2013年6月28日金曜日

支援者の自己と向き合うワークショップ(2)

今日は2回目。まず参加者の感想から。

  • 普段は話すことなに昔のことを話して、自分の人生を久々に振り返った、、、
  • 私は自分自身に対してもモヤモヤしている部分があることが苦痛でした。、、、そのモヤモヤした部分も自分だからと受け入れれば、楽になるのかもしれないと思えました。
  • 自分の感覚に素直に向き合うのは難しい。容易に揺れるけど、揺れてみないとわからないこともあるなと思いました。
  • 他の方の語りの中に自分を見出していることに、はじめは違和感があった、、、

2回目以降は、参加者一人ひとりの語りに焦点を当てます。

支援者はクライエントが表出する多くの語り(情報)を受け取り、支援者自身の内面に刻み込みます。それはクライエントの体験と相似形であったとしても等しくはない、クライエントの語りに触発された支援者自身の主観です。そこには支援者自身の体験が埋め込まれています。
支援活動の中で見出した感情体験は、支援関係の中で完結したものと思い込んでいます。果たしてそうでしょうか?

それを支援活動の文脈から、支援者自身の自己という文脈の中に広げてみます。すると今まで見えなかったことがたくさん見えてきます。忘れていたわけではない、覚えてはいるけど心の奥にしまい込んでいたものを意識化し、言葉を与えていきます。そこに秘められた感情(悲しみ・怒り・喜び・不安など)は支援者という役割から離れたひとりの人間としての体験です。まずそれを十分に受け入れます。

そして、それを再び支援活動という文脈に戻します。掘り下げた自己の体験が、支援活動にどう影響しているのだろうか。どのような差異を生むのだろうか。自分だから出来ることは何だろうか。これが支援者としての自己理解であり、それを達成すると支援がとてもうまく、しかも楽に行えるようになります。もちろん、ひとりの人間として抱えていたモヤモヤや肩こりも晴れます。

グループのメリット。
ひとりで掘り下げる場合には、自身の支援活動からネタを拾ってきます。
グループの場合、それに加えて参加している他者の語りをネタにして、自己の語りを見出すことができます。それはとても強力です。

2013年6月27日木曜日

ひきこもり脱出講座(第3回)「夫婦」

学会などで多忙で投稿が遅れてしまいました。すみません。

第三回目のテーマは「夫婦」でした。
子どもの問題解決のために両親の協力が大切と良く言われますが、実際はどうなんでしょう。そのあたりをみなさんと一緒に深めました。
一見、ごく普通の問題なさそうに見える夫婦でも、その内実は厳しいものです。みんなそれを上手に取り繕っているだけなんですよね。
  • 仕事が忙しかったり、単身赴任だったり、「父親不在」は日本の家族の特徴でもあります。
  • 母親としては、夫に頼ったり期待しても仕方がない、自分でやるしかないと、ひとりでがんばって子どもに関わっているうちに「父親不在」が「父親不要」になってしまいました。
  • よく考えたら、ひきこもっているのは子どもだけでなく、親も別の意味でひきこもっているのかもしれません。両親が話し合ってもうまくいかないので、夫婦が向き合おうとしない、現実に向き合おうとしない、問題だとはわかっていても引いてしまい、自分の考えや相手への期待を言わなくなってしまいます。夫婦コミュニケーションから目をそらし、ひきこもっていたのかもしれません。
  • 親自身が育ってきた家庭も影響します。家族の中で会話するという習慣があまりありませんでした。だから家族同士で自分の考えを出し合い話し合いましょうといっても、実際どうしていいか感触がつかめません。
  • 夫婦間に過去の積み残しがあります。相手への怒りが未消化のまま残っているので、向き合うことができません。自分の気持ちを相手に伝えることができません。
こういう体験は、程度の差こそあれ、どの夫婦でもありうるパターンだと思います。
  • だから子どもに問題が生じたんだ。
  • 夫婦仲がうまくいかなかったから、子どもがひきこもったんだ。
ということではありません。このような「親原因説」はあまり意味がありません。
もちろん、家族の影響は大きいです。家族がうまくいかない部分もあるでしょう。しかし、どの家族も光と影を持っています。影を語り始めたらきりがないわけで、影を修復することが解決につながるとは思えません。どの家族だって、どの親だって、影があって当たり前。それを消し去ろう、どうにか変えようとすると、自分を見失ってしまいます。
影は、影としてしっかり認めてください。隠す必要はありません。
影がはっきり見えてくれば、光も見えてきます。
自分の影を見つけ出して、「私はダメな親なんです」と落ち込む必要はありません。
影は見えても、光を見るのは困難です。でも、家族の力でひきこもり問題を乗り越えるためには、家族の光がたくさん必要です。家族それぞれが持つ光をかき集めれば、とても大きなパワーとなります。それを子どもに伝えたら、子ども自身もひきこもりを乗り越えるパワーを獲得できます。

本人と話す時には「否定しない」「反論しない」「言い訳しない」という姿勢が必要と言われてきました。

はい、そのとおりです。
でも、それは子どもの気持ちを率直に受け入れ、言い訳しないで子どもに正面から向き合いましょうという意味です。子どもが自立し、巣立つためには安定な基盤が必要です。親が自分を認めている、受け入れているという体験が必要です。そのための姿勢です。

しかし、その結果、子どもの言いなりになってはいけません。
安心できる親子関係が築けたら、ウチの世界に閉じてひきこもっている子どもを外に連れ出します。そのためには、子どもを否定し、反論して、自分とは異質な他者を受け入れるエネルギーを付与します。

勇気を出して、強く言うことが必要です。愛情をもって、相手を傷つけ、それを乗り越えた相手を受け入れます。

それをまず夫婦間でやってみましょう。
でも、うまくいかないこともあります。
  • 本音で話すことができない。
  • 怒られるのが怖い。波風を立てたくない。
  • 相手の話を聴いていない。相手に理解されたと感じることができない。相手から反応がないのが嫌だ。
そんな気持ちをグループのみなさんで共有し、夫婦のコミュニケーションの難しさと、それを乗り越える具体的なやり方を実演しました。
  • 言わない主義ではなく、言ってほしい!
そうなんです。
ひきこもりから脱出するには、強いコミュニケーションが必要です。それは他者から傷つけられる不安に耐え、他者と交流する力です。
そのために、まず親同志が強いコミュニケーションの見本を見せてあげます。親が傷つく不安を乗り越えて、意見の合わない夫婦間で自分の率直な気持ちを伝え合ってみましょう。

2013年6月24日月曜日

子どもが親を連れてくる

先日の講義を受けさせてもらった高校3年生の佐藤ひろみ(仮名)と申します。
両親の夫婦仲が悪く、喧嘩ばっかりです。
本人たちは、精神科医がこのような相談を受けてくれると信じていません。
17歳の私が申し込むのは変かもしれませんが、兄とも話しあって、本人たちも信じてくれないので私が予約しました。よろしくお願いします。

はい。良いですよ。
この前の講義でもお話しましたけど、日本の精神科医は病気しか扱いませんからご両親が信じてくれないのもよく分かります。ひろみさんとはお会いして話したからわかりますものね。

それに、夫婦関係をカウンセリングで改善するという発想が、日本社会にはまだ根づいていないということも講義でお話しましたね。「夫婦ケンカは犬も食わぬ」ということわざがあるくらいですから。でも、欧米では夫婦カウンセリングの習慣が根付いているから、割と気軽にカウンセリングに行きます。欧米では夫婦ケンカはカウンセラーがちゃんと食べるんですよ。

それに、みんな「自分は問題ない!」と思いたいですからね。
内心は問題かなと薄々は思っていても、それを自分で認めたがらないんです。それは大人も子どもも同じです。ホントの自分を認めるって大切なことだけど、いざ自分のことになるとなかなかできないものです。

だから多くの場合、家族に促されて本人が気乗りしないまま相談にやって来ます。
多くは親に促されて子どもがやってきます。
ひろみさんはその逆ですね。子に促されて親がやってくるわけですから。
ひろみさんは偉いと思いますよ。

でも、気乗りしない人を連れてくるって結構たいへんですよ。
親が子どもを連れてくるのさえ大変だけど、
子が親を連れてくるって、もっともっと大変です。
大丈夫だから、行ってみようよ!
と、優しく、そしてしっかりとお父さん・お母さんに勧めてあげて下さい。

学会が楽しいなんて!?ーーー学会印象記

学会が楽しいなんて!?

