2017年11月16日木曜日

家族を失い見えてきたこと(2)親子の愛着

前回のブログを読んでくれた方々が、お悔やみのメッセージを送ってくれました。


相次いでご両親を看取られ、さぞお疲れのことでしょう。お寂しくなられますね。どうぞくれぐれもお疲れでませんよう。

ありがとうございます。
でも、今回の母親の喪失は、なぜかそれほど悲しくないんです。
3回目の喪の作業で、慣れているからか?
それもあるでしょうが、40代の妻を失うのと、80代の老親を失うのでは、根本的に異なります。

妻は今現在(here and now)の愛着喪失だったとすれば、両親の喪失は過去の愛着への振り返りのプロセスだ。悲しみ(グリーフ)の量は両親よりも妻の方がはるかに大きいことは言うまでもない。
家族ライフサイクルの考え方では、
40代の妻を失うのは予測不能で不自然な出来事。
老親を見送るのは、誰もが体験する自然な出来事だ。

家族がライフサイクルに沿って発達する中で、二種類のストレッサーがある。
1)発達的な(Developmental)ストレッサー:ライフサイクルの移行に伴うストレス。これは多くの家族が共通して体験するもの。たとえば、入学・卒業、就職、巣立ち、結婚、出産、子育て、退職、親との死別、身体の減退、病気、パートナーとの死別など。この中には喜ばしいものも含まれるが、生活の大きな変化はストレスを生む。
2)予測不能な(Unpredictable)ストレッサー:一部の家族しか体験しない。例えば、早すぎる死、トラウマ、事故、慢性疾患、失業、自然災害、移住など。
(引用:日本家族研究・家族療法学会編「家族療法テキストブック」金剛出版、2013)

親を失っても、妻の時のように「悲しみ」は前面に出てこない。
しかし、両親を失い、親との愛着関係が良く見えてきた。

愛着理論は、幼少期の親子関係をもとに組み立てられた。
幼い頃の対象関係が、その後の人格形成に決定的な影響を与えるという考え方だ。
子ども時代に安定した「心の鋳型」がその後の人生を大きく左右する。「心の鋳型」は子ども時代に作られるものであり、大きくなったらもう鋳型の粘土は固まるものと考えられている。
子どもが成長し、思春期になり、親から心理的に自立したら、もう親との直接的な関係性はあまり関係なく、心の中に形成された愛着という鋳型をもとに心が機能する。
大人になってからは、自分の親との関係性はあまり重要ではない。なぜなら、すでに巣立って離れているから。

そのような従来の「愛着理論」の考え方と、私の体験は異なる。
親との対象関係は子ども時代に留まらず、一生メンテナンスが必要だ。
鋳型は子ども時代に完成されるのではなく、一生を通じて作り直されている。粘土は一生かたまらない。親を失い、今そのことを実感している。

私が大学生になり、東京から離れた頃に、父親が地方に転勤になり、東京を離れた。当時は東京の家は残したまま、付かず離れずの生活をしていた。
私が30歳で結婚し、父親が定年退職したことを機に、都内の狭い敷地に二世帯住宅を立て直し、両親が下に、私の世帯が上で生活していた。
玄関もリビングもバストイレもすべて別々だ。二つの世帯を結ぶ鉄の扉は閉めて、それぞれの独立性を保っていた。

9年前に妻が突然亡くなり、家族は危機に陥った。その時は必死で、それが「危機」と感じる余裕さえなかった。
鉄の扉は開けられ、ふたつの核家族が、ひとつの拡大家族になった。
両親は、小・中・高校生だった3人の子どもたちの面倒を見てくれて、私は仕事で家を続けることができた。両親は私と子どもたちを見守ってくれた。

子どもたちが高校を卒業し、巣立ちの準備に取り掛かり始める頃、父親のガンが再発した。
父親は60歳になる前に腎臓にガンが見つかった。幸い進行がとても遅いガンで、腎臓を摘出して健康を取り戻した。その10年後に膵臓に転移が見つかり膵臓を全摘した。ふつう膵臓をとれば長くは生きていけないが、父親は几帳面にインスリンを自己注射して、退職後の日々を平穏に過ごしていた。さらにその10年後に肺に転移が見つかった。大きな手術を2回経験して、もう積極的な治療は望まなかった。膵臓なしで20年間生きていたのはすごいことなんだ。
 「尊厳死の宣言書」を書き、家で最期を迎えたいと願う父に、私は在宅ホスピスを整えた。最近は在宅医療が整い、ケアマネさんと相談して介護ベッドを導入し、医師、看護師、介護士、マッサージ師、在宅入浴など、多くの人々が毎日家に来て介護・看護してくれる。父の希望どおり、家族に見守られながら安らかに最期を過ごした。

