2011年9月12日月曜日

有栖川公園

 月曜日は相談は休みだが、研究室に来て、たまった原稿とメールを書いていた。
昼間、近くの有栖川公園に散歩に出かけた。テレビ朝日通りに出る。中国大使館に通じる道は細い路地に至るまで24時間、警官が立っている。あの費用はいったいどこから出るのだろうか?
愛育病院を通り過ぎ、有栖川公園に入る。まだ暑さが残り日差しもきついが、公園の森に入るとぐっと涼しくなる。池の水はきれいとは言えないが、小さな滝も流れている。
隣の麻布ナショナル・マーケットにも立ち寄ってみる。品物の表示はすべて日・英で併記されている。パスタ類とシリアル、それにワインの種類が豊富だ。眺めながら、今晩はチキンのローストとパスタサラダに決めた。
都立中央図書館にも入ってみる。高校3年生の夏にアメリカから帰国し、夏休みに通った頃以来だ。平日の昼間は学生はおらず、社会人ばかりで空いていたが、当時の夏休みは受験生らしき人々で閲覧室は満員だった。近所の区立図書館は古びて、机も狭い。ここはテーブルが広く、新しいから気持ちが良かった。みんな静かに集中している雰囲気の中で、自分も勉強に集中できた。時に可愛い女の子を見つけると、その子の向かいの席に座れたらラッキーだった。センパイからは消しゴムを落として話しかければ良いんだよと言われたが、とてもそこまでするつもりも勇気もなかった。
当時と違うのは人々がノートPCを持ち込んでいるくらい(結構Appleが多いのは意外だ)。5階のカフェテリアも、図書館の雰囲気も35年前とあまり変わっていないのが嬉しかった。

2011年9月7日水曜日

自転車日和

悲惨な水害をもたらしたノロノロ台風が過ぎ、青天がもどってきた。気温はまだ30℃近いが、今まで60%以上あった湿度が30%代まで下がり、爽やかな陽気、秋の気配。さあ、これからが自転車の良い季節だ。午前中の空気はまだ温まっていない。日差しはそれなりに強く、直射日光に肌が熱せられるが、切る風は冷たく爽やかだ。夏山の稜線歩きのコントラストほどではないが、かなり気持ちが良い。帰り道はもう空気が温まってしまい、この感覚は得られない。

数年前から、通勤に自転車を使っている。始めは幹線道路を走っていたがスピードを出して並走する車があまり気持ち良くない。そこそこにまっすぐ走れて、車の往来がそれほど多くない裏道を地図で探索して走るのが一番気持ち良い。大田区大森の自宅から広尾まで10kmあまり、約40分かかる。電車だと二回乗り換えなくてはならず、駅まで歩くことを含めば自転車より時間がかかる。

以前勤めていた大学は小金井市にあり、大田区から多摩川の土手沿いに32km、1時間50分ほどかかる。往復するとさすがに筋肉がパンパンに疲れるが、慣れるとそれほど辛くはない。それに比べれば広尾までは日常の運動としてはちょうど良い負荷だ。ジムに通い自転車を漕ぐことを考えれば
a)通勤時間を兼ねて時間の節約になる、
b)お金もかからない、
c)環境にも優しい、
それに何よりd)健康的で、良いことずくめだ。

私は5年ほど前から自転車通勤を始めたが、都内の通りにもだんだん通勤自転車も増えてきているようだ。ふつうのママチャリではないスポーツ自転車。よく人から「すごい!」と言われるけれど、ママチャリとスポーツ自転車は別の種類の乗り物と考えた方が良い。乗り心地が全然違うし、慣れれば腰や手足への負担も少ない。自転車本体の重量がママチャリの半分以下で、変速ギアをうまく使えば無理なくスピードも上がる。私はジョギングやマラソンは息が上がり嫌いなのだが、自転車では息が上がらないレベルの運動を長い時間継続できる。ちょうど良いエアロビック(有酸素)運動だ。電動自転車を買うくらいなら、スポーツ自転車の方がずっと良いですよ。スピードも後者の方が早いし。

私は2台のスポーツ自転車を使い分けている。小金井市との長距離、多摩川サイクリングロードを往復するときはAnchorのロードバイクを使う。本体はカーボン製で軽く、ドロップハンドルで前傾姿勢をとれる。慣れないと難しく感じるが、慣れるとかえって楽になる。タイヤは細く、ノンストップでスピードを上げて走るのに適している。もう一台はミニベロと呼ばれ折り畳み自転車(BD-1)。タイヤの直径が短いので漕ぐのが大変でしょうとよく言われるのだが、そんなことはない。自転車のスピードはペダルを一回転するのにどれくらいの距離を進むかで決まるわけで、タイヤの直径ではなく変速ギアのギア比で決まる。ロードやクロスバイクと遜色なくスピードを出すこともできるし、あっという間に折りたたんでカバーをかけ、電車に持ち込めるのが市街地に向いている。

自転車通勤は四季を問わず一年中楽しめる。暑い夏でも風を切れば強制空冷が働くので案外暑さを感じない。熱せられたアスファルトの地面を歩く方がよっぽど暑い。でも、信号で止まると汗がじわっと吹き出すのがよくわかる。逆に寒い冬は防寒手袋に防寒シューズなど装備を整えれば問題ない。さすがに漕ぎ出してしばらくは寒さが身体に浸みるが、20分も漕げば身体の中から熱が生産される。顔にあたる風は冷たくても、身体の中はポカポカという感覚は自転車特有、あるいはスキーにも似ている。