若い頃は辛かった。
勉強と業績づくりのために必死で参加していた。
学会の会場に近づく電車の中からドキドキが始まる。
、、、あの人も学会に行くのかな?
、、、知っている先生に出くわさないかな?
若い頃は辺縁(peripheral)だった。
自分が一番下っ端で、まわりの人は自分より上だった。
指導教員に原稿にを入れてもらい、研究会で予行をして、口頭発表する前は心臓が口から飛び出すほどだった。

よっぽど海外の学会で発表する方が楽だった。
日本からの参加は超マイノリティー。みんなと「違う」ポジションだから、お客さまとして言いたい事を言えた。
国内の学会では、「同じ」グループ内の最下位のポジションだった。

若い頃は発表の機会を得るために、たくさんの学会に入っていた。
付き合いで参加せざるをえないマイナーな学会から、専門家のアイデンティティを維持するために必要なメジャーな学会まで。
精神神経学会や心理臨床学会、アメリカのAAMFTのようなメジャーな学会は専門資格を維持するために必要だが、大会に参加しても大きすぎて面白くない。関心を引く部分だけ参加して、他は物見遊山でゆっくり過ごす。

年齢と共に、これらの多くは学会費を滞納してドロップアウトし、今でも残っているのは4つの学会かな。国内が1つに、海外が3つ。

AFTAには1年おきくらいに出かけている。去年は参加して今年は行かなかった。
アメリカでも近年はpsychotherapyが落ち目でbiologyに傾倒しているとはいえ、もともと社会の中で果たす役割が日本よりずっと大きい。
Psychotherapyの中でも家族療法のシェアは比較的大きく、遊佐先生の発表によると、
CBT 68%
MFT 49%
mindfulness therapy 41%
psychodynamic 35%
Rogerian 30%
第二位なんですね。

アメリカの夫婦・家族療法をカバーするのがAAMFTであり、これは規模が大きく超メジャー。資格認定もあり、アメリカ人の家族療法家は入らなくてはならない学会だ。
私は参加したことはない。
同じ家族療法の学会でもその対局に位置するのがAFTAだ。人数は1000人いないんじゃないかな、小規模で入会審査が厳しい。最近でこそopen policyに変更したけど、教科書やfamily processに出てくるような人たちがバンバンいて、レベルの高い学会だ。若手が研究成果を発表するという色彩は薄く、ひとつのテーマについて時間をかけてディスカッションを深める。アメリカの学会では海外、特にアジアからの参加は珍重されるので、私も時々行っている。
"Hi, Takeshi, Nice to see you again!"なんて言ってくれる人も結構できたので、私の居場所化しています。

IFTAは家族療法学会の国際版だ。
80年・90年のマスターセラピスト全盛時代には盛んだったけど、最近はちょっと落ち目か。私は英国留学時代にダブリンで開かれた第一回大会がらちょこちょこ参加して、board memberも一期やったのだけど、ここ2-3年はちょっと引き気味。お祭り的雰囲気でいろいろな人には出会えるので、仲間が行くとか何かのきっかけがあれば参加する。

CIFAは家族療法学会のアジア版。5年前に香港で第一回が開催されて以来、日本代表みたいな位置に居すわっている。

私にとっての日本家族研究・家族療法学会は、若い頃のmarginal positionから、いつのまにかdominant positionにすっぽり入ってしまった。
学会での立ち位置がよくわかるのが交流会・懇親会でのポジショニング。
昔はずっと端っこの方でパクパクご飯を食べ、真ん中には近づけませんでした。最近はようやくセンターテーブルにも近づけるようになった。しかし長老たちとタメで渡り合う度胸はないので写真・ビデオを撮ってゴマかしてました。

年1度の大会は、気分高揚状態。
特に今回はホスト側でもあり、実行委員をやって、司会、シンポジスト、コメンテーターと多重の役割をこなす。
交流会に出て、二次会に流れて、旧知や新たな出会いが多く、仲間との再開であり、仲間を作る場である。
若い頃のような研究の成果発表・業績づくりの場ではなくなった。
同じ指向性を持つ専門家たちと臨床経験を深めていく場である。
また、学会を運営し、家族療法を社会に広め、若手を育成する役割も担うことになる。

と、前置きが長くなったが、このような文脈の中での私の印象記を書く。

世代交代という話が何度も出た。
学会黎明期の80年代に40-50代だった第一世代(牧原、鈴木、下坂)の後、
その頃30代だった楢林、中村の時代が12年間続いた(第二世代)
そして、当時20代だった渡辺にバトンタッチされたわけで、これから第三世代が始まる。

年齢とかそんなにこだわらなくてもという話もあるが、generation 感覚・年功序列感覚の強い日本文化ではどうしても避けて通れない。
家族も30年がひと世代とすれば、家族ライフサイクルに敏感な我々はそろそろ第二次変化(second -order change)を引き起こすためにpositive-feedbackが必要な時期なのか。
前の世代が築いた財産をどう引継ぎ形態を維持しながら(morphostasis)、同時に新たなニーズに対応して形態を進化させていくか(morphogenesis)が問われている。

着かず離れず。
前世代がほったらかしても干渉しすぎてもいけない。
次の世代が過去に依存し過ぎても、反逆して関係性を絶ってもいけない。
そのためには次の世代が成熟し、自立する自信が必要だ。
それとこの学会の基礎概念でもある関係性だ。
独自性を互いに認めつつ、信頼し連携できる関係性が必要だ。
お互いに手を差し伸べ関係性を作っていく。

下からのアプローチもある。
10年以上前だったかジェンダーに興味があり、将来は自費で開業もしたいからと、教えを乞いに某学会長のオフィスを訪ねた。何を話したかは全然覚えてないけど、寿司屋に連れて行ってくれたことだけ覚えている。
それ以上に上からのアプローチ(誘い入れ)も大切だ。
やはり10年くらい前か、初めて演題の司会をやった。楢林先生とペアを組み、楢林先生がリードしつつ、私にも少しやらせてくれた。
またそのころ、後藤先生が新潟に呼んでワークショップをやらせてくれた。若手開発の一環だったと理解している。
これらの体験が、学会に受け入れられてるなという感覚を作ってくれた。
逆の体験もある。
某〇〇元か私の発表事例に対して「全然基本ができてない、一からやり直せ」みたいなぼろくそコメントをもらい、傷ついた。
だれしも良いところと悪いところ両方もある。
甘過ぎてはいけない。若僧側には成功体験を積めるだけの実力が必要だ。誰でも来る人を拒まずのスタンスではダメだ。
逆に厳し過ぎてもいけない。良い芽を見い出し、育てて行く姿勢が上の世代には求められる。
学会に顔を出す動機には、純粋な学問的興味と仲間から誘われる場合がある。しかし学会を身内関係の延長にしてはいけない。すでに形成されている仲間関係の枠をはずし、興味と熱意だけでやってきて孤立しがちな新たな参加者をどう組み入れていくか大切だ。

若手がドキドキしながら業績を作っていくために、短時間の口頭発表やポスター発表は大切です。
それと並行して長時間の発表をどうするか。
自主シンポという枠は、企画者が自由にできるから良いでしょう。
臨床事例を扱う長時間の口頭発表はどうなんでしょうねえ。
一般的な成果(outcome)中心でいくか、この学会特有のプロセス(process)中心でいくか、両方の考え方があります。
前者でいくと、まず発表者が事例経過を丁寧に提示して、こんな工夫をしてこんなオリジナリティがありましたと成果を独演で発表します。その後の残った時間でコメンテーターのコメントと質疑応答で締めくくるみたいな。
後者は発表者とコメンテーターの(あるいは聴衆も含めた)掛け合い漫才になります。
もともと家族療法が複数の人々の漫才プロセスなわけで、多分こういう発表の雰囲気はこの学会特有の楽しくためになるものだと思います。

