2013年7月1日月曜日

講演会ライブ

週末は新幹線に乗り講演会に向かった。
対象はいのちの電話の相談員さんたち。
これは、私が最も楽しめる講演会だ。
若い頃は、人前に出ることが緊張し、講演を楽しむという余裕はなかった。
今でも学会では専門家からどんなツッコミが飛んでくるか緊張する。

その点、相談員さんたちは私の「ファン」でいてくれる。
ミュージシャンがファンの前で繰り広げるライブコンサートを楽しむ感覚に多分近いのだと思う。
聴衆の熱気が伝わってくるんですよね。コンサートのような熱気とはまた違い、興味を持って聞いている眼差しが伝わってくる。大きなホールで壇上に上がると観衆との距離が開いて表情まで読み取れない。せいぜい100人くらいまでの参加者と近い距離から話すと、みんなの表情がよくわかる。熱心に目を輝かせて聞いてくれる人、飽きている人、いねむりしている人などなど。
話していて、「おっ、みんなの関心を引いているな!」と感じる瞬間がある。すると、自然とアドリブで話を発展させたくなる。参加者が乗ると私も乗り、私が乗るとみんなも乗ってくる。私が楽しむと、みんなも楽しんでくれる。ユーモアにも磨きがかかる。

相手の話を聴くのが仕事の相談員さんたちは、(感性)をとても大切にする。
私はことがらを理性的に語りながらも、自分の体験などを感性を交えて語る。自分の気持ちを話しの中に織り込んでいく。それを聴衆が受け取ってくれる。そのようなやりとり、気持ちが通じている感覚がなんとも楽しい。

聴衆からのフィードバックがもらえるのも楽しい。
通常の「手を挙げて質問おねがいします!」の手法はあまり用いない。緊張感に満ちてしまう。
匿名で質問を紙に書いてもらい、それを読み上げながら答えていく場合。
今回のように参加者が語れる状況であれば、後半、グループで話し合い、その様子を全体にフィードバックしてもらう。話し合っていることが聞き取れなくても、グループの表情や雰囲気からどれほど参加者が引き込まれ熱心に話し合っているのか一目瞭然だ。そこから出てくるフィードバックは結構するどく、それに答えることで私自身の視野を広めたり考えを深めることができる。

作家や音楽家や芸術家が自分の作品やパフォーマンスを人々に届け評価されることで生き甲斐や癒し(と収入)を得るように、私が積み上げてきた語りを人々に届けることで満足を得ている。
講演会も芸術のひとつと成りうるんでしょうね、きっと。

2013年6月28日金曜日

支援者の自己と向き合うワークショップ(2)

今日は2回目。まず参加者の感想から。

  • 普段は話すことなに昔のことを話して、自分の人生を久々に振り返った、、、
  • 私は自分自身に対してもモヤモヤしている部分があることが苦痛でした。、、、そのモヤモヤした部分も自分だからと受け入れれば、楽になるのかもしれないと思えました。
  • 自分の感覚に素直に向き合うのは難しい。容易に揺れるけど、揺れてみないとわからないこともあるなと思いました。
  • 他の方の語りの中に自分を見出していることに、はじめは違和感があった、、、

2回目以降は、参加者一人ひとりの語りに焦点を当てます。

支援者はクライエントが表出する多くの語り(情報)を受け取り、支援者自身の内面に刻み込みます。それはクライエントの体験と相似形であったとしても等しくはない、クライエントの語りに触発された支援者自身の主観です。そこには支援者自身の体験が埋め込まれています。
支援活動の中で見出した感情体験は、支援関係の中で完結したものと思い込んでいます。果たしてそうでしょうか?

それを支援活動の文脈から、支援者自身の自己という文脈の中に広げてみます。すると今まで見えなかったことがたくさん見えてきます。忘れていたわけではない、覚えてはいるけど心の奥にしまい込んでいたものを意識化し、言葉を与えていきます。そこに秘められた感情(悲しみ・怒り・喜び・不安など)は支援者という役割から離れたひとりの人間としての体験です。まずそれを十分に受け入れます。

そして、それを再び支援活動という文脈に戻します。掘り下げた自己の体験が、支援活動にどう影響しているのだろうか。どのような差異を生むのだろうか。自分だから出来ることは何だろうか。これが支援者としての自己理解であり、それを達成すると支援がとてもうまく、しかも楽に行えるようになります。もちろん、ひとりの人間として抱えていたモヤモヤや肩こりも晴れます。

グループのメリット。
ひとりで掘り下げる場合には、自身の支援活動からネタを拾ってきます。
グループの場合、それに加えて参加している他者の語りをネタにして、自己の語りを見出すことができます。それはとても強力です。

