2010年4月18日日曜日

なぜ方向転換するのか?(その2)

2)今の仕事への違和感
いや、今の仕事は良いんですよ、すごく恵まれている。
でも、僕自身にとって、疑問が湧いていた。
教育よりも、臨床の方が良い。
人と関わり、人に対して専門の立場から影響を及ぼす。それによって、その人が成長したり、問題を解決することでbetter personになれる。そこまで立ち戻れば、両者は同じはず。
  • 大学教員が、学生たちに学びの場を提供することによって、彼らはbetter personになれる。
  • 精神科医は、患者と関わり、抱えている病気や問題について支援することで、彼らはbetter personになれる。
どちらも、結果は同じじゃない!どこが違うの?
密度の問題なんです。
大学教育:僕が学生たちに関われるのは、たくさんの授業の中のひとコマにすぎません。効力感の問題というか、僕がいなくても、社会人にはなれます。あと、専門性の問題。僕でなくてもできる。教育、少なくとも今僕がやっている事は、他の専門家でもできます。
思春期臨床:ひきこもりへの家族療法。男性支援。夫婦カウンセリング。異文化間夫婦。こういうのを扱える人は、僕のみとは言わないけど、この社会の中にかなり限られている・・・という自負がある。
すぐに効果が見えるという効力感:僕の関与が、直接的にクライエントの運命を左右することもある。それは大それた、恐ろしい事だし、責任を伴う。それだけ、やりがいもある。

あと、大学の授業で教え込むことへの違和感です。
僕自身の高校・大学時代を振り返っても、きちんと知識を覚えることが苦手というか、興味がありませんでした。既存の知識体系に入って行くことに自信がありません。

一番辛いのが、大人数の学生に、知識を教え込む授業です。一生懸命教授がしゃべればしゃべるほど、学生は興味を失う。それが僕自身の学生時代の想い出です。大学教員になり、今の学生たちを見ていると、僕の話に一生懸命食いついてくる学生と、寝たり内職したり興味を示さない学生の両者がいる。教員として彼らを見ていると、どうしても後者の方に共感してしまう。そうだよな、必修だから仕方がなくとっている科目の先生がしゃべったって、そんなに興味を持てないよな。そしたらやる気だってしないよな。自分でしゃべっていて、何かむなしさを感じる。
枠組みを教えるより、枠組みを破ることを伝えたい。少人数の大学院の授業や、卒論の個別指導はまだ良いんですよ。僕が教え込むのではなく、学生が自主的に新たな知識を求めるお手伝いをする作業です。
そういう意味で、精神科臨床、少なくとも僕のやろうとしているpsychotherapyは家族システムという既存の病理的構造を破り、新たなシステムを作ろうとする試みです。DSMなど、既存の診断基準にあてはめる操作的診断方法はイヤです。

3)定年退職後のライフプラン
今、公務員を辞めるのは収入的に絶対不利だ。
今、自己都合退職で辞めると、65歳の定年退職で辞める場合と比べ、退職金が約1/3。退職後もらえる共済年金(昔で言う恩給)ももらえなくなっちゃう。公務員の退職後はすごく手厚いんだよな。
それらを捨ててまで、開業する価値は、ホントにあるのか?
65歳まではそれほどメリットはないかもしれない。
問題は、それ以降。まだ、悠々自適には早い。多くの大学教員たちは、退職後、別の私立大学に天下りじゃないけど、再就職している。それは避けたい。条件の良いところが見つかる保証はないし、たとえ道が開けたとしても、学生に教えるのはもうたくさん。
臨床に戻りたい。でも、65歳過ぎて新たな道を切り開くのはしんどい。50代の今、作っておけば、その後も、体力・気力の続く限り、自分なりの社会との接点を維持できる。

4)優子との約束
private lifeにおける事情のため、プライベート版ブログに記載しました。

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