2018年12月19日水曜日

年末年始と家族

 年末年始には家族で集まる機会が増えます。
 普段は会社や学校など、普段のルーチン・ワークの枠組みの中にいるので、向き合っている余裕はありません。しかし年末年始は普段の仕事もお休み。家族のための特別な時間が流れます。大切な人と向き合うことは、大きな喜びになる場合と、大きな痛みを伴う場合と両方あります。家族のストレスが最も高まるのもこの時期なのです。しかし、楽しさの陰にある家族の辛さは、なかなか言い出しにくいものです。

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<年末年始に家族の問題が起きる事例>

あけみさん(仮名)は、動悸(心臓のドキドキが苦しい)と不眠(布団に入っても寝つきが悪い)を主訴に相談にいらっしゃいました。よくお話を伺うと、その原因は明らかです。二世帯同居しているお義母さんと会った日に限って体調が悪くなります。
 お義母さんはとてもキツい人です。なるべく普段は顔を合わせないようにしているのですが、時々ささいなこと、たとえば作った煮物が余ったからというようなことで電話してきます。本当は用事だけ済ませてすぐに戻りたいのですが、必ず長居させられます。
お義母さんは普段はよく気の付く人なのですが、ひとたび機嫌が悪くなると火がついたように怒ります。あけみさんは、お義母さんの前では何も言えず、ただ話を聞いているだけです。そのような日の晩には、必ず体調が悪くなります。
 こんな取るに足らない事で相談に行くのもためらったのですが、あけみさんにとって、年末年始が一番つらい時期です。お正月のことを考えただけで胸がドキドキしてくるので、思い切って相談してみることにしました。
 あけみさんの悩みは今に始まったことではなく、結婚した当初からずっと続いています。お義母さんは若いころ、とても苦労した人です。お義父さんは家庭を顧みない人で、お姑さんと小姑さんがいる中、頑張ってひとり息子(あけみさんの夫)を育てました。その結果、夫はよい大学へ行き、よい就職をして、今の地位を築きました。夫との恋愛中はとても幸せだったのですが、結婚して家に入ってからは、苦労の連続でした。お義母さんと距離を開けることができれば何も問題ないのですが、お正月が近づくと居ても立っても居られなくなります。

 初回はあけみさんひとりで相談にいらっしゃいました。あけみさんのご主人は仕事が忙しく、なかなか話し合うゆとりがありません。誰にも話すことが出来ない悩みを十分に語ることができただけで、気持ちが軽くなりました。
 あけみさんは相談に来たことを夫に話しました。ご主人も、あけみさんの気持ちは理解しているものの、どうすることもできません。次回は、ご夫婦でいらっしゃることを私から提案して、あけみさんも勇気を出してご主人に伝えることができました。

 2回目の相談にはご夫婦がそろっていらっしゃいました。ご主人は忙しくて難しかったのですが、あけみさんの説得が功を奏して、面談の時間を作ることが出来ました。
ご主人自身も、実は母親のことでとても悩んでいました。毎晩、帰宅したら、母親のところに顔を出すのですが、疲れて帰ってきて、そのことが苦痛でたまりません。早く切り上げたいのですが、黙って聞いているしかありませんでした。優しいご主人は、あけみさんの悩みも十分に理解はして、済まないと思っているのですが、何もしてあげられません。

 そこで、私から提案して、ご夫婦の年末年始の過ごし方を話し合いました。

  • 毎年、年末はあけみさんとお義母さんが一緒におせち料理を作るのですが、今年は別々に作ることにします。
  • その代り、ご主人とあけみさんが揃って、お義母さんの住居の大掃除を手伝うことにします。
  • 元旦は親戚が集まり会食するのですが、今回は、幸か不幸か、喪中です。元旦の午前中にご挨拶だけ軽く済ませ、午後からは夫婦みずいらずで温泉旅行に出かける計画を立てます。
  • 子どもたちを連れていくか迷いましたが、子どもは残して、夫婦だけの旅行にします。

 こんなことをしたら、お義母さんは烈火のごとく怒るのは目に見えています。果たして計画通りに事を進められるか、あけみさんには全く自信がありません。しかし、今回は夫も理解を示してくれて、夫がお義母さんに向き合い、ちゃんと話してみると言ってくれました。

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 これは、お正月などの年中行事に家族の凝集性が高まり、家族の中の問題が顕在化する典型例です。

 その昔、人は「自分」というものをそれほど強く持たず、集団性という大きな流れの中に身を置いていました。良いことも、悪いこともありますが、その中にいるしかなく、個人の選択の余地は限られています。
 その後、教育レベルが上がり、人は自分の頭で考え、「自分らしさ」を求めるようになりました。自分の意思を大切にしたい。自分が自ら求めるように生きたいと考えます。その考え方は人それぞれで異なります。すると、人の近くに居ることが難しくなります。ひとりでは寂しいので誰かを求めます。しかし、自分らしさも確保したいと考えます。

  • 人と繋がっていたい。
  • 人と離れていたい。

人間関係はこのジレンマの連続です。
 それを解決する方法は二つあります。
A)一番良いのは、心理的に自立し、相手とちゃんと向き合える関係を作ることです。そのためには、
1)相手の力を借りなくても自分ひとりでやっていける力を持ち、
2)相手の気持ちを尊重する一方で、それと異なる自分の意思を明確に、恐れたり、遠慮せずに伝えることができ、
3)お互いに折り合うまで話し合うコミュニケーション能力と、折り合える経験を持つことです。

B)二番目の方法は、相手との物理的・心理的距離を開けることです。上記の方法がベストなのですが、実際はなかなかそこまではいきません。物理的に離れてしまうのが良い方法です。しかし、家族や親族の場合、完全に離れることは無理です。普段の日常生活では離れていても、お正月などの年中行事や、冠婚葬祭など特別な出来事、だれかが病気や困りごとがあり、救いを求める時には、お互いに近づかねばなりません。そう考えると、なるべく上記(A)の方法を使えるようにした方が良いでしょう。

 あけみさんのような嫁姑葛藤は、日本家族の定番の葛藤です。昔は大きな家族で一緒に住んでいましたが、今は、義理の家族とは基本的に離れていたいものです。特に女性の場合、年配の世代は「女性は従うもの」という価値観を持っているので、とてもイヤなものです。
 あけみさんのような二世帯同居住宅は、日本、あるいはアジアに独特です。欧米の家族では世代間にもっと距離があります。ふだんは(B)の方法を使い、距離を開けているのですが、お正月はそういうわけには行きません。そこで、大切なのは夫が自分の親としっかり向き合えているか、(A)の方法を使えるかということです。残念ながら、あけみさんの夫は、妻を擁護し、母親に明確にNOと言えません。そのことが妻の症状形成にも関係しているのだということを夫によく理解してもらい、母親に向き合ってもらうことにしました。
 このように書くと、あけみさんの夫は、母親離れできていないダメな男性というように受け取られがちです。しかし、これは家族観の男女差に起因しているとも説明できます。女性は、いち早く近代的な核家族観を獲得し、自立したいと考えます。なぜなら、旧来の家制度の時代から、女性は原家族との分離を経験していますし、女性の地位が低い拡大家族観は好みません。一方、男性は親の面倒はみるべきという責任感を持ち、従来の拡大家族観を未だに保持している傾向にあります。特に、あけみさんの家族のように、親世代と同居している場合はなおさらでしょう。
 あけみさんのような問題を解決するためには、昔の家族観から今の家族観に移行すべきとも考えますが、それは各家族の選択です。どちらが良いとか悪いとかは言えません。むしろ大切なことは、夫婦で向き合い、家族の問題をよく話し合い、解決策を自らの価値観で作り出せることです。あけみさんの夫婦は、現状ではそれが不十分でした。そこで、2回目にご夫婦で来てもらい、夫婦の問題解決能力を高められるように、支援しました。

 最もよい家族の解決策は、専門家などの外部からやってくるものではなく、家族の中から生み出されます。専門家は、そのお手伝いをしているに過ぎません。


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<年末年始を楽しく過ごす秘訣集>


  • 家族が集まるのは楽しくもあり、負担感も増えます。その気持ちを家族で共有しましょう。
  • お正月は女性の負担が増える時期です。そのことを、男性は十分に理解しましょう。
  • 大掃除、ご馳走の準備・手配、年始の挨拶、年賀状など、仕事を家族で分担しましょう。
  • 年末年始の過ごし方を、家族でよく相談しましょう。各人の気持ちを大切にして。
  • 今までにはなかった、新しい過ごし方を試してみましょう。
  • 家族と共に過ごす時間と共に、ひとりの時間も大切にしましょう。

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<年末年始の過ごし方:アドバイスコーナー>

Aさんは夫の両親と二世帯同居しています。普段は距離を保ち、付かず離れすしているのですが、お正月は一緒に過ごさねばなりません。お姑さんの何気ない一言で傷つきます。お正月の過ごし方で、夫婦の意見が合いません。いつもケンカになってしまいます。
A)まずご夫婦でお正月の過ごし方をよく相談しましょう。毎年のことですから、特に話し合わなければ例年どおりになってしまいます。Aさんの複雑な気持ちを夫にわかってもらいましょう。そして、夫の気持ちも理解しましょう。その上で、いつもとは少し違うお正月を過ごしてみてはいかがでしょうか。
 二つ目のアドバイスです。年末年始の時期に、敢えてひとりの時間を作ってみましょう。この時期は家族との関わりを求められます。そこに流されず、夫やご両親に断り、半日でも構いません、家族から切り離された自分のための時間を作ってください。お正月ではない普段に自分の時間があったとしても、この時期にあえて家族に断り、家族よりも自分自身を優先することに意味があります。

Bさんは年一回、お正月には実家に帰省します。年老いた老親と過ごすのはとても複雑な思いです。子どもの頃のことはあまり思い出したくありません。でも、弟夫婦に任せっきりで、弱ってきている親の姿を見るのは辛く、孫の顔も見せてあげられない自分が不甲斐なく思います。
A)実家に向かう前に、親と弟さんへ手紙を書いてみましょう。ご自身の率直な気持ちを伝えます。実家では例年と同じように、当たり障りなく過ごしましょう。そして、帰りの別れを告げるとき、手紙をそっと手渡します。「私がいなくなってから読んでね」と伝えましょう。面と向かって伝えるより、時には手紙の方が気持ちをうまく伝えられることがあります。

Cさんの息子は家でひきこもっています。毎年、お正月には親族で集まるのですが、今回は息子に声をかけない方がよいのか、子どもを残して親だけが楽しい思いをして良いものか迷います。
A)思い切って息子に声をかけてみましょう。できれば、普段は会わない親戚の人が居るところで話しかけると良いです。第三者が介在すると、普段の膠着した家族関係が変化することがあります。親とは話さなくても、祖父母やいとことは普通に話せることがよくあります。

Dさんは今年、親を亡くしました。毎年、正月には親戚で集まっていたのですが、今度の正月はそれもなさそうです。子どもは就職して、正月は友人と旅行に行くからと、家に戻ってきません。ひとりきりの正月になりそうです。
A)ひとりのお正月を楽しみましょう。だれしも、一人ぼっちの寂しさを忌み嫌います。確かに辛いです。しかし、その辛さを乗り越えると、孤独が人生の豊かさをもたらします。ひとり旅に出かけてみましょう。慣れないと戸惑いますが、実行してみると案外楽しいものです。ひとりの時間を大切に使いましょう。読書も良いでしょう。

Eさんは、別居中の妻に連絡するべきか迷っています。普段は仕事が忙しくて引き延ばしにしているのですが、年末年始をひとりで過ごす妻のことを思うと可哀そうでなりません。でも、妻は私と会ってくれるか心配です。妻からは何の連絡もありません。
A)別居中の奥さまのことを心配する前に、まずご自身のひとり正月を充実して過ごす計画を立てて下さい。Dさんと同じく、ひとりで楽しむ体制をまず作りましょう。それが整ったら、奥さまに連絡して下さい。Eさんご自身が元気でいれば、奥さまもEさんと会って元気になります。Eさん自身の寂しさや不安を、奥さまに投影しないようにしてください。

2018年12月4日火曜日

日本と世界のひきこもり事情

世界的に見ると、ひきこもりがこれだけ大きな社会問題化しているのは日本だけである。韓国、中国、台湾などのアジア諸国でも不登校・ひきこもりは問題にはなっているが、日本ほどではない。国際学会などで、ひきこもりについて発表すると、どの文化でも同様な現象は見られるが、比較的まれである。なぜ日本に多いのか?その根底にある日本社会の文脈を、他の社会と比較しながら考える。

韓国ではひきこもりに加え、ネット依存症が大きな青少年問題となっている。専門家の臨床経験は、ひきこもりは日本から韓国へ、ネット依存症は韓国から日本へ伝達されている。日本のひきこもり対策、例えば専門家による精神・心理支援、行政の取り組み、民間NPO団体による自主的な民間支援などは、他の国には例を見ない。韓国ではネットに依存する子どもたちのための治療的キャンプが公費負担で行われ、日本でも注目されている。

私は先日、中国でひきこもりの理解と対応についてワークショップを開いたが、人々の関心が非常に高い。カウンセラーだけでなく、当事者の親たちが広い中国の国土の遠方からやってくる。経済が急速に発展し、人民の生活レベルが向上するなかで、今までなおざりにされてきた心理支援のニーズが都市部の中流階層を中心に急速に高まっている。一人っ子政策や労働力の都市部への流入、厳しい学歴競争社会の中で、不登校の問題は増大している。しかし対応できる専門家が少なく、専門家への教育・研修システムもほとんど整っていない。韓国や中国でも、今後、日本と同様に、学童期の登校拒否が長期化して、ひきこもり、さらにはそれの長期化・高齢化といった問題が将来は懸念されるが、今のところそのような言説はない。

欧米でも、ひきこもりと同様の状態像は存在するが、アジアほど頻度は少ないし、専門家の間でもあまり問題にされていない。むしろ若者の問題はドラッグや犯罪など、家の中ではなく家の外の出来事である。

原因や背景を抜きにして考えれば、自立して生活する資質を持たない若者は、残念ながらどの時代、どの社会にも存在する。彼らがどこにいるかということが文化によって異なる。

アメリカではこの春、家を出ようとしない30歳の息子を両親が裁判所に訴えたケースが全米のニュースとなった。長い間家に滞在して何の仕事もせず、家を出るための一時資金を渡して出るように促しても一向に実行しない息子に親が業を煮やした。アメリカの世間一般の常識では、成長した子どもは家から出るのが当たり前で、実家に留まるという選択肢はありえない。息子が心理的・経済的に自立できず困っていたとしても、それはあくまで息子の問題で、親が関与するべきではないと考える。社会の中で機能する資質を持っていない若者もみな家を出るのので、社会の中で孤立しホームレスとなる。アジアでは親子の相互扶助が当たり前で、社会に適応できない子どもの面倒は親が見る。自立できない子どもを親が放り出すという選択肢はない。せいぜい罪悪感を抱きながら施設や病院に保護を委ねる程度だ。ひきこもりは家の中での孤立、ホームレスは社会の中での孤立した状態である。アジアのひきこもりと欧米のヤングホームレスは、居る場所が異なるだけで、根底にある問題は同じである。

アジア文化とひきこもり

家族療法で用いられているシステミックな視点は、問題を抱えた個人を超えて、家族、コミュニティ、文化・社会など、本人をとりまく関係性や環境に視点を広げる。その観点から、アジア文化とひきこもりの関連について考える。

第一に社会と家族から若者に課せられた高い教育期待である。教育制度や教師の資質に問題があり、それがひきこもり問題に関連することも否めないが、それ以上にアジア文化の根底は教育に対する高い志向性が流れる。どの社会においても若者が成長する中で教育は重要であり、教育レベルにより将来の職業のレベルも決まる。しかし、それが人間の価値にもつながり、社会全体で高い教育レベルを目指そうとするのはアジア文化の特徴である。他の文化では、アジアほど教育レベルが自尊心の格差を生まない。教育は重要であるが、それがすべてではない。
 日本社会における教育期待の高さは1970-80年代の高度経済成長期がピークであった。「教育ママ」が熱心に子どもに寄り添う家族関係は、社会に活力があり発展志向が強い今の中国や韓国で観察できる。一方、日本ではバブル経済が崩壊する1990年以降は、それまでのあからさまな形での親からの教育熱は影を潜め、高学歴を目指す風潮は落ち着いたものの、親から子への期待は相変わらず高い。