2013年6月27日木曜日

ひきこもり脱出講座(第3回)「夫婦」

学会などで多忙で投稿が遅れてしまいました。すみません。

第三回目のテーマは「夫婦」でした。
子どもの問題解決のために両親の協力が大切と良く言われますが、実際はどうなんでしょう。そのあたりをみなさんと一緒に深めました。
一見、ごく普通の問題なさそうに見える夫婦でも、その内実は厳しいものです。みんなそれを上手に取り繕っているだけなんですよね。
  • 仕事が忙しかったり、単身赴任だったり、「父親不在」は日本の家族の特徴でもあります。
  • 母親としては、夫に頼ったり期待しても仕方がない、自分でやるしかないと、ひとりでがんばって子どもに関わっているうちに「父親不在」が「父親不要」になってしまいました。
  • よく考えたら、ひきこもっているのは子どもだけでなく、親も別の意味でひきこもっているのかもしれません。両親が話し合ってもうまくいかないので、夫婦が向き合おうとしない、現実に向き合おうとしない、問題だとはわかっていても引いてしまい、自分の考えや相手への期待を言わなくなってしまいます。夫婦コミュニケーションから目をそらし、ひきこもっていたのかもしれません。
  • 親自身が育ってきた家庭も影響します。家族の中で会話するという習慣があまりありませんでした。だから家族同士で自分の考えを出し合い話し合いましょうといっても、実際どうしていいか感触がつかめません。
  • 夫婦間に過去の積み残しがあります。相手への怒りが未消化のまま残っているので、向き合うことができません。自分の気持ちを相手に伝えることができません。
こういう体験は、程度の差こそあれ、どの夫婦でもありうるパターンだと思います。
  • だから子どもに問題が生じたんだ。
  • 夫婦仲がうまくいかなかったから、子どもがひきこもったんだ。
ということではありません。このような「親原因説」はあまり意味がありません。
もちろん、家族の影響は大きいです。家族がうまくいかない部分もあるでしょう。しかし、どの家族も光と影を持っています。影を語り始めたらきりがないわけで、影を修復することが解決につながるとは思えません。どの家族だって、どの親だって、影があって当たり前。それを消し去ろう、どうにか変えようとすると、自分を見失ってしまいます。
影は、影としてしっかり認めてください。隠す必要はありません。
影がはっきり見えてくれば、光も見えてきます。
自分の影を見つけ出して、「私はダメな親なんです」と落ち込む必要はありません。
影は見えても、光を見るのは困難です。でも、家族の力でひきこもり問題を乗り越えるためには、家族の光がたくさん必要です。家族それぞれが持つ光をかき集めれば、とても大きなパワーとなります。それを子どもに伝えたら、子ども自身もひきこもりを乗り越えるパワーを獲得できます。

本人と話す時には「否定しない」「反論しない」「言い訳しない」という姿勢が必要と言われてきました。

はい、そのとおりです。
でも、それは子どもの気持ちを率直に受け入れ、言い訳しないで子どもに正面から向き合いましょうという意味です。子どもが自立し、巣立つためには安定な基盤が必要です。親が自分を認めている、受け入れているという体験が必要です。そのための姿勢です。

しかし、その結果、子どもの言いなりになってはいけません。
安心できる親子関係が築けたら、ウチの世界に閉じてひきこもっている子どもを外に連れ出します。そのためには、子どもを否定し、反論して、自分とは異質な他者を受け入れるエネルギーを付与します。

勇気を出して、強く言うことが必要です。愛情をもって、相手を傷つけ、それを乗り越えた相手を受け入れます。

それをまず夫婦間でやってみましょう。
でも、うまくいかないこともあります。
  • 本音で話すことができない。
  • 怒られるのが怖い。波風を立てたくない。
  • 相手の話を聴いていない。相手に理解されたと感じることができない。相手から反応がないのが嫌だ。
そんな気持ちをグループのみなさんで共有し、夫婦のコミュニケーションの難しさと、それを乗り越える具体的なやり方を実演しました。
  • 言わない主義ではなく、言ってほしい!
そうなんです。
ひきこもりから脱出するには、強いコミュニケーションが必要です。それは他者から傷つけられる不安に耐え、他者と交流する力です。
そのために、まず親同志が強いコミュニケーションの見本を見せてあげます。親が傷つく不安を乗り越えて、意見の合わない夫婦間で自分の率直な気持ちを伝え合ってみましょう。

2013年6月24日月曜日

子どもが親を連れてくる

先日の講義を受けさせてもらった高校3年生の佐藤ひろみ(仮名)と申します。
両親の夫婦仲が悪く、喧嘩ばっかりです。
本人たちは、精神科医がこのような相談を受けてくれると信じていません。
17歳の私が申し込むのは変かもしれませんが、兄とも話しあって、本人たちも信じてくれないので私が予約しました。よろしくお願いします。

