2019年10月20日日曜日

愛着システムと不登校・ひきこもり

なぜ、日本やアジアにひきこもり・不登校が多いのか?

国際学会で何度も発表するたびに、国内にいたら気づかぬ視点が発展します。
今回も、タイとオーストラリアで二週続けて発表する中で気づいたことを書きます。

Hikikomoriは日本・アジアだけではありません。
今回も、オーストラリアの学会で、地元の人がhikikomoriのケースについて発表していました。演者は日本に来たことのあるセラピストでした。発表そのものは惨憺たる内容でしたが、どの文化でも日本と同じようなhikikomoriは存在し、近年増えてきています。ただ、その頻度や、まわりの人が「問題」として認知する(周りが騒ぐ)程度は日本の方がはるかに高いです。個々のクライエントとその家族レベルを超えて、社会レベルで問題にするってことが日本の特徴です。

どうやって「ひきこもり」が多いことを比較文化的に説明できるか??
これから書くことは、先週に書いたブログ:

ひきこもりは日本だけ、それともアジアの現象?

の中の、
「5. 一生続く世代間の愛着関係」
で述べたことの発展形です。

どうやって「ひきこもり」が多いことを比較文化的に説明できるか??
そのために、愛着理論をちょっといじって発展させてみました。
(このあたり、愛着理論をそのまま信奉している人たちにとっては許しがたいことと思いますが、理論的枠組みも時間と文化的な多様性に基づいて進化していくべきでしょう。とりあえずここに記述しておいて、もう少ししっかり元の理論も勉強します。)

この世の中は、危険なことで満ちています。自分の命が、生活が、安全が脅かされる可能性と常に向き合っていかねばなりません。
その中で、どうやって安心感を得るか。それが愛着です。
安心感がなければ、危険性を避けるために、いつも縮こまっていなければなりません。(そのひとつの形が「ひきこもり」です。)
安心感は一人では生み出せません。
人との関わり中で生み出されます。
自分はこの世の中で孤独ではない。
自分を見守っていてくれる人がいる。
自分のことを認めてくれる人がいる。
自分を大切に思っていてくれる人がいる。
そして、その人は決して裏切ることはない。ずっと自分の味方でいてくれる。
そのような確信が安心の愛着(secure attachment)です。
それが得られないと不安な状態になります。それが心の非安心(insecure attachment)です。心の問題のリスクが高まります。

改定1)関係性の中で生まれる愛着タイプ

a) 人の心が安心(secure)に傾くか、非安心(insecure)に傾くか。それは心のもっとも根底にある基本的なあり方ですが、そのでき方が心理学の理論によって異なります。
元々の愛着理論は精神分析の伝統の中で生まれました。つまり、幼少期の体験がその後の人生を決定づけるという考え方です。乳幼児期に保護者との間で形成された愛着のタイプ(secureか、insecureか)は心の「鋳型」として成長した後も残り、その後に形成する様々な対人関係(友だちとかパートナーとか)のあり方も、幼少期に形成された元々の鋳型に沿って決まっていきます。まあ、そういう考え方があっても良いでしょう。心理学は全て仮説ですから。

b) 認知行動療法では、その鋳型(心のくせ)は学習されたものであり、そのことに気づき、学習し直せば、変化しうるという考え方です。

c) システム理論では、鋳型説を否定し、愛着のタイプはhere and nowの関係性の中でいくらでも塗り替えられるという考え方です。現在維持されている関係性が安全(secure)であれば、人は安心感に満ちた関係性(secure attachment)を作ることができます。
逆に、過去が安全であったとしても、現在が非安全な関係性に変化すれば、人は安心の関係性を作ることができなくなり、築こうとする関係性は非安心(insecure)に傾き、不安定になります。そのような状況からひきこもりをはじめ、様々な精神病理が出現します。

まあ、どの理論が正しいか正しくないかというわけではありません。
私はシステム理論に準拠していて、それがもっともしっくり納得できますが、「心の鋳型説」もそうなんだろうなぁと思ったりします。しかし、鋳型を作り直すのは大変だしそれは無理なんじゃないかと悲観的になるので、支援するときにはシステム理論の仮説を用います。

以上が愛着理論の改定その1です。

改定2)一生続く親子の愛着

オリジナルな愛着理論では、愛着の形成は乳幼児期に限られていました。
その後、大人の夫婦(パートナー)間の愛着として大人の愛着という概念に発展しました。

私は、それをさらに発展させてしまいます。
親子間の愛着は一生続きます。しかもそれは親から子どもへ備蓄されるだけではなく、子から親へも備蓄されるという双方向的なものです。

この考え方は、子どもが親離れ(leaving home)したら親子はもう離れて別の家族になる。という欧米の独立主義的な家族観ではどう考えても生まれてこない発想です。

親が安心していれば、子どもも安心します。
子どもが安心していれば、親も安心します。

親の七光り)本来は「権力を持つ親を持った子供がその恩恵を受ける」といった意味ですが、それを拡大解釈して「親がしっかりしていれば、子どももしっかりできる」とすれば、
子の七光り)も成り立ちます。「子どもがしっかりしていると、親も幸せになれる」
韓国で以前、三人の子ども達をソウル国立大学(日本の東大みたいなもん)に入学させた母親が本を書いて社会的なヒロインになりました。
私の子どもたちも順調な道を歩んでいます。すると父親である私もその部分において多くの幸福感を得ることができます。子どもが順調でないと、親はとても不安になります。私にもその経験があります。

「親孝行」は親子間の愛着のひとつのスタイルです。親が困っている時、子どもは親を助けようとします。特に親が老いて自立した生活が困難になると発揮されます。社会的養護が発達してきましたが、それでも子ども世代は親に関わろうとします。

