2013年4月30日火曜日

セミナーの申し込み

今回のセミナーを知り合いから「素敵な情報を見つけた」と教えていただきました。思わず読み込んでしまい、そのまま「えいっ」と、申し込んでしまいました。
そして今、ちょっと、怖くて、わくわくしています。

怖いですよね。
役に立ちそうと感じていただいたとしても、小人数だしかなり深そう。大丈夫かしら?
そう思われると思います。
そこを乗り越えてお申込みいただき、ありがとうございます。

スタートする前に、個別にお話をしましょう。
どのようなニーズがあって参加しようと思ったのか。
どんなことを得たいのか。
どんな内容なのか。
などなど、説明させていただき、また質問なども何でもお受けします。

なるほど、田村とはこういう人なのね。
セミナーはそういう雰囲気なのね。

などなど、納得してからご参加ください。
個別にお話をした段階で、やっぱり止めとこうかな、とキャンセルしていただいても構いません。

それでは、ご都合の良い〇日の〇時にお待ちしております。

2013年4月23日火曜日

有能な心の支援者になるための三種の神器


真に有能な心の支援者になるためには、次の3つのトレーニングが必要です。

1)理論の学習

  •  心はどういう仕組みで働いているのか(正常の心の理解)
  •  心はどのような問題を起こしうるか(心の病理や異常の理解)
  •  それをどうやって支援しうるか(〇〇療法とか、〇〇理論とか支援法の理解)

などを教科書を読んだり講義を受けて、主に座学として学びます。
大学などの高等教育機関で学びますが、生身の人間を扱う心の支援者はそう簡単ではありません。大学院レベルまでしっかり学んだ方が良いでしょう。
あるいは、職場に入ってからの新人研修、初期研修でやることもあるでしょう。

2)臨床実習
机上の空論ではなく、実際現場でどう使うことができるか、応用を学びます(というより体験します)。
私が医者のトレーニングを受けていた時、医学部の5-6年生はほとんど病院実習でした。資格取得前ですから治療行為は行わず、実際の治療現場を見学します。現場の関わり方は直接的・間接的のふたつがあります。

<患者さんに関わりながら習得するOn-Site Training>
医師の資格を得てから研修医という見習い医師(インターン)を何年かやります。
大学病院に入院すると、たいて主治医が3人くらいいます。新米の研修医と、主に関わる主治医と、それを統括する管理職的医者と。つまり、実際に責任を持って医療に関わりながら、経験を増やしていきます。

<患者さんとは別の場所で習得するOff-Site Training>
事例検討会とかスーパーヴィジョンに相当します。仲間や指導者に自分の臨床体験を語り、ディスカッションしたりアドバイスをもらいます。マンツーマンでガチンコ勝負したり、複数の人がいるグループの中で話し合ったり、いろいろな方法があります。

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以上はどの仕事、どの職場でも必要なふたつの要素でしょう。まず、理屈で理解して、実際場面で応用します。心の支援者は、それに加え3つめの要素が必要になります。

3)感情表出体験
心の支援者は理性に加え、感性という主観的な感情体験を扱うトレーニングが必要になります。

理性と感性を比較してみましょう。たとえば、普通の医者は感性よりも理性を使います。患者さんの状況を客観的にとらえ、正確に診断します。生物学的に指向して薬物療法を中心に行う普通の精神科医であればこのように理性中心でもうまく治療できます。理性的に関わるためには客観性が重要です。クライエントの内部で起こっている出来事を客観的に観察し、測定して数値化したり、操作的診断基準に照らし合わせて他の人でも理解できる標準的な言葉で記述します。

 一方、心(感性)という実体のない主観的な感情体験は測定したり記述することができません。客体化せずに、主観的な世界の中で扱います。そのためには支援者自身の主観的感情体験を用います。クライエントの話を聴き、状況を理解して、支援者の心の中に湧き起こる感情をもとにして、クライエントが心の中に抱いている感情を類推します。
 そのためには、自分の感情を自由に思い起こしたり感じることができるようにします。現在と過去の喜怒哀楽などさまざまな感情体験を想起できるようにします。どこかにブロックがあると、つまり痛みを伴い触れることができない感情領域があると、その部分に近づくと避けたり、怒りなどの反応で拒絶したりしてしまいます。多少の痛みなら大丈夫なのですが、本格的な痛みが伴っている場合、本格的なスーパーヴィジョン(というよりはセラピー)が必要です。
 そして、感情を表現し、それを他者に受け入れられる体験も必要です。それは心の支援者がクライエントに求めることですから、まず自ら体験してみます。普段は心の中に隠している感情を表現するときの不快感や痛み、そしてそれを他者に受け止められた喜びと解放感を体験します。つまり、自分自身が支援されエンパワーされた体験があると、クライエントにも同じことを勧めることができます。その体験がないと、そこまでやろうとはしません。心を掘り下げるには痛みが伴いますから、そんな危険を冒してまでやろうとしません。

 このような体験を経て、理性ばかりでなく感性を上手に扱えるようになります。頭が良くて頭脳明晰さだけでは良い心の支援者にはなれません。もちろんアタマは必要ですが、それに加えてココロを十分に耕すことが大切です。

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以上の三種の神器は、通常この順番で習得してゆきます。
1)理論の学習はアタマを働かせて覚えたり理論的に考えるのでアタマが柔軟な頃が良いでしょう。経験がなくとも、座学で習得できます。
2)臨床実習はクライエントという相手がいるから責任を伴います。少なくとも知識は持っていなくてはなりません。
3)感情表出体験はある程度の人生経験が必要です。まだ青いバナナでは、自分の体験を積み上げていくことに必死ですから、それを相対化する余裕はありません。ある程度バナナが熟し、多様な成功体験・失敗体験を積み上げ、人生の基盤を作り上げ、人生のスピードも緩んできた段階で、主観性を客体化する余裕も生まれます。
 また、ある程度の臨床体験を持ち、自身の体験を臨床におけるクライエントの体験と関連づけることが大切です。
 臨床体験が不十分なまま自己を掘り下げることも有用です。でもそれは心の支援者のトレーニングというよりも、セラピー体験、自己啓発セミナー体験、新興宗教体験と呼んだほうが良いでしょう。

2013年4月21日日曜日

誰が問題なの?:夫婦カウンセリングの考え方

  • うちの妻をどうにか治療してください。妻は精神的に異常です。うつ病なのでしょうか。とにかく、まともに話ができません。ヒステリーになって怒ったり、私を無視したりします。このままでは私の身が持ちません。
  • うちの夫を診てください。病気なのでしょうか?病気なら治療してください。ネットで調べたら「〇〇障害」や「〇〇病」の説明がよく当てはまります。言うことや態度がヘンなのです。話が全く通じません。
このような形で夫婦カウンセリングが始まる場合がよくあります。

