2018年9月28日金曜日

母親である私自身の相談でも大丈夫でしょうか?

あるお母さんから次のようなメールをいただきました。

先日、【思春期 やる気ない】で検索し先生のブログにたどり着きました。
2011.6.30付のブログ「やる気のエンジンの切り替え時期(=思春期)」に載っていた保護者の方々の相談内容に驚きました。幾つもの内容の全て、まさに息子の様子そのままです。先生の親と子のエンジンのお話、とても納得しました。その通りだと思いますし、そう心掛けて行動したいと思います。

今まで本や相談などで、こうしたら良い・こう考えたら良いという情報や助言をたくさん貰ってきたのですが、
【子どもの姿は、親の出来不出来の結果】
【子どもの姿は、親の通知表】
【私が上手に出来なかったから、子供が自己肯定感が低くやる気が無くなってしまったのだ】
という私自身の気持ちが払拭出来ません。この、私自身の問題が諸悪の根源ではないかと思うようになりました。
一般的な成長過程にある(と見える)我が子の相談ではなく、母親である私自身の相談ということでも大丈夫でしょうか?

ずいぶん前のブログを読んでいただきありがとうございます。
これは7年前に学校で講演した際、実際に頂いた質問です。

どうぞ、お母さん自身の相談としてお越しください。
子どもに問題があっても、お母さん自身の問題として捉えられているのは、とてもよく考えていらっしゃる証拠です。

しかし、ここには根本的な認識の間違いがあります。

お母さんが、問題(諸悪の根源)ではありません。

「お母さんに問題がある」という思考プロセス自体に問題があります。


「やる気エンジンの切り替え」のお話を理屈ではよく理解いただいたようです。
しかし、お母さんが実際にやっていることは、いまだに親のエンジンで子どもを動かそうとしています。

親のせいで子どもに問題がある。
という発想は、親が子どもの責任を取り続けているわけですね。
つまり、いまだに親のエンジンで子どもを動かそうとしているわけです。

思春期前の子どもに対しては、親はしっかり責任をとってください。
しかし、思春期以降になったら、親は子どもの責任を取らないでください。
子どもの問題に対して、親が責任を取ったら(親のエンジンを繋げたら)、子どもは自分で責任をとれません(自分のエンジンを試せません)。

そのお気持ちを切り替えることが大切です。

このお母さんは、実際に相談にいらして、次のようなお話をしてくれました。

実は私自身も若い頃、そういう時期がありました。
中学までは予習・復習をきっちりやって、成績が上がり、よい高校に進学しました。
しかし、高校に入ってから、一時期なぜかやる気を失い、勉強を全くしなくなりましたた。
大学受験もうまくいかず、一番入りたい大学は不合格でした。
でも、受かった大学に入ってからは気持ちを切り替え、なんとか卒業して、今に至っています。

ほら、そうでしょ!?
人は、人生のマラソンを走り続けているわけではありません。
時には立ち止まり、しばらく休む時期があるものです。
このお母さんは、現在お仕事で社会に貢献し、家庭では立派な母親として頑張っていらっしゃいます。
お母さん自身にも若い頃、エンジン切り替えの時期があったわけです。
さらに、次のように話してくれました。

子どもにはこうなって欲しい、良い生活をして欲しいという期待がどうしてもあるんです。
子供の成長を待つのが苦手なんです。

そのとおり、当然ですね。
すべての親は、子どもの幸せを願っています。
だからこそ、子ども自身の力で、幸せを手に入れさせてあげて下さい。
親の力で幸せを手に入れたとしても、それは本当の幸せではありません。
だからといって、親が子どもに何も言わず、子どもの成長を待つだけではいけません。
本当は言いたいのだけど、言うこともできず、待つ=子どもへ不安の眼差しを注ぎ続けているわけです。

しっかり、子どもに自分の責任を取らせてください。
勉強せず、ゲームの毎日で、努力せず、ダラダラしている、、、
そういう子どもに対して、
心配する親の眼差しを切ってください。
子どもへの心配を、心から追い出して下さい。
といっても親の気持ちとしては、なかなか出ていきませんから、身近な人に心配を受け止めてもらってください。
ご主人が一番良いでしょう。
友だちやカウンセラーでも結構です。