スムーズな親孝行が成就するためには、高齢の親と子どもとの間に安心の愛着関係が築かれていることが前提となります。それが非安心だと葛藤が再現されます。

事例)親から安心感を得られず、成人しても老親から愛着を求め続けるのだがうまく得ることができず、insecure attachment mixed type(不安と拒否の混合)の親子がいます。親も子も相手に承認を求めるのだが、得られないために拒絶して接触を避けたり、交流しようとすると葛藤から攻撃に転じて結果的に傷つけてしまう。そのために不安感が増強され、非安心のパターンから抜け出せない。この親は80代で、子は50代です。子世代である人は自分の子どもにも葛藤を投影し、その思春期の子は臨床的な問題を生じています。

子ども世代は、愛着の備蓄源は保護者(親)のみです。
大人世代は、いくつかの備蓄源があります。
・夫婦(パートナー)間の愛着。
夫婦がお互いに向き合い、安心した愛着関係を築いていたら、親子の愛着利用しなくても大丈夫です。
例えば、私は両親が人生を終わるプロセスで色々支援しましたが(親孝行)、そのことで私自身がブレることはありませんでした。私は他の愛着の備蓄(ないし鋳型)を持っていたと思います。
老親が病気になったり亡くなることで、かなりブレて臨床的な問題を呈した人(4−50代)が多くいます。そこにはパートナー間の安心の愛着が欠如していたりします。また親との愛着も安心型ではなく非安心であったりします。
私の母親は夫(私の父親)を亡くすと、あっという間に認知が低下し、後を追って1年半後に亡くなりました。母親にとって、夫との愛着を失ったことは大きな痛手だったのでしょう。息子である私は、そこまでカバーできませんでした。
この辺りは欧米の愛着理論と同様に、大人の愛着対象は夫婦間がprimaryです。Secondary attachmentとして親子関係が存在するという点が欧米と異なります。

夫婦間の愛着がうまくいかず、疎遠であったりすると、それが他の人に投影されます。
よくあるのは、子どもへ投影されること。典型的には、母親が夫からの愛着を得られず、子どもの中で一番聞いてくれそうな人を選んで、自分の気持ち(夫への不満など)を伝え理解者であることを求めます。子どもは親の保護者役をやらされ、頑張れている時は良いのですが、くたびれてくると、その負担のために臨床問題を生じたりします。
あるいは、夫婦の愛着を得られず、家庭外の人に愛着を求めます(浮気)。

・家族外の社会サポートからの備蓄
家族以外からも、友だちや社会の所属集団、あるいはカウンセラーなどから愛着の備蓄を得ることも可能です。それができるのは思春期以降の人です。幼い子どもは難しいでしょう。
カウンセラーはそのことを利用して不安の強いクライエントを支援できます。
また、幼い子どもに対するカウンセラーの役割は限定されます。

改定3)社会の準拠集団の中の愛着

これも独立主義(indivldualism)的な社会には生まれてこない概念でしょう。
集団主義的なアジア社会、特に日本ではこの要素が強いと思います。
若者は家庭から自立するプロセスで、家族に取って代わる愛着システムを築きます
自分にとっての居場所。自分が自分でいられる準拠集団。
学校に行っていればクラスの仲間、社会人であれば職場の仲間です。個別に会う友だちではありません。昼間の時間の多くを一緒に過ごし、その中に留まっていることが必要な所属集団です。
その中で、お互いに眼差し合い、気にし合います。いわゆる空気を読み合う空間です。空気をちゃんと読み、周りの人から自分が認められ、理解されているという感覚を得ることで、安心感が成立します。それを得られず非安心であると、「KY」になり、その場にいることが苦痛になります。日本では、どこかに所属していることが生きているためにどうしても必要です。
そのような安心の所属集団の形成に失敗すると、その場に居づらくなり、ひきこもります。
欧米では、このような愛着はあまり存在しません。クラスや職場にいても、お互いに眼差し合い、空気を読み合うことはありません。だから「KY」もあり得ません。ひきこもる必要もなくなります。

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愛着システムにおける支援者(セラピスト)の役割

このように考えていくと、セラピーも新たな考え方が生まれます。
私がやってきたこととそう変わらないと思いますが、その背後の考え方が変わります。

セラピーの目的)生きる安心感の醸成=安心の愛着(secure attachment)の形成

安心の愛着は幼少時に作られた心の鋳型ではなく、今現在の関係性によって形作られます。そういう風に考えると、セラピストが関与することにより、安心感を生み出すことができます。
IPと関わることができれば、二者関係の中で。
IP不在でも家族と関わることができれば、家族システムに治療者が加わり、治療システムを作ります。
さらに、親族・祖父母や学校関係者なども加わり、拡大治療システムに関与することもできます。
安心の土壌を作るためには、愛着の元々の定義に立ち戻ります。
・自分を見守っていてくれる人がいる。
・自分のことを認めてくれる人がいる。
・自分を大切に思っていてくれる人がいる。
・そして、その人は決して裏切ることはない。
そのような関係性を築くために必要なことは、
・各々のメンバーが十分に自分を表現できる環境。それは人間なら誰もが持っている強み(自信)弱み(不安)を隠すことなく伝えられること。
・システム内の人がそれを理解し、受け止められること。
です。いわゆる「共感」という言葉も当てはまりますが、ここで大切なのはセラピストの共感性だけでなく、システム内の人たちがお互いに共感しあう環境です。
共感性は意図したスキルでも能力でもありません。安心した環境の中で自然にできるはずのことです。
しかし、その自然さは誰でも簡単に成就できるというわけではありません。