第二に家族内凝集性の高さである。親子相互の扶養義務意識は永続的であり、「親孝行」は儒教的な時代遅れのフレーズに聞こえるが、アジア文化の中に依然しっかり根付いている。親子がお互いに元気で自活していれば離れていられるが、幼少時や高齢期、病気、怪我や障害など、親子のどちらかが自活できず支援が必要な時は家族の凝集性が高まる。それは美徳などではなく、「当たり前」なのだ。
欧米の家族でも親子の愛着関係は一生続くが、アジアに比べると心理的距離が遠い。家族メンバーの幸せの責任をだれが取るかという感覚が異なる。アジアのように家族関係が近ければ連帯責任であり、欧米のように家族が個別化していれば、幸せを成就するのは各自の責任であり、個人の自我境界線を越えて援助するのは、個人の人格の尊厳を否定することになる。

 青年が自立し、社会性を獲得するプロセスは容易ではない。学校でいじめられたり、友人から裏切られたり、教師から叱責されたり、成績が低下して親の教育期待にかなわないなど、何度も失敗体験をくり返す。失敗体験にめげず、何度も困難に挑戦する中で、いつか成功体験を獲得し、若者は成長していく。しかし、失敗体験に傷つき、社会化という挑戦をあきらめてしまうケースがひきこもりにつながる。

 日本やアジア諸国での不登校・ひきこもりケースに多く接し、共通して観察されるのは、家族内にはびこる大きな不安である。たとえば次のような例である。
1)成績が低下した。今までは成績がある程度良く、積み上げてきた自分のプライドを保つことが出来ない。このままだと自分が望んでいる、あるいは家族が望んでいる将来が得られないかもしれない。家族からの期待は絶対的であるため、自分のプライドを下げることができない。
2)人と関わる不安。友だちにいじめられるかもしれない、友人関係をうまく作れないかもしれない。

家族の不安としては次のような例だ。
4)パートナーの協力を得られず、親がひとりで子どもに関わらねばならないという孤独感
5)反抗期の子どもの攻撃性に向き合えないという不安
6)親として子育ての責任を負い、それが失敗してしまったという自信の喪失
7)子どものこと以外に、親自身の人生における不安を抱えている場合などである。

日本のひきこもりの特徴

日本のひきこもりは、他のアジア諸国には見られない大きな特徴がある。
日本以外のひきこもりは、親とのコミュニケーションがうまく成り立たず、学校や社会における帰属集団は失っていても、個人的な友人など、特定の誰かとは繋がっているケースが多い。日本のように、外部とのコンタクトが全くなく、唯一の接点が家族だけで長年経過するのは日本独特である。
日本の文化症候群とされている「対人恐怖症」は、他者に対する過剰な配慮が不安に転じることに根本的な要因がある。DSM-5では対人恐怖症を「社会的交流において、自己の外見や動作が他者に対して不適切または不快であるという思考・確信によって、対人状況が不安になり回避する文化症候群」と定義されている。

お互いに遠慮し合うコミュニケーション様式も日本に独特である。「場の空気」、つまり暗黙の了解事項としての対人関係のルールを読み取ることは、高度な社会性テクニックを要する。対人関係における非言語的メッセージである「空気」を読めないのは自閉症スペクトラム障害にも共通している。この観点からみると、ひきこもりは思春期・青年期における「仲間入り」の失敗ともとらえられる。つまり、自分の家族以外に、自分が肯定的に受け入れられているという安心で満たされた居場所を見出すことができない。ここでいう居場所とは、学校や職場など、家族以外でその人が所属し、安心できる関係性を築く所属空間のことである。

若者の生きづらさを表すラベルの変遷

若者の生きづらさはいつの時代、どの国にもある。それを社会の人々がどのような準拠枠を与えるかの違いによって、様々な用語が用いられる。心理的な問題は日本社会ではタブー視される。用語の否定的イメージを払拭するために新たな用語が見出されても、やがて否定色に染まり、使い捨てられていく。

登校拒否ということばが使われ始めたのは1970年代の高度経済成長期であった。1980年に起きた神奈川の金属バット両親殺害事件から家庭内暴力というフレーズも用いられるようになり、登校拒否と家庭内暴力がセットで青年期の不可解な行動が語られた。ちなみに家庭内暴力(Domestic Violence)は英語では夫婦間暴力を指す。しかし国内では「家庭内暴力」というフレーズは主に青年期の子どもから親への暴力を指し、DVは夫婦間暴力、親から子への暴力は児童虐待という用語が使われている。英語では日本の狭義の家庭内暴力を表す言葉はない。

登校拒否には、本人や家族に原因があるというニュアンスが含まれるため、その後、学校に行かない状況を中立的に表すことばとして「不登校」が用いられるようになった。
不登校は就学年齢の若者に限られるが、その年齢を越えても社会との接点がない若者を表す用語として「ひきこもり」が使われ始めたのが1990年代であった。初めは専門家の間だけだったが1998年に出版された斎藤環の「社会的ひきこもり(PHP新書)」がきっかけに一般市民の間にも広く認知されるようになった。社会に広まれば、それまで誰にも相談せず、家族の中で埋もれていたケースが相談を求めるようになり、見かけ上のケース数が増える。

さらに、就学・就労・職業訓練のいずれも従事していないニート(Not in Education, Employment or Training, NEET)、遅咲きの花を意味するレイブル(Late Bloomer)という用語も使われた。真新しい言葉が注目されても、やがて否定的なイメージを付与されてしまうので、衰退して別の言葉に置き換えられる。この2-3年は、インターネットゲーム依存症という問題の捉え方が注目されている。

社会的ひきこもりをはじめ、これらの概念はすべて状態像であるから、原因の解明には役立たない。それでは明確な対応策を提示できない。明確な生物学的根拠が見つからない精神心理的問題をどうにか医学モデルで説明しようとするのが医学的診断名である。
私が医学生だった40年前、微細脳障害(Minimal Brain Dysfunction; MBD)という疾病概念を学んだ。が、知的、運動・感覚など脳の機能に異常は認められないが、行動や集中力に問題がある子どもたちには原因不明の微細な脳障害があるはずという仮説に基づいた概念である。現在では死語となり、その後に生まれたのが注意欠陥・多動性障害(ADHD)という疾病概念である。

自閉症スペクトラム障害という概念は、カナーが命名した「早期幼児自閉症」の概念を拡張したものである。医学的なラベルが付与されると、もはや原因不明でなくなり、支援策が導き出される。病気と認定されれば医療支援を受けられる。これは脳機能の障害と定義されるから、親の子育てなどの環境は要因とならず、本人の努力不足、親の関わりや教師の不適切さといった責任論から解放される。

2018年11月30日金曜日

<新企画>家族療法コンサルテーション

主旨
2019年より月1回開催いたします。
参加者から提示されたケースをもとに、
〇システム理論ではどのような見方をするのか(アセスメント)、
〇どのような解決方法が考えられるのか(支援方法)、
これらの具体的な技法についてご紹介します。

参加者
今までの講座やワークショップは【当事者・家族向け】と【支援者向け】を分けて、別々に行ってきました。クライエント向けの話と、専門家向けの話は、内容もレベルも異なるからという理由です。
しかし、今回は、あえて【当事者・家族】と【支援者】が一緒に集い、同じ目線から話し合います。
その背後にある考え方を説明いたします。

インフォームド・コンセント (Informed Consent)
病気について、そして治療の方法についてよく説明し、患者さんに納得してもらう。
今でこそ、多くのお医者さんはこれを実行していますが、以前はインフォームド・コンセントという概念はありませんでした。医療の知識は一般の人は理解できず、患者さんは先生にお任せして、あまり口出しをするべきではないと考えられていました。
 精神科領域、特にカウンセリングでのインフォームド・コンセントは遅れています。なぜら、クライエントが何か忘れられた大切なことに「気づく」のが治療そのものですので、それを治療者から説明してしまったら治療になりません。私も普段のセラピーではなかなか実現できないのですが、このコンサルテーションの場では敢えて挑戦してみたいと思います。セラピーとは違い、客観性がある程度保たれるので、やりやすいと思います。

リフレクティング・チーム (Reflecting Team)
 家族療法の技法のひとつです。クライエントの会話をセラピストが一方的に聴いてアセスメントするのではなく、セラピストの会話もクライエントが聴き返す(リフレクティング)することにより、より高い理解を深めることができます。支援者の専門性を脱構築し、当事者自身も支援性を発揮してもらうための手法です。

ライブ・スーパーヴィジョン (Live Supervision)
 スーパーヴィジョンとは、支援者が自分が関わったケースを提示して先輩のアドバイスを受け、臨床の技術を高める訓練方法です。それを、現場で行うのがライブです。クライエントとセラピストのやり取りの支援現場に実際に参加することにより、支援の経験を深めます。

2018年10月16日火曜日

落ち込んだ時に観るべき動画

SNSには時々、とても良い記事が流れます。
それらは、多くの人にシェアされて、世界中を回っています。
この動画もその一つです。

もしあなたが落ち込んだら(Facebook版)

もしあなたが落ち込んだら(Instagram版)

Facebookやインスタグラムをやっていない人でも見れるはずです(両者とも同じ動画です)。

Sivarama Swamiはハンガリー生まれのスピリチャル・リーダーです。
私もこの動画を見るまで知りませんでした。

直訳ではなく、私の考えも加えながら意訳してみました。

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「うつ病」とか「メンタルが弱い人」というと、何かその人が持っている属性のように扱われます。

  • あの人は、うつ病だから、、、
  • 私はメンタルが弱いんです、、、

世界中の多くの人が、このような見方をします。

しかし、それは考えすぎです。
誰もが経験する感情体験がそうさせているだけであり、その人が正常(健康)か病気かという話ではありません。
プラスの感情(幸せ感や自信など)は問題ないのですが、マイナスの感情はとても痛いものです。たとえば、

  • 失敗による自信喪失・自己否定、
  • 大切な人を失う悲しみ、
  • 大切な人から拒絶された怒りや孤独などです。

そういう辛い状況になるのではないかと予測することが「不安」であり、
そうなってしまった痛い気持ちを抑えて感じなくしようとするのが「うつ」です。

うつや不安になると、将来のことを悲観的に思い、自分はダメな人間で、これからもずっとダメな状況が続くだろうと、暗い予測を立てます。

心が元気な時は、そんなことはない、長い人生の中で状況は四季のように移り変わるし、マイナスの時期やプラスの時期があるだろう、という風に考えることが出来ます。
しかし、うつ・不安の時はそう考えられなくなってしまいます。

感情は生活体験の結果に過ぎません。
人間は感情を受け取る器(うつわ)のようなものであり、器じたいが良いとか悪いとかではなく、そこに入っているコンテンツがマイナスだったりプラスだったりするだけです。

痛い体験=自分自身

と、体験を自己に同一視するのはやめましょう。
体験は移り変わります。寒い冬の次には、心地よい春が巡ってきます。
人間は、移ろう生活体験を超越した、大切な存在です。
ものを見るレンズを変えれば、見方も、世界も変わります。

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だいたい、こんな意味です。
さらに、私の考えを加えると、

このように感情と自分自身を切り分けるためには、誰かそれを見守る人が必要です。
友人でも、家族でも、先生でも、カウンセラーでも、宗教家でも構いません。
自分の痛い感情を吐き出し(表現して)、器からコンテンツ(内容物)を出してみます。その姿を誰かに見せて、そうだね!と承認してもらえると、自分の体験や感情を相対化・客観視できるようになります。
そして、感情体験にブレない、確固とした自分を獲得します。

2018年10月12日金曜日

セラピストも変化し成長し続ける

先日の学会に初めて参加した若いセラピストからメールを頂きました。

学会のシンポジウムで先生のお話を聞き、Person of the Therapistでしたでしょうか、セラピストも常に変化し成長し続ける、それを恐れずむしろ楽しむような先生の姿勢に触れることができたように思います。

ありがとうございます。
とても良く私のことを理解していただけたと思います。

自分が得てきたものを手放し、自分を見失い、変革を求められることは、ある意味とても怖いことです。
しかし、心の支援者が成長するプロセスにおいて、初学者としてひととおりの理論や技法を使えるようになった後は、自分自身の内面に向き合い、自己の体験から得た人間性をどうクライエントとの関わりに生かすかという視点が重要です。
このことは心の支援者に限らず、すべての人にとって大切なことだと思います。

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セラピストの変化・成長とはどういうことでしょうか?
たとえば、私自身の例をご紹介しましょう。

人は自分が肯定されないと、つまり「善きもの」と認定されないと、生きていけません。
そのために一生懸命、自分を磨き、自分は善き存在であることを証明しようとします。
そうすれば、人とも向き合うことが出来ます。
自分を肯定し、相手も肯定できます。
それは、
・自分を良く見せるための鎧
・自分のアイデンティティ
・自分のプライド(自尊心)
・自分が一番大切にしてること
などと言い換えることもできるでしょう。

私は長い間、成績が良いこと、エリートであることを、自分のプライド(自尊心)、つまり私がOKであることの根拠にしてきました。
自分で言うのもなんですが、私は小中高時代に勉強がよく出来ました。偏差値も高かったです。
大学に行くと劣等生でした。何度も追試験を受けて、やっと卒業できました。しかし、それは国立医学部というエリート集団の中での話です。自分の鎧が傷つくことはありませんでした。

医学部を卒業してから、自分の専門を決めます。優秀な仲間たちが行く内科や外科といったメジャーな診療科に進む自信はありませんでした。精神科は比較的マイナーな分野でそれほど人気はありませんでした。私が精神科を選んだのは様々な理由があるのですが、これも理由のひとつだったと思います。

大学5-6年生(22-3歳)の頃、3歳年下の女性と付き合いました。地元(茨城の田舎)のレストランでバイトしている高卒の女の子です。私が初めて深く付き合った女性で深く愛し合い、卒業したら北海道に移住して医者をしようかなと考えていました。なぜなら彼女は馬がとても好きだったからです。
そのことを大学の先輩に相談したら、「田村、彼女はヤバいぞ!」と言われました。何がヤバいのかよくわからなかったけど、当時の私は自分の選択に自信はありません。その後しばらくして彼女と別れました。
何人かの女性を経て(10代の頃はさっぱりでしたが、医者になった20代は女性からもてました)、高学歴で、英語が私よりも上手な妻と結婚しました。
そして子どもを3人つくりました。

人は小さな世界(家族)で生まれ、成長し、思春期になると大きな世界(社会)に船出して、自分のポジションを見出します。

青年期の頃、私は大きくなりたい、より大きな世界に出て行きたいと思っていました。
海外に飛び出し、多くの人々と交わり、多くの人から賞賛を受けて、お金持ちになり、立派な家族を作りたかった。そのためには「エリート」で、人よりも抜きん出ることが有利だと考えていました。

私の高学歴志向は、家族のレガシー(遺産)でもあります。
私の父親も母親も昭和一桁生まれで、7人きょうだいの中ほどでした。両親とも数多いきょうだいの中では一番勉強が出来て、名門と呼ばれる大学を卒業しました。父親は東京大学、母親は神戸女学院です。そんな二人の属性がマッチングされ、お見合いで結婚しました。学歴レガシーはそこから生まれました。
両親の実家自体は学歴など無頓着な商家でした。その地域(群馬と愛媛)では比較的大きな商家だから、その時代背景における優位なポジションという意味では両親以前の世代にさかのぼるレガシーであったのかもしれません。
いずれにせよ、私個人の家族の歴史から生まれたちっぽけな価値に過ぎません。

