2011年11月30日水曜日

いのちの電話の講演

一昨日は、お忙しいなかご講演をいただき有難うございました。
アンケートでも、
「理屈で話すのではなく、心で話をしたいという先生の言葉に共感した」
「事例を具体的にお話いただきわかりやすかったです」
「個人的な気持ちも話していただきありがとうございました」
「先生も大変な中お疲れ様です。ありがとうございます」
「実体験を通してのお話は理解しやすかった」
「後半の、質問のところがわかりやすかった」
など、具体的でわかりやすかったという感想が多かったです。

講演に来ていただいてありがとうございました。
ふつう講演といえばどうしても理屈(理性)の話になってしまいますが、気持ち(感性)の話をみなさんに伝えることができて嬉しいです。
心の問題は理性ではなく感性(=こころ)なわけですよね。それを支援しようとする我々も、理屈を振りかざすのではなく、どう感性に迫ることが出来るかということが大切です。それをどうやったら伝えられるか、私なりに工夫してみました。
原理原則や一般論の話ではダメなんですよ。主観的、体験的な話になります。私が体験した震災支援の話、患者さんの具体的な話(プライバシーを守りつつ)、あるいは自分自身の感情体験を語ることになります。私自身、話しながら心が痛むんですけどね。でもその痛みを聴いてくれるみなさんに放出してコリをほぐしてもらうみたいな効果もあって、私も実は得しちゃっているんです。

カウンセリングでも同様なんです。
いかにして、心(感性)に迫ることが出来るか。グループカウンセリングでは、私自身の体験も語りますが、個別のカウンセリングでは語りません。
では、どうやって迫るか?
こればかりは理屈で文字に書き起こして説明できないんですよ。
実際に体験してもらうしかありません。
(でも、何とかして本に書き起こしたいですねぇ。そうなるとどうしても私自身のナラティヴということになるのかもしれません。)

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(主催者の方が、機関誌のために講演要旨をまとめてくれました)


 社会福祉法人浜松いのちの電話
 開局25周年記念 2011年度浜松いのちの電話公開講座
「支え合ういのち」
  ~今、私たちにできること~
精神科医・東京いのちの電話理事   田村 毅氏

☆ 2011年11月27日(日)、静岡新聞社プレスタワー17階ホールで、開局25周年記念「浜松いのちの電話」公開講座が開催されました。講座は1部の講演と2部の質疑に分かれて行われ、参加者は田村氏の話に熱心に耳を傾けました。