支援者がどうシステムに入っていくかということが重要です。
支援者が入ることにより、システムを安心に傾けることも、不安に傾けることもできます。それは意図した介入や技術ではなく、支援者自身の愛着状況によって左右されます。
支援者が支援システムの中で安心感をキープできれば、システム全体を安心の方向に持ってゆけます。また、その逆もありえます。
支援者はクライエントたちに促すことと同じように、自分の本当の気持ちを伝えられるか。
支援者自身の強みと弱みも含め、本当の自分をどう伝えられるか。クライエントはその様子を見ながら自分のことを表現します。
また、クライエントたちの不安の気持ちを受け取っても、揺らぐことなく安心感をキープできるか。

そのためには、セラピスト自身がいかに「しっかり」していられるかが問われます。
Rogersのいう自己一致 (Congruence)ないし 純粋性(Genuineness)、
Bowenのいう自己分化(Self-Differentiation)
などが参考になります。
言い方、概念としての積み上げ方は異なりますが、結局は同じことを言っているように思います。

そのセラピストの「しっかり」さは、その人の持つ属性ではなく、育てていけるものだと思います。
理屈を勉強しても、臨床経験をたくさん積み上げてもできません。
セラピスト自身が安心したシステムの中で、自分自身の安心感を磨いていくことが大切です。
その場を提供するのが私の考えるスーパーヴィジョンです。

2019年10月16日水曜日

流浪の民

さすがに海外に行き過ぎかなって思います。
台風被害の影響でタイからの帰国が二日遅れ、月曜日に成田に帰国して、そのまま高山村へゆき古民家の片付けをみんなと一緒にやって、火曜日は渋川で診療して、本日水曜日はオーストラリアに向かう飛行機の機内でネットを繋げています。

春と秋の学会シーズンには、海外出張がしばしば重なります。
若い頃は、自分から志願して演題を申し込み、緊張して口頭発表してました。どうせわざわざ海外まで行くなら、参加するだけじゃなく発表しなくちゃ。
今では、自分から言い出さなくても、相手ら招待してくれるようになりました。タイでもオーストラリアでも発表のてんこ盛り。1) まる一日のpre/post-conference workshop、2) plenary session基調講演、3) 2−3人の人たちとのround table discussion。話すことはだいたい決まってます。「ひきこもり」の現状と日本の家族についての文化的な視点:なぜひきこもりが日本に多いのか(他の国にもあるけど日本が圧倒的に多い)、それは文化の要因があるのか、どうやってその問題を文化的に解決しようとしてるのか、、、と言ったテーマです。
若い頃は国内の学会にいくつも入っていたけど、今はひとつだけ(日本家族療法学会)に絞りました。むしろ海外の学会に参加する方が多くなりました。アメリカの、ヨーロッパの、国際の、アジアの、家族療法関連学会に。

タイー東京ー群馬ーオーストラリア。
それに病院の当直も入って目まぐるしく移動しています。
朝、目覚めると、寝ぼけて、あれ一体ここはどこだっけ、、、と確認することから1日が始まります。

馴染みの場所を離れ、別の場所に行くとテンションが上がり、新たなアイデアが生まれます。日本でルーチンの日常をこなしている時には、あえて「日本」のことは考えません。海外に行き、日本のことを、ひきこもりのことを、あまり馴染みのない海外の人たちに説明しようとする時、日本の基盤を離れ、海外でのuniversalな基盤(視点)から日本のことを客観的に眺める視点が現れます。新たな視点が生まれます。

Stability and Change 安定性と変化

大学を定年前に早期退職したのは、50代のうちに老後のベースを確立しておこうと考えたからです。広尾に腰を落ち着けていれば良かったのに、8年ほどでまた変化を求めたくなってしまいました。

群馬への移住と、新しい形の臨床。
それを一から創り上げていくのは骨の折れる仕事なのですが、ひとところにじっとしていられず「変化」を求めてしまいます。それが私のライフスタイルなのかもしれません。
まだ、それを実行できるだけの気力と体力を備えていられることはラッキーかもしれません。同世代の仲間たちは、会社を退職し、人生の店じまいを、終活を考え始めている年頃ですから。

2019年10月14日月曜日

大型台風で空港に足止め

チェンマイで開かれた学会の帰路。
大型台風の影響で、バンコック空港に足止めを食った。

土曜のお昼に帰国便が立つはずだったが、台風予報をみるとまず無理だろう。
2日前にタイ航空に電話して、半日後の便に変更した。

当日、空港カウンターに行ってみると、その便は遅れるという。また夜の10時ごろ来てくれという。10時間も空港で待機していないといけないのか。空港の近くのホテルに駆け込み、部屋で待機することにした。
10時間後に空港のカウンターに行っても、まだ飛行機の目処が立たないという。翌日の朝の8時に来てくれという。仕方がないのでまたホテルに戻る。
帰国の翌日に診療と研修会を予定していたので、メールやLINEで各方面に連絡して予定を全てキャンセルした。
翌日の朝に行っても、まだ埒が明かない。その日の夜の深夜12時に飛ぶという。一応、発券してもらい、またホテルに逆戻り。
結果的には、1日半、足止めを食ったことになる。よくテレビで報道されるような、ホテルのロビーに毛布をかぶってという具合ではなく、ホテルの部屋でのんびりできたから良かったけど、いつ出発できるかわからない状態で、空港の出発ロビーと空港ホテルの間を4往復くらいしたか。空港は巨大だから、空港ホテルとの移動にも片道歩いて10分くらいかかる。

国際線では、このようなトラブルが時々あるんだよね。私も何度か経験しました。
急に飛行機がキャンセルになったり。でも今回のように自然災害で遅れたのは初めての経験。

まあ結果的にはのんびりできて、ホテルのプールに浸かったり、ベッドで昼寝をしたり、ためていた原稿を書くこともできた。
いつ戻れるのだか先行きがわからない不安はあったが、何もしない空白の時間が出来たのは良かった。ホテルの部屋が取れなかったら苦痛だっただろうけど。

2019年10月13日日曜日

ひきこもりは日本だけ、それともアジアの現象?

