8月28−30日に今年の夏2回目のスーパーヴィジョン合宿を開催しました。
今回も第一回合宿と同じく4名の参加でした。
今回も第一回合宿と同じく4名の参加でした。
2名が古民家に宿泊し、2名が宿泊なし、家から通いの参加でした。
第一回はリピーター限定の合宿でしたが、今回は4人とも初めての合宿参加です。
スーパーヴィジョンも初めて、
自分のジェノグラム(家系図)を書くのも初めて、
始めはみなさん緊張していましたが、二泊三日の中でだんだんと解れていきました。
合宿では、各自のジェノグラムづくりを軸に進めていきます。
第一に、私が自分のジェノグラムを描き、そこに埋め込まれた感情体験を掘り下げるモデルを示します。
第二に、二人組ペアになり、対話の中でお互いのジェノグラムを描きます。
第三に、各自のジェノグラムを参加者全員でシェアします。
こころの支援者はクライエント自身の体験や感情の表出を促します。
しかし、普段の臨床では支援者自身の感情を表出する機会はほぼありません。
- 本音を、自分の体験と気持ちを、語ることがどれほど困難なことか?
- 語り、他者に受け入れられることで、どのような変化が起きるのか?
そのことを合宿で体験していただければと思います。
参加者からの振り返りをご紹介します。
3日間の合宿から日常に戻り、仕事・臨床の場へ戻って、今回の合宿について参加し学んだことを反芻し、落とし込んでいる最中です。まだ、まとめきれず散らかっている状態ですが、参加した感想として書かせて頂きます。
まず一つは、自分の事を語ることがこんなにも、辛く大変なことであることを再認識しました。どうしても、面談という場になれば、あれやこれを患者さんに対して聴きます。相手にとってはプライベートで聞かれたくないこともあるでしょう。そんな中で、その事を話して貰うことにどんな労力を割いていることかと言うこと、そして、相手が話すことがうまくまとまらないことも多々あるのは、当然だとも思いました。
次に、先生から、「私が経験したことは、プラスに働いていると思うか、あるいはマイナスに働いていると思うか。」と質問をされ、私は戸惑いました。なぜならば、過去の体験がプラスに働いているものだと思い込み、支援者としての自分を作ったきっかけが、まさにそれだったからです。しかし、よくよく考えて見ると、本当にそうだったのか?と思います。これについては、まだ自分の中で消化しきれていないので、今後も考えて行きたいと思います。
最後に、自分が自分を語り、他者から反応を貰える機会は、そう滅多にありません。自身と他の人から見た自分を知ることにより、少しではありますが、自身の思考の癖への理解と、それに伴い視野が広がった気がします。支援者としての自分・本来の自分というのを見つめなおすきっかけとなりました。私という人が果たして支援者で支援して良いものか?と疑念がわき始め、自身の感情との折り合いもまだできていない現状ではありますが、少しずつ自分自身に落とし込み、歩んでいければと思っています。
プラス・マイナスを体験してきた当事者としての自分を受け入れることができたら、支援者としての自分を受け入れられると思います。
合宿前は緊張や3日間どう過ぎていくのか・自分のことをどこまで話せるかなど、不安でいっぱいでしたが、初日に田村先生がご自身の話をしてくださったことで、”ここで自分のことを話したいな”という感情に変化していきました。この心の変化は、初日に合宿が安心・安全な場所であると感じられたからだと思います。
そして、今回の合宿で支援者としての一番の気づきは、自分の事(特にネガティブで、出来れば周りの人に隠しておきたい経験)を語ることの大変さです。自分の家族や体験を話す事がこんなに大変で、その時の感情や感覚を思い出すことの辛さ…。今まで、私が面接してきた患者さんは、こんなに大変な作業をしてくださっていたんだと、恥ずかしながら自分がその立場になって本当の意味で気づきました。
一方で、自分のネガティブな体験を語ることで、長い間心の奥にひっかかっていた物が、少しとれたような感覚もあります。それはきっと、今までずっと誰かに話したかったけど話せなかった事を、この合宿で皆さんに聞いてもらえたからだと思います。聞いてもらうことで、自分の感情や体験が少し整理できたという感じでしょうか。
支援者であるとともに、当事者でもあることに気づくことができた3日間でした。
自分でその感覚を体験したら、クライエントさんたちが経験しているその感覚も受け取れると思います。我々が支援することで、クライエントさんたちは言葉には出さなくても結構そうやって癒されているんですよ。
合宿初参加、もう大丈夫だと思っていても、何度か語ってきたことでも、それでも振り返ると上手く話せなかったり、冷凍保存されていたような感情の処理はまだ出来てないなと感じました。けれど、残すものと手放すものの分別が少し進んだように思います。
数年前まで、自分の弱点は、決して人に知られてはならないものでした。それが、社会生活に影響し始め、当事者として2年ほど過ごす中で、そこまで嫌わずにいられるようになってきたのですが、やはり、合宿終えて数日経って、何度か振り返るうちに、何とも言えないどうしようもなさや、恥ずかしさが込み上げます。誰でも何かしらあることなはずですが…職場のクライエントのいない場での差別的な会話にも、心が痛むものがあったことを思い出します。それは、そんな会話をしてしまう側もまた、痛みがあるんだろうということ。当事者になってより分かったことです。
けれど、弱さって、そんなに隠せるものでもない気がします。触られると痛くて恥ずかしいのに、結構透けていたりする…弱さを自覚しているだけの状態で表に出てしまった後に待っていたのは、出すことに違和感を持つ強がりさんからの攻撃でした。隠してもダメ、出してもダメなんですね。
受け止めてもらえることで肯定はできるけれど、もう一歩、悪さしない形まで昇華するのも、一人だと難しいところ。別の視点を頂けることで、「今ここ」これでOKになる。沼の上に足場ができるといくらか動けそうに思えます。ただ、やっぱり、正直、一歩目は怖いです。助けてが言えない、どう助けてと言ったらわからない、言葉にすることの大変さは改めて感じましたし、どんなに信頼してる人であっても、言えないことは残るんだろうと思います。言葉にならないその重みと尊さと、その人の人生を大切に思う気持ちは、絶対忘れずに持っていたいと思いました。
先祖代々、受け継がれてきたものに、がんじがらめになっていましたが、それが少し解け、助けるとは何かということも、考えることになりました。自己犠牲的なもの、干渉的なものも混じっていたと思います。縛られていたけれど、同時に自分を助けていたものもありました。それを手放しても残る「助けたい」は、今見えている社会の仕組みの穴に落ちた経験からのものなので、そこに何ができるかはわからないけれど、もう暫くよく見つめたいと思っています。頂いた言葉に勇気づけられました。
ここまで深めることができたのは、素晴らしいと思います。
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