2020年7月31日金曜日

高山村民価格を設定した理由

料金規定を改定し、高山村こころの診療所での診察料に、
「高山村民価格」を設定しました。
  • 高山村にお住いの方は半額です。
  • さらに、尻高の役原地区の方は無料、もしくは農作物・薪の原木など。
その理由を説明します。
群馬は私の「こころのふるさと」です。
私の父親の実家は四万温泉です。子どもの頃、よく家族で里帰りしました。
結婚して子どもたちが生まれ、彼らに自然を体験させたく、草津温泉の近くに小さな別荘を買いました。
ひとり目の妻は万座温泉スキー場から昇天しました。

移住するにあたり、高山村がとても気に入りました。
四万温泉のような谷間の集落ではなく、中山盆地は田畑で満ち、谷川岳や北アルプスのような急峻な岩山ではなく、子持山や三並山などなだらかな緑の山々に囲まれています。
高山村は、道の駅「中山盆地」、ロックハート城、群馬県天文台があるくらいで、温泉地などの観光資源も宿泊施設もほとんどなく、4千人に満たない人たちが暮らしています。
私自身は東京生まれです。ずっと大都会で生活してきて、還暦を過ぎて移住してきた新参者です。
どうやったら、村の一員になり、村の人たちと共に安心して生活できるだろうか。
どうやったら、村の中に私がいる意味を見出すことができるだろうか。
農業も林業もできない私ができるのは「こころの診療」くらいしかありません。
この価格設定は、村の人たちのためでもあり、私自身のためでもあります。

私が住む高山村の役原地区は60世帯ほどの小さな集落です。
先日、初めて村の寄り合い集会に参加しました。
まるで大家族のように、地域の問題をみんなの力で解決しようと真剣に話し合っていました。
良い意味でも悪い意味でも、都会では見られない凝集性の高さです。
私ができるのは「こころの診療」くらいです。季節の新鮮な野菜とか薪の原木とか、お気持ちをいただければ何でも良いんですよ。

また、高山村で私の思い描く心理臨床を実践したいという思いもあります。
群馬で50年前に始まった「生活臨床」は、本人の「生活」に焦点を当てて、精神病などを立て直していこうという取り組みです。全国に広まりはせず、今ではあまり盛んではありませんが、榛名病院の院長がその継承者でもあります。群馬の地で生まれた視点であるというのも、何となくわかります。
北海道の小さな浦河町で始まったべてるの家の取り組みは、当事者も支援者も一緒に生活して、徹底的に語り合うことで精神病の回復を目指します。その活動は有名になり、全国から患者さんたちがやってきます。
Open Dialogueはフィンランド北部の過疎の極寒の地から始まった、これも関係者たちが集まり、徹底的に語り合う取り組みです。
これらのユニークな臨床は、一般的なお薬中心の精神医療とは一線を画し、人と人とが出会い、言葉をたくさん交わすことで問題を解決します。傷つける言葉を、癒しの言葉に変換していきます。ナラティヴ・セラピーもそのような考え方です。
そのような実践をここ高山村で展開してみたいと思います。

2020年7月26日日曜日

第一回合宿の振り返り

8月23-25日の第一回合宿には4名が参加してくれました。
今回は「メタ合宿」。
過去の合宿にも参加した人が、その経験を踏まえてメタなポジションから「当事者であり支援者である自己の統合」を目指します。
参加者からの振り返りです。