子どものエンジンは、必ず動き出す。
そのように、お子さんを信じてあげて下さい。
親は子どもを心配せず、自分自身の人生をポジティブに進めて下さい。

自分のせいで子どもがこうなった、、、なんて、親としてのご自身を否定しないでください。
もちろん完璧な親ではなかったでしょう。
ダメ親の部分もあったでしょう。
でも、ここまでちゃんと立派に子どもを育ててきましたよね。
そのように、親がご自身を肯定すれば、その姿を見ている子どもも自分を肯定するようになります。
そのようにして、子どもはゆっくりと自分のエンジンを動かせるようになります。

2018年9月26日水曜日

心の安心タンク

人は、心の中に安心のタンクを持っている。
その中に入っているのは安心感の水である。それは、自分は見守られている、大切な人に認められている(承認欲求が満たされている)といった確信的な感情である。

この水は、人間ひとりでは生まれてこない。大切な人から愛され、認められることにより、相手から与えられ、自身の心の中に生成される。親密な人との対象関係の中から生まれてくる。

水はたっぷりもらっているはずなのに、安心が生まれてこない場合もある。それは、愛情が安心色ではなく、不安な色に染められている場合である。対象の心のタンクが不安色だと、そこに注がれる水も、どうしても不安色になってしまう。

水が十分にあると、ひとりでいることもできるし、イヤな人とも交わることが出来る。ひとりでいても「孤独感」に苦しまず、ある程度は安心を保持できる。人からイヤなことを言われても過剰に不安になることはなく、きっと次は挽回できるはずだと期待をつなげられる。失敗してもめげずに何度も挑戦できる。何度かやっていればそのうち成功して、安心の関係を得ることができる。そうやって、水をさらに増やしていくことができる。

逆に、心の水量が減ると、不安感が増えてしまう。すると、(1)必死になるか、(2)諦めるかのどちらかに陥る。

1)足りていないという飢餓感から、必死になって相手にたくさん求め、時としてやりすぎてしまう。限度を超えて求めすぎると、相手は負担に感じ引いてしまう。すると、さらに輪をかけて求めてしまい、人にひっついていないと心配になり、依存的になってしまう。またルールをわきまえず求めるのでトラブルが生じたり、不安感が怒りに転じて攻撃的になったり、(男性に多いのが)暴力を振るったりする。

2)人を求め、安心の関係性を作るのは結構難しい。こちらからアプローチしても無視されたり裏切られたり、失敗することは多々ある。水のリザーブがあればある程度の失敗にも耐えて再挑戦できるが、水が底をついているときは、一度失敗すると不安になって苦しくなり、人を求めることをやめてしまう。怖くなって、人との関係性から撤退してしまう。

心のタンクの水量は子ども時代に決定するものではなく、一生を通じて増えたり減ったり、その時の天気(生活状況とストレス)と降雨量(親密な関係性)に左右される。

★例えば、幼児。
生まれた子どもは親(保護者)から愛情という水をたっぷり受け取る。無力な自分に対して、無条件の愛情を与えられ、この世に生きていて良いんだ、自分は愛されるべき、善き者なのだということを確信する。すると、安心して親から離れ、外の世界に飛び出して冒険できる。なぜなら、困ったときにはいつでも戻ってくれば良いという安心感を心に抱いていることができるから。
逆に、愛情の水をもらいそこなうと、心の中に安心が生まれず、必死に求めようとしがみつく。あるいは、諦めて無関心になる。
その結果、何らかの問題が生じると「愛着障害」と呼ばれる状態になる

★例えば、思春期の若者。
思春期前の子どもたちは小学校や家庭などに見守られた環境で生活する。
思春期・青年期に入ると、自立心が芽生え、ソトの世界に飛び出し、自らの力で新たな関係(愛着対象:友人や恋愛対象)を求めるようになる。
タンクに水が十分に入っていれば、多少はいじめられても、叱られても、傷つけられても、失敗体験にめげずに何度も挑戦し、100%とまではいかなくても60-70%程度の成功体験を必ず獲得できる。
タンクに水が十分に入っていないと不安感が先行してしまい、安心の関係をうまく作れない。傷つきに堪えることができず、自信を喪失し、ソトの世界への挑戦を諦めてしまう。その結果、不登校やひきこもりと呼ばれる状態になる場合もある。

★例えば、夫婦関係。
夫婦は最も親密な関係である。
夫婦間で相互の水を増やすことができるし、逆に減らすこともある。
夫婦は本音で気持ちを伝え合うことによって、真の親密性を獲得できる。
良いこと、表面的なことばかりでなく、辛いことや心の痛みも思い切って伝えると、本音で分かり合えた感覚を得る。深い信頼で結ばれ、私の本当の気持ちをわかってくれているんだ、大切にされているんだという温かい気持ち、守られた気持ちになる。このようにして、お互いの水を増やしていくことができる。