「研究事例」という名称はどっちつかず、どちらにもとれてしまいます。以前あったような「公開スーパーヴィジョン」だと後者の色彩が強くなるかな。
あと、抄録をどう書くか。ちゃんと論文形式(方法・結果・考察)で書きなさいと指示されると、どうしても前者のスタイルになってしまいます。この学会らしいのは後者だけど、前者のニーズもあると思います。このあたり、うまく切り分けられると良いかなと思いました。
ちなみに、後者でいくなら司会はいなくてもよいかなと思います。

2013年6月12日水曜日

母親の物語(最終回)

帰りの新幹線の中だ。
四国巡礼の旅も無事に終わろうとしている。
私にしてみれば婆婆のペースに合わせたのんびりの旅。
帰路に立ち寄ったしまなみ海道からの瀬戸内海が見事だった。
母親にとっては通常よりかなり活動量が多い。疲れただろう。

昨日は本家のおじさんをお見舞いにいった。
ちょうど良かった。ガンに冒された87歳の身体は浮腫と腹水で食べものを摂取できなくなり、意識も混濁し始めている。
この2週間で急激に落ちてきたんですよ。
よくお嫁さんが尽くしている。都会であれば当然ホスピスか緩和ケア病棟の段階であろう。変わり果てた兄の姿に母親は涙を流し、お嫁さんももらい泣きする。

本家のいとこのJちゃんは叔母たちと私を歓待してくれる。
蔵を整理したらこんなのが出てきたんですよ。
埃をかぶった化粧箱には昔のお人形さんが入っているが伯母さんたちの記憶にはヒットしないようだ。
母親が尋常小学校時代にもらった「優等賞」の賞状も保存されている。
夜は家族みんなで楽しい宴会。四国ならではの新鮮な海の幸が満載だ。おじさん、伯母さんら母親のきょうだいが4人、いとこたちが嫁さんも含めて4人。にぎやかで楽しい食卓だ。おじさんもビールを少量とお鮨を3カン食べることが出来た。

このシーンはとても懐かしい古い記憶が蘇ってくる。
毎年お盆に全国に散らばった一族がじいちゃん・ばあちゃんのもとに集合し、大宴会。
小姑たちがいっきに押し寄せ、伯母さんは相当たいへんだったと思う。

Jちゃんが昔のアルバムをデジタル化して、スライドショーを上映してくれた。都会の核家族で生活する我々ばかりでなく、待ち受ける側のJちゃんにとってもとても楽しかったんだって。
そう、友だちとも違う、普段は会わないけど年1回、血のつながったいとこたちとの再会は何より楽しかった。いや、血ではないな。原家族の再会を心より楽しんでいる親・祖父母・おじおばたちの姿を見て、日常生活は共にしないけれど、大きな家族にすーっと含まれていく安心感なのだろう。

お盆が過ぎてそれぞれの生活に戻っていく娘と孫たちを祖母は必ず涙で見送ってくれた。

「元気でね。無理しないでね。また来てね。手紙ちょうだいね。。。」

小さかった私は、別れを悲しむ祖母と母親を交互に見上げ、正式なさよならの儀式はこうするものなんだと感慨深く眺めていた。

このように書いていく中で、普段の家族生活では気づかない拡大された「家族の物語」が見えてくる。自分自身の家系図を目の前に展開しているようだ。

両親の原家族は有産階級だったんだ。今はあまり意識されないが、昔の時代には有産・無産階級が区別されていたのだろう。
両者とも都市部ではない地方の田舎の大きな商家だった。学問的には全然sophisticateされていない。その中で父親と母親は勉学的に抜きん出て、当時は(特に女性にとって)一般的ではなかった高等教育を受け、大都会に新たな核家族をスタートさせた。
大都市では有産・無産はあまり関係ない。みな小さな家に住み、教育レベルが収入の差を生む。

若かった父と母は「勉強できる子が都会に出る」という成功のシナリオを携えて、群馬と愛媛から上京してきた。お金持ちではないが安定した収入を父親が提供し、安定した居場所を母親が提供し、大家族の複雑な葛藤関係もなく、ある意味きわめて安定した家庭環境の中で、私は「勉強できる子」という家族神話をそのまま受け継ぐことが出来た。

----

母親の心理が少し見えてきた。
  • あ)愛情。
  • い)心配・不安、怒り、敵意、嫉妬。
これらは正反対の感情ではあるが、共通点がある。
それは、常に対象のことを意識に載せている状態だ。
かけがえのない対象(=家族)を載せている受け皿(基盤)がどのような心理状態にあるかによって分かれてくる。
受け皿が肯定的だと良質な(あ)となる。
受け皿がストレス下にあると、相手を束縛する(い)となる。

親の不安・心配は幼い子どもを守り、育むために必須の感情だ。
しかし賞味期限を過ぎると、巣から飛び立とうとする若鳥の足かせとなる。
今は巣立ちに失敗する若者が多い。

その点、はるか昔に巣立った私にとって、もはや親の不安が足かせには成りえない。そのことを心配する必要はない。
一番下の孫も来年は高校生だ。もはや手をかける年齢でもない。
とりあえず、今回アリバイを作ったから、1回か2回分の出張はキレずにいてくれるだろう。でも、その後はまた不安・心配のスパイラルに戻るだろう。それは加齢とともに記銘力は保持されたまま心情的肯定力が低下した母親に残された愛情表現なのだ。

そのうちエネルギーが切れてきたら、補充するべくまた連れ出すしかない。今度は親孝行として。
タケシさん、何から何まで本当にお世話になりました。Yおばちゃんと一緒に皆に幸せを運んでいただいたように感じています。おばちゃんにもよろしくお伝えください。 
幸せって何なんでしょうね?
久しぶりにお目にかかったおじさんは、間もなく天国へ旅立たれます。
もう自力では歩くことも食べることもできないのに、子どもや妹たちに無理に勧められてみんなの宴会の席に着きました。傾眠傾向が強く意識もはっきりしないけど、耳は聴こえているんだよね、きっと。お嫁さんが口に運んでくれたお鮨をひときれ食べた時、一瞬だけど満面の笑顔が見えました。これが幸せなんですよ、きっと。
----
6月15日
その伯父の訃報が入ったのが4日後の昨日だった。
母) お葬式は今回失礼するわ。


6月17日
お悔やみ電報
「子ども時代に帰省した時の伯父さんは、トラックの荷台に親戚一同
を載せて海水浴に連れて行ってくれたり、腹踊りをしてくれたり、
とても優しく大好きでした。最後にお目にかかる事ができて幸せで
す。安らかにお眠りください」

母親の物語(5)

母親は郷里に戻り、姉と妹からエネルギーを注入されている。

要するに、すべて関係性の会話なんだ。
AちゃんとBちゃんの仲が悪くて、その結果がCちゃんに及んで、、、
Dちゃんは身体が弱くて苦労して、、、
Eちゃんは医学部受験で6浪して、、、
Fちゃんは離婚して子どもはこうなって、、、

仕事の話や社会情勢の話は出てこない。
昔と今の親族・家族の物語だ。家系図を書いたら相当複雑になるだろう。
セラピーでの会話と種類的には相似形だ。

----
こうやって、母親の物語を綴ってみても、構造が見えてこない。
父親の物語には構造があった。子ども時代は尊敬し、自分の規範であり、思春期には壁として挑戦し、乗り越え、自信を獲得し、依存対象から分離していった。
母親と私の間には何があるのか見えてこない。
なにも事件はなかったように思う。

十分な承認・愛情をもらった、、、と思う。
というか、もらっていない状態ではなかったので、何もそれについて感じることがない。専業主婦としていつも近くにいた。幼少期から今現在まで常に身近にいる。
今も昔も、母親にとって夫とふたりの子どもと孫たちは一貫して常に眼差しを向け、何よりも優先する対象だ。それが重たくもあり、だからといって重たくても別に支障はない。、、、そうでもないか。重たいからこそ今回の旅行を実現させたわけだから。