はい。良いですよ。
この前の講義でもお話しましたけど、日本の精神科医は病気しか扱いませんからご両親が信じてくれないのもよく分かります。ひろみさんとはお会いして話したからわかりますものね。

それに、夫婦関係をカウンセリングで改善するという発想が、日本社会にはまだ根づいていないということも講義でお話しましたね。「夫婦ケンカは犬も食わぬ」ということわざがあるくらいですから。でも、欧米では夫婦カウンセリングの習慣が根付いているから、割と気軽にカウンセリングに行きます。欧米では夫婦ケンカはカウンセラーがちゃんと食べるんですよ。

それに、みんな「自分は問題ない!」と思いたいですからね。
内心は問題かなと薄々は思っていても、それを自分で認めたがらないんです。それは大人も子どもも同じです。ホントの自分を認めるって大切なことだけど、いざ自分のことになるとなかなかできないものです。

だから多くの場合、家族に促されて本人が気乗りしないまま相談にやって来ます。
多くは親に促されて子どもがやってきます。
ひろみさんはその逆ですね。子に促されて親がやってくるわけですから。
ひろみさんは偉いと思いますよ。

でも、気乗りしない人を連れてくるって結構たいへんですよ。
親が子どもを連れてくるのさえ大変だけど、
子が親を連れてくるって、もっともっと大変です。
大丈夫だから、行ってみようよ!
と、優しく、そしてしっかりとお父さん・お母さんに勧めてあげて下さい。

学会が楽しいなんて!?ーーー学会印象記

学会が楽しいなんて!?

若い頃は辛かった。
勉強と業績づくりのために必死で参加していた。
学会の会場に近づく電車の中からドキドキが始まる。
、、、あの人も学会に行くのかな?
、、、知っている先生に出くわさないかな?
若い頃は辺縁(peripheral)だった。
自分が一番下っ端で、まわりの人は自分より上だった。
指導教員に原稿に赤を入れてもらい、研究会で予行をして、口頭発表する前は心臓が口から飛び出すほどだった。

よっぽど海外の学会で発表する方が楽だった。
日本からの参加は超マイノリティー。みんなと「違う」ポジションだから、お客さまとして言いたい事を言えた。
国内の学会では、「同じ」グループ内の最下位のポジションだった。

若い頃は発表の機会を得るために、たくさんの学会に入っていた。
付き合いで参加せざるをえないマイナーな学会から、専門家のアイデンティティを維持するために必要なメジャーな学会まで。
精神神経学会や心理臨床学会、アメリカのAAMFTのようなメジャーな学会は専門資格を維持するために必要だが、大会に参加しても大きすぎて面白くない。関心を引く部分だけ参加して、他は物見遊山でゆっくり過ごす。

年齢と共に、これらの多くは学会費を滞納してドロップアウトし、今でも残っているのは4つの学会かな。国内が1つに、海外が3つ。

AFTAには1年おきくらいに出かけている。去年は参加して今年は行かなかった。
アメリカでも近年はpsychotherapyが落ち目でbiologyに傾倒しているとはいえ、もともと社会の中で果たす役割が日本よりずっと大きい。
Psychotherapyの中でも家族療法のシェアは比較的大きく、遊佐先生の発表によると、
CBT 68%
MFT 49%
mindfulness therapy 41%
psychodynamic 35%
Rogerian 30%
第二位なんですね。

アメリカの夫婦・家族療法をカバーするのがAAMFTであり、これは規模が大きく超メジャー。資格認定もあり、アメリカ人の家族療法家は入らなくてはならない学会だ。
私は参加したことはない。
同じ家族療法の学会でもその対局に位置するのがAFTAだ。人数は1000人いないんじゃないかな、小規模で入会審査が厳しい。最近でこそopen policyに変更したけど、教科書やfamily processに出てくるような人たちがバンバンいて、レベルの高い学会だ。若手が研究成果を発表するという色彩は薄く、ひとつのテーマについて時間をかけてディスカッションを深める。アメリカの学会では海外、特にアジアからの参加は珍重されるので、私も時々行っている。
"Hi, Takeshi, Nice to see you again!"なんて言ってくれる人も結構できたので、私の居場所化しています。

IFTAは家族療法学会の国際版だ。
80年・90年のマスターセラピスト全盛時代には盛んだったけど、最近はちょっと落ち目か。私は英国留学時代にダブリンで開かれた第一回大会がらちょこちょこ参加して、board memberも一期やったのだけど、ここ2-3年はちょっと引き気味。お祭り的雰囲気でいろいろな人には出会えるので、仲間が行くとか何かのきっかけがあれば参加する。