 ウグイスのさえずりやひぐらしの鳴き声、木々や竹林が風に揺れる音、白木の香る田村先生邸。夜のセッションでは、温泉に入って美酒と美食に舌鼓。まさに、五感で味わったメタ合宿でした。
 今回のメタ合宿では、ここ数年の個人的な課題としていたテーマが出てきました。これまでの合宿でも自分を振り返り、しこりとして残っているエピソードをきっかけに自分の未解決の課題を整理してきましたが、今回は田村先生のガイドの下で、最後まで残っていたエピソードと向き合いながら、そのエピソードに隠されていたテーマを見つけ、語りを通じて自身を受け容れるプロセスを体験してきました。
 自分の未消化の課題を語るということは、心のパンツを脱ぐようなものですが、田村先生の作り出す安全な、そして安心感のある空間の中で勇気を出して、心のパンツを脱ぎました。本当だったら見たくない自分の恥部を直視した上に晒すわけですから、痛いやら恥ずかしいやら、さまざまな感情が入り混じった、よくわからない気持ちになります。ただ、
 今年のメタ合宿とは、例年と異なる体験もしました。それは、昇華作業の結果、「もう、大丈夫」「なんとかできそう」という感覚が湧き出てきたことです。この感覚をメタ合宿のテーマに沿って表現するのであれば、「現時点における等身大の支援者としての自己を統合できた」と感覚があったと言えるでしょうか。地に足のついた、たしかな手応えとしてこの感覚を体験しました。
 田村先生の合宿に参加し続ける中で、自分の過去を掘り起こして耕してきましたが、今回の作業を通じて、次のフェーズへの移行段階に来たと思えました。これからもいろんな壁にぶち当たると思いますが、この合宿に足を運び続けて、自分を成長させていきたいと思います。自分自身のこれからの変化が、自分でも楽しみです。

 私も講師として、支援者として、当事者として参加しましたが、当事者ポジションとしての感想を書きます。
 安全な愛着(secure attachment)を形成するには、相手を深く信頼し、自身の心の内側をどれほど素直に伝えられるかにかかっているように思います。それがうまく伝われば、相手もちゃんと受け入れることができます。それは、単純といえば単純なことなのですが、難しい時にはバンジージャンプより怖くなります。
 愛着の基盤が不安定だと(insecure attachment)人は理性がぶっ飛び感性のコントロールが効かなくなり狂ってしまうし、それが安定すれば、昭和基地から極寒の極地でもどこでもブレずにに冒険できます。
 新しい古民家に新しい人と共に住み始めてまだ2ヶ月です。ここで新しい生活、新しい臨床、新しい冒険に乗り出していけそうです。
 この愛着の関係性は当事者としてばかりでなく、支援者としてセラピーやスーパヴィジョンの対象関係でも全く同じです。
 参加者から「センセ、合宿とかやって疲れないんですか?」と尋ねられました。
 いや、ウチにいろんな人がゴチャゴチャ来てても、自分がエンパワーされるとむしろ疲れが回復するんですよ。

今回の合宿、本当は行かないつもりだったのですが、結果的に参加してよかったです。
誰もがみんな、問題を抱えています。
だけど、普段はそんなことを意識してなくて、自分が一番苦しいと思ってしまいます。
しかし、人の生き様を聴かせてもらうと、みんなそれぞれ苦しみながら必死に生きていることがわかります。
だからこそ、その人の人生に敬意を払える器の大きい支援者になりたいと思います。
いろんな気づきをありがとうございました。

語ることができず一人で抱えている問題は、私だけが持っている、誰にも理解されない、特殊な問題と認知されます。
語ることができて、他者に受け止められた問題は、話せば他の人も理解しうる、他の人にも起こり得る、苦しいけど一般的な問題に変換されます。
するとだいぶ楽になりますね。

 昨年の夏合宿で自分の問題を棚卸ししようと試み、今年は「原点回帰」の年にしようと決めていました。
 「原点回帰」には、いろんな想いを込めています。夏合宿の時にはまとまっていませんでしたが、時間が経って落ち着いて来て、ようやくことばにできるようになってきました。昨年の田村先生からのフィードバックで、「なりたい自分」を見つけることができました。今思うと、今年はなぜ「なりたい自分」に近づけないのかを考えて答えを見つけたかったのではないかと思えて来ました。
 私の人生の転換期には、必ずと言っていいほど、ナルシシストが関わっていました。これまで、彼らから攻撃されたり、批判されたりして自我を傷つけられるのは、全て自分が悪いからだと思い、どうしたら関係をよくできるのか試行錯誤し続けて、ついに私はエネルギー切れを起こしてしまいました。今回のエネルギー切れは重症で、なかなか回復しません。それだけ彼らは強烈に私を傷つけたのだと思います。今もその傷は癒えることなくジクジクしています。活気は相変わらず出てきません。自分を責めるクセもそのままです。
だけど、一つ変わったことがあります。「自分については十分振り返ったから、相手について知ってみよう」と考えるようになったことです。ナルシシストから下ろされていた役割から卒業するために、相手について知ってみようと思うようになりました。
 自分を知り、相手を知り、自分と相手の相互関係を知る。そして、支配される恐怖から自由になりたい。「原点回帰」は本来の感情を相互関係の中で表現できることなのかもしれません。