私は自分を善き人として成り立たせているもの(自尊心)は、人と比べ、より優れていること、専門職(医者で大学教員で)として多くの人から承認されていることだと、ずっと思ってきました。
良いポジションを得ることと、幸せになることはあまり関係がないはずなのに。
社会が貧しかった時代は、良い社会的ポジションが幸せの必要条件だったかもしれません。しかし、豊かになった今の日本社会ではほとんど関係ありません。心理臨床の現場では、良いポジションを得ながら幸せになれない人々にたくさんお会いしています。

私は最近両親を見送り、自分の年齢(ライフサイクル)のことを考えるようになりました。還暦を過ぎ、会社勤めの友人たちはリタイアの時期が近づいています。
人は小さな世界(家族)に生まれ、鎧と武器を携えて大きな世界(社会)に居場所を見出します。そして、年齢と共にものを失い、小さな世界に戻っていきます。

・退職し、社会的役割を失います。
・身体(体力・精神力や健康)を失っていきます。
・子どもが巣立ち、親役割を失います。
・家族も失っていきます。

やがて小さな自分に戻り、孤独に耐え、亡くなるときはひとりです。
私は10年前に一番大切な妻を亡くしました。失くしたものは専門職として活躍する妻ではなく、親密で何でも分かり合える妻、育ち盛りの子どもたちの母親である妻でした。

その時に気づきました。
・私を成り立たせているものは、専門職として関わる社会の人々からの承認ではなく、身近で親密な人からの承認であることに。
・それは、パートナーからの承認であり、老いて亡くなるまで息子である私を見守ってくれた両親からの承認であることに。
・家族からの承認という安全な母港があったから、私はソトの世界に船出できたのだと思います。

人より優れ、自分の有能さを示すための専門職プライドは意味を持たなくなりました。
私にとって一番大切なものは、自分のすべてを(弱いところも、恥ずかしいところも)伝え合い、何でも分かり合える親密な人です。若い頃も、それが一番大切だったのですが、当たり前すぎて、そのことに気づきませんでした。失って、初めて気づきました。

それでも専門職であることは誇りに思います。退職年齢を過ぎても、体力と気力が続く限り仕事を続けられます。
頑張って高機能の鎧を手に入れて、大きな世界(社会)から賞賛を得ても、小さな世界(親密な愛着関係)から承認を得られず苦しんでいる人たちの気持ちがよくわかります。なぜなら、それは自分自身の姿でもあったからです。

そういう人たちの苦しみをどうやって解放するかというと、
まず私自身が、彼らの小さな世界に入り込みます。そして、
1)私が承認を与える場合もあるし、
2)身近な人同士(愛着対象であるはずの人)がお互いに承認を与え合えるコンテクスト(文脈)を作ります。
結構むずかしい作業ですが、それをできること、それを後進の支援者たちに伝えることが私の専門職としてのプライド(誇り)です。

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長くなりましたが、これがセラピストとして、ひとりの人間として、変化し成長し続ける私の一例です。

私がエリートという自分の鎧を、それが必要でなくなる年齢まで崩さずに来れたことは、幸運でした。

逆に言うと、まだ鎧(自尊心)を必要としている時期に、それを失う痛手がどれほど大きいかということもよくわかります。特に、鎧の制作中である思春期・青年期にとっては致命的な痛手となります。
価値の喪失を受け入れ、そこ立ち直り、新たな変革を可能にするのは、その根底にある安全な母港の存在です。
このことも、自分自身の体験からよくわかります。

2018年10月9日火曜日

本音を言えると安心する

大切な人に本音を伝えることができると、とても安心します。

わかりやすい例をネット上のニュースから紹介しましょう。

<TBS NEWS>
日朝の大学生が交流、国交のない国で生まれた出会い (タイトルをクリック)

NGO主催プログラムを通して、日本と北朝鮮の学生が交流しました。
会う前は、お互いに不安でいっぱいでした。
国交のない国から来る人々なのに、大丈夫だろうか、、、
しかし、3日間、交流する中で、お互いの本音を語り合うことができました。
「会う前は不安だった」ということも、打ち明けました。お互いに同じ気持ちであることがわかりました。
すると、不安感が安心感に変わります。
3日後にはお互いに抱き合い、将来の再開を誓い合って別れました。

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家族や友人など、大切な人同士は気持ちを繋げます。
繋がっているからこそ、大切な人です。
ちゃんとつながるためには本音を伝え合います。
表(プラスの気持ち=喜び)だけでなく裏(マイナスの気持ち=不安・恐れ・悲しみ)でも繋がります。
すると、とても安心します。

日朝の学生たちはお互いに、「不安だったんだよ」と、マイナスの気持ちも語り合い、「自分もそうだったよ」と気持ちを受け取りあいました。
すると、それまでの不安が安心に転換されます。

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特に繋がる必要のない人(関係の遠い人)はどうでも良いのです。
繋がらなくても一向にかまいません。

自分にとって大切な人(家族や友人、仲間など)が、うまく繋がっていると、とても楽になります。自信が生まれ、前に進めます。
逆に、本来は大切なはずの人と、うまく繋がれないと、とても苦しくなります。

大切な人に本音を伝えることは、とても難しく、勇気がいります。
とても怖いことです。なぜなら、、、

・・・相手が理解してくれない不安。
・・・関心をもって聞いてくれず、スルーされる不安。
・・・拒否される不安。
・・・逆襲してくる不安。
・・・裏切られる不安。
・・・離れていってしまう不安。

これらの不安が渦巻くと、二種類の反応が起きます。

1)相手にしがみつこうとします。
・気持ちが焦り、何度もしつこく相手に言い寄ります。
・親は子どもに過干渉・過保護になります。
・夫婦間で、相手に無理やり伝えようとしてDVとなります。
・不安が怒りに転じて、暴言や暴力となります。
・好きだった人に執拗に迫り、ストーカーとなります。

2)あるいは逆に、相手から離れようとします。
・相手から話しかけられても無視して、コミュニケーションを閉ざします。
・相手を拒絶します。相手から逃げます。
・拒否されたり怒ることを恐れ、腫れ物に触れるように接します。何も言えなくなります。
・人との関わりを避け、ひきこもります。

(1)と(2)は一見逆の反応ですが、両者に共通しているのは、意図しなくても相手に不安を伝えてしまうことです。
すると、相手も同様に(1)しがみつくか、(2)離れようとします。
結局、両者の間でコミュニケーションの悪循環が生じ、ますますうまく繋がれなくなります。

ここまでいくと、当事者だけでは解決不能になります。
第三者の介入が必要になります。
第三者は、不安を抱えた当事者と関わり、安心の水を与えます。
当事者同士に安心感が生まれれば、安心の関わり合いの中で、本当の気持ちを伝え、相手が受け取ることも可能になります。このようにして、大切な人が繋がるお手伝いをします。

2018年9月28日金曜日

母親である私自身の相談でも大丈夫でしょうか?

あるお母さんから次のようなメールをいただきました。

先日、【思春期 やる気ない】で検索し先生のブログにたどり着きました。
2011.6.30付のブログ「やる気のエンジンの切り替え時期(=思春期)」に載っていた保護者の方々の相談内容に驚きました。幾つもの内容の全て、まさに息子の様子そのままです。先生の親と子のエンジンのお話、とても納得しました。その通りだと思いますし、そう心掛けて行動したいと思います。

今まで本や相談などで、こうしたら良い・こう考えたら良いという情報や助言をたくさん貰ってきたのですが、
【子どもの姿は、親の出来不出来の結果】
【子どもの姿は、親の通知表】
【私が上手に出来なかったから、子供が自己肯定感が低くやる気が無くなってしまったのだ】
という私自身の気持ちが払拭出来ません。この、私自身の問題が諸悪の根源ではないかと思うようになりました。
一般的な成長過程にある(と見える)我が子の相談ではなく、母親である私自身の相談ということでも大丈夫でしょうか?

ずいぶん前のブログを読んでいただきありがとうございます。
これは7年前に学校で講演した際、実際に頂いた質問です。

どうぞ、お母さん自身の相談としてお越しください。
子どもに問題があっても、お母さん自身の問題として捉えられているのは、とてもよく考えていらっしゃる証拠です。

しかし、ここには根本的な認識の間違いがあります。

お母さんが、問題(諸悪の根源)ではありません。

「お母さんに問題がある」という思考プロセス自体に問題があります。


「やる気エンジンの切り替え」のお話を理屈ではよく理解いただいたようです。
しかし、お母さんが実際にやっていることは、いまだに親のエンジンで子どもを動かそうとしています。

親のせいで子どもに問題がある。
という発想は、親が子どもの責任を取り続けているわけですね。
つまり、いまだに親のエンジンで子どもを動かそうとしているわけです。

思春期前の子どもに対しては、親はしっかり責任をとってください。
しかし、思春期以降になったら、親は子どもの責任を取らないでください。
子どもの問題に対して、親が責任を取ったら(親のエンジンを繋げたら)、子どもは自分で責任をとれません(自分のエンジンを試せません)。

そのお気持ちを切り替えることが大切です。

このお母さんは、実際に相談にいらして、次のようなお話をしてくれました。

実は私自身も若い頃、そういう時期がありました。
中学までは予習・復習をきっちりやって、成績が上がり、よい高校に進学しました。
しかし、高校に入ってから、一時期なぜかやる気を失い、勉強を全くしなくなりましたた。
大学受験もうまくいかず、一番入りたい大学は不合格でした。
でも、受かった大学に入ってからは気持ちを切り替え、なんとか卒業して、今に至っています。

ほら、そうでしょ!?
人は、人生のマラソンを走り続けているわけではありません。
時には立ち止まり、しばらく休む時期があるものです。
このお母さんは、現在お仕事で社会に貢献し、家庭では立派な母親として頑張っていらっしゃいます。
お母さん自身にも若い頃、エンジン切り替えの時期があったわけです。
さらに、次のように話してくれました。

子どもにはこうなって欲しい、良い生活をして欲しいという期待がどうしてもあるんです。
子供の成長を待つのが苦手なんです。

そのとおり、当然ですね。
すべての親は、子どもの幸せを願っています。
だからこそ、子ども自身の力で、幸せを手に入れさせてあげて下さい。
親の力で幸せを手に入れたとしても、それは本当の幸せではありません。
だからといって、親が子どもに何も言わず、子どもの成長を待つだけではいけません。
本当は言いたいのだけど、言うこともできず、待つ=子どもへ不安の眼差しを注ぎ続けているわけです。

しっかり、子どもに自分の責任を取らせてください。
勉強せず、ゲームの毎日で、努力せず、ダラダラしている、、、
そういう子どもに対して、
心配する親の眼差しを切ってください。
子どもへの心配を、心から追い出して下さい。
といっても親の気持ちとしては、なかなか出ていきませんから、身近な人に心配を受け止めてもらってください。
ご主人が一番良いでしょう。
友だちやカウンセラーでも結構です。

子どものエンジンは、必ず動き出す。
そのように、お子さんを信じてあげて下さい。
親は子どもを心配せず、自分自身の人生をポジティブに進めて下さい。

自分のせいで子どもがこうなった、、、なんて、親としてのご自身を否定しないでください。
もちろん完璧な親ではなかったでしょう。
ダメ親の部分もあったでしょう。
でも、ここまでちゃんと立派に子どもを育ててきましたよね。
そのように、親がご自身を肯定すれば、その姿を見ている子どもも自分を肯定するようになります。
そのようにして、子どもはゆっくりと自分のエンジンを動かせるようになります。

2018年9月26日水曜日

心の安心タンク

人は、心の中に安心のタンクを持っている。
その中に入っているのは安心感の水である。それは、自分は見守られている、大切な人に認められている(承認欲求が満たされている)といった確信的な感情である。

この水は、人間ひとりでは生まれてこない。大切な人から愛され、認められることにより、相手から与えられ、自身の心の中に生成される。親密な人との対象関係の中から生まれてくる。

水はたっぷりもらっているはずなのに、安心が生まれてこない場合もある。それは、愛情が安心色ではなく、不安な色に染められている場合である。対象の心のタンクが不安色だと、そこに注がれる水も、どうしても不安色になってしまう。

水が十分にあると、ひとりでいることもできるし、イヤな人とも交わることが出来る。ひとりでいても「孤独感」に苦しまず、ある程度は安心を保持できる。人からイヤなことを言われても過剰に不安になることはなく、きっと次は挽回できるはずだと期待をつなげられる。失敗してもめげずに何度も挑戦できる。何度かやっていればそのうち成功して、安心の関係を得ることができる。そうやって、水をさらに増やしていくことができる。

逆に、心の水量が減ると、不安感が増えてしまう。すると、(1)必死になるか、(2)諦めるかのどちらかに陥る。

1)足りていないという飢餓感から、必死になって相手にたくさん求め、時としてやりすぎてしまう。限度を超えて求めすぎると、相手は負担に感じ引いてしまう。すると、さらに輪をかけて求めてしまい、人にひっついていないと心配になり、依存的になってしまう。またルールをわきまえず求めるのでトラブルが生じたり、不安感が怒りに転じて攻撃的になったり、(男性に多いのが)暴力を振るったりする。

2)人を求め、安心の関係性を作るのは結構難しい。こちらからアプローチしても無視されたり裏切られたり、失敗することは多々ある。水のリザーブがあればある程度の失敗にも耐えて再挑戦できるが、水が底をついているときは、一度失敗すると不安になって苦しくなり、人を求めることをやめてしまう。怖くなって、人との関係性から撤退してしまう。

心のタンクの水量は子ども時代に決定するものではなく、一生を通じて増えたり減ったり、その時の天気(生活状況とストレス)と降雨量(親密な関係性)に左右される。

★例えば、幼児。
生まれた子どもは親(保護者)から愛情という水をたっぷり受け取る。無力な自分に対して、無条件の愛情を与えられ、この世に生きていて良いんだ、自分は愛されるべき、善き者なのだということを確信する。すると、安心して親から離れ、外の世界に飛び出して冒険できる。なぜなら、困ったときにはいつでも戻ってくれば良いという安心感を心に抱いていることができるから。
逆に、愛情の水をもらいそこなうと、心の中に安心が生まれず、必死に求めようとしがみつく。あるいは、諦めて無関心になる。
その結果、何らかの問題が生じると「愛着障害」と呼ばれる状態になる

★例えば、思春期の若者。
思春期前の子どもたちは小学校や家庭などに見守られた環境で生活する。
思春期・青年期に入ると、自立心が芽生え、ソトの世界に飛び出し、自らの力で新たな関係(愛着対象:友人や恋愛対象)を求めるようになる。
タンクに水が十分に入っていれば、多少はいじめられても、叱られても、傷つけられても、失敗体験にめげずに何度も挑戦し、100%とまではいかなくても60-70%程度の成功体験を必ず獲得できる。
タンクに水が十分に入っていないと不安感が先行してしまい、安心の関係をうまく作れない。傷つきに堪えることができず、自信を喪失し、ソトの世界への挑戦を諦めてしまう。その結果、不登校やひきこもりと呼ばれる状態になる場合もある。

★例えば、夫婦関係。
夫婦は最も親密な関係である。
夫婦間で相互の水を増やすことができるし、逆に減らすこともある。
夫婦は本音で気持ちを伝え合うことによって、真の親密性を獲得できる。
良いこと、表面的なことばかりでなく、辛いことや心の痛みも思い切って伝えると、本音で分かり合えた感覚を得る。深い信頼で結ばれ、私の本当の気持ちをわかってくれているんだ、大切にされているんだという温かい気持ち、守られた気持ちになる。このようにして、お互いの水を増やしていくことができる。

家族生活は仕事の負担、お金の心配、家事育児の負担、子どもの教育、親や親戚との付き合いなどなど、負担になることが山積みだ。本当の気持ちを伝え合おうとしても、上手く受け止められないこともたくさんある。心の水(安心感)が不足していると、伝える方はうまく送れず、受け止める方もうまく受けとれず、自分が責められていると勘違いしたり、うまく伝えられない。結局、お互いがイヤな気持ちになってしまい、喧嘩になる。それを避けるために、相手を遮断し、コミュニケーションをとらなくなってしまう。
いずれの場合も、最も分かり合えるはずのパートナーがわかってくれない、信頼できない関係に陥ってしまう。この相互のやり取りが悪循環にはまり、ふたりの水が激減していく。