しかし、母親の精神的な負担が大きかった。家の番人だった母親は、入れ代わり立ち代わり家に入ってくる人たちを把握しきれなかった。もうたくさん、止めて欲しいとパニックになっていた。
私が海外に出張するたびに父親の具合が悪くなった。父親の不安が高まり、「もう自分は死ぬ」と思っていたそうだ。いつも2時間ほどの距離に住む妹が駆けつけてくれた。

父親を見送ってから、母は、「もういつおさらばしてもいい」と口癖のように言い、認知症がみるみる悪化していった。再びケアマネジャーの登場だ。介護認定を受け、デイサービスを利用していたが、ついにトイレの始末もできなくなり、老人ホームに入居した。料金は高いが、24時間、丁寧なサービスを受けられる。私も毎朝近所のホームまで様子を見に行き、しばし落ち着いたとホッとする時間を持てた。しかし入居後3ヶ月して肺炎で熱発。救急車で大学病院に運ばれ、肺炎は治ったものの、嚥下困難となり経口摂取ができなくなった。中心静脈栄養も血管が破たんして、わずかな末梢血管への点滴のみの栄養しか入らなくなり、伴侶を亡くして1年半後にあっという間に夫のもとに旅立っていった。

結婚して実家を離れた妹は、自分自身の家庭を築いた後もよく実家をサポートしてくれた。
特に兄である私が妻を失ってから、公私に渡り私を支えてくれている。
両親が自立できなくなってからは頻繁に訪ね支えてくれた。
妹と私できょうだい喧嘩しながら、両親を見送った。
振り返れば、うちの家族は愛着に満ちていたのだと思う。

「親孝行」という言葉は時代錯誤、儒教的・封建的なイメージを抱くが、実は日本文化の中に脈々と生き続けている。
私が国際学会で日本の家族を説明するときによく使うキーワードだ。「親孝行(filial piety)」はアジアの家族に特徴的で、他の文化ではあまり見られないとされている。欧米では、子どもが成長して家を出れば親子それぞれが独立して、親も子も相互に扶養しあうことはない。しかし、実は、文化や時代を問わず、親が子を想う気持ち、子が親を想う気持ちは一生続いているはずだ。その表現方法ややり方が違うだけだ。

私にとって、それはごく自然な、当たり前のこと。なにも善い行いをしているわけではない。家族ライフサイクルの中に組み込まれている。人が自活できれば、関わる必要もない。自立できない時、つまり子どもが自立するまで、あるいは親が自立できなくなったら、家族が面倒を見る。子どもの保育機能と高齢者の介護機能が高まり、社会のケア機能も発達してきたが、最終責任は家族の心の中にあるように思う。

海外で自立し、活躍している同年代の友人たちの老親に介護が必要になると、帰国するケースを最近よく耳にする。特に女性が多い。ライフスタイルは欧米化しても、心は日本のようだ。

家族を失い見えてきたこと(3)父親との愛着

妻は突然の心筋梗塞で亡くなり、全く予期できなかった。
喪の作業(グリーフワーク)は何も心の準備ができておらず、激烈だった。

両親の喪失は事前に十分に予期できていたので、喪失前にグリーフワークを始めることができた。父が亡くなる前、そして亡くなった後。母が亡くなる前と亡くなった後に、様々な機会を利用して、自分自身のグリーフワークを丁寧に進めてきた。

グリーフ・ワーク(grief work, 喪の作業)=身近な人が死別した悲しみから精神的に立ち直るための作業。支援を受けながら、安全に気持ちを表出していく。

その中で、父親へのグリーフの方が、母親へのグリーフよりも大きいことを発見した。母親を失ったグリーフワークを進めていても、飛び出してくるのは父親へのグリーフであった。それは、喪失の悲しみというより、「ありがとう」という感謝の涙が繰り返し出てくる。奇妙だ。一体何が起きているのだろう?