2020年7月20日月曜日

希望に気づけるグループSV

7月19日(日)のグループ・スーパーヴィジョンには8名の方が参加しました。
高山村に来てくれた方が4名、オンライン参加が4名。
当事者の立場で参加した方が4名、支援者の立場で参加した方が4名でした。
参加者からの振り返りをご紹介します。

発言は少なかったですが  自分が関わった場面や子供が成長過程で悩んだ事などが頭を過ったりしました 。イヤホンをつけていなかったので聞き取りにくい所がありましたが、これでリモート参加ができると思うとそれだけ嬉しいです。皆さん優しいし高山村で田村先生と関わっていられて何だか本当安心と励みで元気になっています。

リモートからの参加はいかがだったでしょうか?
オンライン参加と現地参加のミックスを、もう少し施行してみようと思います。
普通に考えれば、この両者は分けた方がやりやすいです。
どうしても距離感の違いが出てきます。その理由は、
  1. ハードウェアの問題。まず、Zoomにどれほど使い慣れているか、そして、ネット回線が安定しているかが重要です。安定していないと音声が途切れたり画像がフリーズしてしまいます。
  2. 画面構成の問題。オンラインの方は通常、顔あるいは上半身のクローズアップ画像です。また、自分の画像を消す方もいます。一方、現地参加の場合、カメラで部屋全体を写しているので、一人ひとりの姿は遠影になってしまいます。
  3. オンラインでは、空気感(その場の雰囲気、お互いのアイコンタクト・表情などによる微妙なメッセージのやり取り)が伝わりません。
これらの問題をどう解決するかが重要になってきます。(1)は技術的に改善できます。(3)を改善するのは困難です。(2)の部分をもう少し改善してみます。

みなさんのお話しや事例を、田村先生のカウンセリング手法を見ていて、本当は皆心のどこかに答えを知っているんだと気付きました。怒りが出たり心が落ち着いてない時はまだ向き合うタイミングではないこと、もう少し休憩の時間が必要だと感じました。家族にとって安全で安心な環境を作り、いつの日にか本来の家族本来の自分たちに戻れるようになる。と希望が持てました。

知っているはずなのに見えなくなっている本当の答えに気づく体験というのは素晴らしいですね。

わたしはこの当事者と支援者一緒にというミーテイングが好きです。
特に何もなければ、支援者同士よりもこちらを選ぶと思います。
これがオープンダイアログだとするなら、もっと学びたいと思うぐらいは好きです。
理由は、わたしがカウンセラーを志した根っこにもつながると思うのですが、どうしてもうまく表現できないのですが、懸命に生きる人の姿というものにものすごく惹かれるのです。ただ、そういう言い方だと、物見遊三とか、興味本位と言われても仕方ないのでうまく言えないです。

Second Order Cyberneticsの考え方を具体化したのがReflecting TeamでありOpen Dialogueです。そこでは客観的な観察者という立場はあり得ないんですよ。クライエントに関われば、必然的に治療システムのなかに組み込まれます。セラピストが主観的に関わり、自身も変化していく中で、システムが良い方向に変化していきます。
当事者・支援者という区分けと、当事者性・支援者性とは違う概念であることは他の記事に書きましたが、懸命に生きる人の姿というのが当事者性であると考えます。
 今回も、支援者の人が、必死に当事者性を語って、当事者の方が支援者性を発揮して良いサポートしてましたね。懸命に生きると主観性の中に入り込んで時に動きが取れなくなってしまうので、そこに客観性を加味してちょっと離れた立ち位置から自分を眺めると、希望が持てるようになります。

支援者性を磨くってのは、そういうことだと思います。

2020年7月18日土曜日

「一歩 踏み出す」研修会の振り返り

本日(7月18日)の「子どもと家族の研修会」には高山村での現実参加が2名、zoomのオンライン参加が2名、計4名の会でした。

今のところ、オンラインとオフラインをミックスさせた研修会のやり方を実験中です。
オンラインはオンラインに限定して高山村か大森で、
オフラインはオフラインに限定してzoomで、
やった方が、やりやすいのではないだろうか。
あるいは、ミックスしてもやれるだろうか。
それを実験しています。

