソトの世界で折り合うために自分らしさの一部を切り捨て、60-70%くらいの自己像に縮小します。
そのためには安全に傷つき、縮んだ自分が他者によって肯定されなければなりません。つまり、致命傷ではない程度に否定され、同時に否定された自己を肯定される体験です。
私は小学3生の頃、給食時間の静かにするべき放送時間に騒いで大好きだった担任の先生から注意され体罰(ビンタ)を受けました。ショックでとても傷つきましたが、その先生は他の面では私を認めてくれていました。
また中学1年生の時、柔道部にいた私は3年生の先輩から気絶するほど投げられひどく傷つきました。中学の頃の2年差はかなりの体力差があります。しかし私を痛みつけたその先輩は部長として皆から慕われていました。
これらは自己を否定され傷つけられつつ、同じ相手から肯定もされている点で共通しています。このようにして、私自身は夢破れ、縮んでしまった自分を受け入れてきたように思います。

居場所(立ち位置)の確保

ウチの世界では保護者が安全な居場所を提供してくれますから自ら居場所を探す必要はありません。ソトの世界では自分の居場所を自らの力で確保しなければなりません。広い異質な世界の中で、自分の存在が認められ、ここに居て良いという安心感を確保し、自分のニーズが満たされる定位置を自らの力で見つけ出します。それは仲間関係や学校、職場、地域コミュニティ、あるいは結婚して自分で作り出す家族などです。
居場所の確保は集団志向性が強い日本文化に生きる我々にとって特に大切です。欧米文化的な独立志向が弱く、「世間」の中で生きることが生きがいにつながります。宗教の規範が強い文化では神といったような超越した存在と自己との契約により自分の存在価値が証明されます。したがって神さまに見捨てられたら自分の存在が危機に陥ります。ムラ社会的な日本の文化では神の代わりに「世間」、つまり自分が所属する居場所が自己の実存証明を与えてくれます。したがって村八分やいじめのように居場所から疎外されると自己の存在が危機に陥ります。自分の居場所を失った「ひきこもり」も同様です。

ソトの世界での親密性

ソトの世界の中に安心できる関係を築いていきます。それは親の代わりになるような、しっかりした規範を持ち、見習うべき人です。学校や塾の先生、スポーツクラブや地域活動の指導者、クラブ活動の先輩などが一般的です。お互いに分かり合える親友も含まれます。やがて、恋愛対象を見出し、一対一の排他的な親密性を形成します。そのようにして、ソトの世界にも確固とした拠り所を作っていきます。

親との関係の再調整

自立するとは、支配下にある絶対的な親を引き摺り下ろして相対化します。いわば親の支配から脱したのだという独立宣言であり、独立を獲得するために戦争(=反抗)します。その戦いの後に和解が来ます。もはや親に完全性を求めず、親の限界・欠点を客観的に認めます。親はいなくても自己を維持することができ、必要不可欠な存在から空気のような存在に変わります。
無条件の愛情・保護を与えてくれる母性が相対化され、もはやこの人には依存できないなと諦め、飲み込まれるポジションから自分を切り離します。
偉大で尊敬すべき父性の権威性に挑戦します。子どもの頃は尊敬し、従うべき人だったのが、対等に話し合い折り合える人になります。そうすれば権威性を自分自身に取り込み内在化できるようになります。
これらが不十分だといつまでも親の支配下とどまり、抜け出すために反抗しなければなりません。まごまごしているとまた支配されてしまうから、親を遠ざけようと否定しつづけます。そうしないとまた親に飲みまれる恐怖を抱きます。親との和解が不十分だと親への憎しみ・怒りをいつまでも抱きます。

心の成長とひきこもり


ひきこもりの本態は子どもの心から大人の心にうまく切り替わっていない状態です。子どもの心から大人の心切り替わるタイミングが人より遅れる場合があります。それは劣っているとか悪いとかということではありません。たとえば身長は高い方が優れているように受け取られ、実際に得することも多いのですが、だからといって高い方が人間として優れていて、幸せな人生を送れる確率が高いわけではありません。それと同様に大人の心に早く移行していくことが優れているとか有能であるということではありません。いつ頃、どのようにして移るのは人それぞれの個性です。
しかし、実際にはそううまくはいきません。だいたい小学校高学年から中学くらいの時期に、仲間たちは個を意識し始めて、大人の心を試し始めます。その時に出遅れ子どもの心のままで仲間集団に入ると、子どもの心のままソトの世界で勝負しなければなりません。そうすると次のような問題が生じます。

プライドが高い

100%の幼児的自己万能感の世界にいると、自分の思いどおりの100%でいるか、それがかなわなければ全部やめる0%かの二者択一、「all or nothing」のどちらかで中間はあり得ません。高いプライドを取り崩して修正するなんてもってのほか、それくらいなら全面撤退します。プライドが傷つくと自分が自分ではなくなる不安を抱き、傷つくかもしれない場面を極力回避します。