どうも私は母親との愛着に比べ、父親との愛着がはるかに強かったということが見えてきた。両親を亡くす前には気づかなかったことだ。

通常、子どもは母親との間に第一の親として強い愛着関係を形成する。
父親との愛着関係は遅れてやってくる。あるいは、希薄なままであったりする(特に日本の家族では)。
しかし、私の場合、かなり早い段階で母親から父親に愛着対象が移った。
その要因として、
1)両親のチームワークで、しっかり確保された安全基地
2)父親の家族への積極的な関与
があった。

私の原家族の「いきものがかり」は父親だったのだ。
小学校のクラスには「いきもの係」がいる。教室にあるカメや金魚はクラスみんなが飼育するのだが、係の人が責任を持って担当する。
多くの家庭では母親が子ども係なのだが、うちは、父親だった。
日中、一緒にいるのは母親だったけど、大切な意思決定や責任は父親が担っていた。
妹が語れば、また違った物語があるかもしれないが、少なくとも私にとってはそうであった。

父親は教育心理学者であった。
臨床心理学ではないので臨床活動つまりクライエントには関わらないが、キャリア・ガイダンス(進路指導)が専門で、子どもの成長をどう導くかということを、学生や学校の教師たちに教えてきた。

私が2歳の時に生まれてきた妹に、母親のおっぱいを取られた。
父親がカバーしてくれて、私は父親のオッパイを触りながら寝ていた。
それが5-6歳の頃まで続いただろうか記憶が定かではないが、子どもながらに恥ずかしく、もし小学生になってもパパのオッパイなしで安心して寝られなかったらどうしようと思い悩んでいた。今から考えれば、これが父親との強固な愛着の基盤であった。

ちなみに、友人の精神科医、山登敬之は中学生まで母親の布団で寝ていたことを著書の中で回顧している(「母が認知症になってから考えたこと」講談社、2013年)。彼は本を書いて母親との愛着関係を整理しようとした。
私は、父親との関係性を理解するために本を書いた(「家族で往復書簡のすすめ:新しい父親像を発見するために」彩流社、2007年)。

父の実家は群馬の山奥、四万温泉の老舗旅館だ。現在は私の従弟が経営している。
父親は7人兄弟の次男として生まれた。
父親自身も祖父からたっぷり愛着を受けて育ってきたらしい。
山の複式学級の分校を出たら、前橋に出て兄と下宿して中学に通った。仙台の陸軍幼年学校で終戦を迎え、高校は浦和、大学は東京に出てきた。そのまま見合いして、東京で家族を築いた。
父が幼い頃、山奥からバスで前橋に降りてきて、利根川を見て「母ちゃん、これ海なのかい?」と尋ねたそうだ。都会のデパート食堂で初めてアイスクリームを食べて、世の中にこんなに美味しいものがあるのかと驚いたそうだ。

父親は山やスキーに連れて行ってくれた。
小学校に上がるか上がらないかの頃、実家の近くにあるリフトもない山の斜面だけの四万スキー場で、長靴を履いて滑った。以来、スキーが大好きになり、毎年、親と行くスキーがとても楽しみだった。南国生まれの母親も一度同行したことがあったが、懲りて二度と来なかった。

父は職場仲間との旅行によく連れて行ってくれた。
中1だったろうか、青森の酸ヶ湯温泉に泊まり、ロープウェイで八甲田山に登り、ガイドさんと一緒に誰もいない大斜面を滑り込んだ。その素晴らしさは今でも忘れられない。その後、高校山岳部で山スキーを経験して、今、この歳になってバックカントリー・スキーにはまっている。

山梨県の四尾連(しびれ)湖にキャンプに行っ際には、二人乗りのボートで湖に漕ぎ出すと霧が出てきて周りが真っ白の何も見えなくなった。父親との二人だけの世界をよく覚えている。

中学では野鳥観察クラブに入り、早起きして双眼鏡を持ち近所のお寺の森に出かけていた。
軽井沢の雑木林が野鳥観察のメッカだった。しかし、中学の教員だけでは遠出する許可が降りない。父親に頼んで、保護者の引率ということで、理科の先生も加わり、軽井沢の早朝探鳥が実現した。