今日の研修会の印象では、オンとオフのミックスも十分やっていける感触を持ちました。
・オンラインを介した音声・画像の伝達がスムーズにいくか?
→前回は、私のネット回線状況が悪く、zoomが途中から固まってしまいました。
今回は、そのようなこともありませんでした。
今日のリモートからの参加者もzoomには慣れていらっしゃる方達でした。

・現実で会っている参加者に比べ、オンラインの参加者は気持ち的な距離感が遠く、置いてきぼりを感じるのではないだろうか?
→以前オンラインで参加した方からはそのような感想もいただきました。
今日は、私はそのようなことは感じず、オンラインの参加者とも気持ち的には近い距離でいれたように感じました。参加した方々はどうだったでしょうか?

参加者からの振り返りをご紹介します。

 自分の価値観や言語的、あるいは非言語的コミュニケーションのパターンは、自身の原家族に依拠していると改めて実感しました。
 結婚後、生まれも育ちも違うパートナーと生活する中で、相手の価値観やコミュニケーションパターンと折り合いをつける作業をしていますが、自分にとっての当たり前は、全然当たり前ではないと身をもって実感しています。
 本日の対話の中に、「夫婦にとって子どもは等距離だが、親は等距離ではない」「昼食のメニューは譲れても、子育てや親の介護では譲れないこともある」という言葉ありましたが、なるほどと思いました。私の祖母の世代では、「結婚して半人前、子どもを育てて1人前」という言葉あったそうですが、この文脈で考えれば、なるほどと思わされます(注:私は、結婚しな
い生き方、出産しない生き方を否定するつもりはありませんので、あしからず・・・)。
 特に、祖母の世代では、寿命の関係で介護が問題になってくる方たちは少数だと思いますので、まさに上記の言葉は、自分を変化?成長?させることができているのか?ということが、問われているのかと思いました。
 翻って、現代の事情に目を向けると、夫婦間の決断場面に、従来の子育てに加えて介護問題も加わり、穏やかではないなと思いました。子どもは授かりものですが、親の介護問題は避けては通れません。いろいろ勉強になった会ですが、その一方で、胃が痛くなってきました(苦笑)

本日は、家族内のコミュニケーションのパターンとして、
・感受性による折り合い方
・言葉による折り合い方
のふたつについて説明しました。
 感受性とは、どちらかと言うと受け身の姿勢。相手の意図を受け取り、それに合わせようとする姿勢です。文化的にも「以心伝心」の受け取り方は日本人が得意とします。お互いに相手のことを知っているという前提で話が進み、うまくいけば言葉を使わずにスムーズにことが進みますが、基本的に我慢することを前提にしているので、うまくいかないと我慢しすぎて辛くなります。
 言葉とは、どちらかと言うと能動的な姿勢。自分の意図を相手にうまい言葉で伝えようとする姿勢です。文化的には欧米的というか、日本人はあまり得意ではありません。お互いに相手とは異なることを前提として、うまくいけば合理的に整理します。言葉の発信力が必要なのですが、やり過ぎると喧嘩になって分裂してしまいます。
 このふたつのどちらが良い悪いということではないのですが、人それぞれにどちらが得意かという好みがあります。私は後者が好きです。サイコセラピーも基本的に言葉を使って自分自身や他者を理解しようとしますので、後者を志向しているのだと思います。

 今日のお山は 雨が降ったり止んだりして晴れたり曇ったりする中、初めてお会いする方々
そして今日もよろしくお願いしますの方々との研修会でした。
 元々が人前に出るのは緊張しいなので、研修会等に参加させて頂く時はいつも少し自分の中のアクセルを踏んでいきますが、ここは いざ古民家の玄関から土間に足を踏み入れるとかえって落ち着く感覚には、いつも不思議さを感じています。
 この空間の中で、今日も本当に心のエネルギーになる言葉に出会うことができました。
そのひとつが、参加者の方から
「一歩を踏み出す」お話がありました。それをお聞きしながら、私の中では 「踏み出す」= 当然「前へ進む」ものとして勝手に解釈しながらお聞きしていたのですがその際、他の参加者の方からの
「その一歩を踏み出すのはあなたにとって、横(右?左?)ですか? それとも 後ろとか斜めもありますね〜?」
の一言に
「え〜? あ〜?お〜?なんだ? そうですよね? 一歩を踏み出すって 前だけじゃないですよね!    それもOKですものね!」(と、私の心がガランガランと鐘を鳴らしていました)
 もしかしたら、そんな事は考えなくても普通にできていることだから、今更そんなふうに驚くなんて返って私のその反応にびっくり!と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、とにかく私の中ではブラボーでした。
 自己弁護させて頂くと、生きづらさを抱えた家族との生活は、本当に必死で大変なんです。それでも無理やり笑顔を作って生きていることもあります。そんな中、一歩でも前へ進むことが(良いほうへ向かってくれることが)親としての使命感にも近いものがあったのかもしれません。というか、それしかなかったのですね、今までは。
 今はこうして、田村先生のもと安心できる場所で 、古民家の包容力と言葉の力を頂きながら、少しずつ少しずつしなやかに生きていければと願った一日でした。