人との関係がうまくいかない

他者が自分のことを全面的に受け入れ認めてくれることを期待するので、他者が自分のことをわかってくれないと相手から否定されたと感じます。それは相手からいじめられたという感覚になります。その内容を聞いてみると相手が自分の意にそぐわないことを言った、バカにされること(自分の価値を下げられるようなこと)を言われたなどです。「無視される」こともよくあります。しかしよく聞いてみると「3人で話していたらAさんが私よりもBさんと話して、私とはあまり話してくれない。」といった内容です。つまり、ソトの世界ではごく普通の出来事ですが、自分中心のウチの世界ではありえないことです。意図して相手を傷つけるようなモラルに反する「ひどいいじめ」というよりは、自己万能を傷つける、あくまで本人にとっての「いじめ」です。
また、自分のプライドを下げる、つまり自分という枠組みを変更するつもりはないので、自分を取り下げ相手に合わせるような状況を避けます。相手の言動に過敏になり、些細な言葉で傷つき、自分の働きかけに反応がないと無視された、否定されたと感じます。安定した仲間関係を築くことができず孤立します。表面上は通常の仲間関係を保っていても、内心は常に不安を抱いています。このように学校や職場など本来なら安心できるはずの居場所が、相手の反応におびえ、傷つくことが不安な場所になってしまい、疲れるので撤退します。

やる気が起きない

朝起きれない、勉強する気になれない、学校に行く意欲が出ないなど、自らやる気を出すことができません。しかし、週末に仲の良い友達と遊園地に遊びに行くなど、自分のやりたいこと、思い通りになることには十分な意欲を持つので、まわりからは「怠け・甘え」と見られてしまいます。これはどういうことかというと、ソトの世界で大人の心を使わなければならない場面には入りたくないので、動機づけを持てません。しかし、親しい仲間と遊ぶのはウチの世界です。そのような動機づけは持っているので、生活の全般に意欲が低下してしまう「うつ症状」ではありません。ソトの世界にスムーズに入っていけないだけで、ズルして怠けたり甘えたりしているわけでもありません。

自信を持てない

ソトの世界で、まわりの人との関係性の取り方をとても気にして、いつも心配ビクビクしています。まわりが自分のことをどう見ているかとても気にして、自分の存在がその場にマイナスの影響を与えているのではないか、自分はこの場にいるほど良いものではないのではないか、劣っているのではないだろうかと心配します。そのため、自分がいることがまわりの人たちに不快を与えていないかと気にします。具体的には自分の姿や声が変に聞こえないだろうか、ヘンなにおいを発してまわりに迷惑をかけていないだろうか、自分が怒っているように受け取られてしまうのではないかなどと気にします。そのため、電車など公共の場や学校、職場などで落ち着かなくリラックスできず、緊張して固まってしまいます。
自分自身に劣等感を抱きます。しかし、具体的に何に劣等感を持っているのかはっきりしません。勉強ができるか、運動ができるか、容姿なのか、まわりから見れば全然コンプレックスを抱く必要はないとみられますが、本人にとって具体的に何が劣っていると明らかにはできないけれど、とにかく自分が不自然、自分を出したくない、なにか自分はまわりの人たちと違っている、劣っていると感じます。
このように人とうまくやっていけず、自信がない状態が長く続くと、生きている目的や意味が見えなくなり、生きていること自体が苦痛になります。

親を責める

ウチの世界にいると、失敗は自己責任ではなく保護してくれるはずの人の責任と考えます。したがって学校のせい、友だちのせい、親のせいなどと周りの人に責任を求めます。「自分がこうなったのは、親がちゃんと自分を育ててくれなかったからだ」というような発言はその典型です。

ウチの世界に押しとどめる要因


揺れ動く心

子どもの心と大人の心という葛藤は何も思春期に限ったことではありません。大人になっても一生つきまとうものです。子どもの心から大人の心へ切り替わる(成長する)というように普通は考えますが、私は別の視点を持っています。それは、大人も子どもも年齢に関係なく、子どもの心と大人の心のふたつを持ち、その両者で常に揺れ動いているという見方です。幼い子どもは「子どもの心」しか持ちませんが、思春期以降は「子どもの心」と「大人の心」の両方を持ち、使い分けています。思春期に入りたての頃は、「子どもの心」がまだ多く、「大人の心」は芽生えたばかりでなかなかうまく使えないでしょう。立派な大人になれば「大人の心」を主に使いますが、ストレスで心が疲れた時、失敗して自信を失くした時など逆境に陥ると、一時的に「子どもの心」に撤退します。保護して(支えて)くれる他者を求めたり、アルコールや薬物などに依存します。
思春期の頃はまだ「大人の心」を使い慣れていないのでなおさらのことです。弱気な子どもと元気な大人との間で常に揺れ動いています。それが子ども側に行きっぱなしになり、大人側に行けなくなってしまった状態がひきこもりです。長期化すると、どうしても悪循環にはまりソトの世界に向かう足掛かりが遠のいてしまいます。長い間学校や仕事などを休んでいると、ソトの世界自体が先に行ってしまいます。ソトの世界に戻ろうとしても、勉強や仕事、そして仲間関係も先に進んでしまい、途中から入っていくことが難しくなります。