暑さ・寒さはそれほど気にならないが、雨と風は大敵だ。カッパを着込めばできないことはないが、視界が悪くなり、スリップするから危険だ。自転車を始めてから、朝に必ず天気予報をチェックするようになった。降雨の可能性があれば電車に切り替える。何度か途中で降られ、悲惨な思いをしたことがあるからだ。
風にも影響を受ける。徒歩や自動車ではあまり感じないが、向かい風を受けると全然進まず、ペダルが重くなる。逆に追い風だと空を飛ぶようにスイスイ進みとても気持ちが良い。
あと、坂道が大変でしょうとよく言われるのだが、これも大丈夫。ママチャリで坂を登る感覚とは全然違う。坂道に差し掛かり、ペダルが重くなったら早めにギアを落とすのがコツだ。スポーツ自転車には最低7-8枚のギアが付いている。ギアを落とせばスピードも落ちるのだが、かなりの急坂でもスイスイとゆっくり登ることができる。

数年前から雨の日と、帰りに飲む日以外は、ほぼ毎日自転車を使うようになった。電車の中で本を読んだり、途中駅で寄り道できないのが不便だが、窮屈な満員電車よりはるかに気持ちよく通勤時間を過ごすことができる。しかも、体重がかなり落ち、体形が変わった。

みなさんもお勧めですよ!
自転車談義になるとついしゃべり過ぎますなあ(笑)。

2011年9月3日土曜日

自信を獲得するプロセス


我々は、理解不能な出来事や問題に出会うと、病気・障害という概念を持ってこようとします。専門家に相談すれば、何らかの専門的なカテゴリーをもらうことができますから。たとえば、軽度発達障害、アスペルガー症候群、ADHD、うつ病、統合失調症などが最近の流行です。
しかし、これらの心理的・対人関係的な問題を判断する専門家からすれば、あくまで相対的・仮説的なわけで、絶対的な真実としてのアセスメントではありません。

むしろ、病気・障害などのラベルを持ってくることの功罪を考えなければなりません。
疾患という自分のせいでもない、親のせいでもない、専門的な、一般の人はよくわからなくて良い概念を持ってくることで、不可解な現象に一応の説明を与えることができます。それにより、

  • 怠け・甘え・ダメな人間だからといった本人ダメ言説・本人責任論や、
  • 親の責任、しつけのせいといった親の責任言説

から逃れることができます。
そのことは、自分が悪いんだ、自分のせいなんだと悩んでいる人を解放して、一定の自信を得ることができます。

私は、そのような専門的なラベル付けはできるだけ避け、クライエント自らの言葉で、自らが納得する説明を、他者から言い渡されるのではなく、本人自身が見つけ出すプロセスを大切にしています。その多くは、自身の現在・過去の生活体験の中に埋め込まれているはずです。

しかし、自分のことを本当に理解するってかなり難しい作業です。現在と過去の自分、そして自分を取り巻く人間関係を客観的に理解しなければなりませんから。自分ではわかっているようで、一番わかりにくいことなのかもしれません。もし困難さの由来を自分の言葉で理解して腑に落とすことができれば、そこを意図的に変えるという解決策も得ることになります。

でも、今まで体に染みついてきた習慣を変えるって、とても勇気が要ることです。なじみのあるパターンの方が楽だし、新たなパターンに変えるって、よっぽど確信、自信がないとできません。

どうやったら自信を回復できるのでしょうか?
かなり難しいことですよね。

自信(=自分を肯定すること)とは、現在の自分のみならず、自分の由来、自分の過去の歴史をも肯定することです。
つまり育った環境や、親との関係ですね。
でも、そこに考えを及ぼそうとすると、イヤな体験、思い出したくない体験がまず飛び出してきたりします。
マイナスな過去の記憶を、現在の表象に蘇らそうとする作業はとても苦しく、無理に思い出そうとすれば、せっかく築き上げてきた自信が崩れてしまいます。だから、ふつうそんなことはしません。だれだって本能的に「痛み」は遠ざけようとしますから。

でも、その部分を安全な守られた環境のもとで、丁寧に解きほぐしていくという作業がいつかどこかで必要になります。
「機能不全家族」とか「複雑な事情」という言葉によって、マイナスの体験を毛玉のように丸めて「立ち入り禁止」というラベルを張ることができます。それ以上深めることは危険ですから。

でも、あえてそこに入り込み、ていねいに毛玉をほぐしていくと、ふと糸口を見つけたりします。そうすれば「複雑」とか「機能不全」という原因不明のレッテルを使わずとも、その時代の社会情勢や家族状況に照らし合わせて十分に理解できる、特殊ではなく普通の出来事として見方を新たにします。
そうすれば、自分の過去をマイナス体験として恐れずとも、ふつうに振り返ることができるようになります。

家族はアンビバレントですね。愛と憎しみが両方ごっちゃになっています。憎しみの部分を整理して風通しを良くしてやれば、その背後に隠された愛の部分が何となく見えてきます。
そうやって、自分の過去・自分の由来・自分の家族をじっくり見据えて肯定し、愛し、受け入れることができれば、本当の意味で自分自身を肯定し、過去ばかりでなく、現在の自分と家族や社会と関わる自信を獲得できます。

私の臨床では、こういうことを時間をかけて、じっくり話し合っていきます。
クライエントの語りを伺って、私の中にちょっと別の要素を含んだ物語が生まれます。それを語り返すことにより、クライエントの物語がちょっと変化してバージョンアップされます。それを何度かやりとりして、ふたつの物語(クライエントの主観的な物語と、私の客観的な物語)をすり合わせていくうちに、より良く機能する新たな物語をクライエント自らの力でつくっていくことができます。