2013年7月31日水曜日

ひきこもり脱出講座(第4回)「ソフトランディング」

まず、参加者の感想から紹介します。

  • 不安定がないと安定しないということに通じる、着地するときには衝撃があるということが印象に残りました。
  • 「ソフトランディングを狙ってはいけない」ということが今日の収穫です。子どもとひっそりと生活を送っていると、どんどんひっそりした方向に向かっていきます。
  • ソフトランディングにも地上に降りるときはタイヤのショックはあるという言葉にとても感じるものがあった。覚悟と勇気。考えたいと思う。

4回目となり、みなさんの様子わかってきました。
現状を踏まえた上で、ひきこもりから脱出するために、次の一歩は何ができるでしょうか?
そんなことを各々考えてみました。

仮の安定性から、真の安定性へ。
ひきこもりとは、外敵から身を守るために築いた砦の中にいます。
ひきこもりから脱出するためには、仮の安定性をいったん崩さなければなりません。
砦から一歩外に出て、もしかしたらそこは危険が潜んでいるかもしれない、そんなリスクを覚悟して試してみます。バイトしたり、学校に行ったり、新たな居場所を訪ねてみたり。
きっと多少は傷つくでしょう。それでもどうにか持ちこたえるということを確認できれば、そこも安全な場所として砦を広げることができます。
それができれば、またもう一歩外へ。
これを繰り返しながら仮の安定性から、真の安定性へ拡張していきます。

一旦、自我境界を崩し、拡張するためには無傷でいることはできません。
馴染みの世界を手放し、傷つくかもしれない新しい場所にひとり降り立つ不安と闘わねばなりません。

その中で出てきたのが「ソフトランディング」の話です。
ソフトランディングを狙ってはいけません。
飛行機は無傷で着陸できません。
どんなに上手なパイロットでも、滑走路に着地するときは大きな衝撃を受け、飛行機のタイヤがすり減り、痛み、滑走路にゴムの足跡を残します。傷つかないと降り立てません。
着陸に失敗して地上にぶつかり、炎上してはいけません。しかし、どんなにうまく着陸してもタイヤは確実に傷つくんです。

ひきこもりから脱出するためには、その砦を安全に少しずつ崩してやらねばなりません。
親がそれを達成するには、親自身が今まで築いてきた「ここまでは出来る。これ以上は出来ない。」という自我の砦を崩さなくてはなりません。

そこまでやってしまって大丈夫だろうか?壊れないだろうか?
それを乗り越えます。
子どものために。
しかし、その前に自分自身のために。

2013年7月27日土曜日

支援者の自己と向き合うワークショップ(3):信頼関係

昨日は3回目のワークショップでした。
まず、参加者のフィードバックから。
  • 自分の根っこを改めて見つめる良い機会になりました。
  • ふとした瞬間に相手から信頼されていないかもしれないことで不安になっていました。
  • 自分自身のことを信頼できていないという自分に気づき、驚きでした。
  • 信頼関係は相互性があると思うので、誰が自分にとって信頼できるかを考えるということもありますが、自分は信頼される人だろうかということも考えました。
  • 自分に足りないものもあるけど、持っているものもある。それが何であるかを少しずつ明らかにしたい。
みなさんの物語を深めていくうちに、今回のテーマは「信頼」ということに落ち着きました。
  • 支援関係における信頼ってなに?
  • 職場における信頼ってどういう風?
という観点から入って、
  • それでは、支援者自身の個人的体験における信頼関係ってどういう風ですか?
  • 子どもの頃からの自分の歴史をたどり、誰に、どんな信頼を与えたり与えなかったり、受け取ったり受け取り損ねたりしてきたの?
  • それらは個別の事象?それともどこかで連関している?
そんなようなことを振り返りました。

支援者にとって、クライエントとの信頼関係は基本中の基本です。
しっかり信頼・安心できる支援関係が築けないと、どんなことをやってもうまくいきません。
逆に、それさえ築くことができれば、とても困難な状況でも何とかなるものです。

普段の活動を振り返ると、どうもうまくいかない背後には信頼関係がちゃんと築けていないことに気づいたりします。
まず、そのことを客観視できることが必要です。それが見えないと何もうまくいきません。

では、どうやって信頼できる支援関係を築くことができるのか?
こう言えばよい、ああすればよいといった技術的ノウハウではありませんね。
「信頼」とは理論でも理屈でもありません。あくまで感覚です。
「信頼」を理解しようとしても無理です。感覚として感じるしかありません。
他者を信頼する、あるいは他者から信頼されるという感覚を支援者自身の心の引き出しにいつも用意できているかどうかが重要です。そうすれば、自由にその感覚を取り出して使うことができます。そのことをWSで掘り下げました。

Q)どうやって掘り下げたのですか?