たとえば、夫が「妻はヘンです。治してください。」と依頼があります。
承知しました。奥さんとお会いしましょう。
すると、妻は「夫がヘンです。治してください。」と逆に依頼されることがあります。
あれあれ、どうなってるの??
そこで専門家として客観的に判断します。次のようなケースに分かれます。
  • 夫も妻もふたりともクロ(病気などの問題を持っている)の場合。
ふたりのお話をうのみにするとそうなってしまいます。でも、実際にはそういうケースはまれです。
  • 一方がクロで、もう一方はシロの場合。
クロの方の治療を始めます。パートナーから依頼された場合はパートナーにも治療に協力してもらいます。
  • おふたりともシロの場合。
夫婦カウンセリングを行います。
おひとり、おひとりは良識を備えた良い方(シロ)なのですが、ふたりが重なると何故かクロになってしまいます。
その場合、その人にとって相手がクロと判断する状況について丁寧に伺います。
おひとりからだけではなく、もうひとりの方からも同じようにお話を伺います。
それを重ね合わせていくと悪循環のループにハマっている状況が見えてきます。
〇〇年前に結婚した時はあんなにハッピーだったのに、、、
当時から現在に至るどこかに、解決できない問題の根っこが隠されていたりします。
第三者からは客観的にその根っこが見えても、渦中のご本人には見えないこともあります。
あるいは、夫婦それぞれ根っこの見え方が異なることもあります。
根っこが解決されないまま放置状態なので、ふたりで話し合ってもプラスの結果が得られません。
いくら話し合ってもマイナスの出力しか得られず、お互いに傷つけあってしまいます。残念なことに。
何度か繰り返すうちに、もう傷つきたくない、、、という気持ちからそのことは触れないようになります。
その後もずっとお互いを避け通すことができれば良いのですが、実際の家族生活はそういうわけにはいきません。仕事のこと、お金のこと、子どものこと、実家のこと、双方の友だちのこと、、、、
話し合ったり協力しないとやっていけないさまざま課題に直面します。
意を決して話し合いますが、前の経験がよみがえってきます。
またうまくいかないんじゃないだろうか、、、という不安から防衛的になり、はっきり伝えられなかったり、黙ってしまったり、イライラしてしまったり、、、ああ、やっぱりダメだ、話し合えない。
話し合えないから黙ると、今度は黙ることが「無視された。ちっとも考えてくれていない!」という火種になり、悪循環のループにどんどんハマってしまいます。
そうなると、二人だけだと話し合いも黙り合いも、どんどんダメな方向に落ちてゆきます。
ふたりだけならまだよくて、仕事に影響が出たり、子どもに影響が出始めます。
これはもうどうにかしなければいけません。

こういう場合は、第三者を交えて話し合うことが功を奏します。
ホントはふたり話し合いたい、話し合わねばならないんです。でも、話し合えない。もう傷つきたくない。話し合う元気も残っていない。
夫婦カウンセリングは安全な土俵を提供します。
やっぱり夫婦は話し合いたい、バトルをしたいです。
安全な土俵と行司のもとで、思いっきりバトルしてもらいます。
お互いに、言いたいこと、伝えたいことの槍を投げてもらいます。
お家でふたりだけでやってしまうと、槍が刺さってお互いに傷ついてしまいます。
夫婦カウンセリングの土俵では、傷つかないようにしながら槍を投げ合います。
飛んでくる槍を行司がちょっと細工して傷つかないように弱毒化して相手にパスします。

安全だけど思いっきり投げ合うバトルに耐えて何戦か交えていくうちに、だんだんコツをつかんできます。相手に致命傷は与えないけど言いたいことをうまくはっきり伝えられるようになります。飛んできた槍を真正面から受けず、ひょいとかわしてやり過ごすこともできるようになります。
手持ちの毒矢を全部投げ終わると危険は去ります。あとは素手でしっかり四つに組んで、ふつうの無害な夫婦バトル(=コミュニケーション)ができるようになります。

このように比喩を使って説明するのは簡単ですが実際は相当たいへん。行事もヘトヘト。でも一番疲れるのは投げ合っているおふたりです。とても大変な勝負になりますが、がんばればマイナスのループから抜け出すことができます。

このような安全なバトルを繰り広げられるためには前提条件がふたつあります。
  1. 行司との間に十分な信頼関係があること。下手な行司、もしかしたら相手に加担するんじゃないかという行司の前では勝負できません。土俵にふたりが上がる前に、力士A、力士Bとそれぞれ個別に十分お話し合いをして、この行司なら任せられるという安心感を得てもらいます。頼りない行司のもとでバトルしてはいけません。
  2. ホントに夫婦関係を続けたいのか。この人と一緒に困難を乗り越えていきたいのか。そういう気持ちが残っていることを確認します。
根底に「」があっても、その上にたくさんの塵が積もっていたら「愛」が見えなくなります。この人を愛しているのか、憎んでいるのかわからなかくなります。その場合でも行司がお手伝いします。塵をかき分けた底に「愛」がまだ残っているか否かを確認します。もし「愛」の片りんが残っていたら夫婦関係を回復する可能性にかけます。
もし、昔はあった「愛」がいつのまにかなくなり、他の道を選択した方がベターと判断したら、うまく別れるためのカウンセリングを行います。

離婚カウンセリングについては、また別項で説明します。

2013年4月20日土曜日

男性のメンタルヘルスに女性の果たす役割


兄はやはり受診しなかったようですね。
カウンセリングなどに抵抗があるのかもしれません。でも、兄の状態は本当に良くないので、なんとか先生のところに受診するよう、もう一度話してみます。

妹さんの役割はとても大きいと思います。
Aさんは有能なサラリーマン。今までトップで頑張っていましたが、会社の業績が急激に悪化し、リストラされてしまいました。でも「うつ」になった本当の理由は違うところにあります。いわゆる家庭内別居の状態が長く続いていましたが、Aさんのリストラを機に奥さんの浮気が発覚し、離婚の危機が迫っていました。安定した収入とパートナーを同時に失い、Aさんは生きる目的を失い、強く死にたいと思うようになりました。
でもAさんは治療が必要とは思いません。今までさまざまな苦境をひとりでがんばってきたプライドがあります。専門家とはいえ、自分の弱みを語ることに強い抵抗を感じています。
でも、妹さんの強い説得で何とか私のところに通うようになりました。

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Bさんは長年連れ添った愛妻を突然の心臓発作で失いました。
茫然自失、何もできないでいるBさんを妹さんが救いました。
私のクリニックを探し出した妹さんがまず相談に見え、次いでBさんと共にやってきました。
1年ほど通い、Bさんは喪失体験を乗り越え、次の人生に向けて前向きに進むことができるようになりました。

