2019年4月21日日曜日

私のターニングポイント


あなたのターニングポイントを教えて下さい
田村 毅
(出典:「家族療法研究」Vol. 34 No. 3; 291-293, 2017.)

解説:これは家族療法の学会誌に載せた原稿です。学会の中心メンバーである評議員たちが順番に自分の人生のターニングポイントを紹介します。小森編集長はこの連続エッセイの趣旨について次のように書いています。
「正直に言うと、企画者としては、resilienceが頭の片隅にあります。追い詰められて私は変わったと言うストーリーは、治療と言うよりも治療者のキャリアカウンセリングと言う観点から、大変貴重なものだと思います。」

本文で紹介する私のターニングポイントを時系列で並べると、次のようになります。

1: 父親との愛着形成 (2-6歳)

2: アメリカ高校留学 (17-18)
3: 師匠との出会い (24)
4: ロンドン留学 (30-33)
5: 父親になる (36)
6: Maurizio Andolfiと出会い (40)
7: 妻の喪失 (51)
8: 両親の喪失 (58-60)

(以下が本文です)

現在もターニングポイントの最中にいるので、この原稿はいささか書きにくい。仕方がないので執筆を喪の作業にさせていただきます。大切な人を失うと、その関係性と自分に与えた影響がよく見えてくる。8個のターニングポイントを見出した順番に書くので、時系列が前後する。数字でその順番を示す。

9年前に妻を急性心筋梗塞で失った時は、とにかく心が痛かった (Turning Point-7:妻の喪失) 。「うつ」になりたくないと焦り、あらゆる機会を利用して感情を表出した。その習癖は現在も続き、自分でもやり過ぎと思うがコントロールできない。
私の人生観が大きく変わった。大学を早期退職し個人開業した。最も近い人を失った痛みと、近い人々との関係の中で癒された喜びを経験して、それまで求めていた広い社会からの承認欲求が消えた。身近な親しい人々と少数の患者さんとの深い関わりに生きがいが集約された。
基本的な愛着を喪失すると、愛着関係が不安定になり、新たな愛着を求めても、不安の投影(執着)か回避を生むことも体験した。臨床家族にも起きていることがよく見えるようになった。

1年半前に父親を、1ヶ月前に母親を失ったが、妻の時のような激しい悲しみは出てこない(TP-8:両親の喪失)。家族ライフサイクル上、40代の妻を失うのは予測不能なストレッサー、老親を見送るのは誰もが体験する発達的なストレッサーであるからこの差は当然ではあるが、むしろ気づいたのは、空気のように存在していた親子間の愛着であった。
私が結婚した当初は両親と都内の二世帯住宅に住み、上下を繋ぐ鉄の扉を閉めて独立性を保っていた。妻を亡くして扉は開け放たれ、ふたつの核家族がひとつの拡大家族になった。両親は小・中・高校生だった3人の子どもたちの面倒を見てくれて、私は仕事に専念できた。
ガンが再発した父親の願いを受け入れ、私は在宅ホスピスを整え、安らかに最期を見送った。伴侶を失った母親の心と身体は急速に悪化し、在宅介護、老人ホームを経て、1年半後に夫の元へ戻っていった。
「親孝行」という言葉は美徳か時代錯誤かというイメージもあるが、日本を含む東アジア家族の基本的な価値だ。欧米とは異なり、子どもが成長しても親子の愛着が薄れることなく一生続く。それが安定していると幸せを生み、不安に満ちていると苦しみを生む。