A)それは残念ながら文章では説明できないんです。
文章にすれば客観的な理屈になってしまいます。
一番大切なことは、支援者自身が持つ主観的な感情体験なのです。

2013年7月26日金曜日

ひきこもり語録2

気にしていないようで、実は気にしていることって結構ありますよね。
ものすごくイヤなことが起きたら、紛らわせてそれを見ないようにしてきているんです。
自分の置かれた状況(たとえば仕事をしていないこととか)を見ないようにしている自分がいます。自分のことを受け入れていないんだと思います。

田村)、、、という風に言葉に表しているのは、ホントは受け入れたいと願っているんだね。

そうなんです。心から受け入れられるようになりたいんです。
その先に何があるのかはわからないけど、、、、

ひきこもり語録

こうやって先生とカウンセリングを進めてきて、だいぶ気持ちが整理されてきたと感じる。

以前より自分の心が身近に感じることができるようになった。
今までは、「暑い」とか、「ノドが渇いた」とかごく単純な自分の気持ちでさえ遠くに感じていた。
今までは自分の心の中にイライラの塊があり、そこに目を向けたら大変なことになる、、、と思っていたから自分の気持ちに距離を置いていた。

今は、そういうことが分かるようになった分だけ気持ちが整理され、楽になった。

でも、まだ整理されていない部分が残っている。
自分はとてもプライドが高い。
自分は完璧でいたいと思っているんだ。だから自分の価値観を他の人にも当てはめて、他の人を下に見下している自分がいる。
でも、そういうのは日本では通用しないことはわかっている。他人に合わせるために、間違ったことを言わないようにしなければならない。

どうしても受け入れられない自分がいて、自然にしていると表面に出てきてしまう。そういう自分がイヤだ。
その部分には、まだ仮面をかぶせている。人の前では素の自分を隠し、表情やしぐさを作っている。不自然に自分をつくり、まわりに対して怯えている。だから人の前に出てゆき、自然に交わることができないんだ。

素の自分を出せない本当の理由は、自分で自分を信用できないんですよ。

田村⇒よくそこまで整理できたね。すごく前に進んでいるよ!

2013年7月21日日曜日

アルコール依存

過度な飲酒は心身の障害だけではなく、飲酒運転による事故、暴力、警察保護、身内への虐待や経済困窮、休職、失職などなど、社会的に大変な悪影響を与えることを考えると、タバコを規制するなら飲酒もやったほうがいいだろうと思うのですが?

いや、お酒を規制すれば済むといった単純な話でもないんですよ。それを説明するにはまず依存とは何かというは話から始めなくてはなりません。

依存症とは、始めは楽しんでやっていたのにだんだんはまり込んでしまい、どんどん過度になって量が増え、止めようと思っても止められなくなり、困った状態になることです。そう考えればアルコールだけでなく様々な種類があります。

  1. 第一にモノに依存する場合です。アルコールや煙草(タバコ)が一般的ですが、覚せい剤、麻薬などの違法薬物。あるいは睡眠薬、精神安定剤、鎮痛剤などもあります。
  2. 第二が特定の行動に依存する場合です。パチンコ、麻雀、競馬といったギャンブルが思い浮かびますが、買い物が止まらないとか、食べること(過食や拒食などの食行動の異常)、仕事への中毒もあります。人間関係の依存、たとえば恋愛とかセックス依存とか、二者間で両方依存し合っていれば共依存という状況にもなります。最近では、インターネット依存やネットゲーム依存なども問題になっていますね。

 これらは、少量なら問題ないというか、むしろ有益です。お酒も少量なら気持ちをリラックスさせて緊張と疲れを癒してくれ健康にも問題はありません。睡眠薬や安定剤も、「薬は飲みたくない!」という人も多いのですが、少量であれば健康に全く問題ありません。恋愛やセックスや仕事はまさに必要なこと、好ましいことなわけです。(ただしタバコ、覚せい剤、麻薬などは少量でもダメですけど)