父親は、私をソトの世界に連れ出してくれた。

小4でトランジスタ1石ラジオ作った。
その頃、模型工作にはまり、父親と一緒に神田の電気街に行き、ラジオ制作キットを買った。慣れない半田ごてを使いながらどうにか仕上げたとき、父親はとても褒めてくれた。
母親は電気工作など興味もなく、何も言わずに台所で料理していた。

私は体育会系だ。
中学は柔道部、高校は山岳部、大学はアメリカンフットボール部で過ごした。
男同士のラフな世界。
中学の1年生と3年生では、大きな体格差がある。中1の頃、3年生の先輩から寝技で首を絞められ、苦しむ私を先輩は上からニヤニヤ見ている。息ができず、とても怖かった。しかし、練習が終われば、気さくな優しい先輩に戻る。
高校山岳部の合宿では、大学生のOBがよく参加していた。
私は、運動部の先輩と気楽に付き合っていたように思う。ヒエラルキーを受け入れる一方で、どこか気楽に親しめた。これも父親との関係性が根底にあるのだろう。

大学生の頃、山スキーで遭難した。
北アルプスの栂池高原から登り、乗鞍岳を超えて蓮華温泉に滑り降りる予定が、とんでもない沢筋にはまり、友人とふたりで一晩ビバークした。翌朝、天気が回復してどうにかふもとまで降りてきたものの、今なら、捜索が出ていただろう。
そのことを後で、父親には話した。ビバークがどんな危険な状態か理解して、でもそれはありうることだから、怒ったり過剰に心配はしないだろうと予想したから話せた。
しかし、母親には話せなかった。話しても山の様子は理解できず、心配するだけだと思ったからだ。
父親は理解者で、母親は理解者ではなかった。

1年間のアメリカ高校留学は、私の海外デビューであった。
両親との安定した愛着は、1年間お世話になったhost parentsとの愛着形成も容易にした。
1970年代はAmerican Dreamが健在だった。現地で体験すること全てを理想化した。
Host fatherは朝鮮戦争を戦った空軍の退役パイロットで、繊維工場の副社長をしていた。5時に終業して、毎日5時15分過ぎには帰宅。料理したり、庭の芝を刈ったり家族にたくさん関わっていた。夏時間の夜は遅くまで明るく、広い庭を見下ろすテラスで、いつまでも夫婦そろって会話していた。子どもの前でも毎朝ハグしてキスしていた。当時の日本ではありえないことだった。これが私にとって夫役割のモデルになった。
Host motherは専業主婦。うつ病の薬を飲み、時々ソファで伏せっていた。一度、主治医の精神科医に会わせてくれた。「アジア系のアメリカ人で、家族思いのとてもいい先生なのよ。」というMomの言葉が、精神科医を選択した動機の一つになったのだと思う。Host fatherは強く、host motherは弱かった。

なぜ、私は海外に行きたかったのだろう?
今は高校留学も一般的になったが、当時はまれなことだった。
そこにも父親の影響が色濃くあったように思う。

私が子どもの頃、父親はときどき海外のゲストを家に招いていた。母が料理を作り、会食した。40歳を過ぎて国際学会にも出かけたが、英語が十分ではなく、思いを果たせなかったようだ。
父親の旅路は四万温泉から東京までだった。私の旅は東京でスタートして海外へ。父親の旅路を私が引き継いだ。

高校3年生で留学する希望を伝えると、担任教師は、「お前、大学に行けなくなるぞ」と反対した。母親にとっても高校生の息子が一人で海外に行ってしまうなんて、想像を絶することだったのだろう。でも、父親が全面的に賛成して、留学が実現した。

父親は、私のすぐ近くにいた。
僕の知らない外の世界に導いてくれた。押し出してくれた。
そこには、未知の新たな世界があった。

父親がモデルだった。父親の期待が、私の到達目標だった。

家族を失い見えてきたこと(4)母親との愛着

このように、父親との思い出はよく出てくる。
短気で、些細なことで怒り出す否定的な側面もあるが、ほとんどは肯定的な記憶だ。


一方、母親の記憶を辿ろうとしても、スムーズに出てこない。
と言っても、母親を嫌いとか、関係が薄かったということではない。
思い出を探れば、良いイメージも出てくる。