家族生活は仕事の負担、お金の心配、家事育児の負担、子どもの教育、親や親戚との付き合いなどなど、負担になることが山積みだ。本当の気持ちを伝え合おうとしても、上手く受け止められないこともたくさんある。心の水(安心感)が不足していると、伝える方はうまく送れず、受け止める方もうまく受けとれず、自分が責められていると勘違いしたり、うまく伝えられない。結局、お互いがイヤな気持ちになってしまい、喧嘩になる。それを避けるために、相手を遮断し、コミュニケーションをとらなくなってしまう。
いずれの場合も、最も分かり合えるはずのパートナーがわかってくれない、信頼できない関係に陥ってしまう。この相互のやり取りが悪循環にはまり、ふたりの水が激減していく。

夫婦のやりとりで、水を増やせるか、減ってしまうか。
どちらにころぶかは、偶然というよりも、二人の水の総量による。二人あわせて、十分な水があれば、多い方から少ない方に分け与えても、まだ水は足りているし、自己増殖も可能だ。
二人合わせた水が不足していると、どうしようもない。分け与えられないし、相互作用自体が、ますます水を抜かせてしまう。

★例えば、子どもの成長を見守る親たち。
親子間の水は、親→子だけでなく、子⇒親へも流れるものだ。つまり、子は親からの承認を得て安全の水を貯めるばかりでなく、親は子どもからの承認を得て親自身の水を増やす。
子どもの成功体験は、子ども自身の水ばかりでなく、親の成功体験ともなり、親の水を増やす。日本の場合、学校での成功体験が顕著な例だ。
逆に、子どもが問題を起こすしたり、いじめられたり、成績が落ちたり、先生に叱られたり失敗すると、親は心配する。親の心に十分水が入っていたら、子どもの多少の失敗でもそれほど不安にならず、試行錯誤を繰り返し、失敗の次に成功が来ることを期待して、先回りして心配せず、遠くから見守ることができる。親が心配せず、干渉せず、暖かく見守ってくれていると、子どもは信頼されているんだなと安心して、何度も挑戦し成功に到達できる。
親の水が不足していると、子どもの小さな失敗でもとても不安になってしまう。口をだしすぎたり、叱ったり、先回りして心配する。すると、親の心配が子どもにも伝染し、不安な気持ちが増えてしまう。すると、失敗体験が大きな痛手となり乗り越えることが出来ない。
親は子どもから非承認(拒否・無視)を受けることもある。思春期の子は、親を無視したり、反抗して、自立していく。親の安心の水が十分にあれば、ふつうの反抗期のプロセスとして大して気にせず、反抗しようが無視しようが、親としてのメッセージを普通に伝え続ける。しかし親の水が少ないと、子どもからの非承認に耐えられない。必死に承認を得ようと叱ったり、甘やかしたり、なだめすかしたりする。子ども側からすれば、それはウザいだけだ。逆に、拒否を恐れ、子どもに対して腫れ物に触れるように関わり、親として当たり前のメッセージさえ伝えることに大きな不安を抱き、何も言えなくなってしまう。
過剰に叱ったり、何も言えなかったりという親の対応は、親の不安を暗黙の裡に伝えている。それが子ども自身の心の水を抜いてしまうことにもなる。

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以上は、愛着を「心のタンク」という比喩を使って説明したものだ。
従来の説明と異なる、私独自が考え出した説明である。その要点は2つある。

1)ライフサイクルを通じた可塑性・柔軟性
従来、愛着は「心の鋳型」という比喩が用いられてきた。
つまり人生早期の体験を重視する精神分析的な見方である。5歳以前の幼少期の愛着関係により、その人の愛着パターンが
安心型(secure attachment)、もしくは
非安心型 (insecure attachment)
に決定づけられる。いったん作られた心の鋳型はもう固定され、残りの人生はその愛着パターンで対人関係の質が決まる。非安心型の人は苦労することが多いといった具合である。
私の「心のタンク説」は、社会構成主義(ポストモダン)と家族システム理論から来ている。つまり、愛着のパターンは、その時の親密な関係性の量と質によって、いくらでも変化しうる。幼少時期の体験は重要であるが、そこで決定するわけではなく、その後もいくらでも変化しうるということ。