CIFAは家族療法学会のアジア版。5年前に香港で第一回が開催されて以来、日本代表みたいな位置に居すわっている。

私にとっての日本家族研究・家族療法学会は、若い頃のmarginal positionから、いつのまにかdominant positionにすっぽり入ってしまった。
学会での立ち位置がよくわかるのが交流会・懇親会でのポジショニング。
昔はずっと端っこの方でパクパクご飯を食べ、真ん中には近づけませんでした。最近はようやくセンターテーブルにも近づけるようになった。しかし長老たちとタメで渡り合う度胸はないので写真・ビデオを撮ってゴマかしてました。

年1度の大会は、気分高揚状態。
特に今回はホスト側でもあり、実行委員をやって、司会、シンポジスト、コメンテーターと多重の役割をこなす。
交流会に出て、二次会に流れて、旧知や新たな出会いが多く、仲間との再開であり、仲間を作る場である。
若い頃のような研究の成果発表・業績づくりの場ではなくなった。
同じ指向性を持つ専門家たちと臨床経験を深めていく場である。
また、学会を運営し、家族療法を社会に広め、若手を育成する役割も担うことになる。

と、前置きが長くなったが、このような文脈の中での私の印象記を書く。

世代交代という話が何度も出た。
学会黎明期の80年代に40-50代だった第一世代(牧原、鈴木、下坂)の後、
その頃30代だった楢林、中村の時代が12年間続いた(第二世代)
。
そして、当時20代だった渡辺にバトンタッチされたわけで、これから第三世代が始まる。

年齢とかそんなにこだわらなくてもという話もあるが、generation 感覚・年功序列感覚の強い日本文化ではどうしても避けて通れない。
家族も30年がひと世代とすれば、家族ライフサイクルに敏感な我々はそろそろ第二次変化(second -order change)を引き起こすためにpositive-feedbackが必要な時期なのか。
前の世代が築いた財産をどう引継ぎ形態を維持しながら(morphostasis)、同時に新たなニーズに対応して形態を進化させていくか(morphogenesis)が問われている。

着かず離れず。
前世代がほったらかしても干渉しすぎてもいけない。
次の世代が過去に依存し過ぎても、反逆して関係性を絶ってもいけない。
そのためには次の世代が成熟し、自立する自信が必要だ。
それとこの学会の基礎概念でもある関係性だ。
独自性を互いに認めつつ、信頼し連携できる関係性が必要だ。
お互いに手を差し伸べ関係性を作っていく。

下からのアプローチもある。
10年以上前だったかジェンダーに興味があり、将来は自費で開業もしたいからと、教えを乞いに某学会長のオフィスを訪ねた。何を話したかは全然覚えてないけど、寿司屋に連れて行ってくれたことだけ覚えている。
それ以上に上からのアプローチ(誘い入れ)も大切だ。
やはり10年くらい前か、初めて演題の司会をやった。楢林先生とペアを組み、楢林先生がリードしつつ、私にも少しやらせてくれた。
またそのころ、後藤先生が新潟に呼んでワークショップをやらせてくれた。若手開発の一環だったと理解している。
これらの体験が、学会に受け入れられてるなという感覚を作ってくれた。
逆の体験もある。
某〇〇元か私の発表事例に対して「全然基本ができてない、一からやり直せ」みたいなぼろくそコメントをもらい、傷ついた。
だれしも良いところと悪いところ両方もある。
甘過ぎてはいけない。若僧側には成功体験を積めるだけの実力が必要だ。誰でも来る人を拒まずのスタンスではダメだ。
逆に厳し過ぎてもいけない。良い芽を見い出し、育てて行く姿勢が上の世代には求められる。
学会に顔を出す動機には、純粋な学問的興味と仲間から誘われる場合がある。しかし学会を身内関係の延長にしてはいけない。すでに形成されている仲間関係の枠をはずし、興味と熱意だけでやってきて孤立しがちな新たな参加者をどう組み入れていくか大切だ。

若手がドキドキしながら業績を作っていくために、短時間の口頭発表やポスター発表は大切です。
それと並行して長時間の発表をどうするか。
自主シンポという枠は、企画者が自由にできるから良いでしょう。
臨床事例を扱う長時間の口頭発表はどうなんでしょうねえ。
一般的な成果(outcome)中心でいくか、この学会特有のプロセス(process)中心でいくか、両方の考え方があります。
前者でいくと、まず発表者が事例経過を丁寧に提示して、こんな工夫をしてこんなオリジナリティがありましたと成果を独演で発表します。その後の残った時間でコメンテーターのコメントと質疑応答で締めくくるみたいな。
後者は発表者とコメンテーターの(あるいは聴衆も含めた)掛け合い漫才になります。
もともと家族療法が複数の人々の漫才プロセスなわけで、多分こういう発表の雰囲気はこの学会特有の楽しくためになるものだと思います。

