2012年9月7日金曜日

成長痛

そのまま成長しても良いよ。
何があっても、きっと大丈夫だよ。
傷ついても、傷つけても、きっとなんとかなるよ。
信頼して、安心して、見守っているよ。

思春期の子どもは、このようなメッセージを必要としている。
成長するって、ホントはとても不安でたまらない。
今までの馴染みの世界を失うことになる。自分はダメなんです。助けて、守って、保護してよ、お願い、、、と言えなくなってしまう。
ソトの世界は不安に満ちている。失敗するかもしれない。いじめられるかもしれない、傷つけられるかもしれない。逆に誰かを傷つけてしまうかもしれない。
傷つくことを恐れてはいけない。いじめられるかもしれない、仲間はずれにされるかもしれないと、先回りして心配しすぎてはいけない。

私は高校時代、海外に留学したくてたまらなかった。
中学の担任の先生に相談すると、高校留学した教え子の先輩に会わせてくれて、話しを聞くことが出来た。飛び出すことを認めてくれた。
高校の担任に相談すると、おまえそんなことしたら大学に行けなくなるぞと反対された。飛び出しを抑え込まれた。
父親に相談したら、「行ってこい!」と認めてくれた。
母親は心配するばかりで相談にならなかった。それももっともだろう。17歳の子どもが手の届かない遠い異国に行ってしまうなんて、喪失体験以外の何ものでもなく、母親にとっての想像の範疇を越えた世界だったのだろう。
こうやって振り返ると、私はそのころずいぶん親に心配をかけていたのだろう。高校山岳部でよく北アルプス、南アルプスに登っていた。山育ちの父親にとって登山は馴染みの世界だが、海育ちの母親にとって登山は体験したことのない分からない世界だ。知り得る情報は時々入る山岳遭難のニュースくらいだろう。でも、私は山に登ってしまった。岩登りこそしなかったが、一度山スキーで遭難しかけたことがあった。父親には話せたが、母親には話せなかった。高校を卒業しても山を続け、遭難し亡くなった後輩が二人もいる。

よくわからないけど、きっと大丈夫。どうにかなるよ。

子どもはそういう自信を始めから持ってはいない。
他者から与えられなくてはならない。
親が、まわりの大人たちが、そのようなメッセージを伝えられるか。

学校にも行かず、仕事もせずひきこもっている子は、人と交わることに、仕事を一人前にこなせるか、まわりから認められるかどうか、大きな不安を抱えている。

おまえはいったいこれからどうするつもりなんだ?将来のことについてどう考えているんだ?
ひきこもっている子どもにこう尋ねることは禁句とされている。そこは、一番痛い部分、本人にとっての不安の塊の部分である。普段の日常会話、サッカーやスポーツや世界情勢は今晩のおかずの話はできるけど、核心の話はできない。それを親が口にしたらもうたいへん。子どもはイライラして、こうなったのも親のせいと親を責め、そんな話をするなら部屋に閉じこもってもう口をきかないと拒絶する。

大丈夫。おまえなら出来るはずだ。心配しなくても良い。
失敗しても良い、傷ついても良い。100%の無垢で完璧な自分でなくても良い。傷ついて縮小してしまったおまえで構わないのだ。

親がこのようなメッセージを伝えるためには、まず親自身が子どもの将来について「きっとどうにかなるよ!」という安心のヴィジョンを持つことが先決だ。親が子どもの将来を悲観し、内心は心配で一杯なのに、口先だけで「働きなさい。家を出なさい」と伝えたら、親の不安感を子どもに投影していることになる。子どもはますます不安になり、ますます気持ちが荒れる。拷問に等しい。

人は傷つくことに敏感だ。鈍感であっては危険すぎる。不安感は自分を守るために必要な感情だ。不安がなくなると山で遭難する。不安が大きすぎるとひきこもる。
人は傷つくことが必要だ。安全に傷つくこと。危険に傷ついて命を落としてはだめだ。100%自分の思い通りにはいかない。妥協しなければならない。でもそれで良いじゃないか。ダメな自分を認めれば良いのだ。大丈夫。傷ついても良いから前に進んでごらん。見ていてあげるから。
そのような安心のまなざしを子どもに向けてあげる。

親は子どもが傷つくことに敏感になりすぎてはいけない。
子どもを傷つけても良いのだ。傷つけて、ダメ出しをして、傷ついた子どもを受け入れてあげる。傷ついても良いのだと承認する。
ホントに傷ついても大丈夫なの?
傷ついたら立ち直れなくなってしまうのでは、子どもがダメになってしまうのでは?子どもを守らなくては。
親は子どもを守らなくてはならない。思春期に入る前の小さな子どもに対して。
親は子どもを傷つけなくてはならない。思春期から大人に成長しようとしている子どもに対しては。
ホントに大丈夫ですか?
大丈夫かどうかはわからない。
というか、ホントは親自身、自分の体験でわかっているはずだ。親自身が、自分の人生体験の中から見出さなければならない。
親が人生のどこかで傷つき、その結果今がダメなら、きっと傷つけてはいけない。
親が人生のどこかで傷つき、その結果今がどうにかOKなら、きっと子どもを傷つけても大丈夫。
子どもを安全に傷つけるためには、まず親自身が自分自身の傷を克服していなければならない。

親が自分の痛みを振り返り、傷ついてもOKであることを確認する。
親自身が傷ついても立ち直れることを確認する。

セラピスト(私)は親に対して「傷ついても大丈夫。何とかなるよ」というメッセージを伝える。
そうすれば、親が子どもに対して「傷ついても大丈夫。何とかなるよ」というメッセージを伝えられる。
そうすれば、子どもは傷つく不安を乗り越えて、前に進むことが出来る。

親子が不安の相互キャッチボールにはまっているとき、セラピストはあえてそこに介入し、安心のボールにすり替える。安心と希望はじっとしていても生まれてこない。だれかが、第三者が、そこに投げ入れなければならない。

私自身の思春期を振り返ると、母親は愛情と安心を与えてくれたけど、未知の世界に飛び出す勇気は与えてくれなかった。父親が与えてくれた。
そういう意味でも、私の考え方は父性的なのだと思う。

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