過剰に期待されたわけではない。
普通に期待していたと思う。
もし父親がいなかったらもっと過剰に期待されていただろう。基本的に母親の不安値は高い。夫が打ち出した指標がなければ高度経済成長時代の進学熱に乗せられ、母は自然に「教育ママ」になっていただろう。
教育心理学者である父親は「進路指導」が専門で、親や教師がどう子どもに期待するかを打ち出すのが仕事である。母親は教育ママにならなかった。
それに、(口はばったいが)私はまわりから求められる教育期待をクリアしていた。
高校受験は都立一本だけで私立や国立は滑り止めも受けなかった。当時の都立高校は学校群制度。第一学区で受けられる11群(日比谷・九段・三田)だけ受けて、国立や私立進学高もねらってみたらという先生の勧めもあったが、親の教育方針で受けなくてよいということだった。当時は塾に行っている子が多かったが、私は行かなかった。大学受験の半年前の夏にアメリカから帰ってきて全然受験体制ではなかった。浪人するつもりでいたら、現役で希望する大学に受かってしまった。つまり、親にとっても私自身にとっても、勉強面については不安要素がなかった。平たくいえば、「勉強のできる良い子」を通すことが出来た。
いとこのAちゃんは勉強ができて、医学部に進学して医者になった。その弟のBちゃんは勉強ができなかった。子ども時代からGoodiesのAちゃんとBaddiesのBちゃんに対する親の対応の差は歴然だった。Bちゃんは離婚したんだって。親から受け継いだ家を人に貸し、都会の方に行ったらしいよ。何してんか知らんけど。 
祖父は大切な跡取り息子として大切に、つまり甘やかされて育てられた。医者になる夢を諦め、やる気をなくし、受け継いだ家業には熱心でない。戦後、農地改革でたくさんあった土地を取られていく中で「ヘンな宗教」にはまり、朝から酒を飲み高等遊民気取りだった。祖母は不満を漏らさず夫に使えていたがとても苦労した。
その祖父のひとり息子のKおじさんも大切に(=甘やかされて)育った。のんきでとても人あたりが良い。帰省すると皆を歓待してくれ、私は大好きなおじさんだった。でも仕事の詰めは甘く、肝心のことは決められず人任せにしていた。大人になってから母親(私の祖母)を責め、仲が悪かった。
妹たちから聞かされる兄の評価は厳しい。
経済的に豊かではなかった。
でも貧しくもなかった。
父親は国家公務員だった。決して余剰の金があるわけではないが、経済的に不自由はせず、きわめて安定していた。
父の実家は温泉旅館。母親の実家は旧家の土地持ち。両方の実家は経済的に豊かだった。お医者さんや商売をやっている親戚は羽振りが良く、自家用車を持っていたり、大きな家に住んでいたり。私にはそういう体験がない。おもちゃをいっぱい持っているいとこを「いいなあ!」とは思ったが、持っていないことが不自由ではなかった。
お金が増えればトラブルも増える。贅沢な暮らしに慣れてしまうと、レベルを下げられなくなる。医者仲間には贅沢路線で突っ走る友人もいるが、私はあまり興味がない。

家族の中に葛藤関係がなかった。
核家族だった。
次男坊の父親と四女の母親が郷里を遠く離れ東京で小さな家族をスタートさせた。母親の姑さんは群馬の山奥で、年1-2回の帰省時しか接点がない。それに嫁入り6年後に姑は心臓病で他界してしまった。
父は旧制中学で山奥から県庁所在地の前橋に出て以来、家から離れ暮らした。特に親が心配する要因もなく、まあ順調に思春期を過ごしたのだろう。親の期待は長男に集まり、次男である父親は放っておかれたのではないか。父の両親から良い意味でも悪い意味でも気持ちが投影されることはなく、夫(息子)・嫁・姑の黄金の三角形(トライアングル)は形成されなかった。

継ぐべき家業がなかった。
父親はいわゆるサラリーマン。財産も家業も持たないから、私への遺産もない。
母方の祖父は医者になりたかったがその希望を捨て家業を継いだ。
父方の祖父は婿養子として山奥の旅館を継ぐことが決められていた。
ふたりは継いだ家業を熱心にやることもなく、運動の得意だった父方祖父はゴルフに、母方祖父はお酒と「ヘンな宗教」にハマっていた。それでも家業は潰れることなくなんとかなり、経済的な余裕があったので、特にそれが家族問題の遡上に上らなかった。というか、そもそもその時代に「家族の問題」なんてなかった(意識化されなかった)のではないだろうか。
このふたりの祖父のように自分のやりたいことを犠牲にして経済的な潤いを保証されるという葛藤とは無縁で、自分で職業を選ぶ自由と不安が与えられていた。そしてどうにか「なりたい自分」を実現することができた。
いとこのGちゃんとFちゃんは父親が共に医者だ。GちゃんもFちゃんも医学部を目指した。Gちゃんは5浪して医学部を諦め他学部に進学して会社に就職した。Fちゃんは5浪して見事に医学部に受かり、父の医院を継いだ。しかしその後のうわさでは良い話が出てこない。 
Hちゃんの家は代々続く医者のおうち。みな万難を排して医者になった。Hちゃんの母親はとても家族思いで、Hちゃんにも息子くんにも多大な期待を寄せてきた。ところがHちゃんの息子は医学部ではない学部に進学した。H家に代々受け継がれた伝統が途絶え、家族思いのおばさんはキレた。前々からあった嫁姑葛藤が炎上し、嫁さんをサポートするHちゃんは実家と距離を置くしかない。Hちゃんは母親対策、奥さん対策、まだアイデンティティの定まらない息子くん対策で頭を悩ましている。
戦争の爪痕は?
母方、父方の両祖父は何度か出征した。でも職業軍人でもなく、守るべき家も子どももたくさんいたので戦士せず、復員してきた。戦争によって失った家族は私の知る限りではいない。戦争が激化しても愛媛と群馬の田舎は空襲を受けることはなく、むしろ都会からの疎開先だった。
父親は職業軍人のタマゴとして陸軍幼年学校に通い、その途中で終戦を迎えた。20歳まで命が続くとは思っていなかったらしい。終戦後旧制高校・新制大学と進学する中、大きく変化する価値観の中でどう思春期のアイデンティティを形成したのだろう?

夫婦仲に問題がなかった。
父親は短気でわがままだった。妻に甘えているだろうか、よく些細なことで夫婦ケンカしていた。きっかけが些細だから、元に戻るのも簡単だ。幼かった私にとって、大人の怒りは耐えがたいものだったが、1-2時間もすれば元に戻る。長期間続く恒常的な夫婦葛藤はなかった。
Rおばさんはダンナさんとうまくいかなかった。若い頃実家に戻ってきてもう別れようと決心したけど、なぜかまた婚家に戻っていった。息子のPちゃんは両親の間にはさまれてしまった。父親側についていたPちゃんは、父親亡き後も父の遺志を受け継ぎ、母親と代理戦争を繰り広げている。今では残されたRおばさんとPちゃんの間には全く交流がないんだって。
母親は尊敬する対象でも規範でもなかった。
父親はそうだった。だからそこから抜け出すために反抗や葛藤を経験した。
母親はいつもべったりそばにいる人だった。未だに私は母親を対象化できないのかもしれない。
母はやさしかった、良い母親だった。だからといって尊敬もしないし、規範も価値も生まなかった。
「私の時代はね。三従の教えと言って、子ども時代は父親に、結婚して夫に、夫が亡くなれば息子に従うべしと教えられたのよ。」
二従までは確かにそうだったね。ブツブツ言うけどちゃんと従ってきた。じゃあ、三番目も従うのかな。

母親の過保護・過干渉のドロ沼にハマることもなかった。
母親は子どもを自立させるという概念を持たず、いつまでも保護し干渉してくる危険性はあった。
その抑止力として父親の存在は大きかった。
それに、私が勝手に自立してしまった。

高校留学の時は、母親にとってかわいそうなことをしたと、今だから振り返る事ができる。
ジャンボジェットも成田空港もなかった1976年に旧羽田空港から飛び立った時、送迎デッキで見送る母と祖母の写真がある。別れの涙は祖母のお決まりの習慣ではあるのだが、母親(と祖母)に泣かれるのは辛い。でもそれが私の自立欲求を押しとどめる力とはならない。