「研究事例」という名称はどっちつかず、どちらにもとれてしまいます。以前あったような「公開スーパーヴィジョン」だと後者の色彩が強くなるかな。
あと、抄録をどう書くか。ちゃんと論文形式(方法・結果・考察)で書きなさいと指示されると、どうしても前者のスタイルになってしまいます。この学会らしいのは後者だけど、前者のニーズもあると思います。このあたり、うまく切り分けられると良いかなと思いました。
ちなみに、後者でいくなら司会はいなくてもよいかなと思います。

2013年6月12日水曜日

母親の物語(最終回)

帰りの新幹線の中だ。
四国巡礼の旅も無事に終わろうとしている。
私にしてみれば婆婆のペースに合わせたのんびりの旅。
帰路に立ち寄ったしまなみ海道からの瀬戸内海が見事だった。
母親にとっては通常よりかなり活動量が多い。疲れただろう。

昨日は本家のおじさんをお見舞いにいった。
ちょうど良かった。ガンに冒された87歳の身体は浮腫と腹水で食べものを摂取できなくなり、意識も混濁し始めている。
この2週間で急激に落ちてきたんですよ。
よくお嫁さんが尽くしている。都会であれば当然ホスピスか緩和ケア病棟の段階であろう。変わり果てた兄の姿に母親は涙を流し、お嫁さんももらい泣きする。

本家のいとこのJちゃんは叔母たちと私を歓待してくれる。
蔵を整理したらこんなのが出てきたんですよ。
埃をかぶった化粧箱には昔のお人形さんが入っているが伯母さんたちの記憶にはヒットしないようだ。
母親が尋常小学校時代にもらった「優等賞」の賞状も保存されている。
夜は家族みんなで楽しい宴会。四国ならではの新鮮な海の幸が満載だ。おじさん、伯母さんら母親のきょうだいが4人、いとこたちが嫁さんも含めて4人。にぎやかで楽しい食卓だ。おじさんもビールを少量とお鮨を3カン食べることが出来た。

このシーンはとても懐かしい古い記憶が蘇ってくる。
毎年お盆に全国に散らばった一族がじいちゃん・ばあちゃんのもとに集合し、大宴会。
小姑たちがいっきに押し寄せ、伯母さんは相当たいへんだったと思う。

Jちゃんが昔のアルバムをデジタル化して、スライドショーを上映してくれた。都会の核家族で生活する我々ばかりでなく、待ち受ける側のJちゃんにとってもとても楽しかったんだって。
そう、友だちとも違う、普段は会わないけど年1回、血のつながったいとこたちとの再会は何より楽しかった。いや、血ではないな。原家族の再会を心より楽しんでいる親・祖父母・おじおばたちの姿を見て、日常生活は共にしないけれど、大きな家族にすーっと含まれていく安心感なのだろう。

お盆が過ぎてそれぞれの生活に戻っていく娘と孫たちを祖母は必ず涙で見送ってくれた。

「元気でね。無理しないでね。また来てね。手紙ちょうだいね。。。」

小さかった私は、別れを悲しむ祖母と母親を交互に見上げ、正式なさよならの儀式はこうするものなんだと感慨深く眺めていた。

このように書いていく中で、普段の家族生活では気づかない拡大された「家族の物語」が見えてくる。自分自身の家系図を目の前に展開しているようだ。

両親の原家族は有産階級だったんだ。今はあまり意識されないが、昔の時代には有産・無産階級が区別されていたのだろう。
両者とも都市部ではない地方の田舎の大きな商家だった。学問的には全然sophisticateされていない。その中で父親と母親は勉学的に抜きん出て、当時は(特に女性にとって)一般的ではなかった高等教育を受け、大都会に新たな核家族をスタートさせた。
大都市では有産・無産はあまり関係ない。みな小さな家に住み、教育レベルが収入の差を生む。

若かった父と母は「勉強できる子が都会に出る」という成功のシナリオを携えて、群馬と愛媛から上京してきた。お金持ちではないが安定した収入を父親が提供し、安定した居場所を母親が提供し、大家族の複雑な葛藤関係もなく、ある意味きわめて安定した家庭環境の中で、私は「勉強できる子」という家族神話をそのまま受け継ぐことが出来た。

