2017年11月16日木曜日

家族を失い見えてきたこと(4)母親との愛着

このように、父親との思い出はよく出てくる。
短気で、些細なことで怒り出す否定的な側面もあるが、ほとんどは肯定的な記憶だ。


一方、母親の記憶を辿ろうとしても、スムーズに出てこない。
と言っても、母親を嫌いとか、関係が薄かったということではない。
思い出を探れば、良いイメージも出てくる。


母は、呑気で楽天的で、明るかった。主婦でいつも家にいて、安心して家に戻ることができた。
子どもたちの学校のPTAでは生き生きと活躍していた。私の代にPTA役員にデビューして、それほどリーダーシップがあったとも思えないが、妹の時には小学校でも中学でも副会長までやっていた。


母親から勉強のことを言われた記憶がない。
教育係は父親だったし、父親は教育者のプロであったので、母親の出る幕はなかったのかもしれない。
大学の英文科を卒業した母親は実家に戻り、お茶やお花の花嫁修業をしながら、近所の子どもたちに英語を教えていた。私が子どもの頃も同じことをやっていた。小学5-6年の頃だったか、近所の子どもに交じって私も英語を教えてもらった。勉強というよりは、英単語のカルタをしたり遊び感覚だった。
中学に上がり、海外の国際文通や高校留学に興味を持った。すると父親が職場からアメリカの学校の教科書を仕入れてきて、一緒に読んだ記憶がある。母親は、熱心な父親の陰に隠れ、あまり出番がなかった。


同性の親である父は、尊敬する成長モデルであり、思春期には反抗して乗り越える対象だった。
母親は、弱かった。乗り越えたり反抗するほど強い人ではなかった。やさしく、いつもそばに居てくれる存在だった。


母親は方向音痴だった。
新婚の頃、買い物に出かけて迷子になり、家に帰れなくなったらしい。


小学生の頃、横浜方面に出かけたことがあった。
横浜・東京間はJRの京浜東北線と、私鉄の京浜急行が並走している。大森駅は京浜東北線を使う。
なのに、母は京浜急行に乗ろうとする。
小学生の私でも、電車の色が違うのは明らかだ。
「ママ、この電車でいいの?」と尋ねても
「『品川行き』と書いてあるから良いのよ。」
確かに、両方とも品川には行くんですけどねぇ。。。


母は気管支喘息があり、ホコリを吸うと発作を起こしていた。布団の上げ下げができず、父親がやっていた。それも私が二十歳くらいまでで、その後は発作もとまりケロッと良くなった。今から思えば何らかの心因があったのかと想像するが、実際のところはよくわからない。


私が小学生の頃、母が倒れたことがあった。トイレから出て、気を失い、洗濯機の角に頭をぶつけて、2−3日意識が朦朧としていた。今から振り返れば、起立性的低血圧による機能性脳虚血、一過性の健忘症だったのだろうが、当時は、これで「ママは一生頭がパーになるのか」と心配した。


私が大学受験の時、母は喘息の調子が悪く、寝込んでいた。
受験に出かける朝、「お弁当を作れなくてごめんね。」という。
弁当作りが子どもへの愛情を託すとても良い媒体であることは、私自身が親になってよく理解できる。しかし受験生だった当時の私は、弁当の良し悪しによって集中力も頭のキレも変わるわけでもないし、なぜそんなことで母が謝るのか、よく理解できなかった。


受験会場に行くと、母親が付き添っている受験生が結構いた。合格発表でも同様だ。
私はそんな連中の気が知れなかった。


アメリカ高校留学に出発する時、私は母親に
「僕は1年間、死んだと思って忘れてくれ!」と言ったそうだ。
私はそのことを覚えていないが、後で母が語ってくれた。
今から考えればひどいことを言ったものだが、当時の私としては、母親が私を心配する気持ちを解放してほしかったのだと思う。


私がアメリカにいる間、父親も文部省の在外研究員としてアメリカに1年間滞在していた。母と妹が日本に残り、父と私がアメリカに居て、家族がバラバラだった時期が半年ほどあった。
母と妹が、夏に父がいるミネソタを訪問した時、私がいたNorth Carolinaにも訪ねたいと電話で言ってきた。
私はその願いを断った。家族は滞在先を訪問しないという留学機関のルールもあったが、その時は、私がまだアメリカに来たばかりで、現地に溶け込もうと努力していた。Host Parentsとの愛着を形成しようとしている時に、Natural Parentsに来てほしくない。
親から離れたかった、自立したかった、自分の世界を作りたかった。それを親に邪魔されたくないという気持ちだったのかもしれない。
その半年後、12月のクリスマスには父親ひとりで訪ねて来てもらうのは問題なかった。その時は、留学生活も半年経ち、Host Parentsとの関係性にも自信を得られたのか。あるいは、父親なら問題なかったのか。

母親の心配の渦に巻き込まれるのはイヤだけど、父親とはその心配がないと思ったのかもしれない。

0 件のコメント:

コメントを投稿