私がアメリカに渡った翌月に母と妹は、たまたまサバーティカルでミネソタに滞在していた父を訪ねた。日本?アメリカに比べれば、MinnからNCは近い。母親は私を訪ねたいと言ってきたが、私は断った。
そのとき私は現地に適応することに必死だった。新しいAmerican familyを形成している最中にoriginal familyが来てはまずいでしょ。追っかけてくる母親から逃げていた。
しかし、半年後のクリスマスに父親ひとりが来るのは構わなかった。半年という時間が経過して私に余裕ができたせいもある。それに父親は来ても構わないけど、母親は困る。
父親には吸い込まれないが、母親だと吸い込まれてしまう不安があった。

私が大学受験の時、母親は喘息の発作がひどく臥せっていた。
「お弁当を作れなくてごめんね。」
いや、べつに手作り弁当で合否が決まるわけでもないし、ぜんぜん関係ないんですけど。
母親はゴメンと言うが、私はそんなことどうでもいい。
合格発表をガールフレンドと一緒に見に行って、その後ふたりで映画を見た。

結婚して留学を終え、大学に職を得て、長男が生まれた。
家を二世帯住宅に立て直したが、二世帯を行き来するドアは基本的に閉めていた。
妻との核家族を築くために、親との距離を開けたかった。
自然にしていると母子の距離が戻ってしまうことが不安で、どうにか意図的に離そうとしていた。

このように振り返れば、私の心の基盤は盤石だった。
人生最大の喪失も、なんとか乗り越えることができる。
しかし、母親にとっては嫁を喪失した悲しみと、息子の悲嘆を見る辛さのダブルパンチを受けてしまった。もし私の子どもが苦しんでいたら、自分も苦しくなるだろう。
父親も同様に苦しんでいたはずだ。でも父親は苦しみを表に出さないのでわからない。
二世帯住宅のドアが空いてしまっただけに、母親の苦しみがよく見えてしまう。それを見る私も辛くなる。

2013年6月10日月曜日

母親の物語(4)

叔母さん宅では、おじさん、K伯母さん、母と楽しい会食。
昔話に花が咲く。
80歳前後のお婆婆たちが娘時代に返り、「箸が転げても可笑し」く大声で笑っている。
このシーンは記憶がある。

私が子どもの頃、毎年お盆休みは四国に帰省していた。
当時の四国への帰省は、今の欧米くらいの感覚だ。寝台列車「瀬戸号」で夕方に東京を発ち、宇野から宇高連絡船で高松へ。そこから予讃線のディーゼル急行で壬生川まで。まるまる一日かかっていた。でも若い母にとっては貴重な帰省だったろう。親のもとにきょうだい7人が集まる。母が懐かしい大家族に囲まれ談笑する姿をみて、幼かった私も気持ちが安らいだ。上下20年くらいに散らばったいとこたちは2+3+2+4+2+2+2=総勢17人が集まる。旧家の縁側に並んでスイカを食べたり、おじさんの運転するトラックの荷台に乗り込み、「おまわりさんが来たらむしろをかぶって隠れるんだよ!」とはしゃぎながら海水浴に出かけたり、蚊帳を吊って雑魚寝するといとこのお兄ちゃんの怪談が怖くて眠れなかったり。

楽しい思い出ばかりではない。おばあちゃんにお灸をすえられる。べつに悪いことをしたからではなく、背中にモグサをすえて線香で火をつけるのが癒しになるわけで、娘たちにやってもらうついでに孫たちにもやってくれる。恐かった。体調を崩すと浣腸する習慣もあった。お尻からぬるま湯を入れられるのが恐いし、旧家の汲み取りトイレの下は明るく汚物が丸見えで、ものすごく臭く恐かった。
小学4−5年生だったろうか、海水浴で沖を泳ぐお兄ちゃん目指してやっと覚えた平泳ぎでのんびり楽しんでいた。すると、手漕ぎ舟がやってきて、私とお兄ちゃんが「救助」され、岸に戻ると母が泣いていた。岸からは潮に流されていると見えたらしい。「タケシくんが溺れてる!」とおばさんが騒ぎ出し、岸では大パニックだったそうだ。

これらも含め、今では懐かしい大切な思い出だ。
今回の旅行は、母親のケアを口実にした私自身の追憶の旅なのだ。

母親の物語(3)

母との二人旅は久しぶり。というか、ふたりだけの旅行なんて過去にあっただろうか?
通勤電車に乗れば、みんなさっと席を譲ってくれる。明らかにそういう歳なんだ。
新幹線に乗ると、タイムスリップが始まる。ボソボソと昔話を語りかけてくる。原稿書きも読書もできない。まあ、希有な機会だ。母の話を聞こう。

そう!二回目のお見合いだったんだ!
仲人のハタノさんはフジボウの元工場長さんだったんだね!

京都駅でK子伯母さんと合流した。
とたんに80歳と82歳のお婆婆が童心の姉妹の顔になる。
母親が神戸の大学にいた頃、おばさんは京都へ嫁ぎ、長男が生まれたばかり。週末はすることないから(?)、よく京都に遊びにいった仲の良い姉妹。
福山までずっとしゃべりっぱなしだった。
「ものわすれ」の始まっている伯母さんと耳の聞こえが遠い母親でもちゃんと話は通じているようだ。話の内容はともかく、笑い声が絶えない。
福山駅からレンタカーでしまなみ海道をドライブして伯方のA子叔母さんと合流。
かしまし三姉妹の久々の再会だ。
----


57年前、母親は四国の田舎から見合いでひとり大都会に出てきた。
翌年、私を産んだ。
知り合いは東京に嫁いでいた長姉だけだったのではないか。私が小さい頃は、よく大塚の「さだこばちゃん」の家に遊びに行った。
「おばちゃんはお料理が上手なのよ。」
私と妹はいとこのお兄ちゃんと近くの公園で遊び、母は姉から主婦の指南を受けていたのだろう。

母親は子どもの目にも頼りなかった。
嫁いできた当初、方向オンチだった母は、買い物に出かけ、家に戻れなくなって迷子になったという。
何かの用事で横浜まで外出し、大森に戻るときJR(当時は国鉄)の京浜東北線に乗るはずが、京浜急行に乗ろうとする。真っ赤な車両はどうみても普段乗る京浜東北線ではない。
「ママ、これでいいの?」
「良いのよ、品川に行くと書いてあるから」
そりゃあ品川は行くけど大森は行かないでしょ。

母は喘息持ちだった。嫁ぐ前はそんなことなかったという。埃がダメで、布団の上げ下げはできずに父親がやっていた。喘息は私が成人になる頃まで続き、その後は自然に回復した。今から考えれば東京の空気が合わなかったのか。何かの心因があったのかもしれない。23歳で故郷から遠く離れた大都会での生活自体、特に具体的な問題がなかっとしても、喘息を引き起こすほどの慢性的ストレス状態であってもおかしくはない。

一度、家で倒れたこともある。
トイレから出て意識を失い倒れた。今から振り返れば起立性低血圧だろうが、洗濯機に頭をぶつけたからなのか、意識を回復した後も「ここはどこ?私はだれ状態」、失見当識状態が続いた。父が早く家に帰り、かかりつけの町医者が往診に来てくれ、「おかしい」状態が2−3日ほど続いたのではないだろうか。父親は「ああこれで妻はおかしくなっちゃうのか、、、」不安だっただろう。

そんな頼りない面とは矛盾しているが、母はとても生き生きと元気だった。
専業主婦として子育て以外に社会との接点を持たない母は、子育てを通じて地域のネットワークを作っていった。
母は明るく能天気、人付き合いが良い。その性格は私にも受け継がれていると思う。
人望や指導力があったとは子どもの目からとても見えないけど、小学校でも中学校でもPTAの副会長まで出世した。私の番でPTAにデビューして、2歳下の妹のとき役職についた。PTA活動の様子は知る由もないが、多くの保護者や先生と交わる母の姿はとても生き生きしていた。