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母親の心理が少し見えてきた。
  • あ)愛情。
  • い)心配・不安、怒り、敵意、嫉妬。
これらは正反対の感情ではあるが、共通点がある。
それは、常に対象のことを意識に載せている状態だ。
かけがえのない対象(=家族)を載せている受け皿(基盤)がどのような心理状態にあるかによって分かれてくる。
受け皿が肯定的だと良質な(あ)となる。
受け皿がストレス下にあると、相手を束縛する(い)となる。

親の不安・心配は幼い子どもを守り、育むために必須の感情だ。
しかし賞味期限を過ぎると、巣から飛び立とうとする若鳥の足かせとなる。
今は巣立ちに失敗する若者が多い。

その点、はるか昔に巣立った私にとって、もはや親の不安が足かせには成りえない。そのことを心配する必要はない。
一番下の孫も来年は高校生だ。もはや手をかける年齢でもない。
とりあえず、今回アリバイを作ったから、1回か2回分の出張はキレずにいてくれるだろう。でも、その後はまた不安・心配のスパイラルに戻るだろう。それは加齢とともに記銘力は保持されたまま心情的肯定力が低下した母親に残された愛情表現なのだ。

そのうちエネルギーが切れてきたら、補充するべくまた連れ出すしかない。今度は親孝行として。
タケシさん、何から何まで本当にお世話になりました。Yおばちゃんと一緒に皆に幸せを運んでいただいたように感じています。おばちゃんにもよろしくお伝えください。 
幸せって何なんでしょうね?
久しぶりにお目にかかったおじさんは、間もなく天国へ旅立たれます。
もう自力では歩くことも食べることもできないのに、子どもや妹たちに無理に勧められてみんなの宴会の席に着きました。傾眠傾向が強く意識もはっきりしないけど、耳は聴こえているんだよね、きっと。お嫁さんが口に運んでくれたお鮨をひときれ食べた時、一瞬だけど満面の笑顔が見えました。これが幸せなんですよ、きっと。
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6月15日
その伯父の訃報が入ったのが4日後の昨日だった。
母) お葬式は今回失礼するわ。


6月17日
お悔やみ電報
「子ども時代に帰省した時の伯父さんは、トラックの荷台に親戚一同
を載せて海水浴に連れて行ってくれたり、腹踊りをしてくれたり、
とても優しく大好きでした。最後にお目にかかる事ができて幸せで
す。安らかにお眠りください」

母親の物語(5)

母親は郷里に戻り、姉と妹からエネルギーを注入されている。

要するに、すべて関係性の会話なんだ。
AちゃんとBちゃんの仲が悪くて、その結果がCちゃんに及んで、、、
Dちゃんは身体が弱くて苦労して、、、
Eちゃんは医学部受験で6浪して、、、
Fちゃんは離婚して子どもはこうなって、、、

仕事の話や社会情勢の話は出てこない。
昔と今の親族・家族の物語だ。家系図を書いたら相当複雑になるだろう。
セラピーでの会話と種類的には相似形だ。

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こうやって、母親の物語を綴ってみても、構造が見えてこない。
父親の物語には構造があった。子ども時代は尊敬し、自分の規範であり、思春期には壁として挑戦し、乗り越え、自信を獲得し、依存対象から分離していった。
母親と私の間には何があるのか見えてこない。
なにも事件はなかったように思う。

十分な承認・愛情をもらった、、、と思う。
というか、もらっていない状態ではなかったので、何もそれについて感じることがない。専業主婦としていつも近くにいた。幼少期から今現在まで常に身近にいる。
今も昔も、母親にとって夫とふたりの子どもと孫たちは一貫して常に眼差しを向け、何よりも優先する対象だ。それが重たくもあり、だからといって重たくても別に支障はない。、、、そうでもないか。重たいからこそ今回の旅行を実現させたわけだから。