 問題は、これが度を越してしまう場合です。いずれもやっていて楽しい、気持ちがすっきりするといった効果があるので、もっとやりたいと、だんだん量が増えていきます。はじめのころは少量でも「楽しい!」と効果があったのですが、耐性ができると量を増やさなければ当初の「楽しい!」感覚を得られなくなります。そうやって、自分で量をコントロールできなくなってしまいます。
 依存には二種類あります。身体的な依存とはそれをやめると不快で苦痛な離脱症状を起こします。たとえばアルコールを飲まないと幻覚が見えたり手が震えたりします。心理的な依存とは、それをやめるとイライラ、不安、パニックなど気持ちが苦しく不安定になります。そういう身体と心の不安定さを避けるためにどんどんやってしまい、悪循環にはまってしまいます。

 すると、さまざまな障害が生まれます。
 まず、身体が蝕まれますね。アルコールでは肝臓がやられて肝硬変になったり、高血圧や脳卒中などなど、さまざまな生活習慣病(以前は成人病と呼ばれていましたが)になり、病気のデパート状態になります。
 そして、社会生活が蝕まれます。仕事や学業などの支障をきたして失業や退学に陥り、お金がなくなり、どうしても得るために悪いことをしてしまったり。
 家庭生活へも影響を及ぼします。よくACと言われますが、もともとはアルコール依存症の親を持つために子どもが大きくなってもその悪影響が残ってしまった状態ACOA (Adult Children of Alcoholics)が短くなってACと呼ばれるようになりました。
 アル中の父親(あるいは母親)のために家庭がうまく立ち行かなくなってしまいます。(子ども時代に家族が機能不全だった人:Adult Children of Dysfunctional Family)。

 私は子ども頃、スポーツ根性物語のはしりだった「巨人の星」をアニメでよく見ていましたが、今から思えば星飛雄馬は、自分の果たせなかった夢を託され、飲んだくれてちゃぶ台返しをする父親(星一徹)に育てられたACだったとも言えます。一応、巨人軍には入ったけど、大きくなってからいろいろ悩みますから。

私の祖父も朝から酒を飲んでました。飲酒量からすれば完全なアルコール依存症だったけど、社会生活、家庭生活は一応帳尻がついていたし、だれも「アル中」とは思いませんでした。結局、ガンで早くに亡くなりました。

では、なぜ依存症になるのでしょうか?
いくつかの説があります。

  1. 一番わかりやすいのが、好きだから、楽しいからという説。これを条件付けモデルと言って、物質がもたらす快感や楽しみが脳に報酬をもたらすということです。たしかにそうなんですけど、それだけで依存症になるとも限りません。ちなみに、私もお酒は大好きですが依存症ではありません。もっとも、依存症の人は自分が依存症とは思っていない場合が多いです(病識の欠如)。
  2. 二番目が生物学的モデル。つまり、依存症になる遺伝子とか、心理的脆弱性、感情の調節不全、精神障害などを抱えた人が依存症になるという説です。統合失調症の人はすごく煙草を吸います。これは、ニコチンが幻覚・妄想などの精神症状を抑える効果があるためと言われています。
  3. 三番目が自己治癒仮説というものです。依存する根底にはトラウマやストレス、失敗、悲しみ・苦しみ・怒りなどとても辛い感情体験があり、その心理的苦痛から逃れ、生き延びるために何かに依存しているという考え方です。どの物質・行動を選択するかはその人の好みで個人差があります。

 どれもある程度納得のいく説ですが、私は三番目の仮説が根底にあって、たまたま身近にあった自分の好きなもの(一番目の仮説)にとりつくのだろうと思っています。

 つまり、「説明困難な苦痛」を「説明可能な苦痛」に置き換えて耐えがたい人生を生き延びているということになります。それに関連したものが自傷行為と反復強迫です。
 たとえばリストカット。自殺企図とも微妙に異なり、死にたいわけではないけど自分を傷つけたいという心理が働きます。これも、自分で説明可能な痛みを植え付けることにより、自分の力ではどうしようもできない苦痛から意識を逸らすのだろうという説があります。
 反復強迫とはトラウマとなった苦痛をわざと繰り返すという理解しがたい現象です。たとえば親から虐待を受けた人が暴力は絶対反対と考えながらも自分の子どもを虐待してしまうという世代間伝達。幼い頃、性的な虐待を受けた女性が風俗で働くとか。あるいは、映画「ディアハンター」のロシアンルーレットもその例です。ベトナム戦争で捕虜になり、ロシアンルーレット(交互に弾がひとつだけ入ったピストルを自分のアタマに向け引き金を引く)をやらされた人が、戦後の荒廃した盛り場の地下でロシアンルーレットを繰り返して金儲けするという話です。こうやって、自らを傷つけることにより、過去の圧倒的なトラウマから逃れようとしているわけです。なかなか想像を絶する現象ですが。