家では近所の子どもを集めて小さな英語塾をやっていた。私も小学生5年くらいになると一緒に混じり、食卓で英語の単語カルタで遊んだりしていた。
ピアノも親子で習っていた。私としてはりっぱな先生だが、母から見れば年下の女の子だろう。レッスンよりも話し相手だった。
母親は社交的で良く人と交わっていた。
父親は人付き合いが良い方ではなく、晩の帰宅も早かったし、週末に家を空けることは少なかった、
私は母親の性格を引き継いだと思う。

2013年6月9日日曜日

母親の物語(2)

今朝は5時前に目が覚めてしまった。
子ども時代の遠足気分なのか。
今回の旅行は、母親のためでもあり、自分自身のためでもある。

これは、あくまで私の中にある主観的な「母親の物語」だ。
事実に基づいた、客観的で正確なストーリーではない。
私の体験としての「母親」を私がどう主観的に語ることができるか。その中にどのようなバイアスが含まれており、それが私の人生にどう関連しているのか。
そんなことを私が主観的に体験するために書いているだけに過ぎない。

---
母親は愛媛県の今治と新居浜の中間に位置する壬生川(にゅうがわ)で生まれ育った。波の静かな瀬戸内海の海辺の町。海岸沿いにはフジボウなどの大きな工場も母親の生まれ育った当時からあったらしい。
母親の家は先祖代々続く名家だった。
その昔は瀬戸内海の海賊、と子どもたちには説明していたが、水上水軍だったかな、その血を引く豪商だったかどうか、定かではない。
母親の生家は「越智の油屋」としてガソリンスタンドを経営していた。戦前のまだ車も少ない時代のガソリンスタンドが当時の社会のどういう役割を果たしていたのかよくわからない。戦前は多くの土地持ちだったが、戦後の進駐軍による農地改革で多くの土地を手放し、地主としての地位をはく奪され、家は没落していった。

母は7人兄弟の真ん中、四女として生まれた。
私の父親も7人兄弟。昭和一桁生まれの両親の時代はちょうど「産めや増やせや」の最盛時代だったのだろう。おかげで私はいとこが30人くらいいる。今となってはほとんど会わないが。
今回の旅行が決まり、母親は突然、母の父親(私の祖父)「孝一」の出生秘話を語ってくれた。
孝一の父親の妻は子どもができず(出産したのだが育たず)、そのために離縁させられた。(当時は、そんな時代だったんだ!)再婚した後妻さんは孝一を産んだあと産後の肥立ちが悪く死亡した。孝一の父は妻を失い、離縁した先妻を呼び戻し再婚し、孝一を育てた。孝一は思春期になってから母親が産みの母でないことを知り大きなショックを受けた。実母と信じていた継母とうまくやりたいと、継母の姪を妻にした。妻(=私の祖母)は7人も子どもを産み、継母とはうまくいかない。そのために継母は孫たち(私の母のきょうだい7人)を分け隔てした。継母が手をかけた孫は良い子Goodiesでその他はダメな子Baddiesと。

母親は子ども時代に勉強ができた。そういう意味ではone of the goodiesだったのだろう、きっと。
当時の女子は高等教育は不要。花嫁修業して順番に嫁いで行くことが目標だった。
勉強ができて、名家のお嬢だった母親は例外的に一度だけ大学受験のチャンスが与えられた。もしダメだったら当然、花嫁修行の道へ進むはずだったが、幸いに神戸の女子大に受かった。
神戸では4年間、大学の寄宿舎で生活した。四国の才女も都会ではただの田舎者だったのだろうか。まわりの都会の雰囲気に圧倒されたのか、大学時代の話はあまり母親から聞かされない。

大学を卒業して実家に戻り、地域の子どもたちに家で英語を教えながら花嫁修業のお茶やお花をやっていた。
東京に嫁いだ母が里帰りすると、よく幼い私をと妹を連れてお茶の先生を訪ねていた。落雁やおまんじゅうみたいな和菓子と渋いお抹茶は子ども心にも美味しかった。そのお茶仲間のひとりがカネボウ壬生川工場長の麻生さんの奥さんだった。田舎のお嬢さんのサークルみたいなものだったのだろう。麻生さんも娘の圭子ちゃんを連れてきていた。小学校に上がるか上がらないかくらいの圭子ちゃんといとこの淳三くんと私、タケシちゃんは同い年だった。後に芸能界にデビューしても、私は母親目線から語られる「圭子ちゃん」しか知らない。
唯一の男きょうだいであった長男は家を継ぎ、他の娘たちは「適齢期」になるとお見合いをして上から順に東京、大阪、京都、東京、愛媛、愛媛とお嫁にもらわれていった。前半はずいぶん遠征したけど後半は力尽きたのか、でもあくまで地元の「名士」だったのだろう。ルールは上から順番であり、何かの都合で順番が逆になると問題が生じる。孝一お父さんは家業を継ぐために果たせなかった「医者になりたかった」願いを娘のムコさんに託した。6人娘のうち2人はお医者さんの家に嫁いで行った。

母は群馬出身で東京で就職していた父親と東京でお見合いしてお嫁にもらわれた。何度目のお見合いかは語られないが、少なくとも初回ではなかったらしい。

2013年6月8日土曜日

母親の物語(1)

父の物語は書けた。母の物語は未だ書けていない。いつまでも済んだ物語にならないからだ。
妻の物語も、済ませるまでは書けなかった。というか、済ませるために書いた。
この物語も同様なのだろう。

私にとって父親のことは比較的語りやすかった。
過去を振り返り、分離してきたプロセスを言語化し、確認することで、改めて意図的に関係を構築できる。基本的に分離した人だからだ。

母親のことは語りにくい。
振り返ればまだ十分に分離できず、ずっと母親の渦中にいることがバレてしまう恐怖がある。
ドロ沼的な母性愛から必死に脱しようとするプロセスの一部としての母親記述になってしまう。

無意識の中でそんな風に思っていたのだろう。

二世帯住宅を共有する母親には、日常の家事をお願いしている。

---
2012年12月
シンガポール出張から帰り、次の国内旅行の予定を伝えると、母親はキレた。

ちょっとあんた旅行ばかり行って、家を放り過ぎ!
子どもも大きくなったとはいえまだ頼りにならないし、家のこともちゃんとやりなさい。
おばあちゃんが今死んだらたいへんなことになるのよ。
洗濯ものだって、流しの食器だって、部屋の掃除だってぜんぜんできていない。
孫のことが心配、タケシのことが心配、夫の健康が心配。。。

感情の世界。
客観性が成り立たない。理屈が通らない感情の勢いで包み込んでくる。
もしこの文章を読んでも理解されず、気持ちで迫ってくる不安。感情に巻き込まれてしまう恐怖。
だから記述できなかった。

母親は心配するのよ。

何を心配するわけ?

息子である私へは、仕事がうまくいくか、健康かどうか。
娘へは、健康か、嫁ぎ先でうまくやれているのか。
夫へは、健康のこと。いつもは偉そうなことを言うが、ちょと体調が悪くなると、とたんにダメになってしまうから。
あと、孫たちへの心配。ちょっとでも帰りが遅くなると心配を始める。

母親の心配が及ぶ範囲はこれで完結。それ以上に広く及ぶことはない。狭い世界。
えっ、嫁いだ娘にも心配するの?
ということは、これはもう母親と息子である私の二者関係の属性ではなく、母親に備わった属性なんだ。ということに気づいた。
それなら相対化できそうな気がしてきた。

----
Genderの視点。
女性は関連性の中で自己を維持する。
自分自身のニーズではなく、親密な他者(家族)のために生き、そのニーズを満たす犠牲的スタンス。
しかも、Powerless positionにいる。母親がなんと言っても、結局私は旅行に行ってしまう。母親は他者を決定するパワーを持たない。相手に従わざるを得ない。
男性だったら「怒り」により影響を及ぼすことができる。母親の怒りはそこまでのパワーを持ちえない。怒りつつも相手に配慮して、結局はタケシのやりやすいようにと配慮するしかない。Angerではない、Naggingになってしまう。
経済的なパワー、社会的なパワーを持たないsubordinate position。それが心理的なパワーを削いでしまっている。