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AさんとBさんに共通していることは何でしょう?
心を悪くした大きな要因が女性(奥さん)でした。
そして心を回復に向かわせているきっかけを女性(きょうだい)が作りました。

ふだんは別々の所帯を持ち、それほど交流がなくても、きょうだいは危機に陥ると大きなサポートとなります。高齢の親は心配してもそこまで立ち回る力も関係性もありません。
そして、なぜか男性を女性のきょうだいが救うケースが多いのです。
男性のきょうだいは、なかなかそこまで関知しないようです。

男性はメンタルヘルスがとても苦手なようです。
女性はそれをカバーしてくれます。

2013年4月18日木曜日

ひきこもりと家族の危機

A君のお父さんがお礼に来てくださった。

高校生だったA君はエンジンが停止してしまい、なにも気力がわかず、学校にも行けず、家にひきこもり無為な日々を送っていた。始めお父さんが相談に見え、A君もやってきた。始めは親に言われて渋々やってきたが、途中から気持ちの奥底を語るようになった。
およそ1年間、A君とご家族が相談にやってきて、エンジンが再びゆっくり始動し、この春に希望していた大学に進学することができた。

先生のお陰です。どうもありがとうございました。

いや、私の力ではないんですよ。
まずお父さんがきっかけを作り、A君自身が見知らぬ外部の専門家をうまく使いこなして、自分のエンジンを始動させたんですよ。私はそのきっかけに過ぎません。

今だから言えるけど、あの頃は本当に家族の危機だったんですよ。

ひきこもりは本人にとっての危機であり、家族全体にとっての危機ですね。
でも、その言葉は今までお父さんから出てきませんでした。
危機を乗り越えたから、危機だったことを振り返ることができるのですね。
危機の渦中にいると、今、危機状態にいることさえ気づかないのかもしれません。
自分たちがどれほどタイヘンな状態にいるかわからないほど、大変なんですよ。

ふつうに暮らしていても、さまざまな危機がやってきます。
大震災のように外部から。
家族の病気・障害・事故のように内部から。
危機がやってくるのが問題なのではありません。
大切なのは対処行動をとれるか否かです。
危機に圧倒され、立ちすくみ、凍ってしまい、守りに入るか。
危機に向き合い、正面から攻めても無理なので、外部の支援を求めるか。

危機は、必ず乗り越えることができます。
それを、レジリエンス(人が困難から立ち直る力)と言います。

2013年4月17日水曜日

新学期:学校に行きたがらない

この春から新しい学校に入学しました。
でも、本人はあまり行きたがりません。
「前の学校の方が良かった。」
「友だちの行った別の学校の方が良かった。」
「今の学校は自分に合わない、良くない。」
などと言います。

もともとあまり社交的なタイプではなく、人見知りして友だちもそれほど多くありません。
人の話を聞けず、友だちとのコミュニケーションも苦労しているようです。
夜もなかなか眠れず、朝まで起きている時もあります。

親はどう接したらよいのでしょうか?
このまま放っておいて良いのでしょうか?
それとも、何か手立てを講じたほうが良いのでしょうか?

新年度は希望に胸ふくらます時期であり、また問題が生じやすい時期でもあります。
どうもちょっとおかしいな。大丈夫かな?
と思ったら、早めに対応することが大切です。時機を逸して遅くなると、回復が難しくなります。

基本的にふたつの場合が考えられます。
1)病気ではない場合:つまり思春期の困難な時期・反抗期が顕著に現れている場合です。
時間がたてば、本人の力で乗り越えられるはずです。
それを親はどう見守り、どのように接したらよいか。親の対応いかんによって、子どもが自分自身で乗り越える力を発揮できる場合と、親がじゃまになって発揮できない場合があります。

2)病気の場合:発達障害(アスペルガー障害)、子どものうつ病など、治療を要する心の病が新学期のストレスによって発症する場合です。
この場合、本人自身の力では乗り越えられません。専門家による治療が必要になります。

このどちらであるか、見極めることが大切です。
それによって放っておいて良いのか、親の対応を工夫すればよいのか、あるいは専門的な治療が必要なのか、大きく方向性が変わってきます。

一度、よくお話を伺わせてください。
お子さんご本人とお話しできれば、見極めることができます。
お子さんがいらっしゃらなくても、ご両親のお話を詳しく伺えば、多くのお子さんたちと関わってきた経験から、かなりの精度で見極めることができます。

パパの物語


有識者として原稿を依頼されましたが、個人的な体験でも良いということなので本音を書かせていただきます。「パパの子育て」とか「イクメン」は、私の体験に照らし合わせればあえて取沙汰せずとも自然なことです。それは、私の身近に「パパの物語」があったからだと思います。
まず、私の父親の物語。パパは群馬の山奥(今でこそ有名になった四万温泉)から、ママは愛媛県の海辺の町から東京に出て、お見合い結婚から核家族をスタートさせました。親類縁者たちから離れ、私と妹ふたりの子育てに孤軍奮闘したのだと思います。高度経済成長期の標準からすれば公務員だったパパの帰りは比較的早く、土日もふつうに家にいて、子どもたちによく関わってくれました。「もっとがんばれ!」と過剰に期待されることもなく、学区の都立高校に進学しました。アメリカ留学を希望した時も、「大学に行けなくなるぞ!」という高校担任の忠告をさえぎり、私を認めてくれました。
 次に、祖父の物語。家族の中で繰り返し伝えられる話を「家族神話」と言います。旅館業を営んでいた私の祖父はいつも家にいて子煩悩だったそうです。私のパパが幼い頃、寝ている体がふんわり浮き、父親が自分の寝床に持って行き一緒に寝ていたそうです。多くの物語の中でこの話が家族神話として記憶に留まっているのは、父から息子へと代々受け継がれる伝統に含まれるからでしょう。それを私は無意識に子どもたちに伝えるのだと思います。
 さらに、アメリカの父親の物語。留学中1年間お世話になったホスト・ファーザーは、午後5時に仕事を終え、5時半には家にいて、庭の手入れと食事の支度、夕食後には庭のテラスで日が暮れるまで近所の人たちとおしゃべりしていました。日本人の私にとって特筆すべきことですが、彼らはには普通のことです。
これらの物語は、精神科医として出会った父親の物語と大きく異なっていました。思春期の不登校やひきこもりなどの家族の多くには、物理的にも心理的にもパパがいません。仕事で不在がちだし、親子や夫婦の会話すらありません。その分、ママがぴったり子どもにくっついています。幼い頃はそれでも構いませんが、思春期になると親離れ・子離れが難しくなります。思春期はウチ(ママ)の世界から、パパ(ソト)の世界に飛び出します。緊密なママと子どもの絆にパパがクサビを打ち込み、夫婦関係を取り戻せば、子どもは自然にママから離れてゆきます。子どもだけを治療しても一向に良くならないので、家族全体を元気にできる家族療法を勉強しました。