というわけで、冒頭のご質問に戻りましょう。
お酒やタバコを規制して社会から取り去れば、一見、その依存症はなくなるように見えます。しかし、根本は解決されないままです。むしろ、依存しなければやっていけない慢性的で目に見えない困難な状況をどうやって取り去るかということが大切です。でも、それは本当に骨の折れる、大変な作業だと思います。
不可能でしょうかね?
不可能だと思うから依存症に走るわけですけど。
もしかして可能でしょうか?
そう思えたら、どうぞ精神科医のところにいらしてください。

厚労省関連のサイトを見てみると、団塊問題も手伝って、定年退職後に依存症になるケースが多くなってきたとありましたが、やはり男性にとって定年退職は相当大きな岐路なんでしょうね?

いや、そういう人たちは退職前から依存症だったけど誰も気づかなかっただけなんです。
そう、依存症話からお酒に限らず自分が依存症であることに気づかない、というか否認している場合が多いんです。
オレは毎日飲んでるけどいつだってその気になったらやめられる!、、って。
退職前は仕事仲間と飲んでいたからそれが当たり前になっていて誰も問題にしなかったけど、退職後は飲み仲間がいなくなり家で飲むようになり、奥さんがダンナさんの依存症を発見するんじゃないかと思っています。もちろん退職による生きがいの喪失と居場所を失い、家にずっといることがストレスとも考えられますが。だとしたら、退職前は仕事依存症だったのかもしれません。その方が会社にとっては一見好都合なのですが。

2013年7月12日金曜日

ボストン紀行)ハーバード大学


アメリカのハーバード大学はボストンと川を隔てたケンブリッジという隣町にある。
アイビーリーグはアメリカの伝統的な名門大学。

  1. Brown in Providence, RI
  2. Columbia in New York City, NY     
  3. Cornell in Ithaca, NY   
  4. Dartmouth in Hanover, NH
  5. Harvard  in Cambridge, MA 
  6. Princeton in Princeton, NJ  
  7. U. of Penn in Philadelphia, PA    
  8. Yale in New Haven, CT
この中でもHarvard大学が一番古く、規模も一番ではないが比較的大きく、名前も売れている。大学の周りやキャンパスにはたくさんの観光客が訪れ、大学生が観光案内のバイトをしている。
イギリスの名門大学はOxbridge、つまりOxfordとCambridge。
アメリカの名門Harvardがある町がイギリス名門大学と同じCambridgeという名前というのもNew England地方の特色だ。


ちなみに、日本だと旧帝大とか六大学とか早慶上智とか。
韓国だとSKY universities (Seoul Nationalソウル国立, Korea高麗, and Yonsei延世)
学生時代にはこういうことに結構こだわっていました。
学歴が好きな日本人ならではの話ですね。

2013年7月8日月曜日

ボストン紀行)前夜

土曜も日曜もフルで仕事でした。

先生、いつお休みするんですか?

明日からです。
1週間、ボストンに行きます。
仕事だけど少しはのんびりできるかな。
でもまだ何も準備してません。スーツケースさえ出していない。

さあ、現実を抜け出してジャンプだ。別の世界に一時的な逃避。
ふだんできずにやりたいことを持っていく。
手を付けられない原稿に、
新しく出た家族療法の教科書もしっかり読みたい。
どれを持っていこう?
その選択と準備さえできていない。

でも、それに手を付けられるのはせいぜい飛行機の中ということもわかっている。
現地に入れば、現地でしかできない体験が待っている。そっちに行ってしまい、結局やりたかった仕事はできず終い。

なのだけど、懲りずに持っていく。

というわけで今週は相談・診療はお休みしますが電話とメールの対応は通常どおり対応いたします。
お問い合わせなどありましたらどうぞ。

2013年7月7日日曜日

感性の畑を耕す

まる一日お疲れさまでした。
相当疲れたと思います。
自分を語り、相手を聴き、とても神経を集中しましたね。さらに感情という普段はあまり使っていない(ホントは使っているのですが使わないふりをしている)筋肉を使いましたから。

みなさん、上手にしなやかにやってましたよ。
私のgenderとgenerationのバイアスがあるのかな。男性でオジサンである私にとって感情を使うというのは難儀で厄介なことなんですよ。

感性を耕すというイメージですね。
感情の畑をクワでひっくり返して柔らかくして空気を入れて、相手の感情を受け取れるよう準備します。固いカチンカチンの畑だと相手の感情も受け入れられず上滑りしてしまいますから。