震災直後、被災地で心のケアをした。娘からなぜ被災地へ行ったのかと聞かれ、「救いを求めている人がいる、そこで自分に出来ることがあるのではないか。」と答えた。いのちの電話相談員も、なぜいのちの電話の活動しているのかを見つめてみるのも大切なのではないだろうか。
いのちの電話は1953年、チャッド・バラがイギリスで始めた。一人の少女の自殺がきっかけであった。相談者が多くなり、ボランティアと共に活動するうち、相談の待ち時間に、ボランティアと話すことで気持ちが軽くなる人がいることに気付いた。このことが、ボランティアによる電話相談につながった。
では、いのちの電話で何が出来るのか。日本では、1971年にルツ・ヘットカンプ氏が、東京で開始した。その特徴は、①専門家でない市民ボランティアによること、②相談者も相談員も匿名(名前を明かさない)であること、③2年近いしっかりした研修を行うこと、である。心の苦しさを、薬物や専門知識に依らず、心をつかって癒していくのである。
人々は、なぜ自殺するのか。様々な理由があるだろうが、根本には絶望感や孤独がある。絶望とは、生きていることが、あまりに苦しい、生きている意味がないということ。孤独とは愛する他者から切り離される、愛する他者がいないということだ。
この苦しみを癒すには、辛い、苦しい、心がザワザワする、というような、自分でもよく分からない気持ちを、「哀しい・怖い・不安・寂しい」というよく分かる気持ちとして表現できるようにしていく。これなら、解決できる。
では、悲しみとは何か。それは、大切なことを失うことだ。不安とは、大切なものを失うかもしれないという未来予想だ。そして、自分の希望がなくなることだ。孤独とは、大切なものがなくなった、独りぼっちの状態といえる。
自分は2年半前に突然妻と死別し、とてつもない悲しみを体験した。このように、人は誰でもマイナスの気持ちをもっている。これを表現するのは辛いことだ。そこで、悲しみなどを囲み、おできのような状態にする。しかし、さわると痛い。その痛みが怒りに変わる。怒りの背後には、このような気持ちが潜んでいる。そのおできが大きくなると、何もしなくても辛い。そこで、自分の気持ちをシャットアウトしてしまう。すると、プラスの気持ちを含めて心全体が動かなくなり(うつ状態)、非常に辛くなる。
いのちの電話は、心をつかって安全にそっと、この悲しみや不安、寂しい、怖い、という気持ちを外に出していく。受け止める他者による傾聴・受容・共感によって、おできの膿を出していくと、プラスの気持ちを使えるようになり、自分自身で前向きになっていける。
電話をかけてくる相談者は、心の中に哀しみを抱えている。その感情を受け止め、受け止めた気持ちを返していく。それが相手の悲しみに向き合うことだ。
こうした相談するには、あえて自分の哀しみに向き合う必要がある。普段隠している問題が吹き出す危険もあり困難であるが大切だ。
いのちの電話が行っているビフレンディングとは隣人となることで、カウンセリングや薬物療法とは違い、自分自身の心をつかって相手と向き合う。どの方法がいいということではないが、これは医師やカウンセラーには出来ない。
支え合ういのち。人を癒しながら、自分を癒していく。この社会は、支え合い癒し合う共同体である。いのちの電話の活動は、家族など親しい人への愛とはまた違う、隣人愛というもので、人と関わりたい、助けたいという思いが、苦しむ人々のいのちを支える。いのちの電話はそういう活動をしている。

2011年11月26日土曜日

FacebookとMacBook

ここの所すごくお忙しそうですね!やっぱり忙しいのはいいですね!



そうですか?
そう見えますか?
忙しいのは前からで、特に変化はないのですけど。
患者さまは徐々に増えてきているものの、ひっきりなしで忙しいというわけではありません。
どうしてそう見えるかというと、多分、Facebookで私の様子が可視化されちゃったからじゃないでしょうかね。
そうなんですよ。この1週間ほどFacebookにはまっちゃって(笑)!
いえ、FB自体は半年くらい前から登録してはいたのですけど、ほぼほったらかし状態でした。でも、勝手にPCのアドレスを拾ってきて何となく「友達」は結構いたことはいました。
で、最近、なんとなく(ほんとに何となく)投稿してみたら、反応がすごいんですね。「いいね!」の反応がすぐにあったり、英語でちょっと書いたら海外の友人からすぐにチャットが来たり。なんかFBのパワーってすごいなと改めて感じました。それで、友達をつなげて増やしていって、現実の接点がある人だけでも300人を超しちゃったんですよ。ツイッターでもそれくらいはフォローしてくれているんだけど、なんかinteractive性が高いというか。このブログだってたくさんの人が読んでくださるとは思うのだけど、コメントがあるわけでもなく、一方向的でしょ。FBはなんかそこが違うんですよね。でも、こんな風に長い文章をダラダラ書くところでもなさそうなので、書きたいときはこっちを使ってます。FBを使った経営戦略本なんかも読んでみたりして、私の研究室の広報に使えないかなと思って。月例研究会の様子なんかもアップできそうだし、私の普段の講演や講座の情報もアップするもんだから、けっこう忙しく見えるのだと思います。