Hikikomori: Social Withdrawal Adolescents Japan Only or Asian Phenomenon?
「ひきこもりは日本だけ、それともアジアの現象?」

というテーマでアジア児童思春期精神医学会(Asian Society for Child and Adolescent Psychiatry and Allied Professions)で発表しました。
台風の影響でタイから帰国できず、ホテルで待機してヒマなので、発表内容をざっと日本語に起こしてみました。まだ下書き段階です。口頭発表は口語体でこんな感じですが、これからちゃんと読める日本語にしますが、とりあえずご紹介します。

ひきこもりは世界の中で日本が一番多い。学会や講演、ワークショップで中国の上海、アジアやアジア以外の国でも結構ひきこもりのことを紹介する。韓国、中国、台湾、香港でもかなり多く、日本と同じような社会現象になりつつある。同じ中国文化圏があるマレーシアやシンガポールでも同様である。
なぜ?それを5つの社会文化的視点から考えてみた。

1. 高い教育期待
私が思春期を過ごした1970-80年代は、「教育ママ」の全盛期で、親が子どもの教育に大きな期待をかけるのが当たり前の時代であった。高度経済成長時代。働けば働くだけ良い未来が約束された時代。大人も子どももたくさん働くのが良しとされていた。1990年代のバブル経済の崩壊以降は、加熱した学歴志向の凄さは以前ほどではなくなった。少子化でそれほど競わなくても大学に入れるし、偏差値の高い大学に入り、大企業に就職できたからといって、終身雇用は崩壊し、ずっとその会社にいるわけではないし、一部上場企業だって潰れるし、高学歴が高収入やより多くの幸せを得られるとは誰も思わなくなった。
それでも、子供により良い教育を、より高いレベルを目指そうとする親の期待はいまだに残っている。今の韓国や中国を見れば、日本の高度経済成長時代と同様な加熱した教育志向が見られる。
どの社会だってより良い教育を受けて良い学歴を得れば、社会の中で高い地位を得て、高収入を得られる可能性は高いから、良い教育を目指そうとする。でも、アジアの社会や親の教育期待の勢いは半端じゃない。
親が一生懸命になれば、どうしても過保護・過干渉になってしまう。それがなければ、思春期の子どもなんてほっておけばいいのに、勉強しろ、そうすればお金持ちになれるぞって子どもたちに刷り込んで、たくさん勉強させる。
思春期の子どもにとって、家族や社会の教育志向の価値観を成就することが成功と失敗の鍵になる。不登校でよくあるのが優等生の挫折タイプ。それまで親の期待を背負って、勉強ができてきた。しかし思春期に入りそう上手くは進まない。親の期待、あるいは親の期待を取り込んだ自分自身の期待を成就できなくなったら、大きなショック。挫折を味わう。もうだめだ、やーめた。一気に撤退してしまう。
アメリカの高校じゃあ別の価値観。俺が行ったNorth Carolinaの田舎では教育に大した価値はなかった。学校に行くより働け!勉強するより、高校は恋愛するところ、パートナーを見つけるところ。男子はスポーツができてフットボール選手で。女子は美人で人気者でチアリーダーで。そっちの方が高い価値だった。アメリカのデート文化。そうやって対人関係の、パートナー選びを体験していく。
日本の高校では、デートなんてダメ。勉強ばっかして、大学に受かればバイトやデートもしていいよ。アメリカの高校生は一所懸命バイトやデートをしていた。別に親はどっちでもいいというか、子どもの成長と幸せは良い家庭を築くこと、自立して良い社会人になること。そのための勉強や良い大学ってのもあるけど、もう一人前の大人として車も運転するし、恋人も作るし。日本やアジアの場合はそういうのが禁じられて、青年期の成長のプロセスが遅れるってのはあるね。
しかし、本人だけが迷って苦しんで、自分の道を見出せばいいんだけど、そこに親がなんでそんなに期待するの?不安を投影するの?それは親子の愛着でしょ。このことについては後でね。