始めは緊張してますから、徐々にグループに慣れ、深めてゆきます。
不安は対象が非特異的な漠然とした感情です。
怒りは否定的に盛り上がる強い感情です。
悲しみは喪失体験、深くなっていきます。
喜びって、幸せが増えたときの変化に対する感情です。たとえば受かった時、結婚した時、美味しいものを口にしたとき喜びますよね。しかし、在学(在職)中ずっと、結婚している間ずっと喜んでいるわけではありません。満腹になればご馳走も喜ばなくなります。

しかし、よく考えてみると悲しみの方が扱いやすいんですよ。
悲しみは誰でも喪失すれば当然行き当たるわけで、許容された感情です。
怒りはその裏にある不安・恐れの防衛であり反動の感情だから、怒りをさらに深めると別の感情が出てきます。
不安は焦点をぼかした感情だけに、ピントを合わせるともっと辛くなります。

心のバリアを一時的に開放して、心のバランスをいったん崩します。泣く行為は比較的やりやすく、ロールプレイが可能です。しかしホントに怒ったり、不安発作を再現することは通常できません。
キャッチボールするとお互いにすごくわかった感覚を持つでしょ。それが支援者にとってとても大切な要素なんですよ。

うまくいかない時もあります。心の畑の中に処理されていない切り株が埋もれている場合です。そこに近づこうとするとすごい圧迫感を受け、その近辺にクワを入れることはできません。
あるいは、不用意に核心に触れてしまい、崩れてしまいます。
後者の方がまだ良いんですよ。グループの力でうまく処理できれば、トラウマの回復を体験できます。回復できないようなコントロールされていない場では、そもそも開墾してはいけません。
前者の場合、耕作がうまくいかず未墾地が残ってしまいます。
その部分をうまく切り開くには、グループ構造を変えなければなりません。今回より少人数で時間をかけ、あるいは個人で、もう少しintensiveな耕作方法に切り替えます。

私の研究室ではそれをやってますので、どうぞご利用ください。

2013年7月1日月曜日

講演会ライブ

週末は新幹線に乗り講演会に向かった。
対象はいのちの電話の相談員さんたち。
これは、私が最も楽しめる講演会だ。
若い頃は、人前に出ることが緊張し、講演を楽しむという余裕はなかった。
今でも学会では専門家からどんなツッコミが飛んでくるか緊張する。

その点、相談員さんたちは私の「ファン」でいてくれる。
ミュージシャンがファンの前で繰り広げるライブコンサートを楽しむ感覚に多分近いのだと思う。
聴衆の熱気が伝わってくるんですよね。コンサートのような熱気とはまた違い、興味を持って聞いている眼差しが伝わってくる。大きなホールで壇上に上がると観衆との距離が開いて表情まで読み取れない。せいぜい100人くらいまでの参加者と近い距離から話すと、みんなの表情がよくわかる。熱心に目を輝かせて聞いてくれる人、飽きている人、いねむりしている人などなど。
話していて、「おっ、みんなの関心を引いているな!」と感じる瞬間がある。すると、自然とアドリブで話を発展させたくなる。参加者が乗ると私も乗り、私が乗るとみんなも乗ってくる。私が楽しむと、みんなも楽しんでくれる。ユーモアにも磨きがかかる。

相手の話を聴くのが仕事の相談員さんたちは、(感性)をとても大切にする。
私はことがらを理性的に語りながらも、自分の体験などを感性を交えて語る。自分の気持ちを話しの中に織り込んでいく。それを聴衆が受け取ってくれる。そのようなやりとり、気持ちが通じている感覚がなんとも楽しい。

聴衆からのフィードバックがもらえるのも楽しい。
通常の「手を挙げて質問おねがいします!」の手法はあまり用いない。緊張感に満ちてしまう。
匿名で質問を紙に書いてもらい、それを読み上げながら答えていく場合。
今回のように参加者が語れる状況であれば、後半、グループで話し合い、その様子を全体にフィードバックしてもらう。話し合っていることが聞き取れなくても、グループの表情や雰囲気からどれほど参加者が引き込まれ熱心に話し合っているのか一目瞭然だ。そこから出てくるフィードバックは結構するどく、それに答えることで私自身の視野を広めたり考えを深めることができる。

作家や音楽家や芸術家が自分の作品やパフォーマンスを人々に届け評価されることで生き甲斐や癒し(と収入)を得るように、私が積み上げてきた語りを人々に届けることで満足を得ている。
講演会も芸術のひとつと成りうるんでしょうね、きっと。