過剰に期待されたわけではない。
普通に期待していたと思う。
もし父親がいなかったらもっと過剰に期待されていただろう。基本的に母親の不安値は高い。夫が打ち出した指標がなければ高度経済成長時代の進学熱に乗せられ、母は自然に「教育ママ」になっていただろう。
教育心理学者である父親は「進路指導」が専門で、親や教師がどう子どもに期待するかを打ち出すのが仕事である。母親は教育ママにならなかった。
それに、(口はばったいが)私はまわりから求められる教育期待をクリアしていた。
高校受験は都立一本だけで私立や国立は滑り止めも受けなかった。当時の都立高校は学校群制度。第一学区で受けられる11群(日比谷・九段・三田)だけ受けて、国立や私立進学高もねらってみたらという先生の勧めもあったが、親の教育方針で受けなくてよいということだった。当時は塾に行っている子が多かったが、私は行かなかった。大学受験の半年前の夏にアメリカから帰ってきて全然受験体制ではなかった。浪人するつもりでいたら、現役で希望する大学に受かってしまった。つまり、親にとっても私自身にとっても、勉強面については不安要素がなかった。平たくいえば、「勉強のできる良い子」を通すことが出来た。
いとこのAちゃんは勉強ができて、医学部に進学して医者になった。その弟のBちゃんは勉強ができなかった。子ども時代からGoodiesのAちゃんとBaddiesのBちゃんに対する親の対応の差は歴然だった。Bちゃんは離婚したんだって。親から受け継いだ家を人に貸し、都会の方に行ったらしいよ。何してんか知らんけど。 
祖父は大切な跡取り息子として大切に、つまり甘やかされて育てられた。医者になる夢を諦め、やる気をなくし、受け継いだ家業には熱心でない。戦後、農地改革でたくさんあった土地を取られていく中で「ヘンな宗教」にはまり、朝から酒を飲み高等遊民気取りだった。祖母は不満を漏らさず夫に使えていたがとても苦労した。
その祖父のひとり息子のKおじさんも大切に(=甘やかされて)育った。のんきでとても人あたりが良い。帰省すると皆を歓待してくれ、私は大好きなおじさんだった。でも仕事の詰めは甘く、肝心のことは決められず人任せにしていた。大人になってから母親(私の祖母)を責め、仲が悪かった。
妹たちから聞かされる兄の評価は厳しい。
経済的に豊かではなかった。
でも貧しくもなかった。
父親は国家公務員だった。決して余剰の金があるわけではないが、経済的に不自由はせず、きわめて安定していた。
父の実家は温泉旅館。母親の実家は旧家の土地持ち。両方の実家は経済的に豊かだった。お医者さんや商売をやっている親戚は羽振りが良く、自家用車を持っていたり、大きな家に住んでいたり。私にはそういう体験がない。おもちゃをいっぱい持っているいとこを「いいなあ!」とは思ったが、持っていないことが不自由ではなかった。
お金が増えればトラブルも増える。贅沢な暮らしに慣れてしまうと、レベルを下げられなくなる。医者仲間には贅沢路線で突っ走る友人もいるが、私はあまり興味がない。

家族の中に葛藤関係がなかった。
核家族だった。
次男坊の父親と四女の母親が郷里を遠く離れ東京で小さな家族をスタートさせた。母親の姑さんは群馬の山奥で、年1-2回の帰省時しか接点がない。それに嫁入り6年後に姑は心臓病で他界してしまった。
父は旧制中学で山奥から県庁所在地の前橋に出て以来、家から離れ暮らした。特に親が心配する要因もなく、まあ順調に思春期を過ごしたのだろう。親の期待は長男に集まり、次男である父親は放っておかれたのではないか。父の両親から良い意味でも悪い意味でも気持ちが投影されることはなく、夫(息子)・嫁・姑の黄金の三角形(トライアングル)は形成されなかった。

継ぐべき家業がなかった。
父親はいわゆるサラリーマン。財産も家業も持たないから、私への遺産もない。
母方の祖父は医者になりたかったがその希望を捨て家業を継いだ。
父方の祖父は婿養子として山奥の旅館を継ぐことが決められていた。
ふたりは継いだ家業を熱心にやることもなく、運動の得意だった父方祖父はゴルフに、母方祖父はお酒と「ヘンな宗教」にハマっていた。それでも家業は潰れることなくなんとかなり、経済的な余裕があったので、特にそれが家族問題の遡上に上らなかった。というか、そもそもその時代に「家族の問題」なんてなかった(意識化されなかった)のではないだろうか。
このふたりの祖父のように自分のやりたいことを犠牲にして経済的な潤いを保証されるという葛藤とは無縁で、自分で職業を選ぶ自由と不安が与えられていた。そしてどうにか「なりたい自分」を実現することができた。
いとこのGちゃんとFちゃんは父親が共に医者だ。GちゃんもFちゃんも医学部を目指した。Gちゃんは5浪して医学部を諦め他学部に進学して会社に就職した。Fちゃんは5浪して見事に医学部に受かり、父の医院を継いだ。しかしその後のうわさでは良い話が出てこない。 
Hちゃんの家は代々続く医者のおうち。みな万難を排して医者になった。Hちゃんの母親はとても家族思いで、Hちゃんにも息子くんにも多大な期待を寄せてきた。ところがHちゃんの息子は医学部ではない学部に進学した。H家に代々受け継がれた伝統が途絶え、家族思いのおばさんはキレた。前々からあった嫁姑葛藤が炎上し、嫁さんをサポートするHちゃんは実家と距離を置くしかない。Hちゃんは母親対策、奥さん対策、まだアイデンティティの定まらない息子くん対策で頭を悩ましている。
戦争の爪痕は?
母方、父方の両祖父は何度か出征した。でも職業軍人でもなく、守るべき家も子どももたくさんいたので戦士せず、復員してきた。戦争によって失った家族は私の知る限りではいない。戦争が激化しても愛媛と群馬の田舎は空襲を受けることはなく、むしろ都会からの疎開先だった。
父親は職業軍人のタマゴとして陸軍幼年学校に通い、その途中で終戦を迎えた。20歳まで命が続くとは思っていなかったらしい。終戦後旧制高校・新制大学と進学する中、大きく変化する価値観の中でどう思春期のアイデンティティを形成したのだろう?