2)親子間の双方向的な愛着の備給
もう一つは、アジアの伝統としての緊密な親子関係から得られる、欧米ではあまり強調されない愛着の授受関係である。イギリスで生まれた愛着理論は親(または保護者)から子どもへ愛情が伝えられ、それによって子どもの愛着パターンが決まるという、親から子へという一方向的なものである。その根底にはヨーロッパ的な家族観がある。つまり、子どもは成長と共に親から分離するものであり、成長した後の親子間の情緒的な関係性についてはあまり議論されていない。
その後、アメリカでの臨床研究により大人の愛着も研究されるようになった。それはもっぱら夫婦もしくはパートナー間の愛着関係であり、成長した子どもとその親の愛着関係は議論されていない。
アジア的な家族観はこれと異なる。親子の愛着関係は一生続くものであり、親から子へのみならず、子から親への愛着の備給もありうる。つまり、子から親は承認を受けると親の安心が生まれ、子からの拒否は親の不安を生む。

この二つの視点を、従来にない「心のタンク説」を用いて説明した。

支援者の役割について

 親子間あるいは夫婦間の愛着の水の総量が十分でないと、家族システム内での安心できる関係性(secure relationship)が不足し、お互いが交流することでますます消耗してしまう。従来の精神分析的な支援では、そのことを解釈し、気づくことでどうにか乗り越えようとする。
 私の考え方は異なる。支援者がシステムに加わり、支援者の安心の水(secure attachment) を家族システムとの交流の中で具現化し、家族システムの水を増やすことが考えられる。家族メンバーの誰かの水が増えれば、家族相互作用の中で、安心感の水は他の家族メンバーにも行き届くことになる。
 それを行うためには、支援者自身が十分な心の水を保持していないといけない。クライエントの心が開くために、支援者自身が心の鎧を開くモデルを示し、安心感・承認感を家族に伝えていく。
 これはテクニックや技法の問題ではなく、自己の感性にどれだけ気づくか、どれほどコントロールできるかということになる。支援者もひとりの人間であり、タンクの水が少ない場合もよくある。むしろ、少ないがために対人援助職(心理精神・福祉・看護・教育など)に興味を持ち、無意識のうちに進路として選択したのかもしれない。
 支援者自身の個人史・家族史に含まれた肯定的・否定的な愛着体験に気づくためには、理論の習得では果たせず、体験学習、つまりスーパーヴィジョンやグループワークなどの臨床的トレーニングが有効である。精神分析では教育分析、家族療法の分野ではSelf of the Therapist Trainingなどと呼ばれる。信頼できる指導者や仲間との交流の中で自己を開示し、承認を得る。その体験により、支援者の心の水を増やすことができる。
 実際の支援現場には心の傷が修復されず、安心の水が少ない支援者はよく見かける。彼らは、クライエントの心の不足状態を共感的に理解できる。クライエントもまた、支援者の少ない水を敏感に察知し、自己を支援者に投影する。そのような共感性で結びつくことはできるが、支援者はクライエントに水を分け与えることが出来ない。つまり、支援関係を樹立することはできてもなかなか回復に至らず、長期化すると依存関係に転じることもままならない。
 また、逆に、心の水がたっぷり満ちている(安定した愛着関係を保持した)支援者がもしいるとしたら、水の不足状態を体験的にイメージすることは困難だろう。
 一番良いのは、ライフサイクルの中で水が底をついた苦しみを否認せず向き合い、そこから、信頼し親密な他者との関係によって愛着を回復する安心感を経験した支援者である。クライエントの不安を自身の体験を参照して共感でき、またそこから回復するプロセスをイメージできる。
 実は、これは私自身の体験であり、目指しているイメージでもある。

2018年9月12日水曜日

取材記事と癒しのオーラ

先日、「セラピスト」というヒーリング系の雑誌のインタビューを受けました。
私はこの雑誌のことは全く知らなかったのですが、今月号は「家族療法」の特集ということです。

私の行っている家族療法について記者さんから取材を受け、
「夫婦」男女の違いを乗り越え、家族の土台をパートナーと築いていきましょう。
という趣旨で記事をまとめてくれました。

こちらの方は、雑誌を買わないと読めないのですが雑誌に載せきれなかった余談をウェブ上にまとめてくれました。
父親が家族に関わるコツとして
父親は、心の鎧を外して、家族に弱みを見せましょう
という趣旨の記事です。こちらは、ウェブ上で読むことが出来ます。