あともう一つは、これもITがらみなんだけど、MacBook AirとiPhoneの新バージョンをゲットしました。別にスティーブ・メモリアルというわけじゃあないんだけど、先日、広尾の中央図書館をふらっと訪ねたら、閲覧室でMacBookを使ってる人が多かったんですよ。それ以外でもいろんな友人・知人が使ってたりして。そうすると、すぐに欲しくなってしまうんですよね。私はもともとClassic Ⅱなんか出た15年くらい前まではMac派でした。その後ずっとWindowsに転向しちゃったんだけど、なんとなくMacの方がおしゃれかなと思ったりして。
再びMacを使ってみて、前ほどMac/Windowsのギャップは感じないですね。なら、なぜMac使うの?見栄で使ってるわけ?多分、もう少し使い込めば、Mac独特の使いよさが見えてくるのだろうけど、まだそこまで達してません。
それに、iPhoneも新しくしたものだから、インストールしたり、新しい機能を試してみたり。
そんなあたりが、私自身の中では忙しく感じる要因かなと思います。


まずい!明日、図書館に本を返さないと!

2011年11月22日火曜日

Proactive Parenting

弱く幼い子どもの面と、一人前に強がる大人の面が錯綜する思春期の子育ては難しい。

強く言うとイジケてしまうので強く怒れないんです。落ち込んで、布団をかぶって寝てしまうから。それ以上言うと、落ち込むのが怖いのであまり言えません。だから、なるべく言わないようにしています。
厳しくした方がよいのですか、それとも子どもの自主性に任せてあまり言わず、放っておいた方が良いのでしょうか。でも、親の他には言う人がいないし。
子どもに注意しようとすると、つい感情が入ってしまい、淡々と話すことができません。

子どもは理想ばかり言って、現実をみようとしません。
子)親は私の言うことを聞いてくれればいいんだよ。私は間違っていないから。
子どもを叱ったらカンカンに怒って、壁に穴をあけ、本をビリビリに破いたんです。
子)お母さんが約束を破ったからだ。母)そんな約束した覚えはないけど。
振り返れば子どもがまだ小さい頃、自分でできることもお膳立てして親が手を出してしまいました。その頃は、子どものことを考える余裕がなかったんです。今から振り返れば、可哀そうだったという気持ちが残っています。

子どもが持つ大人的な強い側面に対しては、子どもの持つ力を信頼し、口を出さずに黙って見守る。

まだ子ども的な、自信がなく、弱い面に対しては元気と力を与えてあげる。
弱いゆえに傷ついた部分を癒し、守ってあげる。しかし、守るだけでは前に進まない。
弱さを乗り越え強くなりたいけど、まだその力を持ちえない部分に対して、親は力を与えげあげる。
「君はできるはずだ。がんばってごらん!」
力と自信を持っているはずだという前提で、子どもに働きかける。
カウンセリングの世界では一般に「がんばれ」は禁句とされている。それは弱さに注目した場合の対応だ。
「そんなことでは甘いんだよ!」厳しさを乗り越える体験は強さに結びつく。ただし、その根底に強い信頼関係ができていることが必要だ。それがなければ暴力にすぎず、子どもは傷ついてしまう。

このようなproactive parentingを親が遂行するためには、親自身が力と自信を持っていなければならない。子どものマイナス面に目を向け心配するだけではなく、プラス面に目を向け、あぶなっかしいし子どもを信頼する力。
子どもを放すこと、子どもに任せることは勇気がいる。
いじめられないだろうか、傷つかないだろうか、遅れはしないだろうか、失敗しないだろうか、、、。
心配が先に立つと、大胆に子どもを放すことは危険だから、守りの体制に入ってしまう。それでは、子どもは成長することができず、幼い子どものままでいる。