 反抗期について皆さんのお話を聴かせて頂いてとても良かったです。自分のことを語っているうちに、私にも反抗期があったことに気付かさせてもらいました。もしかしたら私の場合は「気付く」というより「認めた」のかなぁ…。
 以前に家族には『こんなこと(父親に反抗したこと)あったよねえ』と話をしたことがあったのにも関わらず、あの場では「私には反抗期がありませんでした」となぜ話始めたのか?
 多分私は「私は過酷な子ども時代を生き抜いてきた」という自分の悲劇のヒロイン(?)物語を土台に持っていたかったのかもしれません。真っ先にネガティブな記憶が自分の中で甦り、他人に解ってもらいたいと思っていました。でも話しているうちに自然にポジティブな記憶に繋がって「あっ!反抗期あったな」と素直に認められました。そしてその私の心の流れを丸ごと皆さんに受け入れてもらったような感覚があります。
 娘の反抗期について「これでいい」とだいぶスッキリして家庭に戻りましたが、あっという間に日常に飲み込まれ気持ちが波立ってしまいました(笑)。でも、今までよりどこか余裕を感じているのは確かです。又、私の妹に私の反抗期について聞いてみました。すると実際は私が覚えているよりもっと激しい反抗を私は親にしていたことが判明しました(^_^;私の過去の物語を妹の立場で見ると決して悲劇ではないのです。なんだか笑ってしまいました。
私の心のこだわりが一皮むけた感じです。ありがとうございました。

 自分の人生の物語を更新していくのが物語療法( ナラティヴ・セラピー)というやり方です。人はいろんな物語を持っています。ネガティブな物語が十分に表出され、他者によって受け止められると、パンドラの匣の底から全く別の物語が飛び出してきます。
 過去の歴史は変えられませんが、歴史の教科書は改定されます。

2020年7月9日木曜日

古民家療法14)ワークショップ

明日から週末にかけて3日間、おひろめ会とワークショップを開催します。

今回のワークショップは「土壁を再利用したカマド作り」
その第一弾として解体して崩した土壁に藁を練り込み、日干しレンガを作ります。
古民家リノベーションを手掛けてくれたアトリエDEFさんが主催してくれます。
そのウェブサイトには次のように書かれています。
  • 誰もが安心して過ごせる健やかな暮らし
  • 自然との調和・一体感
  • 自分で創る暮らし
  • 庭で野菜を育てたり、薪を割ったり、釜戸でお米を炊いたり
  • 輸入材や合板材ではなく、無垢の国産材を使う
  • 自然に還し、再利用する、環境と共存した暮らし
これらは私のこだわりとぴったり相通じる部分があります。
、、、一部、それほど相通じない部分もありますが(笑)
私は無垢の国産材でなくても、輸入材や合板材で安心して過ごせます。
国産材に越したことはないですけど、コスパが、、、
シックハウス症候群や化学物質過敏症の方も時々診察しますが、状況は複雑に絡んでいる場合が多いです。

誰もが安心して過ごせる健やかな暮らし

私もそれを一番大切にしています。
工務店のDEFさんは住まいの観点から、
精神科医で家族療法家である私にとって、住まいもそうですけど、むしろ人と人との繋がりの観点から、それを実現したいと考えています。