夫婦のやりとりで、水を増やせるか、減ってしまうか。
どちらにころぶかは、偶然というよりも、二人の水の総量による。二人あわせて、十分な水があれば、多い方から少ない方に分け与えても、まだ水は足りているし、自己増殖も可能だ。
二人合わせた水が不足していると、どうしようもない。分け与えられないし、相互作用自体が、ますます水を抜かせてしまう。

★例えば、子どもの成長を見守る親たち。
親子間の水は、親→子だけでなく、子⇒親へも流れるものだ。つまり、子は親からの承認を得て安全の水を貯めるばかりでなく、親は子どもからの承認を得て親自身の水を増やす。
子どもの成功体験は、子ども自身の水ばかりでなく、親の成功体験ともなり、親の水を増やす。日本の場合、学校での成功体験が顕著な例だ。
逆に、子どもが問題を起こすしたり、いじめられたり、成績が落ちたり、先生に叱られたり失敗すると、親は心配する。親の心に十分水が入っていたら、子どもの多少の失敗でもそれほど不安にならず、試行錯誤を繰り返し、失敗の次に成功が来ることを期待して、先回りして心配せず、遠くから見守ることができる。親が心配せず、干渉せず、暖かく見守ってくれていると、子どもは信頼されているんだなと安心して、何度も挑戦し成功に到達できる。
親の水が不足していると、子どもの小さな失敗でもとても不安になってしまう。口をだしすぎたり、叱ったり、先回りして心配する。すると、親の心配が子どもにも伝染し、不安な気持ちが増えてしまう。すると、失敗体験が大きな痛手となり乗り越えることが出来ない。
親は子どもから非承認(拒否・無視)を受けることもある。思春期の子は、親を無視したり、反抗して、自立していく。親の安心の水が十分にあれば、ふつうの反抗期のプロセスとして大して気にせず、反抗しようが無視しようが、親としてのメッセージを普通に伝え続ける。しかし親の水が少ないと、子どもからの非承認に耐えられない。必死に承認を得ようと叱ったり、甘やかしたり、なだめすかしたりする。子ども側からすれば、それはウザいだけだ。逆に、拒否を恐れ、子どもに対して腫れ物に触れるように関わり、親として当たり前のメッセージさえ伝えることに大きな不安を抱き、何も言えなくなってしまう。
過剰に叱ったり、何も言えなかったりという親の対応は、親の不安を暗黙の裡に伝えている。それが子ども自身の心の水を抜いてしまうことにもなる。

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以上は、愛着を「心のタンク」という比喩を使って説明したものだ。
従来の説明と異なる、私独自が考え出した説明である。その要点は2つある。

1)ライフサイクルを通じた可塑性・柔軟性
従来、愛着は「心の鋳型」という比喩が用いられてきた。
つまり人生早期の体験を重視する精神分析的な見方である。5歳以前の幼少期の愛着関係により、その人の愛着パターンが
安心型(secure attachment)、もしくは
非安心型 (insecure attachment)
に決定づけられる。いったん作られた心の鋳型はもう固定され、残りの人生はその愛着パターンで対人関係の質が決まる。非安心型の人は苦労することが多いといった具合である。
私の「心のタンク説」は、社会構成主義(ポストモダン)と家族システム理論から来ている。つまり、愛着のパターンは、その時の親密な関係性の量と質によって、いくらでも変化しうる。幼少時期の体験は重要であるが、そこで決定するわけではなく、その後もいくらでも変化しうるということ。

2)親子間の双方向的な愛着の備給
もう一つは、アジアの伝統としての緊密な親子関係から得られる、欧米ではあまり強調されない愛着の授受関係である。イギリスで生まれた愛着理論は親(または保護者)から子どもへ愛情が伝えられ、それによって子どもの愛着パターンが決まるという、親から子へという一方向的なものである。その根底にはヨーロッパ的な家族観がある。つまり、子どもは成長と共に親から分離するものであり、成長した後の親子間の情緒的な関係性についてはあまり議論されていない。
その後、アメリカでの臨床研究により大人の愛着も研究されるようになった。それはもっぱら夫婦もしくはパートナー間の愛着関係であり、成長した子どもとその親の愛着関係は議論されていない。
アジア的な家族観はこれと異なる。親子の愛着関係は一生続くものであり、親から子へのみならず、子から親への愛着の備給もありうる。つまり、子から親は承認を受けると親の安心が生まれ、子からの拒否は親の不安を生む。

この二つの視点を、従来にない「心のタンク説」を用いて説明した。

支援者の役割について

 親子間あるいは夫婦間の愛着の水の総量が十分でないと、家族システム内での安心できる関係性(secure relationship)が不足し、お互いが交流することでますます消耗してしまう。従来の精神分析的な支援では、そのことを解釈し、気づくことでどうにか乗り越えようとする。
 私の考え方は異なる。支援者がシステムに加わり、支援者の安心の水(secure attachment) を家族システムとの交流の中で具現化し、家族システムの水を増やすことが考えられる。家族メンバーの誰かの水が増えれば、家族相互作用の中で、安心感の水は他の家族メンバーにも行き届くことになる。
 それを行うためには、支援者自身が十分な心の水を保持していないといけない。クライエントの心が開くために、支援者自身が心の鎧を開くモデルを示し、安心感・承認感を家族に伝えていく。
 これはテクニックや技法の問題ではなく、自己の感性にどれだけ気づくか、どれほどコントロールできるかということになる。支援者もひとりの人間であり、タンクの水が少ない場合もよくある。むしろ、少ないがために対人援助職(心理精神・福祉・看護・教育など)に興味を持ち、無意識のうちに進路として選択したのかもしれない。
 支援者自身の個人史・家族史に含まれた肯定的・否定的な愛着体験に気づくためには、理論の習得では果たせず、体験学習、つまりスーパーヴィジョンやグループワークなどの臨床的トレーニングが有効である。精神分析では教育分析、家族療法の分野ではSelf of the Therapist Trainingなどと呼ばれる。信頼できる指導者や仲間との交流の中で自己を開示し、承認を得る。その体験により、支援者の心の水を増やすことができる。
 実際の支援現場には心の傷が修復されず、安心の水が少ない支援者はよく見かける。彼らは、クライエントの心の不足状態を共感的に理解できる。クライエントもまた、支援者の少ない水を敏感に察知し、自己を支援者に投影する。そのような共感性で結びつくことはできるが、支援者はクライエントに水を分け与えることが出来ない。つまり、支援関係を樹立することはできてもなかなか回復に至らず、長期化すると依存関係に転じることもままならない。
 また、逆に、心の水がたっぷり満ちている(安定した愛着関係を保持した)支援者がもしいるとしたら、水の不足状態を体験的にイメージすることは困難だろう。
 一番良いのは、ライフサイクルの中で水が底をついた苦しみを否認せず向き合い、そこから、信頼し親密な他者との関係によって愛着を回復する安心感を経験した支援者である。クライエントの不安を自身の体験を参照して共感でき、またそこから回復するプロセスをイメージできる。
 実は、これは私自身の体験であり、目指しているイメージでもある。

2018年9月12日水曜日

取材記事と癒しのオーラ

先日、「セラピスト」というヒーリング系の雑誌のインタビューを受けました。
私はこの雑誌のことは全く知らなかったのですが、今月号は「家族療法」の特集ということです。

私の行っている家族療法について記者さんから取材を受け、
「夫婦」男女の違いを乗り越え、家族の土台をパートナーと築いていきましょう。
という趣旨で記事をまとめてくれました。

こちらの方は、雑誌を買わないと読めないのですが雑誌に載せきれなかった余談をウェブ上にまとめてくれました。
父親が家族に関わるコツとして
父親は、心の鎧を外して、家族に弱みを見せましょう
という趣旨の記事です。こちらは、ウェブ上で読むことが出来ます。

さらに余談なのですが、記者さんからのメールに次のように書いてありました。

取材時に田村先生の癒しのオーラの感じをまだ覚えています。

癒しのオーラって何なのでしょうか?
こんな風に言われたのは初めてなのですが、言われてみれば自分自身でもそうなんだろうなぁと感じる気持ちはよくわかります。
この記者さんは、前もって私の著書を読んでくれました。
とても感動したというので、どの部分がヒットしたか尋ねました。
自分自身のことを書いたあとがきの中で
「妻を亡くした後、世界観が変わり、私の住む世界が小さくなりました。」
という部分だそうです。さすが編集者。ピンポイントで指摘してくれます。

「癒しのオーラ」って、感覚的なもの、主観的なものだから、言葉(理屈)で説明しようとしてもあまり意味がないのですが、あえて試みるとこんな感じかなと思います。

1)感性の深い部分で繋がる安心感。
そのためにはお互いの感性を見せ合います。私は記者さんの感性は見えてないので何のオーラも感じませんでしたが、記者さんは私の深い感性を知ってくれていました。

2)向き合った時に受けるイメージ。
言葉からもイメージは伝えられますが、それ以上に大切なのがnon-verbal communicationでしょう。表情、視線、姿勢、緊張状態、身のこなし、息遣い、発する言葉のトーンなどです。これらによって、我々は意図せずして、その時の感情状態を相手に伝えています。その時に、自分がどれほど安心した心(癒された心)でいるか。あるいは緊張や不安など(癒されていない)心でいるか。そういうのを、我々は無意識のうちに読み取っているのでしょう。

2018年9月11日火曜日

自分の弱さを受け入れる

人はだれでも、弱さと、強さの両方を持ち合わせています。

そんなこと、言われなくても自明のことです。
それをしっかり認識することが、家族や社会の人と関わる上でとても大切なことです。

しかし、私がそのことに本当に気づき、自分の弱さを受け入れることが出来るようになったのは、40歳を過ぎ、子どもたちが生まれ、私自身が父親になってから経験したある出来事が契機になっています。

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有能なセラピストになるためには、二種類のトレーニングが必要です。
1)理性のトレーニング
「心」をどう理解するか。
心が行き詰まるとどういうことがおきるか。
その背後にあるメカニズムは。
それをどう支援して解決に導けるのか。
これらを理性的・客観的に学びます。本を読んだり、講演や授業を聞いて、知識として習得します。

2)感性のトレーニング
人の「心」とはどういう体験なのか。
気持ち(苦しみ、悩み、悲しみ、不安、喜び、などなど、、、)は、その人自身の主観的な体験です。口で説明しようとしても説明しきれません。でも、セラピストはクライエントの気持ちを把握しなくてはなりません。クライエントの主観的体験に迫るのは、セラピスト自身の主観的体験を用いるしかありません。セラピストが一人の人間として経験してきた気持ち(苦しみ、悩み、悲しみ、不安、喜び、などなど、、、)に照らし合わせ、他者の気持ちを疑似体験するしかありません。
そのために、自分自身の「心」を体験します。普段は、感性に注目することなく、淡々と日常生活をこなします。理性を動かさなければ、勉強も仕事も家事もできません。喜怒哀楽を表出していたら、やるべきこともストップしてしまいます。
しかし、セラピストの場合、仕事の内容として感性を扱うので、感性を自由に出し入れできるようにします。ちょうど役者さんたちが泣く場面で自由に涙を流せるように。

私が精神科医になりたての20代・30代の頃、そのような研修やトレーニングに参加しました。エンカウンター・グループや、サイコドラマなどです。しかし、私はまだ若すぎて、自分の感情を扱うことが出来ませんでした。
 そのような集まりには多くの女性たちが参加します。彼女たちは、自分の気持ちを表現し、涙をよく流します。当時の私は、それは弱さのサインと捉えていました。
私は、自分の強さ・有能さを身に着けることに必死で、弱さに目を向けることができませんでした。とくに男性たちは「涙を見せてはいけない。辛さを食いしばって、、、」と教え込まれてきました。弱さを鎧の下に隠し、身を守るためより高性能な鎧(体力、学力、経済力、精神力、、、)を身に着けようとしていました。
 だから、研修で泣く女性たちを見て、カウンセラーは自分の心に問題があるから心理学に興味を持つんだ、自分の問題を解決したくてカウンセラーになったんだ。
私は、アメリカの肯定的なイメージに惹かれて精神科医になったんだ。弱さはない、強さで勝負するんだ、、、
くらいに思っていました。

 その視点を転換させてくれたのはイタリアの家族療法家Maurizio Andolfiです。
 私が40歳を過ぎ、子どもたちが生まれ、新米の父親をやっていたころ、ローマで家族療法家のためのSummer Practicumという集中トレーニングに参加しました。世界中から15名ほどのセラピストたちが集まり、2週間かけて、自分たちのケース、そして自分自身に向き合う、とても密度の濃い、感情を根底から揺さぶられる体験でした。私は「強さ」しか語れませんでした。
 最終日に、Maurizio自身が自分を語りました。当時、彼は元妻との離婚問題で苦しんでいました。そのことを語り、泣き崩れてしまいました。私はとても驚きました。彼は60歳を過ぎ世界的に有名なマスター・セラピストです。でも、彼の内面はこんなに脆かったんだ。その正体があばかれてしまった。残念、、、これで彼のキャリアも終わったのか、、、くらいに感じていました。
 ところが、その後のパーティーではいつもの快活で元気な彼に戻ってました。私はまた訳が分からなくなりました。ほんの2時間前の彼も、目の前の彼も、本当の姿なんだ、、、つまり、弱さを表出しても良いんだ。それが本来の人間性、本当の強さに繋がるんだということを目の前で体験しました。

 この体験を境にして、私は自分の感情を使えるようになったように感じています。イタリアから帰国し、2週間ぶりに幼い子どもたちに会った瞬間、なぜか涙が溢れてきました。子どもたちは急に泣き出すパパにびっくりして、私自身もなぜ感情が揺さぶられたのかわかりませんでした。
 その10年後に妻を突然失った時も、悲しみを隠さず、比較的容易にたくさん表出することが出来ました。それは悲しみを消化し、乗り越える喪の作業にとって、とても有利に働きました。

2018年9月10日月曜日

葛藤に向き合い、折り合う力

「ゼロか100か」という思考は、プライドが高く、完璧主義の人に見られます。
社会から撤退し、ひきこもっている人にもよく見られます。

それまで、自分の思い通りに、つまり100%でやってこれたことが、うまくいかなくなり、70%や60%に目減りします。
例えば、
  • 成績が低下したり、
  • 友達とうまくかなくなったり、
  • 先生から厳しく叱られたりします。
すると、自分は全否定されたように感じ、100が叶わないなら、ゼロにして全面撤退します。

このような考え方は問題視されますが、よく考えれば、誰でもその傾向は持っているものです。

私の主宰する「父親の会」では、お互いが父親・夫としての体験をシェアしあいます。
ある男性が次のようなお話しをしてくれました。
私は夫婦でよく向き合っています。口論になり、お互いに言い合っていると、これ以上言ってしまうと妻を全否定することになってしまうな、とふと気づくことがあります。もっと言うと大変なことになるので、そこからは妻の言葉を切り返すことは一切やめて、ひたすら妻の話を聞くようにしています。
この男性は、とても穏やかで、家族を愛し、配慮ある素敵な方です。
しかし、よく考えると、彼の中にも「ゼロか100か」思考を垣間見ることができます。
この話を伺い、子どものために親が出来る大切なことに気づきました。

妻を否定したくない。
というのは、一見妻に対する優しい配慮ですが、よく考えれば
妻から否定されたくない。
という夫自身の不安が投影されています。いわば、夫婦葛藤の全面撤退です。

夫婦が喧嘩をすれば、当然相手を傷つけます。
しかし、ご夫婦に信頼関係が多少とも成立していれば、どんなきつい言葉を投げかけたとしても「全否定」することはありえません。

