2014年11月21日金曜日

メール相談と面談

メール相談と面談では効果の違いはありますか?

単発の相談では、効果の違いはそれほど大きくありません。
しかし、繰り返し継続した相談になると、面談の方が効果が高くなります。

単発の相談では、現在の状況を伺い、今後の見通しや情報提供をお伝えします。1回の相談ではあまり深いやり取りはできませんので、メールでも電話でも効果の差はそれほど大きくありません。

しかし、何度か相談していくと効果の違いが現れてきます。
ひきこもりや不登校、夫婦間の問題などは、表面的な情報提供ではなかなか改善しません。これまでの経過やさまざまな思いなどを深く伺う中で解決策が見えてきます。そのために、何度も繰り返して相談を行っていきます。

面談では、セラピストとの信頼関係をもとに、じっくり落ち着いて自然とお話を深めることができます。多くの方にとって、メール相談よりもより高い効果が得られます。

メール相談では、相談される方がご自身で自分の気持ちをどの程度深められるかによって効果が大きく異なります。面談と違いその場での言葉のキャッチボールがないので「その部分をもっと聴かせてもらえますか?」といった相手からの「つっこみ」がありません。メール相談は独り語りの要素が大きく、交換日記のように、自分自身で内省した思いを相手に伝えます。そのようなやりとりがしっくり来る方にとっては効果が高いと言えます。

2014年11月11日火曜日

心の支援者に求められる資質

痛みは閉じ込めるのではなく、安全な環境下でメスを入れ、安全に取り出していくことによって乗り越えられるもの。人と人とのコミュニケーション、言葉かけの中から生じるものであることを改めて気づかされた。人によって傷つけられた痛みは、人によって癒される。人に愛を分け与えることにより、自分も愛をもらう。「あなたのことをちゃんと認めているよ。聴いているよ。」という立場で相談員として活動していこうと思った。

講演のご清聴ありがとうございました。これは私がまさに皆さんにお伝えしたかったことです。

人は無傷では生きていけません。失敗したり、他人から否定され自尊心が傷つけられたり、大切な人や物を失うなど、さまざまな痛みを大なり小なり体験します。それは子どもから大人まで変わりません。小さな子どもは自分を守る力がありませんから保護者が守ります。大人になれば、痛みに対する免疫もついて、自分で自分を守ることができます。大人と子どもの狭間にある若者は心が大きく成長する時期なので、とても傷つきやすい時期です。子ども時代を終えて思春期に入ると、親の保護から抜け出し、自立したいと思うようになります。人は誰でも痛みを自分で乗り越える力を持っています。辛さをこらえ、なんとか痛みを自分の力で乗り越えた時、それが成功体験となり自信を獲得して、心が成長します。つまり、傷つき体験が成長の糧となります。

しかし傷つきはリスクを伴います。痛みは心に負担がかかるので、傷ついた気持ちを隠して抑え込もうとします。痛みがそれほど大きくなければそれで構いません。むしろその方が安全に生活できます。しかしある程度大きくなると、心に抑え込みきれずに不意に飛び出してしまいます。たとえば、何もやる気が起きなくなるうつ病や、突然不安が飛び出して心のコントロールがとれなくなってしまうパニック障害、あるいは頭痛・腹痛・腰痛、皮膚の病気、下痢・便秘など身体の不調として現れます。あるいは非行や反社会行動、暴力、薬物・アルコール依存、インターネットやゲームへの依存、社会不適応、ひきこもり、摂食障害、自傷行為、自殺念慮などの問題行動して現れることもあります。これらは不安定な若者の時期によく見られます。

心の痛みがあふれ出して、ひとりではどうしようもなくなると、救いを求めてきます。相談員はその痛みを安全に放出できるようにお手伝いします。痛みを我慢したいのに不用意に飛び出すととても危険です。安全に放出するとは、痛みを恐れることなくしっかり共感して受け止めてくれる他者が傍にいるということです。