さて、次は私自身がパパになった物語です。30歳で結婚した私は妻に家にいてほしくないと思いました。男が経済力と自由を占領した方がホントは気持ちよく、好きなことをできるのだろうけど、結局は家族を顧みず、仕事に埋没する男になっても面白くありません。妻が夕飯の支度をして私の帰宅を待つよりは、妻が自分を成就している方が、自分も同じようにできます。
今までの人生で一番嬉しかった瞬間を3つ挙げるとしたら、1)高校留学試験に受かった時、2)妻が私のプロポーズを受け入れてくれた時、そして3)妻の出産に立ち会い、長男に出会った時でしょう。親になった喜びをふたりで分かち合い、妻も私も働き続け、保育園と両親の力を借りながら子育てしました。私もパパとしてがんばっていたつもりでしたが、妻から、「あなたは口ではきれいごとばかりで、結局は私にやらせるのね」と言われていました。確かに、週末も仕事やゴルフに行ってました。
そんな妻も2年前、家族でスキーをしているさ中に心臓発作で急死。享年45歳でした。私は生涯経験したことのない深い悲しみと心の危機に直面しつつ、シングル・ファーザーとして格闘してきました。
悲しみは隠さず、子どもたちと共有するよう心掛けています。外食でさえ焼肉かスパゲッティか意見が合わない3人の子どもたちも、ママのお墓参りに行く時は必ず意見が一致します。4人そろって車で小一時間、三浦半島の公園墓地のママに会いに行きます。
子どもたちにとって、スキーは母親を奪った敵です。「もう絶対スキーなんか行かない」と宣言していた次男も、2年目となる今年の正月に友だち家族と一緒にスキーに行くことができました。
子どもたちと悲しみを共有しつつ、ふだんは父親の元気な姿を見せてあげたい。スポーツ好きな私は体を動かすことで心も元気になります。自転車で大田区から32kmの道を通勤し、テニスやスキーを楽しむ父親を見て、高2の長男はバレーボール、中2の娘は水泳、小6の次男は体操にがんばっています。
普段の炊事・洗濯は二世帯同居の母親が支えてくれますが、子どものお弁当は私が作ります。保育園時代の弁当はほとんど妻が作っていました。小中学時代は給食ですが、高校はまたお弁当です。保育園時代のママ友たちが「交代して作ってあげるわよ」と申し出てくれましたが、幸い家事の中で料理は好きな方です。当初頼りにしていた「男子弁当」の料理本を見なくても冷蔵庫の残り物で作れるようになりました。食事作りは子どもたちを養っている実感をダイレクトに得ることができます。ついでに自分の弁当も作り、外食が減りました。
中2の娘は気が強く、反抗期の真っ只中です。挑戦してくる無理難題に甘やかしたくはありません。厳しく限界を設定する一方で、娘にとっても甘えたりおねだりするのはパパしかいません。昨年、オーストラリアに住む友人家族が訪ねてきました。好奇心の強い娘は「遊びにおいでよ!」という誘いに乗りたい一方、まだひとり旅は不安です。「大丈夫だよ、行ってごらんよ。」私の父親と同じように娘を励まし、結果的にはとても楽しんできました。私が成田空港まで迎えに行くと、いつもの父親に見せるブスっとした顔。「あーあ、日本に帰ってきちゃった!」という気持ちは私もよくわかります。でも言わなくちゃと、とってつけた口調で一言「パパありがとう」。パパはそれだけで十分報われます。
多忙のため限られた時間の中で、子どもたちと気持ちがつながる瞬間の温かさを感じます。それはおそらく自分自身の父親との関係の中で育まれた感性です。妻を失った今の方が、私にとっても子どもたちにとっても一層かけがえのない親子の絆となりました。父親の物語は過去から現在、そして未来につながってゆきます。

すべての人は心の中に光と影を持っています。そしてすべての親は子どもを愛そうとします。親から愛された記憶が光の中にあると、子育てほど楽しく幸せなことはありません。反対に、それが影の記憶に埋め込まれていると、子どもと関わることがとても苦しくなります。それは私自身、そして私が出会うすべての家族に当てはまります。幸い、光と影は陰陽太極図のように循環します。私は、家族の支援者として、光の中で親子が関われるようなお手伝いをしたいと願っています。

小金井市男女平等情報誌「かたらい」へ書いた原稿

対話の中から答えが見つかる


知・生きがい・技能・・・

それらを本当に得るには双方向の対話が大切です。一方向の伝達では一応わかったつもりにはなりますが、ホントはわかっていません。

  • 私は高校の物理が苦手でした。授業で先生から理屈をなんとなく理解しても問題は解けません。自分で苦労しながら問題集をやってるうちに、何となく分かってきました。あ、なるほどね。こうすればいいのね。自分で納得できれば応用が利きます。
  • 大学の医学部では膨大な知識を教授から伝えらえます。国家試験対策の短期記憶には役立つが、実際に病気を治すには役立ちません。病院で実習して研修して、先輩の医師や患者さんと関わり対話しながら習得していきます。



生き甲斐も対話(関係性)の中から生まれます。親密な他者としての家族、パートナー、友人、仲間たち。あなたがいるから、私、生きていけるの、楽しいの。他者に必要とされることで、自分の存在価値が浮かび上がってきます。

親は子どもにどう関わったら良いか、、、という解決策も対話から生まれます。

  • どう接しがら子どもをやる気にさせることができるでしょうか?
  • 子どもが朝なかなか起きないとき、学校に行きたがらないとき、どういう言葉をかければ良いのでしょうか?

そういった質問をよく受けます。まさにそれがお知りになりたいことですね。
教科書的な一般論はお答えできるのですが、そのとおりやったからといってうまくいきません。
お子さんはどのような状況か、親は今までどのように関わってこられたか、それがどううまくいかなかったのか、、、などのお話を十分に伺います。その中から、「では、こうしてみては!?」という解決策が導き出されます。それがカウンセリングです。

心の支援者も同じです。
心理学やら、心理療法の理論を教授や教科書から習います。ふんふん、そういう理屈なのねと合点は行っても実際には使えない。クライエントと対峙して、あるいはスーパーヴィジョンや研究会でヴァイザーや仲間と対話します。その中で、ああなるほど、「ガッテン!・ガッテン!」を叩くことでほんとに習得していきます。
理論・知識の習得は、勉強しましたよという自信の獲得にはなるだろうけど、たくさん本を読んだから、たくさん大学で学んだからといって、臨床の腕が上がるわけではありません。
クライエントさんとの対話の中で、支援者はずいぶんたくさん学ばせてもらっています。
さらにそれを反すうして身につけるのがスーパヴィジョンであり、研究会です。
自分の支援体験を語り、相手(仲間・ヴァイザー)が彼らの体験を語ります。それを繰り返していく中で、相手の情報にではなく、自分の体験から「ガッテン」を叩くことで、ゴルフコースに出ても、戸惑わずフェアウエイをキープしながら、玉をグリーンにのせることが出来るようになります。

2013年4月16日火曜日

お医者さんって緊張する?