ご夫婦で、安心して傷つけ合ってください。
人はそれぞれ個性を持ち、お互いが異なります。
男女であればなおさらでしょう。
お互いに真剣に向き合えば、当然意見は分かれます。それを相手に主張すれば、傷つけることになります。
傷つけることを怖がる必要はありません。
致命傷を与えてしまうことを心配してはいけません。心配したら、何も言えなくなってしまいます。

成長する若者たちは、傷つきを避けるために全面撤退するときがあります。
それがひきこもりの根本にある感覚です。

家族が、お互いを傷つけ合う姿を若者に見せてあげてください。
傷つき、100%が70%に目減りしても、自分は壊れない、家族は壊れない、大丈夫なんだという姿を若者に見せてあげてください。

そうすれば、若者は傷ついても立ち直ることができる ・修復できるんだという安心感を心に抱き、傷つくことを恐れなくなり、再び前に進めるようになります。

家族療法をやっている友人が、
「安心してガタガタ言い合える関係性」
が大切だと語っていました。
私も同じように感じます。

2018年8月19日日曜日

グループ・スーパーヴィジョン「夏合宿」

標高約1000m、真夏でも朝晩は肌寒い、爽やかな草津の高原で、二泊三日の合宿を行ってきました。

参加者は4名。医療、心理、福祉、教育など職種は異なっても、心の支援を行っているセラピスト(支援者)たちです。
普段、広尾のオフィスで行っているスーパーヴィジョンは、個人SVが1時間、グループSVが2時間ですが、「合宿」では3日間かけて計12時間の濃密なトレーニングを行います。毎夏行っており、今回が4回目(かな?)になります。
普段のSVでは、主にケース(クライエント)について語ります。
合宿では、より深いレベルのSVとなります。ケースというよりも、ケースを受け止める支援者自身の内面を語ります。

人は、否定的な体験と肯定的な体験を持っています。
否定的な体験とは、他者から否定される体験です。その結果、不安、恐れ、悲しみ、自信のなさ、自己否定、怒りなど、様々な否定的感情を持ちます。
肯定的な体験とは、その反対に、他者から肯定される体験です。褒められる、愛される、承認される、理解されるなどです。その結果、喜び、幸せ感、自己肯定、自尊心などの肯定的な感情を持ちます。

誰でも、肯定的・否定的、両者の体験を持ちます。
健康に生きていくためには肯定的体験が大切です。否定的体験・感情は知力・腕力・地位・経済力などの鎧を作って、その下に隠します。自分自身でも見えないように否認します。

普通の人はそれで良いのだと思います。人生80年(最近は100年だそうですが)、それでなんとか健康で幸せな人生を終えることができます。
しかし、否定・肯定体験のバランスが崩れ、否定的な体験・感情が多すぎると、健康に生きることが困難になり、様々な問題を生じます。

その場合、なんとか肯定的な体験を増やさなければなりません。
心の支援者は、否定的体験を肯定的体験に変換します。
そんなことできるのでしょうか?
過去の体験そのものを変えることはできません。
しかし、体験に与えられた意味づけを変換することは可能です。

否定的な体験が十分に表出され、他者により受け止められ、承認されると、否定的体験を生き抜いた自己が肯定されます。
その他者の役割を果たすのが心の支援者です。

しかし、その作業はとても困難です。
心理学や精神医学を学べば、クライエントの心理や病理を理性的に(理屈で)理解することはできます。病名・障害名のラベルをつけ、そこから導き出される治療法やお薬を与えることができます。
しかし、本当に必要なことは、クライエントを感性的に共感することです。
相手を受容し、共感すること。
これは簡単なようで、とても困難です。
黙ってひたすら聴いて「ふんふん」と相槌を打てば、一見共感しているように見えますが、そんなものではありません。
そのやり方を理屈(勉強)で学ぶことが不可能です。
理性は学ぶことで会得できますが、
感性は体験することでしか会得できません。

夏合宿では、その体験が実現します。
否定的体験を語れば、辛く苦しい感情が表象に上がります。普段隠している感情が表に出てきて、不安や恐れ、悲しみ怒りなどに圧倒され、自分が崩壊する不安を感じます。その恐怖を体験し、それが他者によってそのまま受け止められ、共感された時の喜びや感動を味わいます。その感覚は言葉では表せません。
  • 自分が自分のままでいられる感覚
  • 今まで堅く守っていた部分の力が抜けて、楽になる、リラックスできる
  • 背伸びしなくても良い自分を受け入れられる
  • 自信を回復した
このような表現で合宿の体験は表されます。
しかし、体験していない人にとっては、何を言っているのか理解できないでしょう。

このような体験を経ると、支援者は自分の否定的体験・感情をセラピーに利用できるようになります。今まで隠されていたブロックが解除され、クライエントの体験を、自分の体験を参照できるようになります。
言葉では説明できない感性が相手に伝わり、受け止められ共感される安心感を、クライエントに自然に伝えることができるようになります。

今回も、参加者たちは、そのような体験を持ち帰りました。

2018年7月12日木曜日

ひきこもり脱出講座(18)参加者の感想

第18回ひきこもり脱出講座&交流会が終了しました。
6回参加された方々の感想をご紹介します。
みなさん、親としての自信を少しずつ回復されている様子がよく伝わってきます。
  • みなさんの日ごろ思っていること、感じていることを共有させていただき、自分と同じ思いをされているんだなぁとしみじみ思いました。
  • みなさんの家族に共通して、共感できるものがあり、悩みを持つ我が家にとって唯一の連帯を感じる時間でした。講座の日の夕食は夫婦で飲みながら「この部分はウチも同じだけど、この行動はちょっと違うね。」などと話をしています。
  • 毎回、新しい気づきと勇気を頂く場でした。恐れずに、子どもに対応していきたいと気持ちを新たにしました。
  • 6回の講座、ありがとうございました。守る愛だけじゃなく、放す愛のことを教えていただき感謝しています。思っていることを子どもに伝えたり、アドバイスすることも、「心の温度を上げて」感情的にならずにできるようになりました。
  • 考えすぎると、躊躇して、思っていることを口に出さないことが結構思い出されます。前に進むために、夫婦ふたりで、子どもに当たり前のように働きかけていこうと思います。
  • 娘がよく「ママにはいつも笑顔でいて欲しい。」と言っていたことを思い出しました。子どもが生まれる前からも、生まれてからはもっと辛くて、子どもに当たってしまっていた。それを後悔ばかりしていましたが、これまでのことに区切りをつけて、これからは前向きに子どもに接していこうと思います。
  • 子どもと腹を割って話すこと、言いたいことを言えること、親子の機能を回復することを目標に、一歩を踏み出せる勇気を持ちたいと思います。
  • 辛いと感じているその気持ちが、みな同じなのだ、共有しているのだということが腑に落ちました。心の内を家族で話し合う時間を持つ。これが大切ですね。うちはそれが出来ていなかったと思います。
  • 先生から、もっと子どもに働きかけて良いと言っていただき、これから実行してみようと思います。
  • ひきこもりの原因は何なのか?生まれつきなのか、脳に障害があるのかもしれないと思ってしまいます。→コメント1
  • 親の勉強会などでは、「暖かく見守る」「焦ってはいけない」という指導が優先されるので、今回参加させていただいて、親が怖さを乗り越えてどんどん働きかける大切さを勉強しました。いつもブレずにいることは困難ですが、自信を持って、働きかけられるようになりたいです。→コメント2
田村からのコメントを補足します。
1)ひきこもりの原因はどうでも良いのです。生まれつきかもしれません。生まれた後かもしれません。
でも、親はなぜ、そのように思ってしまうのでしょうか
?それは、親の責任逃れをしているにすぎません。もし、生まれつきで脳に障害があるのなら、親の役割を免責されるからです。
親のせいで、親が十分に役割を果たしていなかったから、子どもがこうなったという思考様式もやめましょう。よく子どもや周りの人たちは「親のせいでこうなった」と言います。親に責任を押し付けてきます。
それを真に受けてはいけません。一番大切なのは過去の経緯ではなく、これから親として何が出来るかということです。生まれつきか、生まれた後か、どちらでも、これから果たす役割は同じです。そこに真剣に向き合っていきましょう。

2)親は子どもをしっかりと自立へ導く責任があります。
 暖かく導くことが重要です。そのやり方を講座では徹底的に学びました。
みなさんがよく勘違いするのは、「暖かく見守る」「焦ってはいけない」という専門家の指導を、「何もしないでほっておく」と受け取ることです。これでは、ネグレクトです。
 しかし、親の不安や焦りを子どもに伝えてはいけません。それはマイナスの働きかけです。それを避けるために専門家は「暖かく、、、」「焦らずに、、、」と指摘します。
しかし、暖かく導くやり方がわからないと、なにもせずに見守ることになってしまいます。多くの専門家は、そのやり方を教えてくれません。だから、中途半端な指摘しかできません。私は、そこに焦点を合わせ、親が自然に暖かくなれるように支援しています。
 立ち止まっている子どもに「見守る」という大義のもとに何もしないのは、結局のところ、子どもに働きかけるのが怖い親の不安感を「働きかけない」という態度で伝えていることになります。
 まず、親としての自信を回復することが大切です。そうすれば、何も難しいことを考えなくても、自然に暖かく働きかけるようになります。
 しかし、そう簡単に自信は回復できません。そこをポイントに、私は相談や講座を進めています。

2018年6月11日月曜日

映画「万引き家族」

カンヌ映画祭で大賞をとった「万引き家族」をひとりで観に行きました。
涙腺爆発!
しかし、なぜ泣いたのか自分でもよくわかりませんでした。
半日経って振り返ると、多分、家族の本当の温かさに触れたからじゃないかなと思います。
でも、まだよくわからない。
もう一度、観に行きたいと思います。

私は、映画は趣味ではなく、話題作をたまに観に行く程度なので、映画の出来とかはよくわかりません。
映画から逆照射された、普段お会いする家族のことを考えていました。

みんな家族の温もりを求めているのだと思います。
家族はとても大切だから、お互いに求め合い、期待します。
それがうまく回れば、とても温かくなるのだけど、
うまく回らないと(機能しないと)、傷つけ合ってしまいます。
家族という執着や決まりや枠組みがあるから、家族は成り立つんだけど、同時に傷つけ合ってしまう。
みんな、
家族がいるおかげでとても幸せになり、
家族がいるおかげで、とても不幸にもなります。

むしろ、一から出直して作ったほうがやりやすいのかもしれません。
でもそれはありえない話。映画の世界の話です。残念ながら。

というようなことを、観た後で考えました。
もう一度観たら、もう少しマシな考えも出てくるかもしれません。

--------------
というわけで、2日後にもう一度観ました。
二度目は泣けませんでした。そのかわり、なぜ一度目に泣いたのかがわかりました。
描かれている家族の不遇な境遇とかそういうものではありません。
人と人が、家族が、本当に繋がった瞬間に感動したのだと思います。
でも、それってうまく繋がっている時は見えないものです。
それが引き剥がれそうになった時、悲しみと共に、根底にある温かさに触れることが出来ます。それは、私自身の、そして私がお会いする多くの家族の経験に裏打ちされています。

また、役者さんたちの演技にも感動しました。一番は、やはりカンヌ映画祭の審査員も指摘していた、尋問を受けた信代が涙を流すシーンです。
「溢れ出る涙を無造作に広げた指で拭う仕草、にらみつける目つきからは、ただならぬ悲しみや怒りがひしひしと伝わってくる。」

その怒り・悲しみの根底には、純粋な愛があるんですよ。

<これは、二度目に見た後のメモ書きです>
家族はホントは繋がりたい。
でも親子の血の繋がりとか、夫婦の期待とかが先行しちゃうと、かえってうまく繋がらなくなっちゃう。いっそ、そういうのが無い方が純粋に上手く繋がる。

期待が上手く成就しないと傷つく。ムカついて相手も傷つけてしまう。
きずが古くなり落ち着いてくれば、傷に触れ合って、弱さで繋がれる。それは人間的な深い繋がり。でも傷が深く生々しいと、触れられると痛くて拒絶してしまう。繋がることができなくて、バラバラになっちやう。
家族って、そういうものなんだ。

2018年6月2日土曜日

中国のひきこもり事情

先週末は、上海で「ひきこもり」のワークショップを3日間開催してきました。
40名ほどの参加者はカウンセラーなどの専門家が大半でしたが、何人かひきこもりの親(当事者)もいました。

中国へは、学会で何度も往復していますが、直接人々と触れ合い、教えるのは3月の武漢に続いて2回目です。

 武漢での初回は私にとってカルチャーショックでした。日本の聴衆はおとなしく、促しても質問・意見があまり出ません。中国ではその正反対。私の話をさえぎり、自分の問題を解決してほしいと質問の嵐でした。仕方がないので、当初の予定を変更して、私が講義をするのではなく、参加者が抱えている問題の公開コンサルテーションに切り替えました。事例を募っても、日本では躊躇してだれも手を上げないことが多いのですが、武漢では手を上げるどころか、指名する前に勝手に前に出てきてコンサルテーションの椅子に座ってしまいます。
 今回は2回目なので、そんな状況も予期しながら、なんとか参加者のニーズに応えられました。

我々が持つ中国のイメージは概ね否定的です。
声が大きく、車内でもどこでも平気でケイタイで話している、厚かましく割り込んできて、自分ばかりを主張して、礼儀をわきまえないといったイメージを私も抱いていました。
 中国で心理学関係の学会やワークショップを行うと、日本では考えられないくらい多くの人々が参加します。中国は人口が多いからなのか、心理学へのニーズが高いのだろうかなどと思いつつ、自由にものを言えない一党支配社会で、心の自由な開放を促す心理学やカウンセリングが成り立つのだろうかと、疑問を抱いていました。

今回、ナマの人々の声に実際に触れてみて、そのような疑問が払しょくされました。文化や社会に付与されたステレオタイプではなく、人間はどこでもそう変わるものではないと思いました。

日本に比べると、中国やほかのアジアの国々は、ひきこもりに対する専門家の理解や、社会の対応策も遅れています。「不登校・ひきこもり」の分野については、(残念ながら)日本が群を抜いて先進国です。中国社会ではカウンセラーやセラピストが少なく、不登校・ひきこもりを人間的に理解するすべがなく、医者に行くと「うつ病」と診断されて、強い薬を飲まされます。日本のように発達障害やアスペルガー障害(自閉症スペクトラム)といった概念も専門家や社会の中にまだ浸透していないようです。
 
日本と中国やほかのアジア文化で似ているのは次の点です。

  • 不登校・ひきこもりが多い。これらは世界中どこでも存在していますが、その頻度や数はアジア諸国が抜きん出ています。といっても、私が見聞きしているのは韓国、台湾、中国、香港、マレーシア、シンガポール、タイなどで、他の国は知りません。
  • 親の教育期待が高い。子どもに良い教育を願うのは、世界中の親に共通しています。日本では、私が子どもの頃の高度経済成長期には「教育ママ」が当たり前でした。しかし、バブル崩壊以降は教育ママの弊害も指摘されるようになり、あからさまな教育期待は影を潜めましたが、今でも日本の親の隠れた教育期待は高いと思います。中国では、あからさまに、明確に、教育期待が高く、子どもへプレッシャーをかけています。
似ていると同時に、日本と中国が大きく異なる点もあります。

  • コミュニケーション様式が違います。日本は遠慮の文化:出過ぎることは忌避されて、相手に迷惑をかけてはいけない、そのために相手に気を遣い、自己主張はあまりせず、相手を尊重して、自分は引っ込めた方が良いと考えます。中国ではその逆です。遠慮せず、自分を守り、主張して、どんどん前に出ていきます。
  • その違いが、親子関係にも反映しています。不登校など、子どもに問題が生じると、日本では初めの頃は「行きなさい!」と無理やり強制したり、怒ったり、親は主張しますが、効果がないことがわかると、親はひっこめ、腫れ物を扱うように子どもに遠慮して何も言えなくなります。
  • 武漢と上海で多くの不登校のケースを経験しましたが、「腫れ物扱い」のパターンは見られません。すべてのケースで親はしつこく子どもを怒り、強制して、その結果、子どもも親も疲弊していました。
中国の不登校を経験する前には、日本の「遠慮文化」が「腫れ物扱い」を生み、不登校・ひきこもりの回復を遅らせているという仮説を抱いていました。しかし、中国でも不登校が多いという事実から、この仮説は成り立たなくなりました。そこで、次の仮説を立てました。