そして、子どものプラス面を見つけ出し、肯定的に評価する。
「そうか、良かったじゃない!」
「それは良いよ!」
でも、うちの子は何も良いところがないんです、という親がいる。
本当に?
完璧に100%の人はいないし、全くダメの0%の人もいない。だれでも、プラスとマイナスが何割:何割かという話だから。
どんな人にも良い面がある。それを見つけ出せるか否かは、見出す人のプラス・マイナス面と相関している。
ではお母さん、お父さん、あなた自身の良いところはどこですか?
その部分は、子どもに受け継がれていますか?
結局、力と自信を子どもに与えるためには、親自身が力と自信を持っていなくてはならない。あるいは、どこかからかき集めてきても良い。

2011年11月20日日曜日

優しい先生

先日、〇さんが先生のクリニックに相談に行ったと聞きました。
〇さんとは先日ひさしぶりに会い、いろんな話が出て田村先生のクリニックを紹介するという経緯になりました。
〇さんは「すごくすごくしゃべりまくったから、田村先生にどん引きされたらどうしよう・・」って気にしていたので、「そんなことはないよ~。田村先生は優しい、いい先生だから大丈夫だよ、と伝えました。」

確かにたくさんしゃべっていましたけど、どん引きしませんから大丈夫(笑)。
優しさは、精神科医やカウンセラーの基本です。
お医者さんの中には患者を怒ったり、叱ったり、ずいぶん怖い先生もいますからね。確かにちゃんと病気を治すためには先生からの指示を厳しく伝えることも必要かもしれません。しかし、精神科の場合には論外です。
心の治療のために、セラピストが心がける一番大切なことは信頼関係です。この先生は話を聞いてくれる、理解してくれているという安全・安心感をまず注意深く樹立します。そこからカウンセリングがスタートします。

でも優しさって何でしょう?
何でも聞いてくれ、わかってくれる先生。
つまり、クライエントの語ることを理解し、その背後にある気持ちを共感することです。
しかし、ここで注意しなければならないのは、クライエントの言いなりになることではありません。たとえば、
・リストカットをしてしまう
・お酒を飲み過ぎてしまう
・家族にイライラをぶつけてしまう
・子どもを注意できず、過保護になってしまう
などなど、明らかに好ましくないことに対して、「それは良くないからやめなさい」と直裁には言いません。
かといって、それらを認めるわけでもありません。
そこにはそうせざるをえない、あるいはどうしてもそうなってしまう経緯があるはずです。ご本人も好きこのんでやっているわけではないのでしょう。そのあたりの事情や気持ちを丁寧に伺います。すると、当初はいかにも「好ましくない」と思っていたことでも、「なるほど、そういうことだったのですね」と腑に落ちることがある。そうやって、まずクライエントの深い気持ちに降りてゆきます。そこからスタートして今後どうしたら良いのか、解決策を一緒に探ります。

その作業は、想像以上に厳しいものです。それをやり遂げるために、クライエントとセラピストの間の信頼関係を築くことを心がけます。それは、クライエントにとって優しさと受け止められるでしょう。
しかし、それは同時に厳しいものでもあります。

2011年11月17日木曜日

タム研オンライン

> 昨晩のグループワークは8人が集まり、、、、
> その内容は、参加者のひとりがFacebookに丁寧にまとめてくれている。

これ、うまく使えないかなと思案中。
タム研online versionの構想は、サイト開設当初からあったんですよ。
私はネットを使った心の支援活動もいろいろなところでやっていて、対面による支援と、オンラインによる支援の特徴を踏まえ、両者をうまくmedia mixすると効果が高くなります。
たとえば、研究会で話し合ったことの続きをオンラインでやれば、参加者のみなさんはより深めることが出来るし、私も伝えたいことを話し言葉だけでなく、文字に書き起こしてより明確化できます。(それを集めて本を書ける?)
あるいは、私の講演を聴きに来てくれた人や、クライエントとして面接にいらした方々にも参加してもらい、プライベートなことは書けないけど、いろんな疑問などをお互いにシェアして私の方からも可能な範囲でお答えするとか。
それをウェブ上で公開すれば、タム研の広報にもなる。
読めるのは誰でも。
書き込めるのは研究会や講演会に参加した人など、限定する。というのが良いのかな?
どうやって作ろうかな。
ブログでそういうことまでできるんだろうか。
それとも、個人的にそういうSNS的サイトを作れるキットとかあるんだろうか。
あるいは、mixiとかFacebook上にそういう場所を作れるんだろうか。
やっぱりウェブデザイナーの村上さんに作り込んでもらうのが良いのか。
いいアイデアあったら教えてください!