ウチの世界に押しとどめる要因

ふつう誰でもウチの世界からソトの世界に自然に移行していきます。しかし、ウチの世界に押しとどめる要因があると、うまく移行できません。その要因は具体的には次のようなことです。

心の病気

心の病気に罹っていると、ソトの世界に行く力が妨げられてしまいます。
統合失調症では自分とまわりの世界との関わり方が歪められ、幻覚や妄想などまわりが自分の中に入り込んでしまう不安を抱きます。そのため、他者や社会との間に壁を作ろうとします。また、全般的に意欲が低下してひきこもってしまいます。
うつ病では意欲が低下し、ものごとを悲観的にとらえ、前に進む自信を失い、ソトに向かう元気が失われてしまいます。
広汎性発達障害、アスペルガー症候群、ADHDなど発達障害では見たり聞いたり、取り入れた情報をどう解釈するかという認知がうまくいきません。そのために、相手の気持ちを推し測りたり、場の雰囲気を読むのが苦手です。そのために対人関係がうまくいかず失敗を重ね、自信を失い撤退してしまいます。
PTSD(心的外傷後ストレス障害)は過去のトラウマ(外傷体験)のために再び同じような体験を繰り返すことに対して敏感になります。ビクビクして新しい場所に入っていくことを躊躇します。

わがまま・甘え・怠け

よく「ひきこもりやうつ病はワガママ病だ」というような言い方をされます。それは偏見に満ちた表現であって、本当はそうではないのだと専門家は伝えますが、よく掘り下げるとその指摘は間違ってはいないのかもしれません。幼児期はみな「わがまま(我儘)」です。我がそのままの状態、つまり自分の思い通りの世界にいて保護者が安全を保証してくれます。幼児期には「わがまま」であることが必要なのです。
甘えとは人に依存する状態です。自分の力をあきらめ、他の力に頼ろうとします。これも、子ども時代は必要なことで、甘えられる他者がいて、その人が自分の欲求を満たしてくれます。それは大人となり自立した後でもみられます。ひと一人では生きてゆけません。他者と関わり、助けを求めることもあります。支援を求める欲求が依存(甘え)です。「甘え」自体は人にとって普遍な気持ちです。
しかし、わがままで甘えている状態とともに、ソトで生きるためには自立した生き方も必要です。大人になっても我が儘・甘えの世界から抜け出せなければ否定的な評価につながりますが、思春期の「わがまま」をそのまま否定的にとらえられるべきではないと思います。この時期は適度に甘え、わがままになることは必要です。

いじめ

友だちからのいじめは自分の安全を脅かすので、ソトの世界へ行くことを躊躇させてしまいます。しかし、いじめの程度がどれほどであるかはいろいろあります。
軽いいじめはソトの世界に導くきっかけとなります。ウチの世界からソトの世界に出始めるとき、他者とのいざこざやうまくいかないことに遭遇します。そのようなストレスに傷つきながらも乗り越えることを学びソトの世界に入っていきます。小さな傷まで保護者が守ってしまったら、ソトの世界に移行するきっかけを失うことになります。そのようないじめはむしろ歓迎するくらいです。
その一方で、客観的に判断してどうみても悪質だなといういじめは人を大きく傷つけます。そのようないじめはみんなが協力してなくさなければなりません。しかし、ことひきこもりに関しては、そのようなケースは少ないのが現状です。

学校の問題

今の学校はさまざまな問題や矛盾を抱えています。教師や学校という枠組みが子どもを傷つけ、ダメにする例もあります。その学校全体で、あるいは特定のクラスに暴力、落ち着きのなさ、いじめ、不登校など子どもたちのさまざまな問題が多発しているようだったら、学校の管理能力は教師の指導力の問題だと思います。学校がどうにかしなくてはなりません。もし問題があったとしても、他の子どもたちはなんとか適応している中でひとりだけ傷ついている場合は、学校の問題とまでは言い切れないところがあります。