さらに余談なのですが、記者さんからのメールに次のように書いてありました。

取材時に田村先生の癒しのオーラの感じをまだ覚えています。

癒しのオーラって何なのでしょうか?
こんな風に言われたのは初めてなのですが、言われてみれば自分自身でもそうなんだろうなぁと感じる気持ちはよくわかります。
この記者さんは、前もって私の著書を読んでくれました。
とても感動したというので、どの部分がヒットしたか尋ねました。
自分自身のことを書いたあとがきの中で
「妻を亡くした後、世界観が変わり、私の住む世界が小さくなりました。」
という部分だそうです。さすが編集者。ピンポイントで指摘してくれます。

「癒しのオーラ」って、感覚的なもの、主観的なものだから、言葉(理屈)で説明しようとしてもあまり意味がないのですが、あえて試みるとこんな感じかなと思います。

1)感性の深い部分で繋がる安心感。
そのためにはお互いの感性を見せ合います。私は記者さんの感性は見えてないので何のオーラも感じませんでしたが、記者さんは私の深い感性を知ってくれていました。

2)向き合った時に受けるイメージ。
言葉からもイメージは伝えられますが、それ以上に大切なのがnon-verbal communicationでしょう。表情、視線、姿勢、緊張状態、身のこなし、息遣い、発する言葉のトーンなどです。これらによって、我々は意図せずして、その時の感情状態を相手に伝えています。その時に、自分がどれほど安心した心(癒された心)でいるか。あるいは緊張や不安など(癒されていない)心でいるか。そういうのを、我々は無意識のうちに読み取っているのでしょう。

2018年9月11日火曜日

自分の弱さを受け入れる

人はだれでも、弱さと、強さの両方を持ち合わせています。

そんなこと、言われなくても自明のことです。
それをしっかり認識することが、家族や社会の人と関わる上でとても大切なことです。

しかし、私がそのことに本当に気づき、自分の弱さを受け入れることが出来るようになったのは、40歳を過ぎ、子どもたちが生まれ、私自身が父親になってから経験したある出来事が契機になっています。

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有能なセラピストになるためには、二種類のトレーニングが必要です。
1)理性のトレーニング
「心」をどう理解するか。
心が行き詰まるとどういうことがおきるか。
その背後にあるメカニズムは。
それをどう支援して解決に導けるのか。
これらを理性的・客観的に学びます。本を読んだり、講演や授業を聞いて、知識として習得します。

2)感性のトレーニング
人の「心」とはどういう体験なのか。
気持ち(苦しみ、悩み、悲しみ、不安、喜び、などなど、、、)は、その人自身の主観的な体験です。口で説明しようとしても説明しきれません。でも、セラピストはクライエントの気持ちを把握しなくてはなりません。クライエントの主観的体験に迫るのは、セラピスト自身の主観的体験を用いるしかありません。セラピストが一人の人間として経験してきた気持ち(苦しみ、悩み、悲しみ、不安、喜び、などなど、、、)に照らし合わせ、他者の気持ちを疑似体験するしかありません。
そのために、自分自身の「心」を体験します。普段は、感性に注目することなく、淡々と日常生活をこなします。理性を動かさなければ、勉強も仕事も家事もできません。喜怒哀楽を表出していたら、やるべきこともストップしてしまいます。
しかし、セラピストの場合、仕事の内容として感性を扱うので、感性を自由に出し入れできるようにします。ちょうど役者さんたちが泣く場面で自由に涙を流せるように。

私が精神科医になりたての20代・30代の頃、そのような研修やトレーニングに参加しました。エンカウンター・グループや、サイコドラマなどです。しかし、私はまだ若すぎて、自分の感情を扱うことが出来ませんでした。
 そのような集まりには多くの女性たちが参加します。彼女たちは、自分の気持ちを表現し、涙をよく流します。当時の私は、それは弱さのサインと捉えていました。
私は、自分の強さ・有能さを身に着けることに必死で、弱さに目を向けることができませんでした。とくに男性たちは「涙を見せてはいけない。辛さを食いしばって、、、」と教え込まれてきました。弱さを鎧の下に隠し、身を守るためより高性能な鎧(体力、学力、経済力、精神力、、、)を身に着けようとしていました。
 だから、研修で泣く女性たちを見て、カウンセラーは自分の心に問題があるから心理学に興味を持つんだ、自分の問題を解決したくてカウンセラーになったんだ。
私は、アメリカの肯定的なイメージに惹かれて精神科医になったんだ。弱さはない、強さで勝負するんだ、、、
くらいに思っていました。