不登校・ひきこもりの根底には、親子の愛着の強さがある。

 アジアでは、親子関係が一生続きます。
 それは、我々にとって当たり前なことですが、欧米ではそうではありません。もちろん、一生親子の縁は切れませんが、青年期のLeaving Home, Launching Childrenというライフサイクル以降は親子の愛着が弱まります。
 親子は一生、相互扶養の責任を負います。お互いに元気な時は自立して離れています。しかし、どちらかが元気でなくなり、助けを必要としたら、親子がその責任を負います。
 子ども時代、自立するまでは親が責任を持つのは万国共通です。
 思春期以降の子どもに対して、欧米では親は責任を取りません。子どもが精神的に未熟でも、家を追い出します。というか、家を出るのが当然なことで、親が子供の面倒を見ると言う発想・選択肢はありません(最近はそうも言えなくなりましたが)。社会で十分に機能しない若者はホームレスになります。ヤング・ホームレスは欧米に多く、アジアではほとんどいません。高齢者に対しても、子どもは心配してどうにかしようと立ち回りますが、子どもが親の介護の責任をとろうとはしません。社会がその責任を負います。
 日本やアジア諸国では、親子のどちらかが元気でなくなったら相互に責任を持ちます。思春期・青年期になっても社会で機能しない若者は、親が責任を負います。彼らの居場所は家の中(ひきこもり)であり、路頭でホームレスになりません。高齢者の社会的介護が発達してきたにもかかわらず、成長した子どもは年老いた親の責任を負うのが当然の親孝行(善行ではなく、人として当たり前のこと)と考えます。
 アジア諸国に共通した、生涯続く親子関係の強い愛着は美徳であり、優れたサポートシステムです。機能しない若者は家族に囲まれ安住の地を得て、ホームレスや犯罪、薬物依存、暴力などの少ない社会が実現されます。
 しかし、その分、成長した子どもを抱える家族は大きなストレスと不安を抱えます。その不安の対処方法が日本と中国で大きく異なることが分かりました。
 多くの日本の親子は、愛着が不安定になると回避行動をとります(fearful avoidance)。相手を傷つけ、自分が傷つくことを恐れ、気持ちを引っ込めて、距離をおきます。それが若者にとっての社会不安(不登校・ひきこもり)であり、親が子どもに遠慮して、腫れ物を扱うように子どもに何かを言うことを恐れ、何も言えなくなってしまいます。
 中国では、不安定な愛着の親子は相手にしがみつき、距離を縮め、葛藤状態になります(clinging)。気持ちを押し出して相手に関わり過ぎて、否定的な感情(怒り)の渦に巻き込まれます。中国の子どもたちの不登校は、社会不安というよりは、親のメッセージに対する反抗(resistance)という印象を持ちました。

 私は、今回を契機に、またワークショップやスーパーヴィジョンを求められており、これから中国やアジア諸国に出かける頻度が増えそうです。20世紀後半のアメリカの時代(Pax Americana)は終焉し、これからはアジアの時代です。大国である中国が経済的に発展し、北朝鮮問題が今後解決されれば、今後アジアの勢いは世界を凌駕するでしょう。
 中国とのスーパーヴィジョンはZoomでのオンラインも視野に含めています。世界がどんどん身近になっています。

2018年5月23日水曜日

五月病の傾向と対策

「五月病」とは、4月から新しい職場や学校に入り、あるいは転勤したり、学年が進みクラス替えがあり、5月に入っても新しい環境にうまく適応できません。そのために、やる気を失ったり、不眠・疲労感・食欲不振などの症状が出て、学校や職場に行きにくくなることです。
人は、始めの頃は心機一転がんばれるものです。4月中は報われなくても頑張れますが、5月の連休でしばらく学校や職場から離れ、連休明けに頑張ろうとしても、息切れしてしまいます。4月からスタートして5月に息切れするから「5月病」と呼ばれますが、これは5月に限ったことではなく、一年中いつでも起こり得ます。

医学的な病気ではなく俗語です。医学的な診断名としては「適応障害」になります。

生活環境の変化が原因ですが、そのまま長引くとうつ病や不登校、さらに長期化すると「ひきこもり」に発展することもあります。

上手く適応できない原因は、ストレスです。
新しい仕事や仲間が負担に感じることが直接のストレスですが、本人の内面を分析すると、自分はこうありたいという理想像と、そうはうまくいかないという現実像との乖離(ギャップ)がストレスとなります。
自分がこうありたいという理想像とは、たとえば、もっとがんばりたい、勉強や仕事の成果を出したい、周りの人に認められたい、友だちを作りたいといったことです。

「五月病」チェックリスト
次の項目で4つ以上当てはまる場合は「五月病」が疑われます。

  1. 何となくやる気が出ない
  2. 朝起きても気分が晴れない
  3. 学校(仕事)に行くのが億劫だ
  4. 食欲があまりない
  5. 自分はこのままで良いのだろうかと不安になる
  6. 眠ろうとしてもよく寝付けない
  7. まわりの人は、まだ私のことをわかっていない
  8. 眠りが浅く、夜中に目が覚めることがある
  9. 以前と比べて疲れやすくなった
  10. 自分は「ダメ人間」と思う
  11. 今の学級(職場)は自分に合っていないと思う
  12. 自分だけ取り残されている感じがする

家族用チェックリスト
家族から見て、次の4項目以上が当てはまると要注意です。

  1. 学校(職場)に行きはじめた頃より元気が落ちている
  2. 朝起きてくると機嫌が良くない
  3. 休みの日は寝ていたり、家にいて活動的でない
  4. 朝、出かけるのが辛そう
  5. 学校(職場)のことを尋ねても答えようとしない
  6. 家族との会話が減った。
  7. 学校・職場の人間関係がうまくいっていないようだ
  8. 食事で食べる量が減った
  9. 家でイライラして家族に当たることが増えた
  10. ゲームやお酒などに逃げている
  11. 表情が暗く、憂うつそうだ。
もし「五月病」かなと思ったら、次のことを試して下さい。

  • ストレスの発散に心がけましょう。人は生活の中で常にストレスを受けています。それを溜め込まず、放出しましょう。
  • そのために出来ることは、気分転換です。自分が好きなこと、楽しめることを積極的に行ってください。自分の気分転換のレパートリーを複数用意してください。それは人によって異なります。たとえば私の場合はスポーツ(身体を動かすこと)、好きな人とおしゃべりすること、カラオケで思いっきり歌うこと、お酒を飲むことなどです。
  • お酒、買い物、ギャンブルなどがレパートリーの人は、やり過ぎに注意しましょう。いずれも、節度を守った適量ならストレス発散に効果的ですが、やり過ぎると依存症になり、かえって悪化します。
  • 睡眠を十分に確保してください。寝付きにくい場合は、あなたに合った寝付く方法を試しましょう。
  • 困った状況や気持ちを人に打ち明けてみましょう。秘密を守り、信頼できる人に伝えるだけで、気持ちがとても楽になります。
  • 考え方を転換しましょう。
    • がんばり過ぎてはいけません。心に余裕を持ちましょう。
    • 焦らず、ゆっくり構えることが大切です。少し慣れ、まわりが見え始める1ヶ月後は、だれでも多かれ少なかれ困難を感じる時期です。その時期を通り越して、3ヶ月や半年たてば、必ず状況が変わってきます。あるいは人によっては1年、2年とかかるかもしれません。それくらいの時間的な余裕をもって、焦らず、臨みましょう。
    • マジメになりすぎてはいけません。良い意味での「いい加減」さが大切です。100%を達成しようとせず、7割か8割で十分と捉えましょう。
      • 会社の上司や、試験担当の先生が120%を求めてきても、無視しましょう。
    • 理想とプライド(自分への期待)を下げましょう。いつまでも理想を追い求めてはいけません。等身大の自己像を作っていきましょう。
これらのことは、五月病を未然に予防するためにも、すべての人に大切なことです。

次に、家族やまわりのひとが出来ることについて説明します。
  • 当事者に声をかけましょう。悩んだり、落ち込んでいる人には、声をなかなか掛けづらいものです。しかし、思い切って声をかけてあげると、たとえ答えられなくても安心するものです。
  • ただし、まわりの人(家族)も一緒になって悩んだり心配してはいけません。心に余裕を持って、当事者に接してあげて下さい。
  • 話をよく聞いて、置かれた状況やその気持ちを十分に理解してあげましょう。
  • アドバイス(解決策)や叱咤激励は不要です。解決策はその人自身が時間をかけて見出すものです。先回りして解決してあげようとしない方が良いです。そのままを冷静に受け止めてあげましょう。


2018年5月11日金曜日

マンガでわかる家族療法

私の学会仲間で、日本の家族療法の一人者、東(ひがし)豊さんが書いた本(マンガ)をご紹介します。

マンガでわかる家族療法 親子のカウンセリング編

私のオフィスの待合室にも置いてありますので、お時間があったらお読みください。

マンガなので読みやすく、家族療法の実際の様子やそのやり方が、分かりやすく描かれています。その冒頭の章は「不登校」の家族で、子どもとその両親との面接が描かれています。私の臨床体験とすごく共通しているので、私なりの目線で解説を加えたいと思います。

家族療法はマジックの治療法、とよく言われます。
今まで長い間学校に行かず、ひきこもっていた人が、信じられないように再び学校に行き始めます。
その訳は、他の流派(〇〇療法)では考えられない、ユニークでダイナミックなやり方をするからです。その様子を本の事例をもとに紹介しましょう。
このご両親は、スクールカウンセラーとお医者さんから、
「無理強いしてはいけません。本人の自主性を大切にしてそっと見守りましょう」と言われたことを3年間守り続けました。
これはとても大切な原則です。
特にひきこもり始めた初期は、学校に行きなさいと無理強いは禁物です。
なぜなら、親がマイナスの影響を与えてしまうからです。
それが功を奏して、2-3週間で学校に復帰する場合もよく見られます。
普通の(家族療法以外の)カウンセラーができるのはここまでです。

家族療法では、さらにもう一歩深めます。
ひきこもっている期間が1-2ヶ月を過ぎたら、親が積極的にプラスの影響を与えます。しかし、それは結構難しいものです。このマンガでは、その様子が見事に描かれています。
「母親と父親が協力して下さい。」
これも、とても大切です。
しかし、一般のカウンセラーは、どのようにしたら協力できるかまでは、具体的に教えてくれません。ここが、夫婦関係を専門に扱う家族療法の得意分野です。

実は、相談に来られるほとんどのご両親は、すでに十分協力しています。
少なくとも子どものために協力しようと、一生懸命努力しています。
しかし、それがうまくいかず、母親と父親の力が相殺してしまい、結果的に、子どもには何も伝わっていません。
両親は協力して、熱心に相談にやってくるのですが、残念ながら、夫婦の間に見えないシコリがあり、夫婦の力を削いでしまいます。
家族療法では、隠れたシコリを見つけ出し、うまく解除します。
すると、父親も母親も、のびのび自分らしく家族に関わることができるようになり、結果的に、子どもは元気を回復します。
マンガに描かれた両親は、苦悩する子どもに大きなプラスの力を与えています。
専門用語でエンパワーメントと言います。
しかし、家族心理を十分理解していない通常のカウンセラーや、当事者たちにとって、それが「プラスの力」であるとは思いもよりません。むしろ、マイナスになるから、そんなことはしてはいけませんと言うでしょう。
ここがとてもダイナミックな視点です。
子どもに問題が起きると、家族は自信を失くし、持っているはずのパワーを隠してしまいます。
家族療法は、子どもの力を信じ、両親の力を信じて、家族の潜在的なパワーを復活させます。その結果、子どもの問題が見事に解決します。

これ以上本の内容を書くと、ネタバレになりますので、あとはどうぞ本を手に取ってお読みください。

2018年5月10日木曜日

「怖くて言えません」拒否される恐怖

1) 一郎さんは、息子の太郎くんと話をしたいと思っています。
「なぜ、止まっているんだ?」
「今のままではいけない。前に進んでごらん?」
しかし、どうしても言えません
はじめて太郎が学校を休んだ時、無理に引っ張って学校に行かせました。失敗しました。
2回目に行かなくなった時、太郎に話しかけたら拒否されて、自分の部屋に行ってしまいました。
今回も、太郎に話しかけたら、また拒否されるのではないだろうか。
そう思うと、とても怖くて言えません
心がフリーズしてしまいます。

2) 二郎課長は、部下の太郎に言わなくてはなりません。
「そのやり方ではよくない。こうやりなさい。」
しかし、どうしても言えません。
以前、太郎に指示したら、「はい」と返事だけは良いのですが、無視して直そうとしません。
太郎を叱りました。
頭にきていたので、きつく叱りすぎてしまいました。
以来、太郎は私のことを嫌っているようです。
また太郎に伝えたら、また無視されるのではないだろうか。
そう思うと、とても怖くて言えません

3) 春ちゃんは、親友の夏ちゃんと一緒にお昼のお弁当を食べようとしたら、夏ちゃんは別の子と一緒に食べ始めました。
春ちゃんは、夏ちゃんに無視されました。
夏ちゃんは私のことを嫌いになったんだ。
もう夏ちゃんにはお弁当いっしょに食べようと、怖くて言えません
学校なんか行きたくありません。
  • 自分にとって大切な人にNoと言われるんじゃないだろうか?
  • 拒否されるのではないだろうか?
そう思うと、何も言えなくなってしまいます。
メッセージを伝えることがとても怖くなります。
拒否された経験が、相手と関係性する自信を失います。
また拒否されることが怖くて、相手に向き合えなくなります。
言いたいことを言えなくなります。
その結果、コミュニケーションが途絶えてしまいます。
言うべきことを言えていないことは、相手も十分にわかっているものです。
「ああ、怖がって言えないんだな。」
何も伝えられないという事実が、自分の不安な気持ちを相手に伝えてしまうことになります。そして、相手も不安にさせてしまいます。
あるいは、不安が高じて突っ込みすぎてしまいます。怒りや攻撃性となり、相手を傷つけます。
それも、怒りの根底にある不安感を相手に伝えていることになります。

4) 20代の四郎さんは、親友の毅さんに思い切って相談しました。
もう一度、花子さんをデートに誘いたいんだけど、どうしよう、怖くて言えないんだ、、
多分、花子さんも僕のことを気に入ってくれているのは、普段のそぶりでわかる。
でも、怖いんだ。
一回目のデートはうまくいったんだけど、二回目誘ったら、その週末は用事があるからと断られてしまった。
一回目のデートで僕に幻滅したんじゃないだろうか?
そう思うと、どうしても言えないんだ
いっそ、花子さんのことを諦めようかとも思ったけど、それもできない。
僕の中で、花子さんへの愛着は切れないんだ。

親友の毅さんは、四郎さんに言いました。
怖さを乗り越え、自信を持って、相手に伝えてごらん!
花子さんは、「ちょっと待って。今はダメ。」
というかもしれない。
他の用事があるからか。
あるいは、まだ気持ちの準備ができていないのかもしれないよ。
新しい世界に飛び込むのは不安でしょう。迷っているのかもしれない。
安心を与えてあげなさい。
四郎が、本当に花子さんのことを思っているのなら、その気持ちを伝えてごらん。
真意は伝わるものです、、、そのことを信じましょう。

しかし、同時に関係性を切る選択肢もあります。
もし花子さんのNOが明確なのであれば、彼女を諦める勇気が必要です。
自分のYESと、相手のNOと、両者を尊重します。
相手のNOを無視して自分のYESを強要すると、ストーカーになります。
相手にダメージを与えてはいけません。傷つけてはいけない。