夫婦仲に問題がなかった。
父親は短気でわがままだった。妻に甘えているだろうか、よく些細なことで夫婦ケンカしていた。きっかけが些細だから、元に戻るのも簡単だ。幼かった私にとって、大人の怒りは耐えがたいものだったが、1-2時間もすれば元に戻る。長期間続く恒常的な夫婦葛藤はなかった。
Rおばさんはダンナさんとうまくいかなかった。若い頃実家に戻ってきてもう別れようと決心したけど、なぜかまた婚家に戻っていった。息子のPちゃんは両親の間にはさまれてしまった。父親側についていたPちゃんは、父親亡き後も父の遺志を受け継ぎ、母親と代理戦争を繰り広げている。今では残されたRおばさんとPちゃんの間には全く交流がないんだって。
母親は尊敬する対象でも規範でもなかった。
父親はそうだった。だからそこから抜け出すために反抗や葛藤を経験した。
母親はいつもべったりそばにいる人だった。未だに私は母親を対象化できないのかもしれない。
母はやさしかった、良い母親だった。だからといって尊敬もしないし、規範も価値も生まなかった。
「私の時代はね。三従の教えと言って、子ども時代は父親に、結婚して夫に、夫が亡くなれば息子に従うべしと教えられたのよ。」
二従までは確かにそうだったね。ブツブツ言うけどちゃんと従ってきた。じゃあ、三番目も従うのかな。

母親の過保護・過干渉のドロ沼にハマることもなかった。
母親は子どもを自立させるという概念を持たず、いつまでも保護し干渉してくる危険性はあった。
その抑止力として父親の存在は大きかった。
それに、私が勝手に自立してしまった。

高校留学の時は、母親にとってかわいそうなことをしたと、今だから振り返る事ができる。
ジャンボジェットも成田空港もなかった1976年に旧羽田空港から飛び立った時、送迎デッキで見送る母と祖母の写真がある。別れの涙は祖母のお決まりの習慣ではあるのだが、母親(と祖母)に泣かれるのは辛い。でもそれが私の自立欲求を押しとどめる力とはならない。

私がアメリカに渡った翌月に母と妹は、たまたまサバーティカルでミネソタに滞在していた父を訪ねた。日本?アメリカに比べれば、MinnからNCは近い。母親は私を訪ねたいと言ってきたが、私は断った。
そのとき私は現地に適応することに必死だった。新しいAmerican familyを形成している最中にoriginal familyが来てはまずいでしょ。追っかけてくる母親から逃げていた。
しかし、半年後のクリスマスに父親ひとりが来るのは構わなかった。半年という時間が経過して私に余裕ができたせいもある。それに父親は来ても構わないけど、母親は困る。
父親には吸い込まれないが、母親だと吸い込まれてしまう不安があった。

私が大学受験の時、母親は喘息の発作がひどく臥せっていた。
「お弁当を作れなくてごめんね。」
いや、べつに手作り弁当で合否が決まるわけでもないし、ぜんぜん関係ないんですけど。
母親はゴメンと言うが、私はそんなことどうでもいい。
合格発表をガールフレンドと一緒に見に行って、その後ふたりで映画を見た。

結婚して留学を終え、大学に職を得て、長男が生まれた。
家を二世帯住宅に立て直したが、二世帯を行き来するドアは基本的に閉めていた。
妻との核家族を築くために、親との距離を開けたかった。
自然にしていると母子の距離が戻ってしまうことが不安で、どうにか意図的に離そうとしていた。

このように振り返れば、私の心の基盤は盤石だった。
人生最大の喪失も、なんとか乗り越えることができる。
しかし、母親にとっては嫁を喪失した悲しみと、息子の悲嘆を見る辛さのダブルパンチを受けてしまった。もし私の子どもが苦しんでいたら、自分も苦しくなるだろう。
父親も同様に苦しんでいたはずだ。でも父親は苦しみを表に出さないのでわからない。
二世帯住宅のドアが空いてしまっただけに、母親の苦しみがよく見えてしまう。それを見る私も辛くなる。