「(医者の)先生だと、どうしても緊張しちゃって言えないんです。」

今朝のニュースで「処方薬自殺」の話題が取り上げられていた。
医者から処方された薬を溜め込み、大量に服薬する、いわゆるOD (Over Dose)である。
自殺を食い止めるための薬剤師の取り組みが紹介されていた。薬局で入眠剤や精神安定剤を渡した患者さんをフォローして話を聴く。

ちょっと待って。それって医者の役割ではないの?

大量服薬を図った患者さんのインタビューが冒頭の言葉です。
確かに医者は権威があって、偉そうで、緊張してしまうのもよくわかります。
ましてや、心が弱っている患者さんにとって精神的な負担は大きなものだと思います。

それを考慮し、優しい雰囲気を作り、何でも気持ちを伝えられるような信頼関係を樹立するのが精神科医の役割です。
どんなに最先端の医療技術を持っていても、患者さんが何でも話せる安心感を抱けるよう配慮できない精神科医は役に立ちません。

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「先生は精神科医で、大学教授で、会う前は偉そうで怖いと思っていたのですが、気さくな先生で安心しました。」

というような趣旨のことを患者さんからよく言われます。
精神科医としての営業上、優しさを作っている面もありますが、それ以上に私自身のキャラとして偉そうな権威性が嫌いという面もあると思います。

もともと、学生時代はバリバリの体育会系でした。先輩・後輩のタテ社会の中で、権威を受け入れ、乗り越え、やがて自分自身が権威を担っていました。私自身が権威に何度も挑戦したので、偉そうな人は必ず挑戦されるものだと思っています。

偉そうにしている人を私は軽蔑しています。大きな組織をまとめるためには役割上権威性を持たないといけないのですが、必要以上に権威を振るおうとする人は、本当の弱さを隠すために鎧をまとっているように思えて仕方ありません。

私の「先生」たちは偉そうではありませんでした。特にアメリカやイギリス留学中に教えてもらった師たちは気さくに学生たちと振る舞っていました。自信がない師ほど怒ったり権威という防衛線を張り、馬鹿にされるのではないかという不安を隠します。自信がある師は防衛線を張る必要はなく、気さくに相手と向き合うことができます。

2013年4月15日月曜日

ブログのラベル

ここのところしばらくほったらかしにしてあったウェブサイトに手を入れている。
ついでにブログの記事すべて(160件ほど)にラベルを付けた。話題別に見やすく検索できるようになったのではと思います。
今日の段階で、記事の数は下記の通り。
  • 田村のつぶやき (76)
  • 思春期・ひきこもり (55)
  • 家族 (39)
  • 精神医療 (26)
  • 講座 (16)
  • 支援者 (12)
  • 夫婦・ジェンダー (8)
  • 震災支援 (5)
  • メディア (3)
  • スーパーヴィジョン (1)
思春期、ひきこもりあたりが一番伝えたいテーマなのだが、ちょっと「つぶやき」過ぎかな。
「精神科医」、「お医者さん」という固いイメージを崩し、素顔の私を理解していただきたく書いているつもりなのだが、、、

ジェンダーやスーパーヴィジョンあたりも伝えたい内容なのですが、もう少し書かないとダメですね。
理屈でなく、具体的な例なども書いていきたいと思います。

なお、だいぶ前に途中まで書いて「下書き」状態だったものを公開したら今日の日付になってしまいました。実際に書いたのはもっと以前ですのでご了解ください。

、、、と、これも「田村のつぶやき」になり、また数が増えてしまう。
単なる「つぶやき」とせず、いくつかラベルを追加して分ければよいのかな。

人と関わる安心感

昨日は、親身にじっくりと父母や私の話に耳を傾けてくださり、感謝いたします。初めてお目にかかった先生なのに、母はとても安心していたように見えました。

先日、初めて相談にいらしたご兄弟の方からのお礼のメールです。
病院(クリニック)に行くってとても緊張します。
どこか痛いところ・具合が悪いところがあるから行くんだけど、どれくらい悪いんだろうか、心配です。
先生になんて言われるんだろう?先生から怒られないだろうか。

私は自分の子どもが小さい頃、眼科に連れて行ったときのことを思い出します。角膜ヘルペスだった。
症状が落ち着き、先生からは「また来週みせに来なさい。」と言われたのだけど、もう治った(と自己判断した)ので行かなかった。
翌年、同じような症状が出たのでまた受診したら、先生はカルテをひっくりかえして、
「前回、来なかったでしょ!ちゃんと来なくちゃダメです!」
と叱られてしまった。

医者の立場からすればそうなんですよ。ちゃんと言いつけを守って薬を飲んで、治療を続けなくちゃ、こっちは一生懸命治療しようとしてるのに、責任を持てません。そりゃ、そうなんだけど、患者の立場からすれば、せっかく勇気を出して来たのに、怒られて。。。
娘と相談して、その医者のところには二度と行くのを辞めました。

安心して話せること。とてもドキドキ、緊張する。なかなかホントのことを言いにくい。人と人との関わりにおける安心感。それが家族関係の中でもなかなか得られない。ましてや専門家の先生とは緊張しちゃってうまく話せない。そうではなく、人との関わりに安心できる体験。それがひきこもる人にも必要です。まず、治療者との間に確固とした安心感を築きます。それをもとに家族間における安心感を醸成します。それを当事者である子どもにも伝えます。

人と関わる安心感が得られずひきこもっている人たちに、人と関わる安心感を伝える。それによってまた人と関わるきっかけをつかむことが出来るようになります。


親子の受験

今朝NHKニュースで受験シーズン特集として、最難関の学校に受かった高校生とその母親が映されていた。いかに子どもと二人三脚で苦労し頑張ってきたか。その体験からすべきこと、すべきでないことなどこと細かに。

数年前、韓国でも同じような話を聞いた。ソウル国立大学(いわば韓国の「東大」)に息子をふたりとも合格された母親が英雄として語られていたみたいな。

こういう話を訊くと、どうも違和感を感じてしまう。多大に影響を与える日本的な親子関係の伝統、その枠組みの中で、いかに良い影響を与えるかという言説が強化されていく。

どうしても違和感を感じてしまう。
僕自身の中学・高校時代を振り返ると、それはちょっと違うのではないだろうか。。。

親は、子どもに巣立つ安心感と自信を与える。
でも、どうしても不安と自信のなさを与えることもある。
基本的な部分を与えて、あとはほっておけばいいのに。
、、、と考えてしまう。
親子が関わりすぎてもあまり良いことはないと思うのだが。