安心感=それは心の感性です。
環境や住まいという側面から生み出されるものでもあり、
人と人との繋がりの中で生まれるものでもあります。

心の病や、家庭や学校や職場での生活に適応できず、悩んで困っている人たちに多く接していると、身近な人たちと安全に繋がれていない場合がとても多いです。
安心の愛着(secure attachment)の形成不全なんですね。
なにも、世界平和や人種差別を問題にしているわけではありません。
大きな社会レベルのマクロな話というよりは、
小さなひとりの精神科医としては、小さなミクロレベルの話をしています。
毎日の生活で関わる大切な人たち:家族や、友人や恋人や、近隣・地域の人たちや、学校の先生や、職場の同僚などです。
これらの人たちと安心して繋がると、心理的には健やかな暮らしと幸せが実現します。
逆に、不安のままで繋がってしまうと、たいへんです。心の病気になったり、学校に行けなくなったり、暴力を振るわれたり、恨んで殺されちゃったり、、、

どうやったら安全に、心安らかに繋がることができるのか?

そのことを、長年、多くの人たちと接する中で考えてきました。
その試みが古民家療法です。
安心できる環境の中で、
人々が安心して交わります。
  • 言葉を介して、
  • 生活の営みや共同作業を介して、
前者の方は、私がやります:古民家で診療します。そのための広い土間と薪ストーブなんですね。
後者の方をワークショップで実現したいと考えています。
ひとりで土壁をコネコネしても楽しくありません。
家族や仲間と一緒に、ワイワイしながらコネコネします。
ものづくりの楽しさと、大切な人と気持ちよく繋がる楽しさを体験します。
そのついでに、言葉を介して繋がります。
いきなりカウンセリングはなかなか敷居が高いものです。
古民家を体験して、コネコネして、そのついでに、、、
なら家族を説得しやすいし、
のびのびと安心した環境の中だと、普段の日常生活の中とは違う言葉が生まれます。

安心感・不安感などの感情は、コロナ・ウィルスのように人から人へ伝染します。
ひとりが不安だと、まわりの人も不安になります。
安心な人がいると、まわりの人も安心します。
もっとも、これは親しい人同士の間に限りますが。
そのためには、心理的な三密が必要になります。
  1. 心理的密閉空間(換気の悪い密閉というよりも、安全とプライバシーが保たれた密閉空間である)
  2. 心理的密集場所(その人にとって大切な人が密集している。家族や親せきや学校の先生や)
  3. 心理的密接場面(互いに気持ちを伸ばしたら届く距離での会話や発声が行われる)
これを確保できる場所がうちの古民家です。

そこに関わる私自身も安心感を保持していたいです。
そうすれば、私の安心感を人に伝染させることができます。

どんな共同作業をやりましょうか?
例えば、私中心で考えると次のようなことです。
私はアウトドア派なので、インドア派の人にはちょっと違和感があるかもしれませんが、
  • レンガでカマドを作って窯焼きピザ、バーベキュー、燻製ベーコンづくり
  • ウッドデッキでのんびりコーヒーとケーキ(あるいはお酒)
  • 野菜・果物の手作り。花壇。
  • 夏のたそがれ時の焚火
  • 木の実を採取して料理(栗、柿、梅、琵琶、、、)。
  • 薪割り
  • 薪ストーブの前で語らい
  • 味噌づくり、コンニャクづくり、、、あとどんな伝統食があるだろう??
これらのことを、ひとつひとつ実現してゆけたら嬉しいです。

「死」を支援する

7月4日の「子どもと家族の研修会」のご報告です。
参加者は3名。
みな、支援者の立場の人たちだったので、グループSVのようになりました。
参加者からのフィードバックです。

 今日は、「死」をテーマとなった事例を2つ出しましたが、事例を出してよかったと改めて思いました。クライエントを失った経験を自分の中で消化し切れていなかったため、クライエントの死を経験したスーパーヴァイジーのサポートの仕方に自信を持てずにいました。結果的には、計画していた内容でよかったので安心できましたが、この場は、自分にとっても、スーパーヴァイジーにとっても重要になる場だと感じました。
 スーパーヴァイジーの臨床家としてのキャリアは、これからも続くわけですし、そんな彼らのキャリアに影を落とすトラウマ体験となるのではなく、この経験が学びに、成長につながるようにサポートしなければいけません。しかし、そのような時に、スーパーヴァイザーがグラついていては話になりませんので、このような場で自分の方針を複数の視点から検証してもらうことは、スーパーヴァイザーとしての成長につながると感じました。