育児不安。過保護・過干渉。
これらは母親の問題性の表現だ。
しかし、突き詰めて考えれば、これが(少なくとも近代の)母親にとってのdefaultな状態なのかもしれない。
相手のことを考え、相手の気持ちをわかりたい、相手のことに関心がある。
関連性に指向した関係性の持ち方だ。
愛情のひとつの表現型だ。乳幼児期・学童期までは良いが、思春期以降はnegativeなチカラとなってしまう。だが、negativeだからこそ関わりを続けることが出来る。もしPositiveであれば、関わる必要がなくなるから。自立していってしまう。自立してバラバラになってしまう。
心配性であること、不安を持つことは関係性の維持に必要なのだ。

自立とは、関係性を断つことだ。心配を払拭して、もう関わらなくてもいいのだ。無視して良いのだ。そうやって、人々は切り離されていく。

根拠のない不安。
身の危険を守れない幼い子どもを危険から守るために不安は重要な役割を果たした。
50代の専門職の息子が大学教授をやめて開業した。うまくいくかどうか心配したところで、それを守る術はなにもない。でも、とにかく心配する。理屈では心配しても意味がないのだが、感情では心配やめない。際限なく心配する。

今までは、感情的に近接する母親を遠ざけることに必死だった。
不安という名の愛情のドロ沼に引きずり込まれるのが怖かった。

でも、少し開き直って考えてみよう。
不安=negativeなカタチの愛情表現
という具合にその感情を客体化すれば、恐れる必要がなくなるのではないだろうか。

----
2013年1月
母親の不安が足かせになり、旅行に出ることができないと、ある人に相談した。
Aさんからは、母親に旅行をオファーしたらという逆転の発想。
Bさんからは、逆に母親以外の家族が犬も含めて旅行に出かけ、のんびりひとりにさせてあげたらというさらに逆転の発想。

母の誕生日に、思い切ってオファーした。

四国に里帰りするか?
私がエスコートするから。

母親はしばらく沈黙した後、急に泣き出した。
如何に家族のこと:夫のこと、息子のこと、孫たちのことが心配で、気持ちが晴れないか!
だから、とても旅行なんて考えられない。
今は寒いし、温かくなったら考えておくよ。

その後、話が止まらなくなった。
孫たちから始まり、娘や姪たち。
義理の息子と、義理の娘と、その親たち。
自分のきょうだい、さらには自分の父親の昔話。
母親のまわりの人々のことを語り始め、こういう人で、こういうところがダメで、、、
小一時間ほどしゃべっていた。
私と父親はそばで黙って聞いている。不安がどんどん解放されていく。
父曰く、「時々こういうの、やってくれな。」

----
2013年4月3日
A子おばさん、無沙汰しております。お変わりないでしょうか?
実は母のことでご相談があります。身体は相変わらず元気なのですが、すっかり気持ちが弱くなりました。父や私それに孫たちの面倒をよく見てくれて大変ありがたいのですが、心配性が強まり気が休まりません。それを尻目にあちこち外出する私や子どもたちへ不満をよくもらします。そこで1月の誕生日に「暖かくなったら四国へ行こう」と提案したのですが。もともと旅行好きではなく、耳が遠いのも手伝って「故郷は遠く思うもの」と、なかなか首を縦に振りません。私としてはいつものねぎらいも込め3−4日休みを取り新幹線とレンタカーでエスコートして、留守中は妹が来て父の面倒をみるからと言ってもダメです。
もし叔母さんからのお誘いがあると、母の気持ちも動くのではと期待しています。ぶしつけなお願いで恐縮ですが、ご一考いただければ幸いです。

----
5月25日
すっかりご無沙汰しております。お変わりございませんか?
実は、来月に母を四国に連れて行こうと計画しております。
80歳を迎えた母はアタマの方は一応大丈夫なのですが、気持ちと聴力がかなり弱ってきました。
父や子どもたちの食事や洗濯など家事をやってくれ助かってはいるのですが、何でも心配・心配が先に立ちマイナスにとらえてしまいます。
気分転換に私から帰郷を勧めるのですが、留守宅を心配してなかなかウンと言ってくれませんでした。A子おばさんとS子さんにもお願いして説得していただき、やっと行く気持ちになってくれました。親孝行といえば聞こえは良いのですが、母が不安を少し解放してくれないと、私も海外・国内出張などに出れないという事情もあります。
具体的には、6月9日(日)に出発して、京都でK子おばさんと合流し、福山からレンタカーで伯方島へ。
10日(月)と11日(火)はA子おばさんとK子おばさんにも付き合っていただき国民休暇村泊。
12日(水)に帰京する予定です。
その間、ご都合がつけば、ぜひSおじさんにもお目にかかることができればと思います。
突然の計画で済みません。お目にかかることができればとてもうれしく思います。

----
6月4日
来週の旅行の話をしていた時の会話。

タケシのやっている家族療法ってよくわからんけど、要するに家族みんなで協力してやりましょうっていうことなんでしょ?
うちがモデルだな。

とメガネをはずして笑顔。
母親の笑顔を見たのは久しぶりだった。

2013年6月6日木曜日

ひきこもり脱出講座(第2回)「子どもに関わる勇気」

「ひきこもり脱出講座:家族の力でひきこもりを解決しよう」

第二回のテーマは「親子関係」でした。

ひきこもる子どもにどう働きかけたらよいのか、どう関わったら良いのか私からお話ししました。

第一に、現状について。毎日どう接しているかをみなさんで紹介しました。
  • 親子が良い関係で一緒にいても気にならない方
  • 子どもとの接触は極力避けている方
  • 不自然にならない程度にひとこと言葉をかけるくらい。差しさわりのない話題を話す。しかし、核心の話は言わないようにしている方
などがいらっしゃいました。
特徴的だったのはお子さんとの会話に気を遣い、遠慮して、緊張している方が多くいたことです。
  • 以前は怒って大変だったから。
  • 子どもを追いつめたり傷つけたりするかもしれないから。
第二に、今後の可能性について。
ホントは子どもにどう接したいのだろうか?親としての本音の気持ちを紹介し合いました。

グループと話し合う中で出てきたのが「勇気」でした。これが今日の裏のテーマです。

親が勇気を持って子どもに向き合えば、その勇気が子どもに伝わります。

ひきこもる人は、他者と関わる大きな不安を抱えています。
ひきこもることによって、自分が傷つくことを防御しています。
人と交わることで傷ついた体験があり、それをまた繰り返したくありません。
それを乗り越えるには勇気と希望が必要です。
また失敗するかもしれないという予想(=不安)があれば、敢えて危険を冒して外に出ようとはしません。
もしかしたらうまくいくかもしれないという予想(=希望)があれば、リスクを多少は冒す気持ちにもなれます。

Q)外に出る勇気とか元気は自然に出てくるものなのでしょうか?
Q)本人が気づくきっかけがあるのでしょうか?

いいえ。
ひとりだけだと勇気は出てきません。
きっかけが必要です。他者との交流が必要です。
自分を出して相手に否定されると、傷つき、自信を失い、不安を持ちます。
自分を出して相手に肯定される体験があると、勇気を獲得できます。

我々は、ひきこもらず普通の生活を送っていれば、さまざま人々との交流があります。
その中で、否定され傷つく体験と、肯定され自信を得る体験を繰り返しています。
傷つき、不安と、生きていくのに必要な自信や勇気と、両方を同時に得ます。
そうやって、不安や生きづらさを抱えながらも、社会の中でどうにか生きていくことができます。

ひきこもると、人との交流が途絶えるので、傷つく体験も、勇気を獲得する体験も得られなくなります。

さてどうしましょう?
唯一、交流できるのが家族であれば、家族との交流の中で勇気を生み出すしかありません。

Q)心に響くような上手な言葉がけの言葉を教えてください。

いいえ。それは、ハウツーではありません。
どういう言葉を使うかということは大切ではありません。大切なのは、どういう気持ちで伝えるかということです。

人と人とが交流すれば、必ずふたつのレベルのメッセージを同時に伝えます。

1)ひとつは言葉の内容です。
これは当然なことですね。誰でもわかります。

2)もうひとつは気持ちです。
これは難しいです。
たとえば「私は不安です」と言葉に表現しなくても、もしその人が不安な気持ちを抱えていれば、その気持ちが相手に伝わります。
言葉で「不安に思わず元気を出しなさい」という内容を伝えても、伝える人のホントの気持ちが不安に満ちていたら、そっちのメッセージが伝わります。
このような気持ちの伝達は無意識の中で行われるのでよくわかりません。自分がどんな気持ちかなんてことも普通は意識してませんし、それを伝えていることもわかりません。相手もそれを受け取っていることもわかりません。でも実際は地下水のように見えないだけで確実に伝わっています。

上手な言葉がけとは、言葉の内容のレベルではないんです。
言葉の背後にある気持ちのレベルでどう伝えるかということです。
それは意図的に伝えることができません。
伝える人が、どういう気持ちでいるのかが関係してきます。
子どもに勇気を伝えたいのであれば、親が勇気を持つことが大切です。

Q)どうやって勇気を伝えるのですか?