ほぼ同時期に亡くした両親との関係を振り返ると、私母親よりも父親に強い愛着を抱いていたことに気づいた。母親のグリーフワークを進めていても、いつの間にか父親のグリーフが飛び出してくる。しかもそれは感謝の涙である。
父親はキャリア・ガイダンス(進路指導)を専門とする教育心理学者だ。2歳下の妹に母親のおっぱいを奪われて以来、私は父親のオッパイを触りながら寝ていた(TP-1:父親との愛着形成)。それが5-6歳の頃まで続き、止めたくてもやめられない。今から考えれば、これが父親との強固な愛着の基盤であった。ちなみに親友の山登敬之(文献2)は中学生まで母親の布団で寝ていたことをカムアウトしている。彼は母親との、私(文献1)は父親との強固な愛着を著作に外在化した。
群馬の山奥に生まれた父親はよく山やスキーに連れて行ってくれた。小学校1年の時、実家の奥にあるリフトもない小さなスキー場で長靴を履いて滑って以来、毎年親と行くスキーをとても楽しみにしていた。南国生まれの母親も一度だけ同行したが、懲りて二度と来なかった。中学1年の時、青森の八甲田山からガイドに案内されて酸ヶ湯温泉まで滑り込んだ。その素晴らしさは今でも忘れられない。その後も高校山岳部での山スキーを経て、いま還暦を過ぎてもバックカントリー・スキーにはまっている。私は中学(柔道部)、高校(山岳部)、大学(アメリカンフットボール部)に属して男同士のラフな関わり合いを好んだ。ヒエラルキーを受け入れつつ、先輩たちとも親密に関わった。

1年間のアメリカ高校留学(TP-2)以来、文化交流が私のアイデンティティになった。「受験生が1年間も空けると大学に行けなくなるぞ」と高校教師は反対したが、父親が全面的に賛成した。よく家庭に海外の研究者を招いていた父親は40歳を過ぎてから海外にも出かけたものの、英語が不十分で思いを果たせなかった。父親の旅路は四万温泉から東京へ進出した。私は東京から始まり海外へと、父親の旅路を引き継いだ。

医師になり、進路選択時に出会った故稲村博が不登校・ひきこもりなどの思春期臨床に導いた(TP-3:師匠との出会い)。彼には人を動かす熱意はあったが理論モデルがなく、弟子たちは当時目新しかった病理を理解する準拠枠を模索した。斎藤環もその一人である。私が家族システム理論を選んだのは師匠や研究室の仲間に誘われたからというわけではない。私は原家族が好きだったのだろう。それに自身の家族ライフサイクルも関連している。初めて参加した1984年の第一回大会が27歳、日米学生会議で出会った妻と結婚したのが30歳、ロンドンに留学 (TP-4) したのが30-33歳、帰国して父親になった(TP-5) のが36歳。私自身の家族をうまく作りたかった。

私に父親が居てくれたように、私も子どもたちの良き父親になりたい。モデルがあったのでイメージはつかめたが、もっと極めたい。ロンドン留学中にジェンダーの視点を与えてくれたのはVirginia Goldner, Rachel Hare-Mustin, Lynn Hoffmanなど女性セラピストたちだ。当学会で、二人の年上の男性(中村伸一とDavid McGill)が男性性の自主シンポをやっていたので、私も仲間入りした。

ローマの家族療法家Maurizio Andolfiと出会った(TP-6)のは私が40歳で新米の父親だった頃だ。2週間の集中トレーニングで、男性も弱さを感情表出しても良いということを自ら示してくれた。その後、彼のグループには繰り返し参加している。
振り返れば私は父親を原点として、多くの年上の男性と出会い、成長のモデルとしてきた。

支援者は自身と対象の体験の差を情報として検知する。不登校・ひきこもり臨床で出会う家族は私の体験と大きく異なっていた。父親が不在で、母親との距離がとても近い。母親が心配するのはよくわかる。それなら、なぜ父親はもっと関わらないのだろう?
母親のまなざしは、どこか不安を抱えていた。危険を察知し、守ろうとした。それは、ありがたくもあり、束縛でもあった。父親は私の横で見守ってくれた。初めてスキーで滑るときも、妻を失った時も、不安な私を見守ってくれた。父親の期待は学歴や家業継承といった可能性を収束するものではなく、押し広げてくれた。
臨床で出会う男性たちの多くは子どもと妻から情緒的に切り離され、自身の父親とも切り離されている。家族の危機に直面して夫婦で協力したり、自立に戸惑う子どもの背中をうまく押せない。男性が親密性に不安を抱き、感情の言葉を持てないのは私自身の体験でもある。不安を乗り越え、変化を促す父性的な関わりが私の臨床の姿勢であり、自己の家族体験を投影したものである。

文献
1)田村毅「家族で往復書簡のすすめ:新しい父親像を発見するために」彩流社、2007
2)山登敬之「母が認知症になってから考えたこと」講談社、2013

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