3)春ちゃん、親密な相手に拒否られることは、とても怖いですね。
もうそんな体験したくないでしょう。
学校に行かなければ、さらに傷つくことから自分を守ることが出来ます。
でも、夏ちゃんはホントに春ちゃんのことを嫌いになったのかな?
学校に行かないと、それを確かめるチャンスも失ってしまうよ。

2)二郎課長は、配置転換がない限り、部下との関係性を継続しなければなりません。
恐怖を惹起する関係性を無理して継続すると、病気になってしまいます。
その恐怖心をどうにか小さくしなければなりません。
思い切って、部下の太郎と直によく話し合ってみてはどうでしょう。
あるいは、部長に相談してみては。
どうにか恐怖心を減らす工夫が必要です。

1)一郎さんは、息子に言わなくてはなりません。
太郎くんは、人と関わることを怖がっています
お父さんも、息子と関わることを怖がっています
一郎さんは、そうやって「人と関わる=怖さ」を息子に伝えています。
父親は、人と関わる安心と喜びを息子に与えて下さい。
そのためには、まず、一郎さん自身がそれを経験しなくてはなりません。
フリーズしている状態では、いくら「そうしなければならない」と理屈でわかっても、できません。
太郎君との交流を再開するために、まずお父さんのフリーズを解凍します。
その方法はふたつあります。

A)フリーズの由来を突き止めます。
息子に無理に働きかけて失敗した体験があります。
しかし、それだけではないでしょう。
息子との関係性以外の、過去の親密な関係性がフリーズしている場合がよくあります。それを突き止めます。
それを意識の俎上に挙げることで、昔のフリーズと、今のフリーズを分離します。昔のフリーズが、今のフリーズに影響しなくなります。
それが十分できていないと、無意識下で、昔と今のフリーズが連結して、昔の怖さがそのまま息子に向かう怖さに投影してしまいます。

B)一郎さんの、今の心を温めましょう。
親密な関係性の中で、支えられる暖かさ、共感してくれる暖かさを得て下さい。
そのためには、大切な人(家族や友人)の協力が必要です。
特に、一郎さんの場合は、妻との関係性、ご自身の父親との関係性が大切です。そこを温めましょう。

太郎くんは、内心、前に進みたいと思っています。前に進まないといけないことはちゃんとわかっています。
でも、怖くて進めません。
進むか、進まないか、迷っています。
お父さんが働きかけたからと言って、すぐに「はい」とは言えないでしょう。
今、お父さんの勧めを聞き入れられず拒否しても、お父さんには諦めて欲しくない、また働きかけてきてほしいと心の底では願っています。
もう一度働きかけてくれたら、今度は「はい」と言おうかな、と思っているかもしれません。迷っている時はそういうものでしょう。

自信を持ってごらん。
気持ちは必ず通じるものです。
逆に言えば、それくらい努力しないと、望みは成就できないんだよ。
迷うのはわかる。
怖いのもわかる。
でも、そこを突っ込まないと、相手だって、突っ込めません。

心が恐怖に占領されている時は、何をやってもうまくいきません。
いくら努力しても、(a)突っ込みすぎるか、(b)突っ込めずに離れすぎてしまうかのどちらかになってしまいます。
まず、恐怖を取り除くことです。
心に余裕を持たせます。車のハンドルの「あそび」と同じです。
ショックを柔らかく吸収してくれる「遊び心」です。
楽観的な(希望的な)見通しも必要です。
もしかしたら、うまくいくかもしれない。。。
そんなプラスのイメージが少しでも生まれれば、心がリラックスできます。

現状を打破して、新しい世界に飛び込むためには、
「大丈夫だよ。そんなに心配しないでやってみよう。」
と言ってくれる人の存在が必要です。
確固として見守ってくれる他者が身近にいれば、思い切って勇気を出して、前に進むことができます。

お父さんは太郎くんをしっかり見守ってください。
私は、お父さんを見守ります。

2018年5月1日火曜日

「父親の会」の様子をご紹介します

先日行われた「父親の会」の様子を報告します。

参加者は7名でした。そのうちご夫婦でいらっしゃった方が2組いらっしゃいました。
前半は、私の方から「家族の温度(愛着)」についてお話ししました。
後半は、参加者の皆さんから質問をお受けしたり、お話ししたいことを自由に語り合いました。ふだんは語る機会の少ない、男の本音をみなさん語りました。
その一例を紹介します。

あるお父さんから「自分は父親としてうまく子どもに関わることが出来ない。
と話されました。
本音を言えば、子どもがあまり好きでない。
子どもにどう話しかければよいのかわからない。
父親としての自信がない
というお話をしてくれました。

すると、別のお父さんがとてもホッとした表情で、
それは、私も全く同じなんです。」
と話されました。
家族のために一生懸命子どもに関わったり、妻にも協力しようと努力しているのに、妻からはいつも、あなたはダメだと責められます。父親としての自信がないというのは全く同じで、私のほかにもそういうお父さんがいるということを知れたのが、今日、この会に参加した一番の収穫です、と話してくれました。

これは、とても良いやり取りでした。
「自信がない」と言えるのは、男性たちが、鎧を脱ぐことが出来た瞬間です。
どの人たちも、家族とても真剣に考え、努力しています。父親としての自信を持ちたいと願っています。
しかし、うまくいきません。弱さもあります。その弱さを家族の前では隠さねばなりません。男たちは、弱音を吐いてはいけないと言われてきました。それはとてもしんどいことです。
そのような、男性たちの本音を、参加した女性たちも交えて共有できました。
参加していた私としても、とてもホッとできる会でした。

o o o O O O o o o

父親の会は、月に2回ほど不定期に開催されます。
詳しくは、ウェブサイトのカレンダーをご覧ください。

週末(土日)、もしくはウイークデーの夜に開催しています。
毎回、2時間です。
また、

【男性のみ】の会と、
【女性もOK】の会を設けました。
その意図についてご説明します。

始めは男性のみが参加する会だけにしようと思いました。
その方が、男性のより深い本音に迫ることが出来ます。男性どうして、お互いを支え合うことが出来ます。妻やほかの女性の前では話しにくいこと、たとえば妻について、男性のセクシュアリティについて自由に語ります。本当は、そのようなことを夫婦間で話し合うべきなのかもしれません。しかし、なかなか話しにくいものです。男性同士でまず練習して、勇気を持ち帰り、夫婦で向き合うことが出来ます。

しかし、男性たちは気持ちについて語ることがとても苦手で、恐れています。
理屈(理性)を語ることは慣れています。問題なく語れます。
しかし、すじみちの通らない、同じことの繰り返し、感性を語ることができません。
社会(企業や公的な世界)は理性で成り立っています。
家族はお互いの愛情(感性)で成り立っています。
そのことは、理屈ではわかりますが、実際には家族のことを話したり、気持ちを話すことを避けようとします。
多くの男性は自らそのような場に出ようとしません。
まず、夫婦で参加して、妻が夫を連れてきてほしいと思います。
こちらに来てくれれば、ホッとする、良い体験を間違いなく得ることが出来ます。

あるいは、女性だけに「父親の会」に来てもらって、家族に関わろうとしない、このような場に来ようとしない男性をどう理解したらよいのか、どうやったらもっと関わってもらえるようになるのかということを見出します。

そのような意図から、男女共に参加できる「父親の会」を設定しました。

2018年4月25日水曜日

親の役割は子どもを心配することです

親は子どもの無事を、心から願います。
子どもの安全を守るために、アンテナを張り巡らせます。
子どもに何か異変が起きたら、いち早くキャッチして、先回りして、子どもを守ります。
「先回りして心配してはいけない」とよく言われますが、子どもが弱い(自分の力で自分を守れない)うちは先回りしなければなりません。

子どもが成長したら、親は子どもの底力を見出すことができます。
親がカバーしなくても、自分の力で出来る姿が見えてきたら、親は心配のまなざしを緩めます。
子どもに任せて、チャレンジさせます。
成功するかもしれないし、失敗するかもしれません。しかし、親はすぐにカバーしようとせず、子どもの底力を信じて、安心して見守ります。

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あるお母さんが、娘のことで相談にやってきました。
相談したいことはもうひとつ。母親自身の気持ちがうまくコントロールできないことです。

このお母さんは、自分自身が生きる不安を抱えていました。子ども時代の辛かった体験が未解決のまま、今に至るまで持ち越されてきました。そのこともカウンセリングでよく話してくれます。
私が話を伺っていると、娘に対する不安と、母親自身が抱えてきた不安が連関していることがよく見えます。自分の不安で心が霞み、娘の成長した底力を見落としてしまいます。
しかし、本人にとって、このふたつの出来事は全く別もので、関連付けることはしません。

カウンセリングを進める中で、お母さんは不安を、安心してよく語ってくれました。
私からこうお伝えしました。

そう。母親は心配するものですよ。それが母親の役割ですから当然です。

彼女は徐々に自分の心に気づき始めました。

私が娘を構ってしまうのは、他のお母さんたちがやっている姿を見て、自分もやらなくちゃと焦ってしまうんです。母親として、自信がないんです。そのことに気づきました。

母親の心配を十分に語る中で、母親自身の縮こまっていた気持ちが、だんだんと伸びてきました。

そういえば、娘が言っていたことを思い出しました。
娘)もう私の面倒をみてくれなくていいから!
母)お母さんは何のためにいるの!?
娘)お母さんの存在理由を私にしないでくれる!

娘さんは、とても聡明で、よくわかっているようです。
母親にもよく言えました。

際限なく心配されたら迷惑なのよ。自立できないし。
親は自分自身の生きる不安を、一番愛する人に投影しているに過ぎません。

娘は何年か前につまづきました。
母親は心配してカバーしました。その不安が娘に伝わり、娘もますます不安になり、前に進めなくなったようです。

カウンセリングの部屋の窓の外で、カラスが電線から飛び立ちました。
母親はふと思いました。

もしかしたら、娘は私が思っている以上に、自分をちゃんと持っているのかもしれない。
どうしても、娘が可愛そうという気持ちが先に立っていたんです。
ここまで話してみて、とても気持ちが楽になりました。

それは良かったです。
どうぞ、気持ちを楽にしてください。
母親と娘の気持ちの連結を外しても大丈夫ですよ。
と私から伝えました。

親が安心すれば、子どもも安心して、再び前に歩み始めます。

2018年4月14日土曜日

「お母さん病」からの解放

中学生の娘を怒り過ぎて、ダメにしてしまいそうです。助けて下さい。

という主訴で、あるお母さん(A子さん)が相談にやってきました。

娘は、幼いころから個性の強い子でした。
何をやるにも遅くて、服は脱ぎっぱなしで片づけられません
一年中、自分の気に入ったひとつの服だけを着て、とてもこだわりの強い子でした。
小学校に入っても心配で、先生から呼び出されて、遠回しに「療育が必要」と言われた気がしました。
ネットやたくさんの本を読んで、「発達障害」のことを調べました。
しかし、夫は、娘は病気ではないと言い張り、障害があることを受け入れてくれません。
夫婦で1時間くらい話し合っても、夫はしまいに怒り出してしまいます。私の心配を理解しようとしてくれません。

A子さんはとても真面目な性格で、何事にも諦めず熱心に取り組んできました。
学校では優秀な成績を収め、自分の仕事に誇りを持っていました。
結婚した後もしばらく仕事を続けていましたが、妊娠を機に思い切って退職し、母親業に専念しました。
地域の子育て支援センターでペアレントトレーニング(親業)の訓練も受けました。夫にも受けるよう勧めても、必要ないからと拒否されました。

娘が中学2年生になってから、ほぼ毎日、私は娘と喧嘩してしまいます。私は大声で怒鳴ってしまい、夫はそれに耐えられずに逃げるんです。
娘もイライラしてしまいます。それが、学校でも出て、担任の先生に当たり、先生から三者面談の時に、別室に呼ばれて注意されました。
今は、言いすぎると、余計反応すると思って、言わないように我慢しています。

私はA子さんに尋ねました。
我慢していらっしゃるんですか?
それじゃあ、苦しいでしょう?

このままでは、二十歳になっても身の回りの始末をできないと思うと、頭の中が真っ白になります。

娘さんは今14歳ですから、二十歳になるまでまだ7年ありますね。どうして二十歳になっても身の回りの始末をできないとわかるのですか?

娘を普段見ていると、親から離れるとかしないかぎり、ずっと自分で自分のことはできないと思ってしまうのです。
心配性の私と引っ張り合いをしてしまうんです。

お母さんの中には「心配性の私」がいるんですか?

子どもが出来ないから、母親である私がしてあげないといけないと思うんです。
お母さんという病気」なんです。

A子さんは自分の気持ちを丁寧に語っていくうちに、心配し過ぎで自分自身を苦しめていたことに気づきました。
私から、こう伝えました。

娘さんは、発達障害ではありませんね。

すると、母親の表情はぱっと明るくなりました。
A子さんは、専門家に診断してもらったことはありません。A子さんの中で、そう思い込んでいました。

A子さんは、与えられた役割をきちんとこなしてきました。学校でも、会社でも、そして母親になってからも。
親の大切な役割のひとつが、心配することです。子どもに危険が迫る可能性をいち早くキャッチして、子どもを守ります。

A子さんの言葉を振り返ってみましょう。
A子さんは子育てをきちんと完璧にこなそうとがんばっていました。
そのため心配をキャッチするアンテナの感度が高すぎたようです。
子どもの個性が強いのはとても良いことです。しかし、A子さんにとって、それは他の子どもたちと同じでないといけない、協調できなければいけない、ひとりだけ目立ってはいけないと感じてしまったのでしょう。

子どもは、何をやるにも遅いです。
服を脱ぎっぱなしにして片づけられないのが子どもです。
自分の気に入った服は毎日着たいものでしょう。
それらを正常の範囲内にとるか、「病気」あるいは「発達のかたより」ととるかは、親のアンテナの強さによって、どちらでも可能です。

夫が「子どもに問題ない」と見立てても、心配のアンテナが強すぎるA子さんは聞き入れません。心配が肥大してしまうと、からまわり状態になり、周りの人が何を言っても受け付けられず、跳ね返してしまいます。

先生から言われたかもしれない遠回しの「療育」という言葉を敏感にキャッチして、ネットや本で調べれば、発達障害の症状が自分の子どもにも当てはまると受け取ってしまいます。

そのような心配に満ちた環境で育った子どもは、自分自身も心配するクセを身に着け、アンテナの感度が敏感になり、まわりの刺激に過剰に反応します。
それでも幼い頃は、母親に従順に従っていた娘も、思春期になり発言力が増すと、母親と娘の火花がスパークして、お互いの怒りがエスカレートしてしまいます。
怒り過ぎて、そのことさえ「子どもをダメにしてしまう。」と心配して、疲れ果て、A子さんは相談にやってきました。

A子さんに必要なことは、7年先の二十歳まで先回りして心配するアンテナを下ろすことです。そのためには、「心配」を打ち消す「安心」が必要です。
私は、「娘さんは病気ではありませんよ。」と伝え、安心を与えました。

お母さんが心配から解放されると、今までの自分や子どものことを客観的に振り返ることが出来るようになります。A子さんは感極まって、さめざめと泣きました。

そうなんです、今までは娘の悪い部分ばかり目が行っていました。
よく考えてみれば、うちの子は良い部分もあるのです。私に気を遣い、率先してお手伝いをしてくれます。私に優しいんです。

と初めて娘のプラス面を語ってくれました。
心配が先行すると、マイナス面をキャッチして怒ります。
安心が生まれると、プラス面に目を向けることができるようになります。

娘さんも、母親のA子さんも病気ではありません。
娘さんは発達障害ではないし、A子さんは「心配性」ではありません。
ただ、A子さんのアンテナの感度が良すぎて、心配が増幅されてしまっただけです。
子育てには心配と安心の両者のバランスが大切です。
孤軍奮闘していると、どうしても心配ばかりに心が傾いてしまいます。
信頼できる他者との関わりが、孤立した子育てを解放し、心配と安心のバランスを取り戻すことができます。