長い診療時間

まだ開設1年で予約満杯状態ではない。
規定では面接時間を1時間としているが、次の時間に予約が入っていない場合など、予定を超過して長い時間がとれてしまう。

昨日も2時間。先日は3時間も面接してしまった。
さすがに3時間の面接はクライエントさんも私も疲れた。それは親子3人のガチンコ対決だった。
でもそれは子どもと家族が元気になるためには大切ななプロセスだったかもしれない。

これだけ十分な時間を費やすと、満足のゆく面接ができる。
当初の悩み(主訴)はだいぶ解決された。解決が進むとともに、その下に隠されていた深いテーマが浮上してくる。今すぐ解決しないと困るという質の問題ではない。しかし、よく考えると、それが不安の源泉であることがわかる。フルに機能した人生を送るためにはそこを避けるわけにはいかない。始めはわからなかった。当初の悩みが落ち着いた段階で、初めて見えてくる。

クライエントさんから;
「アメリカで活躍している人は、みんなパーソナル・コーチみたいにして自分のことを語ることができる精神科医を持ってますよね。そういうイメージでこれからも長くおつきあいお願いします。」
と言われた。
タブーの世界の精神医療ではない。強く、前向きに生きるための手段としての精神医療。
そうなんです。それが私の臨床のイメージなんです。

2013年4月12日金曜日

痛みのシェアリング

民間相談機関の相談員さんたちの研修を担当した。
みんながんばっている。
みんなこのブログを読んでくれていることにびっくりした。

研修では相談員さんたちの迷いがたくさん伝えられた。
  • クライエントさんにとって役に立ったか確認できない。むなしさを感じた。相談の難しさを感じた。
  • 相談した後も気になる、心の中に残りずっと引きずってしまう。心残りだ。
  • 自分のやり方がうまくなかったのじゃないだろうか。
  • もっと〇〇すればよかったと反省している。
  • どうなのかなあ、、、迷いながらやっている。
  • 支援者として自信が持てない。気持ちに余裕がなかった。
  • もっと自分の思いを伝えたい。伝えないのは事なかれ主義なのじゃないだろうか。もう少し相手の気持ちに深く入っていきたい。でも、深く入って良いのだろうか。伝えてしまって良いのだろうか。どういう言葉で伝えたらよいのかわからない。
みんな戸惑い、悩み、反省して、迷っている。
どうしてよいかわからない。自信がない、、、

相談員さんたちは、支援者としての成長してゆきます。
でも、それはそう楽なことではない。苦労します。なぜなら、無傷では成長できないから。
傷つきながら、成長していきます。

今の世の中は傷つくことへの忌避、傷つく不安が強いように思います。なるべく傷つかないように回避します。
傷つくことが怖い。
その怖さ(弱さ)をカバーアップするために一生懸命こころの砦を築きます。

母性は、傷つくことを避け、安全を守保証します。でも母性が行き過ぎると安全な場所に停滞し、変化を拒み、成長できません。
父性は、わざと傷つけ、傷ついた人を承認します。ダメージを受け、そこから回復するプロセスが変化と成長につながる。
母性と父性、この両者のバランスがとれて、人は安全に成長することが出来ます。

それは、子どもの成長も相談員さんの成長も同じこと。
思春期は傷つく年齢です。子どもから大人へ成長します。
カウンセリング・精神療法も同じ考え方です。傷つき、あるいは傷つくことを恐れ停滞しているクライエントに、安全に傷つける環境と信頼関係を提供し、変化・成長していきます。
支援者の研修やスーパーヴィジョンも同様です。支援者として傷ついた自分を素通りせず見つめなおし、そこから何が得られるのかを見出していきます。

2013年4月8日月曜日

思春期のとまどいとひきこもり

...つまらない正論を述べるようだけど、いろんな人がいてそれで世界が成り立っている。他の人には他の人の価値観があり、それに沿った生き方がある。僕には僕の価値観があり、それに沿った生き方がある。そのような相違は日常的に細かなすれ違いを生み出すし、いくつかのすれ違いの組み合わせが、大きな誤解へと発展していくこともある。その結果故のない非難を受けたりもする。当たり前の話だが、誤解されたり非難されたりするのは、決して愉快な出来事ではない。そのせいで心が深く傷つくこともある。これは辛い体験だ。
<村上春樹「走ることについて語るときに僕の語ること」文春文庫。p.37>

...もちろん十六歳というのはおそらくみなさんもご存じのように、とびっきり面倒な年齢だ。細かいことがいちいち気になるし、自分の立っている位置が客観的につかめないし、なんでもないことで妙に得意になったり、コンプレックスを抱いてしまったりする。
<村上。p.229>

これは思春期に誰もが一度は経験する、十分に理解しうる心情です。


思春期のA君曰く;
 確かに自分はヘンだと思う。自分にはキモいところがある。それが何だか具体的にはわからないし、口では言えないけど。
 自分は空気を読むのが得意でないんです。どうも自分はまわりから嫌がられていたらしいんです。でもまわりの人のホントの気持ちなんてわからない。
自分のことを「キモい」と見られるのがイヤだし。
あの人、自分のことを何を思っているのだろう...といつもまわりを気にするのがとても疲れるんです。


多くの場合このような心情は一過性で、知らぬうちに次の段階に進んでいる。

 しかし年齢を重ねるにつれて、そのようなつらさや傷は人生にとってある程度必要なことなのだと、少しずつ認識できるようになった。考えてみれば、他人といくらかなりとも異なっているからこそ、人は自分というものを立ち上げ、自立したものとして保っていくことができるのだ。
<村上。p.37>

このように認識できるようになるのが思春期の心の成長です。それは、さまざまな経験(失敗して傷つく体験と、小さな成功を得て少し自信を獲得する体験)を糧にして、自然に心の中で起こります。

年を取るにつれて、様々な試行錯誤を経て、拾うべきものは拾い、捨てるべきものは捨て、「欠点や欠陥は数え上げればキリがない。でも良いところも少しぐらいはあるはずだし、手持ちのものだけでなんとかしのいでいくしかあるまい」という認識(諦観)にいたることになる。
<村上。p.229>


この「諦観」に至らず、他者との関わりによる傷つきをシャットアウトしたのがひきこもりです。それは傷つ体験を避ける自動防御機構とも言えます。
 一旦シャットアウトして守りの体制に入ってしまうと他者との交流が途絶え、失敗体験と成功体験の試行錯誤ができなくなってしまいます。

A君いわく:
学校に行けないのか、行きたくないのか自分でもよくわからないんです。
今の生活を手放したくない。もしかしたら、単に嫌がっている、ただの「わがままな子ども」なのかもしれない。
もしそうだとしたら、とても怖い。