家族の問題

家族が抱えている問題が親子関係や子どもへの関わり方に影響を及ぼし、心の成長を妨げている場合もたくさんあります。そのことはしっかり受け止め、どういう部分が妨げになっていて、子どもの問題の解決のために、家族全体の幸せのためにも、どう改善したらよいのか取り組まなければなりません。それは具体的に、どうしたら良いのでしょう?このブログはそれが中心のテーマですから、じっくりと具体的に書き足し、解き明かしていきます。しかし、その前に家族に対する見方・考え方を転換したいと思います。
どの家族でもさまざまな問題を抱えています。問題のない家族などありえません。大小さまざまな問題や不都合に日々直面し、それを一つずつどうにかこなして、生き延びるのが家族生活そのものです。そのプロセスの中で悩み・苦しみも感じ、乗り越えることができたとき、つかの間の幸せを感じます。人生が常に幸せに満ちていたら、それが当たり前になりそれを幸せと感じることができなくなります。幸せでない時があるからこそ、幸せを手に入れた時に喜びを感じます。だから、家族は問題を抱えていることが普通であり、そのことは恥じることでも、自分を責めることでも、自信を失くすことでもありません。むしろ問題を隠すことなく家族みんなで認め合い、解決するために家族同士で冷静に話し合ったり外の力を借りるなど、前向きに取り組む姿勢が大切です。
私の臨床の場でお会いする多くの家族の方々が共通に抱え、私が一番の問題と考えることは、家族が元気をなくし、自分や家族のことを責め、家族関係に自信を失い、縮こまっていることです。だれでも自信を失うと保守的になり、変化を避けて現状を維持しようとします。思春期は、子どもの急速な成長に合わせて、親子関係も柔軟に変化させていきます。幼い子ども時代と同じような親子関係を維持していてはうまくいきません。しかし「変化する」ことはリスクを伴います。今まで慣れ親しんできたやり方を捨てて、新しい今までやったことのないやり方を試します。自信を失くし、不安な気持ちが強い時、それはとても困難になります。家族のあり方が、子どもの変化についてゆけなくなり、結果的に子どもの成長を妨げてしまいます。

ソトの世界に導く要因


ウチとソトの世界のはざまで戸惑っている思春期の子どもをソトの世界に誘う親の関わり方を具体的に説明します。 

親の保護の囲いを解く

親は近いポジションから遠いポジションへ撤退します。いつまでも子どもの至近距離で保護し続けていてはだめです。保護者ポジションから撤退し、今まで親が面倒を見てきたことを子どもに任せ、失敗しても手を出さず、子ども自身が苦労しているのを黙って見守ります。親が心配すれば、子ども自身は心配しなくて済みます。親が心配しなければ、子どもが自分で心配し、辛さに耐えながら乗り越える術を会得していきます。
特に、子どもがやる気を出さない時が親にとって試練の場です。やる気の動力源を親のエンジンから子どものエンジンに切り替えなければなりません。
例として、もうすぐ学校の試験なのに、子どもは一向に取り組む気配が見られずゲームばかりやっているという状況を考えてみましょう。
親:「勉強しなさい!」
子:「今、やろうとしてたのに(プンプン)!!」
親:「そんなこと言っても、あなた放っておいたらずっとやらないくせに!」
思春期によく遭遇する親子のやり取りです。
子どもにまかしておいたら一向にやらないのでしょうか、それとももう少し待てば本人からやる気を出すのでしょうか。
ふつうは大人のエンジンの方が高性能です。やらなければならい状況にすばやく対応してエンジンを起動します。使い始めて間もない子どものエンジンは起動が遅く、出力も弱いです。親のエンジンを使った方がよっぽどうまくいきます。間に合わない時など、つい親のエンジンを貸してしまいます。その場は良いのですが、子どもはいつまでも自分のエンジンを試すことができません。親のエンジンを切るということは、差し出したくなる衝動を抑え、子どものパフォーマンスが落ちるし、時間もかかり、もしかしたら今回は間に合わないかもしれないというリスクも覚悟しなくてはなりません。

子どもへの信頼感

親が単純にエンジンを切り、手を出さず放置しておけばよいわけではありません。芽が出てきた子どもの力を認め、承認することが大切です。
子ども自信がありません。ソトの世界でうまく振舞うことができるか、自分のエンジンを使いこなすことができるか、試してみるもののこれで良いという確信をなかなか持てません。そのようなときは、まわりの大人が自信を分け与えます。ずいぶん頑張ったね。それで良いんだよ。あなたはもう大人の心が芽生えつつあるね。ひとりでできるようになったね。それでやってごらん。あなたならきっとできるはず。このようにして、子どもへの信頼を伝えます。親が肯定的な未来予測を持つことで、子どもにも肯定感が伝わり、少しずつ自信を獲得していきます。
特に子どもが迷い、自信を失くして弱気になり自分ではもうダメ、できない、助けてと子どもの心を全面的に投げかけてきたときが親の試金石です。子どもを抱きかかえ、辛い気持ちを受け止めてあげることは大切です。しかし弱気な子ども心を全面的に買ってしまうと、その場面は親の力により困難を回避できますが大人の心が育ちません。肯定的に励ますことが大切です。たとえば、「それは大変だね。辛いだろう。では、この一部分を親がカバーしてあげよう。でも、他の部分は自分でやってごらん。あなたは自分でできるでしょう。親は今までのように手を貸さないよ。あなたのことを拒否しているわけではない。もう自分でできるはずなのだから、親がやってしまったら子ども扱いしているようで失礼でしょ。」という具合です。 