クライエントは言葉の上では「助けてください。どうしたら良いか教えてください。」と訴えてきますが、本当は解決を求めているのではありません。自分の痛みをちゃんと受け止めてくれる人を求めています。人の苦しみの根本をそう簡単に解決できません。痛みを抱えている自分の存在を認め、わかってくれる人がこの世にいるだけで大きな安心感が生まれ、痛みに向き合う勇気を回復できます。

講演の後半には私が5年前に妻を失った話をさせていただきました。その感想も紹介します。

最愛の方を失った時の葬儀のビデオは心を打ちました。ご家族を亡くされた痛みを私たちに出していただき、そこからどのように傷ついている人を救うのか示唆していただきました。

5年前に妻を亡くしてから、相談員向けの講演ではいつもその話をしてきました。心の痛みを放出しても構わないという具体例を、私自身の体験をもとにみなさんに伝えたかったのです。それは参加者のためでもあり、私自身のためでもあります。ただし今までは話だけで、葬儀のビデオの封を切るまでに5年かかりました。映像を確認する作業はひとりではできませんでした。講演の1週間前に、しっかり受け止めてくれる人に傍にいてもらい、共に見てから、みなさんにお見せする安心を得ました。

ご自分の奥さまの葬儀の映像を見る意義をもう少し詳しくお聞きしたかったです。思い出すたび、映像を見るたびに悲しみが増すのではと私は思いましたが。

いいえ。悲しみの量は増すことも減ることありません。
悲しみは変わらなくても、それを感じるときの痛みの量が減ります。このようにして、触れてはいけない閉ざされた悲しみから、触れても構わない開かれた痛みに変ります。そうすれば、悲しみが怖くなくなり、避ける必要がなくなります。

みなさんは、私がそこまでよくできるなとお感じになるかもしれません。別に私は強い人間ではありません。なぜできるかというと、自己を開示する専門家としてのトレーニングを積んできたことに加え、相談員のみなさんに対する信頼があります。みなさんの中には、悲しみに耐えきれず聴けなくなって耳を塞いで立ち去る人や、講演が終わった後も悲しい気持ちを切り替えらえず引きずってしまう人もいたかもしれません。しかし多くの人は私の気持ちを受け取り、その時は涙をひとすじ流しても動揺して心のバランスを崩すことなく、講演が終われば気持ちを切り替えて、普段の気持ちに戻ってゆけると信じています。

みなさん自身も心の傷を持っているはずです。人は誰でも持っていますから。一般の人は、そのことを自覚していなくても何とかなります。しかし他者の心を支援する人は、自分自身の心にも向き合い、意識の下から痛みを取り出してきても心のバランスを保てることが必要です。

相談員に求められているのは、まさにこのような資質であると私は考えています。

2014年11月8日土曜日

田畑先輩

今日も、よく仕事をした!

帰り道に立ち寄ったワインバーで心地よい疲れを癒し、ひとりふらふら商店街を歩いていたら、正面から自転車に乗ったおっさんがやってくる。道と視線を避けても、私のことをじっと見ている。

「なんだ、田畑先輩だ!チワっす!」
ニコっと挨拶を交わして通り過ぎていく。
この間およそ3秒の出来事でした。

田畑さんは中学の柔道部の先輩だ。
57歳と58歳の差なんてないに等しいけど、40年前の中1と中2の差は歴然だった。
部長だった田畑先輩はデカくて強かった。
私は小さくて弱かった。
でも、田畑さんは商業高校だったかな、に進学して、家業の中華そば屋を継いだ。
私は進学高から医学部に進んで医者になった。
だから何なの?

先輩とか後輩とか、ソバ屋とか医者とか、どっちが上とか下とか、意味を持たないよね。
田畑さんは後輩の面倒をよく見てくれた。
地元の商店街を通ると、ときどき見かけるんだ。
40年経った今でも、私のことを認めて微笑んでくれる。それだけなんだよね、彼との関係は。

そのような関係の集まりが、私自身の世界を構成している。
肩書や、職業や、収入は、私の世界を構成しない。
私のことを見ていてくれる他者との関係の中から、私の存在意義と、喜びと、哀しみが、生まれるんだ。

ほろ酔い加減で、そんなことを思った。