 その視点を転換させてくれたのはイタリアの家族療法家Maurizio Andolfiです。
 私が40歳を過ぎ、子どもたちが生まれ、新米の父親をやっていたころ、ローマで家族療法家のためのSummer Practicumという集中トレーニングに参加しました。世界中から15名ほどのセラピストたちが集まり、2週間かけて、自分たちのケース、そして自分自身に向き合う、とても密度の濃い、感情を根底から揺さぶられる体験でした。私は「強さ」しか語れませんでした。
 最終日に、Maurizio自身が自分を語りました。当時、彼は元妻との離婚問題で苦しんでいました。そのことを語り、泣き崩れてしまいました。私はとても驚きました。彼は60歳を過ぎ世界的に有名なマスター・セラピストです。でも、彼の内面はこんなに脆かったんだ。その正体があばかれてしまった。残念、、、これで彼のキャリアも終わったのか、、、くらいに感じていました。
 ところが、その後のパーティーではいつもの快活で元気な彼に戻ってました。私はまた訳が分からなくなりました。ほんの2時間前の彼も、目の前の彼も、本当の姿なんだ、、、つまり、弱さを表出しても良いんだ。それが本来の人間性、本当の強さに繋がるんだということを目の前で体験しました。

 この体験を境にして、私は自分の感情を使えるようになったように感じています。イタリアから帰国し、2週間ぶりに幼い子どもたちに会った瞬間、なぜか涙が溢れてきました。子どもたちは急に泣き出すパパにびっくりして、私自身もなぜ感情が揺さぶられたのかわかりませんでした。
 その10年後に妻を突然失った時も、悲しみを隠さず、比較的容易にたくさん表出することが出来ました。それは悲しみを消化し、乗り越える喪の作業にとって、とても有利に働きました。

2018年9月10日月曜日

葛藤に向き合い、折り合う力

「ゼロか100か」という思考は、プライドが高く、完璧主義の人に見られます。
社会から撤退し、ひきこもっている人にもよく見られます。

それまで、自分の思い通りに、つまり100%でやってこれたことが、うまくいかなくなり、70%や60%に目減りします。
例えば、
  • 成績が低下したり、
  • 友達とうまくかなくなったり、
  • 先生から厳しく叱られたりします。
すると、自分は全否定されたように感じ、100が叶わないなら、ゼロにして全面撤退します。

このような考え方は問題視されますが、よく考えれば、誰でもその傾向は持っているものです。

私の主宰する「父親の会」では、お互いが父親・夫としての体験をシェアしあいます。
ある男性が次のようなお話しをしてくれました。
私は夫婦でよく向き合っています。口論になり、お互いに言い合っていると、これ以上言ってしまうと妻を全否定することになってしまうな、とふと気づくことがあります。もっと言うと大変なことになるので、そこからは妻の言葉を切り返すことは一切やめて、ひたすら妻の話を聞くようにしています。
この男性は、とても穏やかで、家族を愛し、配慮ある素敵な方です。
しかし、よく考えると、彼の中にも「ゼロか100か」思考を垣間見ることができます。
この話を伺い、子どものために親が出来る大切なことに気づきました。

妻を否定したくない。
というのは、一見妻に対する優しい配慮ですが、よく考えれば
妻から否定されたくない。
という夫自身の不安が投影されています。いわば、夫婦葛藤の全面撤退です。

夫婦が喧嘩をすれば、当然相手を傷つけます。
しかし、ご夫婦に信頼関係が多少とも成立していれば、どんなきつい言葉を投げかけたとしても「全否定」することはありえません。

ご夫婦で、安心して傷つけ合ってください。
人はそれぞれ個性を持ち、お互いが異なります。
男女であればなおさらでしょう。
お互いに真剣に向き合えば、当然意見は分かれます。それを相手に主張すれば、傷つけることになります。
傷つけることを怖がる必要はありません。
致命傷を与えてしまうことを心配してはいけません。心配したら、何も言えなくなってしまいます。

成長する若者たちは、傷つきを避けるために全面撤退するときがあります。
それがひきこもりの根本にある感覚です。

家族が、お互いを傷つけ合う姿を若者に見せてあげてください。
傷つき、100%が70%に目減りしても、自分は壊れない、家族は壊れない、大丈夫なんだという姿を若者に見せてあげてください。

そうすれば、若者は傷ついても立ち直ることができる ・修復できるんだという安心感を心に抱き、傷つくことを恐れなくなり、再び前に進めるようになります。

家族療法をやっている友人が、
「安心してガタガタ言い合える関係性」
が大切だと語っていました。
私も同じように感じます。