2. 家族内ジェンダー
日本は昔のジェンダー規範と今のそれの間で戸惑っている。それは日本だけでなくアジアに共通してるみたい。アジアの伝統的規範は儒教。中国文化圏ね。日本だってその一部でしょ。ダブルスタンダードなんだよね。伝統的なジェンダー(女性が家にいて男性が外で)というのは崩れ、男女平等、女性の社会進出は進んだものの、伝統的な価値観はまだ残っている。社会でどういう役割を取るかというのは、社会という見えやすい世界の話で変化しやすいが、家庭という見えない世界の中では、いまだに伝統的価値が残っている。家族関係、親子関係をどうするか、親の役割をどう規定するかというあたり。
子どもとの距離の取り方は、伝統的に母親が子育て役割で子どもと近く、父親は家族内というよりは家族外の役割が規定されてきて、父親と子どもの関係は比較的遠い。それは大家族・拡大家族の中での話だったので、父親がいなくても複数の人たちが家族の中で子どもに関わっていたのだが、核家族化して、他の人はあまりいなく、母親が唯一子どもと心理的に近くいるという状態になり、父親はなかなか家族の中に入っていけない。夫婦関係も、お互いに愛している、特に嫌いなわけじゃないんだけど、親密性というのはあまり伝統的に築かれてこなかった。夫からの情緒的サポートが十分でなく、夫は家庭に情緒的に不在で、子どもとの関係も遠い状況の中で、母親が子どもの成長の責任を取るという状況は続いており、仕方なく、母親と子どもとの距離は近づいてしまう。
子どもへの関わり方の伝統は、ユング心理学でも扱われているように、日本に限らず文化を通じて似ている。母親の関わり方、母性性は、子どもを守る愛。子どもは弱いもの、守らなくちゃやっていけないという脆弱性の前提のもとで、子どもに迫りうる可能性がある危険性を早く察知し、子どもを守る。そのために、常に子どもに気を配り、子どものことをちゃんとよく見ていないといけない。当然子どもとの距離は近くなる。無条件に子どもを愛し、あなたがどんな状態でも、生きているだけであなたを承認するという万能的な自己を支える。家族という安定した環境の中に子どもは留まる。
もう一方の父性性はその逆で、子どもの成長を促す。子どもは力を持っていると、子どものまだ開花せぬ可能性を信じ、あえてリスクを冒すことを促す。その前提には、子どもの可能性を信じているという楽観性が必要になる。本当に大丈夫なの?わかんないけど多分大丈夫だよ、という具合に。リスクに挑戦して傷つくかもしれない、失敗するかもしれない。でも、あえて挑戦することを求める。何も変化しなくていい、今のままで良いとは言わない。あえて、ハードルを飛べ!と促す。その結果、万能的なomnipotentな自己が傷つき、今までの自分ではいられなくなる、修正を余儀なくされる。そうやって縮んでしまった、自己を承認する。それでも飛んでも良いんだよと言ってやる。
日本の伝統的な家族関係では母親との距離が近く、母性性はたっぷり与えられ、父性性が十分に与えられない。母性・父性どっちが大切かって、両方とも大切、その両者がバランスよく与えられなければならない。元気な時はリスクに挑戦し、それが失敗してめげて傷ついたときは、家に戻り守られリスクを回避する。挑戦したり回避したり、挑戦への成功と失敗を繰り返しながら、若者は成長していく。
父性性が少なく、母性性が過剰になると、しかもそれが不安感(否定的な未来予測)に満ちていると、子どもは成長の機会を失う。あえてリスクは冒さず、やばいからうちに止まっておきなさい。傷つくよりは家にいた方が良いわよ。そういうメッセージの中で、子どもはあえて外に向かうチャンスを失い、ひきこもるようになる。
日本の夫婦の情緒的な距離は遠い。後述する遠慮コミュニケーションとも関係するし、外で過ごす時間が男性は多いので、夫婦一緒の時間が限られている。しかも、積極的な言語的コミュニケーションが活発でない。そうなると自然と関係性が希薄になっていく。以心伝心とか言って、それでもうまくやってるのが理想の夫婦なんて価値観があるわけで、うまくそうやって、限られたコミュニケーション量でもちゃんと夫婦の情緒的関係性をうまく保っている夫婦もいるんだけど、それは女性がsubmissive positionにいた時代の話で、女性だって男性だって、社会の中で多くの人と関わるような社会環境では、黙っていてもわかり合うってのは難しいでしょ。だから、黙っていても、メンテしなくてもうちの夫婦は大丈夫とか鷹をくぐって、わかり合っているつもりが、いつの間にかわかり合っていないのに、わかり合っているつもりでいる夫婦、亀裂があることを見えない、見ようとしないまま、亀裂が深まり、家族に問題がないうちはなんとかやってるけど、問題が生じてさあどうしよう、どうにかしなくちゃとお互い夫婦が向き合おうとしたってもう手遅れ。亀裂は想像以上に深く、うまく困難な状況を二人でやってられなくなってしまっている。
日本やアジア諸国の離婚率は他の地域に比べれば低い。以前に比べれば増えてきたものの、まだ低めに留まっている。別に、日本のカップルの仲が良い、うまくやっているというわけではないわけだが、離婚に対する社会的偏見は強く、離婚は結婚の失敗である、ホントはやってはいけないことをやっちゃった、ダメな人間じゃんというイメージだし、再婚率も低い。なかなか再婚できないし、再婚したってうまくいかないんじゃないか。離婚はその人の自尊心を下げ、自分にダメ出しをしてしまう。
だから、夫婦がうまくいかず、欧米ならとっくに離婚しているような状況でも、離婚には躊躇する。女性側が経済力を持たず、離婚したら生活が成り立たないというのもあるし、子どものために離婚しないってのが多い。離婚は子どもにダメージを与える、本当は別れたいけど、あなたたちが成人して結婚式をあげるまでは離婚しないわよ。つまり、本当は離婚したいんだけど、あなたのせいで離婚できないんだから。親の自由を奪ってしまうじゃんというメッセージになってしまう。
結果的に、家庭内離婚、家庭内別居状態。夫婦が一緒に生活しているけど、会話しなかったり、冷たい空気が流れていたり。そういうのは家庭の雰囲気を一番壊し、父も母も苦しい状態の中に置かれ、それは子どもに大きなダメージを与える。それくらいならいっそ思い切って離婚して、父親・母親それぞれが元気な状況であった方がよっぽど良いのだが、それができない。
その背景には、以前共同親権がなく、どちらかの親に親権が行ってしまうという現状がある。法的にもそうだし、日常生活でも、別居している親とは会わせない方が良いという考えが強い。そうなると、子どもにとってどちらかの親へのアクセスができなくなってしまう。それは子どもにとってもよくないわけで、両親が離婚した後も、父親・母親がちゃんと機能しているのが本当は一番良いのだけど、それがなかなかできないんだ。