守りの体勢を打ち破るきっかけを失い、ひきこもりが長期化すると、変化への抵抗が強くなり、ますます硬直化してしまいます。

A君いわく:
自分はこだわりが強いんです。自分自身をしばってしまう。

これから、適応して生きていくためには柔軟さが必要なことは十分わかってます。
考え方を変えることで、外に出るようになるのでしょう。
でも、そういう気になれないのです。
自分が方針を転換をすればいいだけだけど、順番を変える気持ちに持っていけない。
初めに決めた予定を、現実的にベターな策に切り替えていくことができません。
それは変えたくない。変えてまで出たくない。
普通の人はやらざるを得ないからやってるのでしょう。
僕の場合はアタマが堅いんです。柔軟性がないのです。
こういうことって小さい幼少時期からあったと思う。でも中学まではなんとかやってきたけど、高校くらいからこなせなくなってきました。

これほどまでに言えれば、決心して実行すればいいだけじゃないか!
そう思われるでしょう。
実際、A君は今、自分自身を変革している最中です。
カウンセリングにやってきて、ここまで言語化できる人はまれです。多くはカウンセリングにやってこないし、やってきたとしてもこれほどまでには言葉に表現できません。
言わないと、何を考えているのかわかりません。でも、このような気持ちはひきこもっている多くの人に共通した心情です。一見、何も考えずに楽をしているように周りからは見られがちですが、内心とても葛藤しています。

では、どうやったら変われるのでしょう?
ひきこもりの悪循環から抜け出すことができるのでしょう?

さなぎ状態のひきこもり青年たちは、一見何も考えていないようで、実は上記のように深くとまどい、悩んでいます。決して現状に満足しているわけではありません。変わるインセンティヴは十分あります。あと必要なのは背中を押してくれるような試行錯誤体験です。

 カウンセリングに繋がっていれば、カウンセラーとの交流がその体験を生みます。
 ソトの世界のだれとも繋がっていなければ、唯一繋がっているウチの世界の家族のみが試行錯誤体験を与えるチャンスです。

2013年4月6日土曜日

Counseling 2.0


Web 2.0とは、メディア関連の実業家であるTim O'Reillyが2005年ごろ提唱した概念で、従来の送り手から受け手への一方的な流れであった状態(Web 1.0)が、送り手と受け手が流動化し誰もがウェブを通して情報を発信できるように変化した仕組みのことだ。今までの消費者(情報の受け手)が書き手(情報の発信源)になったもので、たとえばGoogle(ロボット型の検索エンジン)、Wikipedia、Facebook, ブログ、ツイッターなどが該当する。

先日のNHKクローズアップ現代でGovernment 2.0(ガバメント2.0)という概念が紹介されていた。同じティムオライリー氏の提唱で、市民がネットを通じて政治や行政に関わる仕組みだ。

市民と政府の関係を根本的に再編し、政府は自らサービスを提供するだけでなく、民間がさまざまなサービスを開発して提供するためのメカニズムそのものを提供するようになったら? つまり、政府がプラットフォームになったら、どういうことが可能になるだろう?」(ティム・オライリー)

番組を見ながら考えた。
Web 2.0やGov 2.0があるのなら、その延長上にCounseling 2.0があっても良いじゃないか!
これは、私が20年来、試行錯誤してきた実践をよく説明してくれる。

Counseling 2.0の特徴は次の通り。
  • ネットを活用する。
  • 送り手と受け手が流動的で、一方向的ではなく双方向的である。
  • だれもが送り手としても、受け手としても参加できる。

従来のカウンセリング(Counseling 1.0 )と発想が全く異なる。

Counseling 1.0) カウンセラーとクライエントが二極化している。
 カウンセラー(セラピスト)は専門家たるべき。その知識と技能をしっかり持っていて、仕事として対価を得る。
 クライエントは悩みや問題を抱えた消費者である。問題や悩みを抱え、どうしてよいか自分ではわからず、他者の救いが必要とする。

Counseling 2.0)カウンセラーとクライエントが流動的である。
 人はだれでもカウンセラー(支援者)であり、クライエント(当事者)の両方を持っている。当事者性を持つからこそ支援者性を発揮でき、支援者である動機づけの背後には必ず当事者性が含まれている。
 人はだれでも当事者性、つまり人生の生きづらさ、障害、否定的な体験を持っている。それをどうにか辻褄を合わせ、なんとか幸せに生きる力(レジリエンス)を持っている。しかし、それが破たんすることは往々にある。そういう時は、さまざまな形で他者からの支援を必要とする。自分が気づく以上に人は頻繁に傷つくものであり、支援も必要とする。その事実から逃げ、自分ひとりで頑張ろうと強がっているだけだ。

  • 人は、人との関わりの中で傷つき、問題や悩みが生じる。
  • 人は、人との関わりの中で救われ、心を癒すことができる。
 人はだれでも支援者性、つまり他者と関わり悩む人を救う可能性を持っている。有用な情報やアドバイスを提供する場合もあるが、それがなくとも相手に寄り添い、その存在を認めることにより人は安心感を回復し、自ら前に進む勇気を獲得できる。

 人と関わることは救いにもなるし、傷つける可能性もある。

1.0) 支援者は専門家としての自覚を持ち、クライエントを守り、傷つけない責任を負う。そのために秘密を守り、支援方法についての専門性の獲得・維持確保(トレーニング)を怠らない。
 相手を傷つけず、有効性を保証する責任性は支援者が負う。

2.0) 支援する人はもちろん研さん努力は必要だが、どんなにやったって傷つけないという保証はない。実際の現場では、有資格者なのに無自覚に相手を傷つけている場合がよく見られ、そのことは密室に葬られ公にされにくい。
 相手を傷つけず、有効性を保証する責任性を支援者ばかりでなく、他のプラットフォームに分散できないだろうか。
 たとえば、メール相談におけるシェアリング。返信文を送信する前に、組織内で読み合い確認する作業。相手に返すメッセージは必然的に玉石混交である。多くは相手を支援する「玉」であっても、どうしても意図せずに相手を傷つける「石」が混じりこんでしまう。それをフィルターにかける仕組み(プラットフォーム)をメディアの中に構築できるかもしれない。

1.0) あくまで現実世界の中での活動である。対面(面談)で行い、電話やネットなどのメディアを介した支援は考えにくい。というか邪道と考える。

2.0) ネットなどの仮想世界で活動できる。だれもが当事者・支援者として広く参加すると良い。

1.0) マンツーマンの深く、丁寧な支援を行う。物質的な支援に対応する。たとえば、
  • 薬や手術などの医学的治療
  • 身体的ケア(デイサービス、身体介護など)
  • 暴力・危険からの保護(DV、児童虐待など)
  • 経済的支援(生活保護、ライフプランニングなど)
  • 就労支援(ハローワーク)
  • 現実との接点(SST、デイケアなど)