肯定的に叱る

それでもだめならば、きちんと肯定的に叱るのも良いでしょう。
「なにそんな甘いことを言っているの!あなたはできるんだ!(あなたはダメだとは言わない。)いつまで親に頼らないでも良いんだよ!あなたはしっかりしている、できる能力も持っているから自分でやってごらん!失敗しても良いよ。親が見守っていてあげるから。初回がダメでも3回くらいやればきっとうまくいく。」という具合です。肯定的な叱り方と否定的な叱り方の違いに気をつけましょう。「あなたはダメだから、、、」は否定です。「あなたはできるのだから、、、」は肯定です。否定は自信喪失につながりますが、肯定はいくら強く言っても(叱っても)構いません。

傷ついた子どもを承認する

ウチの世界で100%でいることができても、外に出ると傷つき自己万能感を満たせなくなります。親の期待や自分自身に課した夢を果たせなくなります。親の期待を修正すると同時に、70%しか果たせない子どもを認めることが大切です。他者により承認されて、傷ついた自分を受け入れることができるようになります。傷ついた自分を肯定することがソトの世界を生き抜く原動力となります。

家族の安心感を醸成する

人の心は不安領域と安心領域のふたつから構成されます。その割合は、生活状況の中で常に変化しています。問題が生じてたいへんな時、苦しい時は不安領域が多くなり、嬉しいこと、幸せなことがあれば安心領域が多くなります。人に向ける言葉は、すべてこのどちちかの領域から発せられます。
安心領域とは肯定的な見通しです。将来のことはわからないけど、どちらかというとプラスの方向に行くのではないかという楽観的な見通しです。
不安領域は否定的な見通しです。将来のことはわからないけど、どちらかというとマイナスの方向に行くのではないかという悲観的な見通しです。
この気持ちは家族の間で伝わります。
安心領域からのメッセージは、相手も安心にさせます。
不安領域から発せられたメッセージは、相手も不安にさせます。
たとえば、「学校休んだら進級できなくなるよ。学校に行きなさい!」という言葉を考えてみましょう。
一見、キツイ言葉ですが、安心領域から発せられる場合も、不安領域から発せられる場合もあります。ホントの気持ちが安心領域から発せられる場合:「いじめられたと言ったってあなたはそれを跳ね返すだけの力を持っているわよ、多分。イヤでも行っていれば慣れるわよ。そんなウジウジ言ってないで学校に行きなさい!」というメッセージが伝わります。
不安領域から発せられる場合、「このまま休んだら進級できなくなって、ひきこもりになって、あなたの人生はダメになるわよ。今行っておかないと、悲惨な結果になるわよ。だから学校に行きなさい!」というメッセージになります。
これと逆の言葉を考えてみましょう。
「いいよ、今は無理して学校に行かなくても構わないよ!」
一見、子どもを肯定するメッセージですが、これも安心領域、不安領域の両方が考えらえます。
安心領域から発せられる場合は、「しばらく行かなくても、長い人生、とりもどせるよ。ストレートに進まなくても人生はちゃんとやってゆける。君はその力を持っているはずだね。自分のペースで進んでごらん。」というメッセージになります。
不安領域から発せられる場合は、「あなたにはもういくら言っても無駄ね。カウンセラーの先生に、子どもをすべて受け入れなさいと言われたわ。私のやり方は間違っていた。ゴメンなさい。親のせいね。もうあなたの自由にして。お母さん、あなたに関わる自信ないわ。」というメッセージになります。
家族は気持ちが連結しています。親が不安領域をふだん働かせていると、子どもにもそれが伝わり、不安領域が大きくなります。不安は変化を恐れ停滞させます。何をやっても成功した部分よりも失敗した部分に目が行き結果的にうまくいかなかった、ダメだったと認知します。自分では対応できないとあきらめて親に依存します。
親の安心領域が多いと子どもも安心領域が多くなり、うまくいく部分に目が行き自信を獲得します。安心感は逆境を乗り越え、前に進むことができます。