クライエントが語る「死」にどう向き合い、どう支援するかということは、セラピストにとって試金石であります。クライエントうまく支援できるという体験がセラピストの成長につながりますが、「死」に関わることはそれが最も顕著に現れます。
なぜなら、「死」はさまざまな強い感情を呼び起こすからです。
たとえば、
一人称の死:自分の死に対する恐怖・不安
二人称の死:大切な対象を失う喪失に伴う悲しみ
三人称の死:クライエントの死は、セラピストにとって失敗体験であり自信喪失につながります。また、クライエントとの治療的な愛着関係を形成していれば、セラピストにとっての喪失体験でもあります。
自殺・自傷行為:自ら死を選ぶことは、生きている我々の価値観に真っ向から相反しますからその気持ちに共感することが困難であり、タブー視、偏見、怒りなどの気持ちが表れます。

クライエントが語る「死」を冷静に受け止めることはセラピストにとって困難であり、
家族であればなおさらのことでしょう。クライエントの家族も支援することが重要になります。
共感する中で巻き起こる心の中の強い感情に向き合い、その危機に対処します。
嵐の渦中にいながら、いかに冷静さを保つことができるか。
それが、支援者性を試される試金石であります。

客観的に考えれば、つまり距離を開けて理屈で考えれば、それほど難しいことではないのですが、
主観性の渦中にいて、感性的に巻き込まれた状況の中では、自分の客観的な立ち位置を確保することはとても困難です。

閑話休題。
毎年繰り返される梅雨末期の豪雨災害ニュースを昨夜もテレビで観ていました。
高台で安全を確保しているアナウンサーが大量の水が氾濫しそうな河川の様子をバックに、危機的な状況を、冷静にしゃべっています。
現場は危機です。
しかし、テレビで観ている私は、その危機感を理解しても、危機的な感情は伝わりません。
もし身内や知人が現地にいたとしたら、ドキドキしてパニックになるでしょう。

スポーツ中継のアナウンサーは、自身も興奮した口調でしゃべりますよね。サッカーのゴールとか、オリンピックの中継とか。
災害中継でも、アナウンサーが同様に興奮してしゃべったら、どうなるんでしょうか???
エンターテイメントではないから、興奮は伝える必要がなく、冷静な対処行動を伝えたいんですよね。
コロナでも同様か!?

2020年7月1日水曜日

合宿スーパーヴィジョン

2020年度 合宿スーパーヴィジョン

 

目的)二泊三日の集中合宿で当事者としての自己を語り、真に共感できる支援者性を磨きます。

 

期日

第1回)2020723日(木・祝)〜25日(土)<メタ合宿(経験者のみ)>

第2回)2020828日(金)〜30日(日)

第3回)2020920日(日)〜22日(火・祝)

 

参加対象者: 

l  守秘義務を遵守できる専門職(医師、看護師、臨床心理士、社会福祉士、精神保健福祉士、養護教諭・教師、相談員など)

l  参加者のプライバシーと安全を確保するため、原則として各機関より一名の参加といたします。

l  第1回は過去にSV合宿に参加した方のみを対象とします。

 

内容

第1回)過去の合宿経験を踏まえ、当事者であり支援者である自己の統合を目指します。

第2・3回)ジェノグラムや家族造形法などの手法を用い、自己と家族を振り返ります。

 

日程(各回共通)

1日目)午後2時集合。14-17時(セッション1)

2日目)9-12時(セッション2)、14-17時(セッション3

3日目)9-12時(セッション4)、正午に終了。

 

講師:田村 毅(精神科医、日本家族療法学会認定スーパーヴァイザー)

会場:田村毅こころの診療所(群馬県吾妻郡高山村尻高3025

定員:各回8名(先着順に受け付けます)

受講料:22,000円(税込)

 

宿泊(下記の選択肢からお選び下さい)

1.     通いの参加(宿泊なし)

2.     近隣の温泉旅館をご紹介します(伊香保温泉、四万温泉など。一泊2万円程度)

3.     古民家合宿(高山村こころの診療所)。一泊につき3千円(食費込み)

 

申込み・お問い合わせ

l  田村毅の公式ライン、もしくはウェブサイトよりお申し込み下さい。