3. 集団主義
これがどうして引きこもりに関係するかというと、日本の場合、思春期の課題は単純に自分が強くなれば良いということではなく、グループに入らなくちゃいけないから。欧米的に考えれば、自立して、assertivenessやらself-relianceやらexpressivenessを身につけるのも結構大変だとは思いますよ。西欧的には自立するってことはひとりでやっていける力を十分につけること。意思がしっかりして、他人に影響されず、自分を押し通す力。
日本的にはそれだけじゃダメなんですよ。思春期の課題は自立、自分一人の力、、ということではなく、帰属集団の一員としてのメンバーシップを得られるかということ。他者と折り合わねばならい。独りよがりで空気を読まず、KYで、自己チューだと仲間から弾き出される。欧米的にはそれで構わない。日本はhigh context cultureの極致なわけで、集団主義、他者の眼差しの中に生きている。それがcomfortableでうまくやって行けることができれば「世間」の仲間入りできるわけで、集団の中のメンバーとしてうまく機能するし、それが支えになる。そうするためには自己と他者との折り合いのバランスをうまくとる。自己チュー過ぎてはダメだし、遠慮しすぎてもダメ。自分を大切にしながら、周りを大切にする。欧米的には周りを大切にしながら、結局は自分を大切にするのが一番。”I message”みたいな言い方をするけど、「私」がしっかりしてないとダメ。日本的には「私」も大事だし「周り」も大事。この両者を大事にするって矛盾しているというか難しいでしょ。それがうまくできず、他者と折り合えないと、仲間入りできない。なんとなく仲間・世間から疎外されてひとりぼっち。自分は受け入れられているんだという自信が持てないとならない。そりゃあ難しいでしょ。それがうまくいかないと世間に出てゆけず、家の中でひきこもることになる。

4. 遠慮コミュニケーション
このように集団性を維持するための秘訣が日本的な遠慮コミュニケーション。遠慮とは日本人なら誰でも知っているが、これを日本以外の人たちに説明するのは難しい。遠慮とは文化的に好まれるコミュニケーション方法。受動的あるいは自己主張的でないコミュニケーション、あるいは相手との間の取り方。自身のニーズを後回しにして、他者のニーズを満たそうとする配慮。お互いが相手を配慮すれば両者のニーズは満たされて、両者の関係性も良好になるわけで、日本人はそのようなやり方を好む。欧米的には自分を主張すること、自分を適当にうまく主張して周りにわかってもらうことが重要で、相手の配慮なんかいちいちやってられない。自己責任。自分の主張は相手の配慮に期待しないで自分でやりなさいという考え方でしょ。日本では、自己主張する自我を持つと返って問題が起きる。自己チューと揶揄され、そんな奴はダメなんだと否定的に評価される。かと言って全部相手中心だと自分がなくなっちゃうでしょ。欧米的なしっかり自分を主張できる自我も必要で、それを踏まえた上で、相手に配慮してあげるという高等テクニックが求められる。
それがうまくいかないと、non-assertiveな関係性になってしまう。自分を主張できない。相手への配慮が頭の中をしめてしまって、何も言えなくなる。思春期の子供に何も言えない親。Frozen parenting。凍りついた親の関わり、しつけ。腫れ物に触るような関わり方。子どもが思春期前であればそんなに反抗せず親の言うことを聞いているからいいけど、思春期になると子どもが反抗してnoと言ってくる。すると、親はビビって何も言えなくなってしまう。そのような親のこれまでのコミュニケーションスタイルを見ると、夫婦間でも、遠慮し合い、傷つけることを恐れて意見の相違が予想されるような発言はしない。黙っちゃう。喧嘩したことない夫婦とか。あるいは、世代間伝達のように、その親も腫れ物対応してきて、子どもに甘いというか、ちゃんとノーというべきところでノーと言ってこなかった親。そのような親に育てられ、自分もノーというすべを知らない。そのため、万能的な自我が傷つけられず、ずっと守られた世界の中に生きてきて、傷つけ合う仲間同士の「世間」にびっくりしちゃって耐えられない。人っていうのはお互いに自己主張し、傷つけあい、妥協し、折り合って、他者との関係性を作っていくわけだが、そのような異種な人と関わることに対する不安が強くて関わることができない家族。