親自身の心の元気さ

子どもが安心できるためには、親が安心して居ることが大切です。そのためには、子どものこととは関係なく親自身が心の元気さを保持していることが大切です。それは、親自身がこれまで生きてきた過去から、現在、そして未来に至るまでの家族関係や夫婦関係、家庭生活や仕事のことなどすべてが含まれます。逆境に陥り苦労が多く、親身に相談できる人がいなくて、ひとり孤独で辛いような状況では不安領域がメインになってしまいます。子どもに関わる時もどうしても不安的な見方で見てしまいます。逆に、多少困難な状況であっても親身に相談できる人がいて、元気を出せる状況だと安心領域を活性化できます。子どもの不安に対しても安心感を切り返すことができます。
親自身が、不安領域と安心領域をどれくらいの割合で持ち合わせているか、なかなか自分では確認できません。人のことは客観的に眺めることはできても、灯台下暗し、自分自身のことは却って見えないものです。子どもの不安で相談に来る親も、本当は、親自身が別のところに不安感を隠し持っていたりします。この場合は子どもの悩みを相談する前に、親自身の不安感についてよく相談します。

コミュニケーションの見本

ウチの世界にいた子どもは自立したコミュニケーションは必要ありません。ソトの世界では、切り離された他者に対して自分を主張し、異質な相手を受け入れるという本当の意味でのコミュニケーションを体験します。学校や友だち関係を通してだんだんとそのやり方を会得していきますが、始めの頃はどうやったらよいか見当がつきません。身近にいる親がその見本を示してあげます。
きょうだいは年齢差のある仲間です。きょうだい間で自分を主張しながら相手を受け入れ、折り合う妥協点を模索します。同年代の仲間とのやり取りを学ぶ良い機会です。年上のきょうだいの優位性を畏れつつチャレンジします。年下のきょうだいに対しては自分の優位さを誇示するばかりでなく、いたわり弱さを助けます。きょうだい関係から体験できることはたくさんありますが、きょうだい関係がないひとりっこは不利ということではありません。自分自身を含むきょうだい関係よりも学ぶものが大きいのは両親の姿です。
大人のやり方を子どもたちは実によく観察しています。理解するというよりは、体験的に身につけていきます。両親の夫婦仲がどの程度良いのか良くないのか、夫婦のコミュニケーションがどれほど成立していて、争っているときもどちらの言い分が理にかなっているのか、理不尽なのか。夫婦がどうお互いに向き合い、どれだけ自分の気持ちを相手に伝えているか、そして相手のことも理解しようとしているかなどを観察します。
時には激しく口論しても、相手を気遣い暴力まではいかず、お互いに言いたいことを言った後には折り合うことができて、また関係が修復できるのだという姿を見ていると、子ども自身もそれを真似して友だちとの間に応用することができます。友だちと気が合わなくてもこうすればよいのかというやり方もわかるし、意見が合わずにケンカしても、きっと仲直りできるだろうと想像することができます。
両親が本音では信頼できず、夫婦喧嘩を修復できなかったり、疎遠で気持ちを交流させたりコミュニケーションが成立せず夫婦喧嘩もできない様子を見ていると、友だちとどう違いを乗り越えて自分を主張して親しくしたらよいのか、今ひとつ実感がつかめません。
親子関係を見直すためには、まず夫婦関係を見直すことから始めます

2012年6月10日日曜日

不安領域と安心領域

「一緒に参加した方々のお話しを聴くことで、自分が気づかなかったことが見えてきました。
ひとつひとつの話が自分の在り方の振り返りの材料になります。」

思春期子育て塾に参加した方の感想です。
これがグループの力なんです。グループに参加することは、初めはかなり戸惑います。恥ずかしいし、どこまで自分のことを話してよいものやらよくわかりません。でも、お互いに少し親しくなり、気持ちが見えてくると、お互いから学び合えるんですね。

ファシリテートしている私も同様です。参加しているみなさんの言葉から、さまざまなことを振り返ることができます。今回の振り返りは次のようなことです。

親は子どもへどう接したらよいのでしょうか。カウンセリング心理学では、
  • ちゃんと子どもに向き合いましょう。
  • 子どもを褒めましょう。
  • 子どもを否定せず、そのまま認めてあげましょう。
というように良く言われますし、私も言ったりします。
確かにそうなんです。
間違ってはいないのだけど、このような言説が親にとってかえってプレッシャーになっているようにも思います。
子どもへの向き合い方は、そういうハウツーものでもないように思います。もうひとつ深いレベルの話なんです。家族に向き合う時、自分はどんな気持ちでいるかということが大切です。

日常生活の中で、
「そんな〇〇ではダメよ。もっと△△しなさい!」
と子どもに言う場面はたくさんあります。たとえば、、、
「学校休んだら進級できなくなるわよ。学校に行きなさい」
「ゲームばかりやっていてはダメよ。もっと勉強しなさい」
「甘いものばかり食べていてはダメ。間食をやめなさい」
「そんな高いもの買ってはダメ。もっと安いものにしなさい」

カウンセリング的「子どもを否定せず、すべて受け入れましょう」言説では、このような言い方は禁じ手なのでしょう。しかし、私はそうは思いません。言葉の内容はどうでも良いのですよ。それを表現するとき、どのような気持ちが根底にあるかということが大切なのです。