2011年11月16日水曜日

グループワークの愉しさ

昨晩見た夢。
母方祖父の臨終の床に親戚一同が集まる。祖父はどんどん小さくなっていく(祖父はもう30年ほど前に亡くなったのになぁ??)。伯父伯母たちもたくさんいたけど、何よりもいとこたちが集まったのがうれしかった。子ども時代に帰省して一緒に遊んだノスタルジーでいっぱい。みんな大人になり、再会に感動して泣きはじめる。
すると突然いとこの一人が、みんなでCC(ケースカンファランス)やろうと言い出した(このあたりが現在の仕事と混同している)。

なぜこんな夢を見たんだろう?
きっと、昨晩のグループワーク(心の支援者向け研究会)と先週のMBTIのワークショップのせいだ。

昨晩のグループワークは8人が集まり、活発に話し合った。いつも来てくれる人たちに加え、20年前に卒業した教え子も初参加した。その内容は、参加者のひとりがFacebookに丁寧にまとめてくれている。

先週は二日かけて群馬のリゾートホテルである外資系企業の社員研修を行った。MBTIを用いたグループワーク。事前に各メンバーのタイプを調べ、1時間ほどの個人セッションを行ってから、計7時間のワークに臨んだ。
一日目のワークが終わった晩も昨夜と同様に夜中に目が覚めてしまい、翌日みんなとどんなワークをやろうかとイメージがたくさん浮かんできて寝つけなくなった。グループワークをやった後は、私自身の想像力が旺盛になるみたい。

私のMBTIのタイプは思いっきりENFP。
つまり、人と関わることが好きで、そこからエネルギーを得て、
今起こっている事実より、将来のイメージが先行する。
理性より感性で判断し、相手の気持ちを大切にする。
あらかじめ準備するというよりは、臨機応変に行動する。

だから、カウンセリングで人の心に触れるのが好きだし、個人カウンセリングよりは家族、さらにはグループでの援助活動を好み、ドライブがかかるようだ。
参加者からも良かった、ためになったと肯定的な反応を頂いたが、それ以上に私自身が参加者との交流を楽しんでいることがよくわかった。

2011年11月13日日曜日

思春期の親子:親のエンジン・子のエンジン

先日、ある小学校で講演した際のPTAのお母さんからのメールを紹介します。

先日は、ご多忙のところご講演を頂き誠にありがとうございました。無事、大好評のうちに講演を終えることが出来、感謝申し上げます。
実は、私は今まではこのような講演には参加したことがなかったのですが本当に先生に来て頂いてよかったです。参加者から先生の講話が今までで一番良かった!という常連の方の感想も見受けられました。私も我が子の成長には日々忍耐と疑問・葛藤の連続です。皆様と同じような悩みを共有し、先生のアドバイスを伺って、とても心強くなりました。私のような母親には、というよりも、思春期前の子供を育てる全ての親に聞いて頂きたい内容でした。
帰宅後、さっそく「待つ」を実行してみました。相変わらず、子供は好きなようにやっていましたが、数時間後、私の顔色を覗ってなのか自ら行動し始めました。ただ、この場合は、私の無言の圧力を察知して行動したので、自分のエンジンを使ったとは全く言えないのですが、私も少しずつ先生に言われたことを実行してみようと思っております。