5. 一生続く世代間の愛着関係
欧米の親子関係と比べるとやっぱり何かが違う。どうやってそれを概念化しようかと色々考えてきましたが、どうも愛着理論を拝借してみようかなという気になりました。
愛着理論attachment theoryは心理学の基本。ワインズワース、ウィニコット、ボウルビイなど欧米アングロサクソン系の文化を背景にして生まれた理論で、乳幼児の他者(保護者、親とか)との関係性に関する理論で、人生早期の愛着(他者との関わり)の経験の良し悪しによって、他者との関係性を規定するプロトタイプが決まる。以降の人生は、その鋳型に従って人との関係性が築かれていくという理論なわけです。
愛着が取り上げられるのは乳幼児期の心の中に、いかに重要な他者がうまく関わることによって、乳幼児の中に鋳型を作っていくかという話で、その後の人生の話はあまり出てこなかった。それが応用されるようになり、大人の愛着。そこにもsecureとinsecureがあり、それによって親しい人との関係性が決まっていく。それを使って夫婦療法なんかをやるわけです。つまり、大人の愛着はあくまでパートナー同士、カップル同士の話なのであります。
しかし日本やアジアの家族関係を見ているとそれだけではうまく説明がつかない。一生続く親子間の愛着という価値を作ればうまく説明できるわけです。それは親から子どもへ愛着を与え、子供に愛着の鋳型が形成されるという一方的なものではなく、親子双方に愛着を向け合う。例えば、子どもの成功は親の自尊心の向上につながったり。子どもが親をケアすることにより、親はより安心した生活を送ることができる。親から子どもへの眼差しだけでなく、子から親へのまなざしも等しく重要なわけです。
家族ライフサイクルを見てみましょう。アメリカのMcGoldrickが体系化した家族ライフサイクルでは、まず青年期に原家族から離れる(Leaving home)するわけです。そして一人になって、結婚により新たな家族を一から作ります。そして子供を産み育て、青年期になったら、子どもを手放します。港から船を大海に追い出します。そんで、老後は二人慎ましく暮らすわけ。これみて、日本じゃあちょっと違うんじゃねえかと考えたわけです。日本なりの家族ライフサイクルが必要だね。日本では、青年期になれば進学とか就職で実家から離れます。しかし、それは物理的に離れただけであり、心情的な巣立ち(leaving home)というのはあり得ないわけです。
結婚にしたって、欧米的な愛し合う二人が新たな家族を築くってのは間違いじゃなく、二人の生活、新たなスタートってのは誰もが認めるところですが、実はそう単純なわけではない。二人の船出だけじゃなくて、結婚による双方のネットワークの中に組み込まれ、相手の家族や友達ネットワークの中にどう入り込んでいくか、うまいポジションを見つけるかという集団主義的なより複雑なネットワークに入っていくということを意味します。こりゃたまらん!すごく難しいわけですよ。そして、親は子どもを産み育て、青年期になったからって、子どもを船出させるわけじゃあない。岸壁の母じゃないけど、とりあえず船出したけど、傷ついたらいつでも母港に戻ってこれるように待機してるわけです。
この自立主義と相互扶養主義のダブルスタンダードというのは厄介というか、面倒くさい。親も子も元気でしっかり自分のことをできていれば相互扶養は必要ないんです。しかし、親子どちらかが自分一人じゃ無理という状態になった時に、相互扶養の価値がにわかにactivateされるわけです。欧米では子どもがハタチくらいになった段階で「独立」し、相互扶養ってのは基本的にないわけですが、日本では、一生を通して、どっちかがうまくいかなくなったら、相互扶養の責任をとるわけです。子どもが乳幼児期はそりゃあケアが必要だし、高齢者が弱ってきても同様です。あとは病気・障害とか、事故とかなんらかの危機状態になると、親子相互の責任です。「オレオレ詐欺」とか「振り込め詐欺」というのはこの日本の習慣を悪用した詐欺な訳で、欧米ではこんなこと有り得ません。認知が弱くなった高齢者に息子が助けてくれと言ったって、助けるわけがないのです。
残念ながら、どの社会にもうまく社会で機能できない若者たちはいるわけです。一人では生きていけない。その時、どこにいるか、誰が面倒を見るかということの違いです。欧米では若者がうまくいっていようがいまいが親は家族から追い出します。日本的には、そんなのひどいと思いますが、欧米的にはひどくもなんともない、当たり前のことなんです。そういう若者たちは社会の中で居場所を失いホームレスになるわけです。日本やアジアでは高齢者のホームレスはいても、若者のホームレスは非常に少ない(そりゃあ多少はいるけど、欧米の比ではありません)。親が責任をもって家に居させて面倒を見るわけです。それが良いとか悪いとかではない。当たり前のことなんです。だからそういう若者の居場所が違うだけ:欧米では街のホームレス、日本やアジアでは家の中で引きこもりになるわけです。どっちだって良くはないけど、家族が若者の面倒を見ることによって、社会の治安が保たれているという見方もできなくはないわけです。
親孝行(filial piety)は、国内では時代遅れの考え方、ほぼ死語になっているけど、アジアの親子関係を説明するときのキーワードなんです。我々の中にもその意識はないし、儒教的な時代遅れの、、、と思うけど、実は我々の心情の中に生きているように思います。一方で、自分自身でありたい、周りから影響を受けず、自分の自由にしたいと願い、その一方で、家族に問題があれば、どうにかしなくちゃと考えます。私も、老親の終末期にそれを強く感じました。