母は、呑気で楽天的で、明るかった。主婦でいつも家にいて、安心して家に戻ることができた。
子どもたちの学校のPTAでは生き生きと活躍していた。私の代にPTA役員にデビューして、それほどリーダーシップがあったとも思えないが、妹の時には小学校でも中学でも副会長までやっていた。


母親から勉強のことを言われた記憶がない。
教育係は父親だったし、父親は教育者のプロであったので、母親の出る幕はなかったのかもしれない。
大学の英文科を卒業した母親は実家に戻り、お茶やお花の花嫁修業をしながら、近所の子どもたちに英語を教えていた。私が子どもの頃も同じことをやっていた。小学5-6年の頃だったか、近所の子どもに交じって私も英語を教えてもらった。勉強というよりは、英単語のカルタをしたり遊び感覚だった。
中学に上がり、海外の国際文通や高校留学に興味を持った。すると父親が職場からアメリカの学校の教科書を仕入れてきて、一緒に読んだ記憶がある。母親は、熱心な父親の陰に隠れ、あまり出番がなかった。


同性の親である父は、尊敬する成長モデルであり、思春期には反抗して乗り越える対象だった。
母親は、弱かった。乗り越えたり反抗するほど強い人ではなかった。やさしく、いつもそばに居てくれる存在だった。


母親は方向音痴だった。
新婚の頃、買い物に出かけて迷子になり、家に帰れなくなったらしい。


小学生の頃、横浜方面に出かけたことがあった。
横浜・東京間はJRの京浜東北線と、私鉄の京浜急行が並走している。大森駅は京浜東北線を使う。
なのに、母は京浜急行に乗ろうとする。
小学生の私でも、電車の色が違うのは明らかだ。
「ママ、この電車でいいの?」と尋ねても
「『品川行き』と書いてあるから良いのよ。」
確かに、両方とも品川には行くんですけどねぇ。。。


母は気管支喘息があり、ホコリを吸うと発作を起こしていた。布団の上げ下げができず、父親がやっていた。それも私が二十歳くらいまでで、その後は発作もとまりケロッと良くなった。今から思えば何らかの心因があったのかと想像するが、実際のところはよくわからない。


私が小学生の頃、母が倒れたことがあった。トイレから出て、気を失い、洗濯機の角に頭をぶつけて、2−3日意識が朦朧としていた。今から振り返れば、起立性的低血圧による機能性脳虚血、一過性の健忘症だったのだろうが、当時は、これで「ママは一生頭がパーになるのか」と心配した。


私が大学受験の時、母は喘息の調子が悪く、寝込んでいた。
受験に出かける朝、「お弁当を作れなくてごめんね。」という。
弁当作りが子どもへの愛情を託すとても良い媒体であることは、私自身が親になってよく理解できる。しかし受験生だった当時の私は、弁当の良し悪しによって集中力も頭のキレも変わるわけでもないし、なぜそんなことで母が謝るのか、よく理解できなかった。


受験会場に行くと、母親が付き添っている受験生が結構いた。合格発表でも同様だ。
私はそんな連中の気が知れなかった。


アメリカ高校留学に出発する時、私は母親に
「僕は1年間、死んだと思って忘れてくれ!」と言ったそうだ。
私はそのことを覚えていないが、後で母が語ってくれた。
今から考えればひどいことを言ったものだが、当時の私としては、母親が私を心配する気持ちを解放してほしかったのだと思う。


私がアメリカにいる間、父親も文部省の在外研究員としてアメリカに1年間滞在していた。母と妹が日本に残り、父と私がアメリカに居て、家族がバラバラだった時期が半年ほどあった。
母と妹が、夏に父がいるミネソタを訪問した時、私がいたNorth Carolinaにも訪ねたいと電話で言ってきた。
私はその願いを断った。家族は滞在先を訪問しないという留学機関のルールもあったが、その時は、私がまだアメリカに来たばかりで、現地に溶け込もうと努力していた。Host Parentsとの愛着を形成しようとしている時に、Natural Parentsに来てほしくない。
親から離れたかった、自立したかった、自分の世界を作りたかった。それを親に邪魔されたくないという気持ちだったのかもしれない。
その半年後、12月のクリスマスには父親ひとりで訪ねて来てもらうのは問題なかった。その時は、留学生活も半年経ち、Host Parentsとの関係性にも自信を得られたのか。あるいは、父親なら問題なかったのか。