この講演会で使ったスライドをウェブサイトにアップしたいと思います。
「待つ」についてだけ簡単に解説すれば、思春期はやる気(原動力)親のエンジンから子どものエンジンに付け替える時期。親のエンジンを使っていたら、子どもは自分のエンジンを試すことができない。子ども自身のエンジンを始動させるためには親のエンジンを切り、子どものエンジンが始動するまで待たなくてはならない。まだ調子は良くないからエンストを起こしたり結構時間がかかる。その間、親が待てるかが正念場、、、という主旨でした。

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(追加:1月9日)

思春期は、子どもの心大人の心が入り交じった時期です。
親が子どもの心に働きかけると、子どもは甘え、怠惰に流れ、自分から積極的に動こうとしません。
その反対に、親が大人の心に働きかけると、自分の将来を考え、自分からやる気を出して動き出します。

子どもの心に働きかけるとは、どういうことでしょう。
子どもはまだ未熟だから、一人ではなにもできず、親がついてないとダメと考えます。
朝は目覚まし時計をかけても自分からは起きないので親が起こし、「勉強しなさい」、「ああしなさい」
・「こうしなさい」と細かく注意します。子どものことはすべて把握しないと気が済みません。
子どもは親のエンジン(動力)で動いている状態です。

大人の心に働きかけるとはどういうことでしょう。
わが子はまだ未熟な部分もあるけど、しっかりした部分が育ち始めていると考えます。親がついてなくても子どもは自分のことをできるはずだから、あまり子どもに口出しする必要はありません。良いことをしたとき、うまくいったとき肯定的に認めてあげます。

不思議なもので、親やまわりの大人たちが、子どもの心にたくさん働きかけると、子どもの心が温存され、なかなか大人に切り替われません。逆に、大人の心に働きかけると、その部分がどんどん育成されてゆきます。

しかし、そううまくいくとは限りません。
子どものエンジン(動力)は、まだ使い始めたばかりなので、うまく動かないからです。出力(パワー)も不十分だし、ときどきエンスト(故障)してしまいます。その時、親はどう対応したらよいのでしょう。
子どもが持つ潜在力を信じることができれば、子どものエンジンが故障気味でも親は手を出さずに見守ります。すると、多少の時間はかかっても、子ども自身で何とか立て直して、だんだんパワーを上げてゆきます。
それを待ちきれない親は見ておれないので、つい親のエンジンを貸してしまいます。あれこれ口出しをして、親の指図で子どもが動きます。しかし、それは子ども自身のやる気ではなく、親に動かされているだけです。思春期前の小さな子どもなら、それで良いのですが、思春期になっても親が相変わらずエンジンを貸してあげると、子どもは自分のエンジンを試運転する機会を失ってしまいます。

車のエンジンは、基本的にひとつです。ふたつエンジンがあるとうまく動きません。どちらのエンジンを使うのか、その争奪戦が反抗期と呼ばれている親子バトルです。

結論としては、
  • 子どもの潜在力を信じて、待つこと。
  • 自信を獲得できるように、肯定的な側面を見出し、評価すること。
このふたつが何より重要です。

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(余談)
私の長男は高3。これから大学受験です。
35年前の私自身の入試を思い出します。
ひとりで受験する大学の近くに宿をとり、初日の学科試験が終われば二日目は面接と小論文。間際に勉強することもなく、ひとりで近くの映画館で暇をつぶしていました。
旅館は同じ大学の受験生ばかり。その中に、私と同じ学部を受ける受験生がいて、母親と一緒に泊まっていました。私は入試で母親と一緒なんて考えられませんでした。そいつは受かりませんでしたが。

(余談2)
去年まで勤めていた大学では、入学試験は付き添い者は大学構内に入れません。1月の寒空の中、子どもを構内に見送った後、帰らずに試験が終わるまでずっと寒空の中、校門付近で待っている保護者が毎年数十名います。
そんなもんなんでしょうかね。私は信じられませんけど。