ひきこもりの支援
以上が、なぜ日本にひきこもりが多いかという社会文化的な仮説です。アジア諸国でも多いというのは、割と以上の部分が重なっていたりするんですよね、特に中国文化圏、儒教文化圏の東アジアでは。
では、これを踏まえて、ひきこもり支援に何かを言えるか、と考えると、、、
集団主義の中、ひきこもる若者ひとりを切り出してきて支援しようとしてもうまくいかないわけです。その若者個人が含まれている文脈(システム)全体を視野に入れて、システム自体を支援しないといけない。それがシステム的な視点につながるわけです。
システムは安心システム(secure system)と非安心システム(insecure system)の二つに分かれます。ひきこもりを含む家族や学校のシステムには不安が満ちていることが多いです。家族や学校の不安が、本人に投影されてしまい、本人が問題を呈するわけですが、実はシステム全体の不安をどうにかしなければならない。ひきこもり問題は、そのシステムの不安を表現しているだけにすぎません。
具体的には、家族の不安を下げるために、家族同士のコミュニケーションをうまい具合に促す。お互いに傷つけること傷つくことを恐れて、腫れ物コミュニケーションになっていることが結構あります。そこにセラピストという媒介者が入ることによって、少しでも交流がスムーズになるように支援します。
本人・家族・学校・地域などを含めた心理教育も必要でしょう。ひきこもりに対する理解を深めます。偏見とか病理に満ちた眼差しを持っている人たちも多いので、システムの中で、ひきこもりについて気楽に率直に話し合える、話題に出せるような支援です。
家族のジェンダーから見れば、典型的に見られる母子密着・父親不在家族では、母親を密着した関係性から救い出し、離し、父親を家族サポートシステムに呼び込みます。外野席から内野席に呼び込み、中心になって関与してもらいましょう。夫婦関係の支援も必要です。一見まともに見える夫婦でも、実はそうでもなく、闇の部分を隠していたりします。プラスもマイナスも恐れずに表現できるような関係性に持っていきます。
学校との関わりも大切でしょう。ひきこもりというストレスのために、家族・学校が対立構造になっている場合も少なくありません(夫婦間も同様ですが)。家族や学校が「問題」のなすりつけをするのではなく、両者を問題解決の「資源」として使います。学校での担任、学年、主任、管理職、養護、カウンセラーと多くの人たちがいるわけで、彼らをうまく組み合わせれば大きな力になるし、彼らが相殺したら大きなマイナスになります。本人・家族・学校が支援関係にあるように持っていきます。
社会の支援システムもたくさんあるけど、医療、教育、心理、福祉など、これらはそれぞれの考え方と方針を持って支援しようとするわけですが、その考え方の違いによってうまく利用できなかったり、組み合わせられなかったりするケースも結構あります。それをどううまい具合に持っていくか。それが腕の見せどころです。
ということをやるためのセラピストの立ち位置は?ひきこもりシステムの触媒として、本人にとっての、家族にとっての、学校にとっての一時的な安心・信頼できる他者になります。システム全体が安心(secure)できるような支援が望ましいのですが、それをするためには重要なことは、セラピスト自身の安心感(security)なんですね。具体的なテクニックとか介入方法とかではなく、その背後にあるセラピスト自身の安心感。これは理屈ではなく感性のレベルの話だから、なかなか理屈では説明できません。セラピスト自身が他者との関係性に、そして自分自身との関係性にどれほど信頼・安心できているか。そんなことなかなかわからないわけで、最近私は、クライエントに対するセラピーと並行して、次の世代の支援者を育成する活動にも力を入れています。Person of the Therapist Training (POTT)というのがそれに当たります。スーパーヴィジョンや「合宿」をとおして、個人やシステムを本当の意味で支援する人たちを支援しています。

というようなことを1時間かけてお話ししました。

2019年10月3日木曜日

夏合宿参加者からのフィードバック

二泊三日の合宿は、心の支援者たちが安全な場所に落ち着き、じっくり自分を深める機会です。その趣旨については別の記事に書きました

参加者の何名かから、合宿を体験したフィードバックを戴きました。
ご本人たちの了解を得て、プライバシーに配慮し一部割愛してご紹介します(ハイライト部分は私の意図です)。
皆さんが体験したことのフィードバックですから、さらに私からのコメントは差し控えます。私の体験を皆さんに伝えられたことを嬉しく感じています。

 合宿では、お世話になりました。話を聴ける人たちに聴いてもらえた脱力感と、後から湧き上がってくる過去の記憶や、訳の分からない感情が落ち着くまでに3日ほどかかりました。

 夏合宿が終わった後、言葉に言いあらわせない感じありました。閉ざしたものを開けたかったのか?自分なりには、今までも安全な人には話していたはずなのに、合宿での語りは特別なものとなりました。
 その後、先生のブログを拝見し、ざわざわしていた不思議な感覚が静まったような思いです。合宿で得たものは、自分ではわからない深いものがありその淵にたったような感じです。上手く言語化できずすみません。

 私の場合は、〇〇のことを考えたいということを始めから思っていました。一つの区切りとしてその意味を考えたかったのです。そして、皆さんに聞いていただいて、出てきた答えは、私が思ってもいなかったものでした。自分が気づかなかった「自分」に気づけたように思います。
 専門家の皆さんが聞いてくださったこと、そしてその円の外側に田村先生がいるという二重構造になっていてとても安心感がありました。これまで劣等感を抱いていた事柄に対しても、そんなことがあってもいいかと、少し思うことができてきたかなと思います。

 私にとっての夏合宿は何だったかと思うと、自らに課した役割と与えられた役割を思い出す場だったと考えています。〇〇の後、自分を振り返ると何があっても諦めず、ひたすら前進あるのみと決めて頑張ってきましたが、思ったように物事を進められず、時には他人の問題に巻き込まれてイライラし、自分を見失いそうになることも多かったです。でも、私はダースベイダーにだけはなりたくなく、光のある道を歩みたいと切望していました。光のあるところに行けるよう、ムリのない範囲でボチボチやっていきたいと思いました。そして、あの短時間で田村先生が私のテーマである「光」を取り上げてくださり、先生の臨床力に感謝しました。

今回の合宿では「クライアントを早く理解したいと思って、解釈を伝えてしまう姿勢」が自分の臨床でもあるなあ、とはっきり気づけました。これまで、解釈によってクライアントの安心感を脅かしていたのではないか、クライアントを理解するためには、質問形式で些細な事から慎重に伺っていこうと、日々の臨床に結び付けて、しっかり学ぶことができました。
私の場合、クライアントに対してずばり言い当てる事で、「どうだー」みたいな満足感、いや優越感を得たい気持ちがあったのだと思います。最近、そういうことにどこかで気づき始めていたのだと思います。どこかに「勝ちたい気持ち」があるんですね。大変貴重な気づきでした。

以上です。ご参加ありがとうございました。