子どもに関わる勇気です。
言葉がけの文言(内容)をどんなに工夫しても、その根底に関わろうとする勇気と自信がなければ勇気を伝えることができません。
子どもに関わる勇気と自信が今どれほどあるのかないのか。
それを回復するにはどうしたらよいのかということをグループでやりました。

言いづらいことを言葉にすることで、勇気が出てきました。

そうです!
Aさんはグループの中で勇気を表現できました。
とてもがんばったと思います。

ひとりだけでは勇気は出てきません。
自分を出して、相手に肯定される体験があると、勇気を獲得できます。

まさにそのことをこの講座で実際に体験しました。
とても良かったと思います。

2013年6月4日火曜日

「待つ」子育て

広尾近辺は外国人の家族連れが多い。
先日、対岸のホームに三歳くらいの女の子が泣き叫び駄々をこねていた。
地べたに寝転がり、ストライキを起こしている。
母親はじっと待っている。決して抱き起こさない。
対岸なので言葉は聞こえず、母子の相互作用しかわからないが、興味あるので電車をひとつ遅らせ観察していた。

日本人の親子にはまず見られない光景だ。
地下鉄のホームだから寝転がったら汚い。洋服どころか顔までベターっとつけてしまっている。
すぐに抱き起すだろう。子どもは駄々をこね、親は叱りながら、なんとか連れて行くだろう。

母親としては、こんなところで立ち止まらず、早く連れてゆきたいだろう。
しかし、子どもが寝転がっている間、手も口も出さず、腕を組んでじっと見守っている。叱るわけでもなく、ただ待っていた。
今度はお人形さんを放っぽり投げたので、さすがにそれは拾い、屈んで子どもに何かを話しかけている。でも抱き起さず、子どもが自分で起きるまでずっとホームの地べたに寝させたままだ。

この間、待つこと5分くらい。やがて子どもは諦め、起き上がり、母親に手を引かれトコトコ歩き始めた。機嫌を直したのかなと思ったら、少し歩いてまた駄々をこねてストップ。でも今回は1分もかからずにまた歩き始めた。

----

日本人の母親とアメリカ人の母親の養育態度の違いについて調べが古典的な研究がある(Caudill, 1969)。生後3~4ヶ月の子どもと母のコミュニケーションパターン・子どもの時間の過ごし方(遊び方)』を観察していると、次のような違いが分かった。
  • 日本の母子の接し方……子どもとのスキンシップ(身体接触)は多いが言葉をかける頻度が少なく、抱っこしたり揺らしたりすることが多い。普段から子どもと同室で過ごすことが多い。
  • アメリカの母子の接し方……子どもとのスキンシップ(身体接触)は少なめだが言葉をかける頻度が多い。普段は子どもと別室で過ごすことが多い。
どちらが良い・悪いの問題ではない。そういうしつけ方の違いがある。

これは、日本人の対人関係のあり方にも関連する。
相手の気持ちを察し、先回りしてケアする。
数年前のNHKの連ドラ「どんと腫れ」でも岩手の老舗旅館の「おもてなしの心」がテーマだった。いかに早く客のニーズを察知し、客が言う前にこちらからそのニーズを満たすことができるか。
このような共感能力は日本的な人間関係には重要な美徳なのだが、やり過ぎると良くない。

子育ての場合、親が関わりすぎると他者に依存し、自分のニーズを自らの力で解決する動機づけを削いでしまう。その結果、子どもは自立しにくくなる。

----

三歳児は立ち上がるまでに5分かかったが、思春期の子どもは数日、ときには数ヶ月以上かかる。
学校で自分の思い通りにいかず、やる気をなくし勉強をせず、夜遅くまでゲームばかり無為に過ごして、朝も起きられない。成績は下がり、停滞し、電車に乗り遅れてしまう。

親としては必死だ。何とか抱き起して歩かせたい。
この子は何かの病気でこうなってしまったのでしょうか?
どうやったら今すぐに立ち上がらせることができるのですか?
と相談にやってくる。
もし、病気なら治療をしなければならない。
しかし、病気でないのであれば、待つことが大切だ。
本人自身も起き上がらねばならないことは十分わかっている。しかし、今は起き上がることができないだけなのだ。

思春期の子どもの潜在力を信じ、自らの力で立ち上がるまで、親が腕を組み、叱ることもせず、待つことができるか。

これは、親にとってかなりの試練である。
そのようなお手伝いをする場合が多い。

2013年6月2日日曜日

父親の反省と世代間伝達

Aさんは奥さんといっしょに、子どものことについてカウンセリングに通っています。
始めの頃は奥さんに説得され、「話すことなどないから!」と消極的でしたが、今では自分の体験を積極的に語るようになりました。

私が反省するとしたら、今までーー子どもが小さかった頃ーー家族や子どものことに関心が向かなかったんです。

でも、それはお仕事が忙しかったからでしょう?

もちろんそれもあるのですが、もっと大きな要因がありました。
自分の父親は、全く家庭に興味がない人でした。

でもその時代、多くの男性はそうだったのでは?

いや、その時代に男性はソトの役割だったとしても、多少は家庭にも関心をもつものでしょう。でも、私の父親は違っていました。外ではとても良い顔をして、みんなから「良い人だね!」とほめられ、地域の名士として活躍していました。でも家のことはぜんぜん関心を向けず、すべて妻に任せていました。
だから、父は私を含め子どもたちに関心を向けませんでした。好きとか嫌いとか、厳しいとか優しいとかいう次元の話ではないんです。ただ単に関心がなかっただけなんです。

なぜかというと、私の祖父(父親の父親)もまた同じでした。ソトではとても活躍して有能な人だけど、家には興味を持たない人だでした。

父から息子へと、世代間で伝達しているんですね。
別に遺伝子レベルで伝達されているわけではない。
家庭内の生活習慣が親から子へと受け継がれたのでしょう。

ここまで来るのに、すごく大変だったんですよ。

それは、よくわかります。
Aさんと奥さんの力で達成されましたね。
Aさんが今、はこうやってとても熱心に家族のことを考え、語っていらっしゃる。それは素晴らしいことだと思います。ご先祖さまから受け継がれてきた伝統を、ここで断ち切ったのですね。
Aさんが変わることで、夫婦関係も、親子関係も、きっと変わることができます。

今さら、もう遅い。。。

ということはありません。
いつでも、挽回することは可能です。

今の世の中、男性も家庭に関わるべしという価値観に変化してきました。
もしAさんが語らなければ、相変わらずそのことを避けていると奥さんや子どもから後ろ指をさされます。Aさんご自身も家族に関わる気持ちが削がれてしまいます。

逆に、こうやってAさんが語れば、少なくとも家族のことを考えているわけですから、きっと奥さんや子どもも内心ではとても評価しているはずです。
Aさんが悪いわけでも、Aさんのせいでもありません。
もっと大きな時代を超えた枠組みの中のひとつの現象に過ぎないわけですから。

しかし、だからといって、即、家族のコミュニケーションの回復につながるわけではありません。
長年培われてきたコミュニケーション・パターンはそう簡単には変えられません。
でも、少なくとも解決の糸口がはっきりと見えましたね。
このAさんの反省をもとに、夫婦で、親子で、何ができるのかを語り始めることができます。
それが、解決への道すじです。