母親の心配の渦に巻き込まれるのはイヤだけど、父親とはその心配がないと思ったのかもしれない。

家族を失い見えてきたこと(5)家族体験と職業選択

こういう私の家族体験は、職業選択にも当然のことながら影響した。

医師になり、不登校・ひきこもりなどの思春期臨床を選んだのは、それを強く勧めた稲村氏の影響だ。まだ新しい分野だから手を付けている人が少ないという彼の熱意に動かされた。
しかし、彼には熱意はあっても理論モデルがなかった。我々弟子たちは各自それぞれが発達障害・統合失調症などの疾患(医学)モデル、精神分析などの心理モデルなどのさまざまな準拠枠を模索した。私が家族システム理論に乗り込んでいったは師匠や研究室の仲間に影響されたわけではなかった。1984年にミニューチンが来日して家族療法学会が立ち上がった時、私は27歳で大学院生だった。家族に興味を持っていたのだと思う。

私は30歳で結婚し、その翌年から3年間、ロンドンで家族療法を学んだ。
Virginia GoldnerがFeminism and family therapyについて講演した。
セラピーにおけるGenderの視点を初めて知り、とても新鮮だった。
当時は新婚時代で、夫婦関係の基礎を築こうとしていた。
帰国して、ふたりとも就職して、子どもを作る準備が整った。
36歳で父親になった。
私にしっかりとした父親が居てくれたように、私も子どもたちのしっかりした父親になりたい。父親モデルがあったのでイメージはつかめたはずだが、もっとしっかり極めたい。
当時、ジェンダーの視点は主に女性側からのアプローチだった。
家族療法の学会で、二人の年上の男性(中村伸一とDavid MiGill)が男性性のシンポジウムをやっていた。私も後輩として仲間に入れてもらい、その関係性は現在も続いている。

初めてMaurizio Andolfiと出会ったのも私が40歳の頃、駆け出しの父親をやっていた頃だった。2週間の集中グループトレーニングの中で、セラピスト自身の感性に迫り、男性も弱さを感情表出しても良いということを彼は示してくれた。Maurizioとの関係も、今でも継続している。

このようい振り返ると、私は多くの年上の男性と出会い、親密な関係を継続し、男性モデルとして取り込んできた。
一方、女性はモデルとはならなかった。今の臨床スーパーヴァイザーは女性で、多くの示唆をもらってはいるが、人生のモデルではない。恋愛対象はほとんどが年下だった。

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不登校・ひきこもり臨床では本人とは会えず、親と面談する場合が多い。臨床で出会う家族は、私が過ごした日米ふたつの家族と大きく異なっていた。父親が不在で、母親との距離がとても近い。なぜそうなるんだろうか?
支援者は、クライエントの病理や関係性を認知する時、自分の体験を準拠枠にする。
母親が心配するのはよくわかる。
それなら、なぜ父親はもっと関わらないのだろうか?

思春期の子どもたちを救うために、親の悩みをなんとかしたい。
戸惑っている家族を、特に男性を応援したい。
家族の関係性を変えれば、きっとうまくいくのではないだろうか。
そのような動機から、家族療法に入っていった。

母親のまなざしは、いつも不安を抱えていた。危険を察知し、守ろうとしてくれた。
それは、ありがたくもあり、束縛でもあった。
父親はソトの世界に連れ出してくれた。
山やスキーや、未知の世界へ。
危険を乗り越えて到達した達成感と解放感。
自分のテリトリーを増やせた自信。
そこには、遠くから見守ってくれる家族がいた。

人は、学校、仕事、結婚、子育てと、前に進んでいく。
不安も伴う。
思春期に前に進めなくなり、親は子どもの背中を押せなくなっている。
不安を乗り越え、前に進んでいく手助け。

リスクを乗り越え、変化を促す父性的な関わりが、私の原体験に由来した、支援の基本姿勢です。