人の心は不安領域安心領域のふたつから構成されます。その割合は、生活状況の中で常に変化しています。問題が生じてたいへんな時、苦しい時は不安領域が多くなり、
嬉しいこと、幸せなことがあれば安心領域が多くなります。
人に向ける言葉は、そのどちかの領域から発せられます。

安心領域とは肯定的な見通しです。将来のことはわからないけど、どちらかというとプラスの方向に行くのではないかという楽観的な見通し。まあ、大丈夫だよ、きっと。根拠のないお気楽主義です。そりゃあそうですよね、将来のことはだれもわかりませんから。

不安領域は否定的な見通しです。将来のことはわからないけど、どちらかというとマイナスの方向に行くのではないかという悲観的な見通しです。いやあ、きっとヤバいよこれは。根拠のない悲観主義です。そりゃあそうですよね、将来のことはわからないけど楽観視していたら痛い目に合うんですよ。低めに見積もっておいた方が、もしもの時にがっかりしないで済みますから。

この気持ちは家族の間で伝わります。
安心領域からのメッセージは、相手も安心にさせます。
不安領域から発せられたメッセージは、相手も不安にさせます。

たとえば、
「学校休んだら進級できなくなるよ。学校に行きなさい!」
一見、キツイ言葉ですが、安心領域から発せられる場合も、不安領域から発せられる場合もあります。ホントの気持ちが
安心領域から発せられる場合:
「いじめられたと言ったってあなたはそれを跳ね返すだけの力を持っているわよ、多分。イヤでも行っていれば慣れるわよ。そんなウジウジ言ってないで学校に行きなさい!」

不安領域から発せられる場合:
「このまま休んだら進級できなくなって、ひきこもりになって、あなたの人生はダメになるわよ。今行っておかないと、悲惨な結果になるわよ。だから学校に行きなさい!」

上と逆のメッセージを考えてみましょう。
「いいよ、今は無理して学校に行かなくても構わないよ!」
一見、子どもを肯定するメッセージですが、これも安心領域、不安領域の両方が考えらえます。
安心領域から発せられる場合:
「しばらく行かなくても、長い人生、とりもどせるよ。ストレートに進まなくても人生はちゃんとやってゆける。君はその力を持っているはずだね。自分のペースで進んでごらん。」

不安領域から発せられる場合:
「あなたにはもういくら言っても無駄ね。カウンセラーの先生に、子どもをすべて受け入れなさいと言われたわ。私のやり方は間違っていた。ゴメンなさい。親のせいね。もうあなたの自由にして。お母さん、あなたに関わる自信ないわ。」

安心な心(子どもも大人も)は、逆境を乗り越え、前に進めます。
不安な心(子どもも大人も)は、変化を恐れ、停滞させます。

親は子どもに何を言っても構いません。
大切なことは、子どもや家族にふりかかるさまざまな困難さの中で、どれほど安心感・安全感をキープできるかということです。

高校生からの質問


  • 患者さんとケンカすることありますか?
  • 難しい患者さんとか、悩みの種類って?
  • 心を閉ざしている人に、心を開いてもらうにはどうするんですか?
  • お医者さんの言葉で傷ついたりウジウジしている患者さんはどうするんですか?
  • 患者さんの話を聴くときどんなことに気をつけるのですか?
  • 話を聴いていて自分が影響を受けませんか?重くなっちゃいませんか?自分が落ち込んだ時は、人の話を聴けるんですか?
  • 相談を受ける人も、そういうときは誰かに相談するんですか?
  • 外国では精神科はオープンなのに、なぜ日本では違うんですか?
  • 「心を救う」ために一番大切なことはなんですか?
  • 仕事のやりがいはどういうときに感じますか?
娘の高校で「精神科医・心理カウンセラーの仕事」の話をしてきた。
20名ほどの保護者がボランティアで、高校生たちの「進路ガイダンス」の講師を引き受けた。
高校生からは、純粋で、するどい質問が返ってくるのが楽しい。
それに、専門用語を使わず、彼らにわかる言葉で答えるのは相当むずかしい。

前半、次のようなことを私から話した。
「わけがわからないけど気がついたら生まれてきた限りある命。
生きていて良かったなと思いたいじゃない!?
今の日本は物質的な豊かさはかなり達成されました。精神的な豊かさはまだまだですね。
その定義は人によって違うでしょう。みんなも良く考えてごらん!」
それを受けて、質問が返ってきた。
  • 田村さんが考える本当の精神の豊かさって何ですか?
自分で振っておいて戸惑うのもヘンですけど、難しいですねえ。
う~ん、その場ではうまく答えられず、その後も考えてみました。