2018年4月13日金曜日

不安を乗り越えるには、経験と安心が必要

私のニュージーランド旅行とスキーのお話しをします。

先日、休暇で初めてニュージーランドに行きました。
レンタカーを借りて、観光地を周りました。
海外でのドライブは何度か経験しているのですが、ニュージーランドは車のスピードが速く、怖かったです。

NZには「高速道路(ハイウエイ)」がありません。
というか、日本でいう一般道路が「高速道路」なのです。
人口密度が日本の20分の1のNZでは、小さな集落が点在し、集落と集落の間は何キロ、十キロも離れていて、原野のみ。何もありません。北海道のスケールをさらに大きくしたイメージです。
道路の標識は整備されています。
集落に近づくと、80キロ、50キロといった標識があり、制限速度が低くなります。
しかし、集落を抜けると、100キロの標識があります。

私は日本の高速道路を100キロで飛ばすのは慣れていて心配ありませんが、一般道路を100キロで飛ばしたことはありません。
ほかの車がみな100キロで走っているので、私もスピードを上げようとしますが、とても怖くなります。せいぜい80キロくらいにセーブして走っていると車が後ろから迫ってくるので、何度も徐行して先に行かせました。
私も100キロにスピードを上げようとすると、怖さから緊張して身体がこわばり、どうしてもできません。無理にアクセルを踏むと、辛くなります。

なぜこんなに怖いのでしょう?
自分自身でもよくわかりません。
日本の高速道路では平気で出しているはずの100キロが、NZの道路ではどうしても出せません。
日本の一般道路で100キロなんて、とても危なくて出せません。その体験が身体に染みついて抜けないからでしょうか。

NZの道路はよく整備されています。100キロで走行できるように設計されているし、見通しも良く、原野を貫く道路には人も障害物も何もありません。理屈では日本とは違って安全なのだとは理解しても、身体のこわばりはどうしようもありません。

しかし、経験を積むうちに、だいぶ慣れました。
NZには1週間滞在したのですが、後半になると不安が和らぎ、自然に100キロを出せるようになりました。

〜〜〜
私の趣味はスキーです。
冬になると、顔が黒くなるので、お気づきの方も多いと思います。
子どもの頃からずっと続けており、ゲレンデでは面白くなくなり、
3年ほど前からバックカントリー・スキーを始めました。

バックカントリー・スキーとは、リフトがかかり、コースが整備されたゲレンデを抜け出し、自然に満ちた山の中を滑ります。
よくクロスカントリー・スキーと混同されるのですが、
クロスカントリー・スキーは平らな土地を細いスキーで走る北欧起源(ノルディック)のスポーツです。冬季オリンピックでお馴染みです。
バックカントリー・スキーはアルプス地方(アルペン)が起源で、急斜面を滑ります。新雪(パウダー)も滑るので、浮力を持たせるために幅の太いスキーで走ります。オリンピック競技にはありません。時々、遭難のニュースでメディアに出ます。

誰もいない山に分け入っていくのでとても危険です。雪崩に遭ったり、滑落したり、道に迷って遭難します。整備されていない急斜面を滑るには高度の技術が必要です。ひとりでは行かず、プロのガイドさんと一緒に行きます。遭難する人は山の怖さを知らず、ガイドを付けずに行ってます。
リフトもゴンドラもないので、スキー板の裏にシールという登攀具をつけて山を2-3時間かけて登り、10分で滑り降りるといったことを繰り返します。登るときは辛いのですが、誰もいない大斜面を自由に滑る解放感はゲレンデでは得られません。

時間をかけてドロップ・ポイントまで登りきり、シールを外して、さあ滑ろうという瞬間はとても怖いです。斜面は急でちゃんと滑れるのか不安になります。バンジージャンプの経験はありませんが、プールに飛び込む時の心境に似て、とてもドキドキします。
さあ、滑ろう! 左から2番目が私です。

しかし、いつまでも躊躇しているわけにもいかず、ガイドさんに促され、思い切って飛び込みます。滑り出したら怖いなんて言ってられません。必死に滑ります。うまく滑れる時もあるし、スピードが出過ぎて転ぶこともあります。
不思議なもので、「スピードが出過ぎてコントロールできなくなる。怖い!」と心の中で思った瞬間に転びます。その時は、雪まみれになりますが、怪我はしません。心が未然に危機を回避しているのでしょう。
上手く滑れず転べば落胆し、自己嫌悪に陥り、
転ばずなんとか滑り切れば、達成した爽快気分になります。

そんなことを3年ほど経験し、先日、以前に登った同じドロップ・ポイントに行きました。
あれ、ここは前に来た同じ場所だっけ?
前回は急斜面だったのですが、今回はそれほど急ではありません。
急斜面か否かという判断は、私自身の主観です。経験値によって、感じ方がかなり違います。
ここなら難なく滑れるだろうと予測するとドキドキすることも緊張することもなく、身体の力を抜き、楽に滑り降りました。

-------------
私にとって、NZの運転も、バックカントリー・スキーも不安を伴うチャレンジです。
若者が自立し、大人になることは、さまざまな不安を伴うチャレンジです。いままで周りの人がやってくれていたことを、自分の力でやらなくてはなりません。
怖くて当然でしょう。

1)経験と失敗が必要です。
怖いのに無理に滑り降りようとすると、緊張して、こけます。でも、致命傷は負いません。何度かこけて失敗を繰り返すと、こけずに成功することもあります。経験を増やしていけば、当初怖かったことが、それほど怖くなくなります。

2)安心が必要です。
ガイドさんなしのバックカントリー・スキーは不安過ぎて行けません。
ドロップ・ポイントで躊躇している時、もう行っても良いよ!とゴーサインを出してくれる人、
もしも自分では回復できなくなった時には助けてくれる人
がそばに居てくれたら、安心して、不安を乗り越えることが出来ます。

安心がなく、不安のままで滑り出すと、傷つきます。
傷つきを回避するために、ひきこもります。

2018年1月17日水曜日

男性グループ:私自身の体験

私は男性のサポート・グループ「男性塾」を主宰しております。
なぜ、私が男性グループを始めたか、私自身の体験をお話ししたいと思います。

私が一番初めに自分自身の気持ちと向き合うグループワークに参加したのは、20代なかば、精神科医になりたての頃でした。指導教授に勧められ、2泊3日のエンカウンター・グループという合宿に参加しました。
私よりも若い人もいましたが、30代、40代の人もいました。みんな心理関係の仕事をしている人たちで、男女両方いました。
何の予備知識もなく参加しましたが、参加者たちが自分たちの気持ち、特に心の痛みを語り、涙する姿に驚きました。友人の精神科医ヤマト君も一緒に参加して、別々のグループに入ったのですが、夜に「そっちでは何人泣いた?」などとお互いのグループの様子を報告し合いました。正直、そのような参加者のことを馬鹿にしていました。心理の仕事をしていながら、自分たちの方がよっぽど病んでいるじゃないか。
私の順番が回ってきても、私は何も心の痛みなどない。私は強い、、、という具合に強がっていました。すると、ファシリテーターである年配の男性が、私の肩にそっと優しく触れました。その意図がよくわかりませんでした。

二回目の体験は私が40歳、まだ新米の父親の頃でした。イタリア、ローマのMaurizio Andolfiという高名な家族療法家が、毎年夏に2週間のグループワークを主宰していました。世界各地から15名ほどのセラピストたちが集まり、専門家としての自己の話をします。これも、男女ミックスでした。
ここでも私は驚きました。始めはクライエントに向かう専門家としての自分を語るのですが、話が深まるうちに、職業ではなく、個人的な自分自身の体験を語ります。自分の子ども時代のこと、夫婦や家族関係のことなど、辛さや悲しみを語ります。みんな、よっぽど不幸な経歴を持っているんだなぁ。だからセラピストになったのかなぁ。私には語るような傷はないし、幸せなんだなぁと内心考えていました。
最終日に、主宰したMaurizioが自分を語りました。彼はちょうどその時、夫婦関係が破たんして、離婚する直前の時期でした。語りながら、感情に呑み込まれ、泣き崩れました。
私は驚きました。マスターセラピストと呼ばれる偉い先生も、本性がバレてしまった。ああ、彼もこれで崩れてしまったか。彼の専門家としてのキャリアが終焉する場を目撃したのだと思いました。
その晩に、お別れのディナーパーティーがありました。Maurizioは昼間の様子では、夜も欠席するのではないだろうか、と想像していたら、ごく普通に快活な彼に戻り、楽しく振る舞っています。
あれ?
彼は崩れてしまったのではなかったのか?
そこで、私の目からうろこが落ちました。
人は弱みを見せても良いのだ。
むしろ、弱みを恥じず、開示し、それを自分自身で受け入れ、信頼できる人に共感してもらえることが本当の強さに繋がるということを実感しました。

このような自助グループ(self-help group、ないしはconsciousness raising group)は1960年代の女性運動の中から始まりました。お互いに、素の自分を語り合う中で、自分たちの意識を高めていきます。
女性は、感情を扱うことが得意です。
しかし、男性は、感情、特に否定的な気持ちを表すことが苦手です。
男性は、「強さ」をアイデンティティにしています。
自分が強くありたいと願い、体力、学力、経済力などの「よろい」に身をまとい、自分を強く見せようとします。その下にある「弱さ」を隠します。

人は弱いものです。それを認めるからこそ、強くなることができます。
弱さを否認した強さは、独りよがりでしかありません。
Maurizioの姿を見て、そのことに気づき始めました。
ローマでの体験は、私の感性の畑を掘り起こしました。
帰国して2週間ぶりに再会した幼い子どもたちに出迎えられ、彼らを抱きしめ、なぜかわかりませんが、泣き出してしまいました。子どもたちは泣いている父親の姿に驚きました。私自身も自分の感情表出に驚きました。

三回目の体験は、アメリカでの男性グループです。アメリカでは女性グループ活動に触発され、1990年代頃から「男性運動」が盛んになりました。
学会で知り合った男性性(Men's study)を研究している研究者に紹介され、Mankind Projectという男性の集まりに参加しました。週末2泊3日の男性オンリーの合宿です。とても強烈な体験でした。男性たちが集まり、何をするのか初めはとても怖かったのですが、とても安心・安全な環境が作り出され、奥深くまで心を開くことが出来ます。それに耐えきれず、途中でリタイアする人も中にはいました。私は自分自身も気づかなかった心の底に初めて触れて、大きく心が動かされました。それを仲間たちに受け止めてもらいました。私以外はすべてアメリカ人です。言葉の違いを超えて、強い連帯が生まれました。

その後、様々な場で、男性グループを経験してきました。専門家の男性が集まる機会、一般の男性たちのグループなどです。今でも、継続して英語の男性グループを開いています。英語に不自由がなく、男性グループに興味がある方はご連絡ください。ご紹介いたします。

私は、男性としてのアイデンティティを獲得する中で、
泣いてはいけない。弱さを見せてはいけない(否定的な感情の抑圧)
と伝えられ、必死に「強さのよろい」を作ってきました。それが男のプライドです。
鎧があるからこそ、こうやって職業人(医師であり大学教員であり)として、家庭人(夫であり父であり)としてやってこれたのだと思います。
しかし、時にその鎧が重圧となり、自分の心の足かせになってしまうことがあります。
たとえば、「怒り」です。
怒りの感情は、弱さ(恐れ、不安、悲しみなど)を隠し、自分の身を守るための武器です。怒りは相手を蹴散らし、関係性を破壊します。
怒りという鎧を脱ぎ捨て、素の気持ちをそのまま表すことが出来ると、身が軽くなり、どんなに楽になるかということを体験しました。
それとともに、苦労して作り上げてきた「よろい」を脱ぐことがどれほど怖いかということも経験しました。

普段の臨床で、家族の問題、夫婦関係の問題、個人(男性・女性を問わず)の問題など、多くの人たちの悩みや苦しみに触れています。
男性である私自身の視点からすると、それらの解決のカギを握るのが、「男性」です。
男が如何に変わることが出来るか。
無理に変えようとすると、傷つきます。
自分自身が安心して、鎧を脱ぎ、見せかけではない真の男性性・人間性を回復する場を作りたい。
そのような願いから、男性グループを主宰しています。

2018年1月1日月曜日

今年の診療方針・活動方針

新年を迎えました。

2011年の6月に田村毅研究室を東京西麻布の地に開設してから、今年で7年となります。
開業するまでは、公務員として大学に勤めていたので、経営の経験など全くなく、健康保険も、薬も使わない自由診療が、果たして成り立つのか、なんの根拠もありませんでした。
なんとか7年間ここまで続けられてきたのも、みなさんのご支援のおかげです。どうもありがとうございます。

一年の計は元旦にあり。
気持ちをリフレッシュして、今年もみなさまのお役に立てるよう、努力してまいりたいと思います。

ここで、改めて、私の診療方針と、今年の活動方針についてお伝えしたいと思います。

<診療方針>
『人」の力で問題を解決します。
心の問題や苦しみ・悩みのほとんどは、人との関係性の中から生まれてきます(非機能的な関係性)。大切な人から傷つけられたり、裏切られたり、失ったり。
したがって、大切な人との関係性を回復することにより、人々は苦しみから解放されます。
  • 人と関わる力を回復して、社会(学校や会社)の中に安心できる居場所を得ます。
  • 人と関わる元気の素は家族から育みます。親との関係、子どもとの関係、夫婦間の関係、きょうだいとの関係、祖父母世代などなど、安心できる関係を回復します。
  • それを支援する私が触媒になります。よくお話を伺い、十分な信頼関係を作ります。
「病名」は使いません。

  • 医学的・科学的に明確に診断できる場合を除いて、病名は使いません。特に使わなくても、問題は解決します。
  • うつ病、発達障害、アスペルガー障害、パーソナリティ障害などなど、多くの精神疾患には客観的なエビデンスが乏しく、操作的診断基準による仮説です。
  • 病名が必要な場合もあります。普通の人には起こらないこんなことが、なぜ起きているのか、本人が、家族が、専門家が理解する枠組みを得ます。このような場合は、その病名を尊重します。
  • 病名が元気を奪う場合もあります。偏見の対象になったり、自信を失うなどです。このような場合は、その病名から解放します。
  • 多くの精神科医やカウンセラーなどの心の専門家は、医学・生物学的な視点から心の問題を理解しようとします。つまり、身体の中の異常、とりわけ脳神経系になんらかの問題が生じているとアセスメントします。この場合は、正確な医学的診断が必要となります。
  • 私は、医学・生物学を含めた生物・心理・社会モデル(Bio-Psycho-Social Model)という広い視点からアセスメントします。医学的診断(病名)は相対的なひとつの指標として、解決のためのツールとして用います。

「薬」の力は借りません。

  • 「人の力」を有効に使うことができれば、「薬の力」は必要ありません。
  • 通常の保険診療では「病名」と「薬の処方」がどうしても必要になります。
  • 私の自由診療では、薬は必要ありません。その代わり、相手と向き合い、さらに自分自身と向き合い、深い会話が必要となります。

<今年の活動方針>
・家族の力を賦活する
精神科領域では、問題を持つ当事者が治療に消極的で会えない場合が少なくありません。本人が不在でも、家族が元気を回復することで、本人も元気になります。

・グループの力を活用する
「ひきこもり脱出講座&交流会」、「男性のサポートグループ」など、なんでも話し合える仲間を得ることで、みなさん元気を回復されていきます。このような機会を増やします。

・支援者の支援
本人を支援する家族、本人と家族を支援する支援者・専門家(教師、カウンセラー、医療者など)も、どう支援したら良いか戸惑います。専門家へのスーパーヴィジョンで、そのような人々に指針を与えます。

・学会・執筆活動
国内外の学会に参加して、後進の指導に当たります。
特に、海外のアジア地域の専門家たちとの連携を深めます。
これまで積み重ねてきた経験を、本として出版します。

本年も、どうぞよろしくお願い申し上げます。