2.0) メディアを介するので上記の物質的支援はできない。
情報不足、自信喪失、孤立、社会的偏見・差別、過去のトラウマなどによる心理レベルでの支援に有効である。
たとえば生きる悩み・自殺念慮、若者のモヤモヤ、子育て不安、高齢者の孤独、虐待、アダルトチルドレンなどトラウマの後遺症(PTSD)、依存症(アルコール依存症、禁煙プログラム)、社会的マイノリティー(LGBT、在日)など。
基本的に本人の気の持ちようで、前向きになることで問題解決する可能性を秘めており、そのプロセスを他者が横から支え、心理的にエンパワーするイメージである。


この発想に至る私の経験
・いのちの電話、英国Samaritans)自殺予防の市民活動。研修を受けた一般市民がBefriending、つまり心理学的専門性ではなく、受容・共感をメインにした交流により隣人ポジションから心の危機を回避する実践。アクセスのしやすさ、孤独を回避できるという効果がある一方で、相談員の育成や当事者性が高い支援者へのケアが課題だ。
・NHK「35歳」)20年前のNHKの番組で35歳世代を集めたネットとテレビのメディアミックスの駆け出し。当時はインターネットではなく、Nifty-Serveのフォーラムを利用した。数十名のグループの凝集性の高さ、共感性を感じ、一歩間違えばすごい嵐も体験した。
・癒しのML)インターネットのメーリングリストを利用した自助グループ。「癒されるニーズがある人たち」が集まり、高い共感性と癒しの可能性とともに、いったんこじれたら嵐の悪循環にはまり、管理できずに挫折した。その中で出会った人とはその後もごく少数であるが関係が続いている。当事者が秘める高い共感性と危険性を実感した。
・NHKひきこもりサポートキャンペーン、東京都ひきこもりサポートネット東京都若者総合相談(・э・)/ 若ナビ)公的機関としてメディア(電話とメール)を活用した支援活動。相談員の専門性の高さに依存せず、チームとして複数の人が関与(シェアリング)することにより、高い信頼性・有効性を担保した。


今後の可能性
多様なメディアへの対応
据え置き型としては茶の間に一台の家デン、デスクトップ型PC。携帯型としてはポケベルから始まり二つ折りガラゲー、スマフォ、さらにタブレット端末へと進化している。これらに対応できるプラットフォームが求められる。

ネット上の新たなプラットフォームの提案
一案として、
・短い文章のやり取り(Twitterの140文字でもかなりの内容を伝えられる)
・即答性:電話や面談のようなリアルタイムにできるだけ近づける。電子メールベースで3日も4日もかかっていてはダメ。
・安全性・信頼性。どうやって質の高い支援ができるか。有効な支えとなるメッセージを増やし、傷つける可能性のあるメッセージを少なくするか。
・支援者の質の向上とともに、だれもが支援者性を発揮できるようなシステムが作れないか。そのためには質の高い支援者を限定するより、質の高いやり取りを横から見守るフィルター機能を充実させるのが良い。
・母体となる組織をどこにおくか。ネットの中で完結した組織だと「2チャンネル」のような怪しい活動になってしまう。母体組織は現実社会での信頼性がなければならない。私のこれまでの経験は市民活動、公共機関、行政機関などであった。今後、どのようなカタチが好ましいのか。

2013年4月1日月曜日

続:不安のスパイラルと耐震構造

前回のブログ記事について、みなさんからメッセージをいただきました。
応援ありがとうございます。
でも、ちょっと違うんですよ。

> > 田村先生

3月24日のブログ「不安のスパイラル」を読みました。
読んで思わず筆をとらせていただきたくなり・・ではなくキーを打っています。
「心の支援者」は辛いですね。私がそのような状態になったら、やはり、自分も仕事の中での会話を振り返り「あれで良かったのか」と自問すると思います。そして悩むと思います。
 でも、亡くなられた方には他の様々な要因があって、そのような方法を選んだのだと思います。世の中には不可抗力ということもあります。
 仕方ないことも・・・・・。
 どうぞご自身を責めないでくだい。
どうぞ元気をだしてください(*^_^*)

 心の支援者にも心のケアが必要ですね。

そこなんですよ、私が伝えたかったことは。
支援者は常に揺れているんです。
生徒から見れば先生は、
クライエントからみればセラピストは、
弟子から見れば師は、
(大げさに言えば)岩のように不動でどんなことにも動じず常に冷静沈着に判断しているように見える(というかそうあってほしい、そうでなければ困るわけだ)けど、実際にはそんなはずないですよね。人間は、聖者でない限り、日々常に揺れています。

支援者に求められる資質は、
1)そうたくさんは揺れないこと。
2)自分が現在どの程度揺れているのかを常にモニターしていること。
3)揺れたときは素早く察知して、対処行動(自分自身のケア)をとれることです。

 私の今回の揺れは、その日の晩にブログに書いた時点で収まっていたんです。
 もし、それ以上大きな揺れだったらブログには書かないでしょう。そのような姿は公開せず、スーパーヴィジョンなどの機会を利用して自分の中で整理していたと思います。

私が支援者として目指している姿は、高層ビルの耐震構造に例えれば「柔構造」なんです。自分の揺れをあるがままに認め、しばらく揺れても決して倒れずしっかり大地に立ちます。そうすれば、クライエントの揺れを敏感にキャッチし、共に揺れることができます。揺れても大丈夫。心配せずに揺れ続け、収束するための手立てを焦らずに講じ、やがて収まるのをゆっくり待つことができます。クライエントは、このままだと将来倒れてしまうのではという大きな不安を抱えます。支援者はそのような不安に耐え、きっと回復するはずという安心を与えます。

私が若い頃は支援者は(あるいはだれでも人は)強い風雪にもびくともしない「鋼構造」であるべきと思い、そのような強さを求めてきました。ふつうはそれで構わないし、そうするべきなのでしょうが、心の支援者としてはあまり良くないと思います。なぜなら、鋼構造は揺れないことを前提に置いてしまうので、クライエントの揺れを敏感にキャッチしにくくなります。揺れを体験しないので理屈でしか理解できず、理論的に対処しようとします。それでも問題は解決するのでしょうが、果たしてホントの癒しに繋がるのか疑問に思います。

また、鋼構造では自分が揺れていない(正しい)ことを前提に置いてしまうので、自分が揺れた時も気づきません。世の中が歪んで見えても、自分が揺れている(間違っている)からそう見えるのだとは思わず、相手が揺れているに違いないと思い込んでしまいます。不合理な現象を自分の問題としてとらえることができず、相手の問題として認識します。それは「投影」というプロセスであり、支援者・クライエント間でも、家族などの人間関係でも、よくみられることです。

本当の「強さ」はびくともしない「鋼構造」ではなく、柔らかく揺れ続ける自分に耐える「柔構造」だと思います。そのような状況を自分自身に課すために書いたのが前回のブログでした。