えっと、それは自分の心(精神)を広げることだと思います。
それにはとりあえずふたつの方法があるかな。
ひとつは、自分の光と影、どっちも自分の一部として認め、受け入れることです。
人生やってると、イイ部分とイヤな部分がでてきますね。
ハッピーで、楽しく、うんうん満足できるな、イイよなという体験・気持ちと、
絶対イヤだ、悲しい・ムカつく、どうしようもない、考えたくもない体験・気持ちが出てきます。
ふつう、後者の部分は思い出したくもないので、立ち入り禁止にして封印します。すると、心の使える領域が狭くなっちゃうんですね。その部分に近づきそうなことは危険なので避けようとして、光の部分だけを使います。それってかなり窮屈になって、うまく使えなくなったりします。
そうではなくて、自分の影の部分も認めてあげます。別に影を消す必要はありませんよ。人間って、大切なもの・人を失うし、最後は自分も失われちゃうわけでしょ。ホントはとっても悲しく辛いものですよね。そう思えば、とってもイヤなことだって仕方がないよ、そういう自分も認めてあげるしかないな、構わないよという気持ちになれます。べつに自信を失うことはない、そういうものなんです。そうすれば、立ち入り禁止区域がなくなるから心を広く使えるんですよ。どんなイヤなことがあっても避けずに向き合うことができます。

もうひとつが、他の人にも自分の心を広げちゃうことです。
これは、ひとつ目のこととも関係あるんですよ。自分の影の部分も取り入れるってひとりだけではできません。他の人の助けが必要なんです。
身近に、自分の心をちゃんとわかってくれて、認めてくれて、受け入れてくれる人をつくるんです。親とか家族とか、親友とか、あるいは心の専門家だったり。安心できる人に自分の影も見せて、そうだよね、それもあなたで良いんじゃないって認めてもらうんです。そうすれば自分でも認めちゃっても良いのかなと思えるようになります。
自分の心をわかってくれる人って、自分の心の拡張版みたいなものですよね。

このふたつの方法で、自分の影も、身近な人も使えるようになれば、心がかなり広くなります。それが心の豊かさかなって思います。
ゴメンね、ここまでちゃんと説明できなくて。

2012年6月5日火曜日

足が地についている感覚


 ひきこもっている息子を持つAさんは家族グループカウンセリングに参加しました。その数ヶ月後に、「グループカウンセリングで私の心のふたが開いてしまった。どうにかしてほしい。」と個人カウンセリングにやってきました。息子さんの相談とともに、Aさんご自身が「ひきこもり」だと言います。親として日常生活は切り盛りしますが、それ以外では社会との接触を極力避けていました。
 個人カウンセリングで、Aさんはご自身の過去を語り始めました。毎回、分厚い手記を持ってきます。分量が多いので、前もって郵送してもらい、目を通しておくことにしました。そこには生まれ育った家族、そして結婚した家族のなかで起きた否定的な体験、つまり不安、恐怖、悲しみ、怒りなどの気持ちになる体験がたくさん書かれていました。
 これがまさに「心の凝り」なのです。それを想起するととても痛いので、ふつう隠すのですが、Aさんは語る勇気を持っていました。
 カウンセリングを始めて9か月後、11回目のカウンセリングで、Aさんは次のように書いてきました。Aさんの許可を得て、原文のまま掲載します。

カウンセリングを始めて5か月後くらいからちゃんと足の裏が地面についている感覚がある。これ以上落ちていくことのない安定した感覚だ。それ以前は地面に穴が開いていて落ちて沈んでいくような感覚や、暗闇の中で綱渡りしているような不安定な状態だった。
この安定した感覚というのは、自分がこの世の中に存在して良い、生きていて構わないという肯定的な感覚だ。不安定な感覚というのは自分は存在してはいけないのではないか、生きていてはいけないのではないか、生きていても良いと(誰に?神みたいな大きな存在、それとも親に?)言ってもらうためにいろいろな条件をクリアしなくてはいけないと思っている感覚だ。
私は今まで不安定な中にいて、今それを外から眺められるようになった。今は不安定から脱し、安定した。

 これはカウンセリングで達成した素晴らしい感覚です。
 人は誰でも自分の基盤を持っています。しかしそこに否定的な体験がたくさん埋め込まれていると、それを基盤として認めることができず、自分の底がない、とても不安定な気持ちになります。
 カウンセリングはオセロのコマをひっくり返すようなものです。自分の体験を語ることは、自分を外から眺めることです。語る内容はとても否定的な辛いこと(黒)ですが、語ることによって、その体験をカウンセラーが受け止め、自分自身も受け止めることができます。それはとても勇気ある肯定的な体験(白)です。
 Aさんのカウンセリングはもうしばらく続くでしょう。Aさんは気持ちが安定し「ひきこもり」から脱しつつあり、それと並行して息子さんも少しずつひきこもりから生還しつつあります。