2013年6月12日水曜日

母親の物語(5)

母親は郷里に戻り、姉と妹からエネルギーを注入されている。

要するに、すべて関係性の会話なんだ。
AちゃんとBちゃんの仲が悪くて、その結果がCちゃんに及んで、、、
Dちゃんは身体が弱くて苦労して、、、
Eちゃんは医学部受験で6浪して、、、
Fちゃんは離婚して子どもはこうなって、、、

仕事の話や社会情勢の話は出てこない。
昔と今の親族・家族の物語だ。家系図を書いたら相当複雑になるだろう。
セラピーでの会話と種類的には相似形だ。

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こうやって、母親の物語を綴ってみても、構造が見えてこない。
父親の物語には構造があった。子ども時代は尊敬し、自分の規範であり、思春期には壁として挑戦し、乗り越え、自信を獲得し、依存対象から分離していった。
母親と私の間には何があるのか見えてこない。
なにも事件はなかったように思う。

十分な承認・愛情をもらった、、、と思う。
というか、もらっていない状態ではなかったので、何もそれについて感じることがない。専業主婦としていつも近くにいた。幼少期から今現在まで常に身近にいる。
今も昔も、母親にとって夫とふたりの子どもと孫たちは一貫して常に眼差しを向け、何よりも優先する対象だ。それが重たくもあり、だからといって重たくても別に支障はない。、、、そうでもないか。重たいからこそ今回の旅行を実現させたわけだから。

過剰に期待されたわけではない。
普通に期待していたと思う。
もし父親がいなかったらもっと過剰に期待されていただろう。基本的に母親の不安値は高い。夫が打ち出した指標がなければ高度経済成長時代の進学熱に乗せられ、母は自然に「教育ママ」になっていただろう。
教育心理学者である父親は「進路指導」が専門で、親や教師がどう子どもに期待するかを打ち出すのが仕事である。母親は教育ママにならなかった。
それに、(口はばったいが)私はまわりから求められる教育期待をクリアしていた。
高校受験は都立一本だけで私立や国立は滑り止めも受けなかった。当時の都立高校は学校群制度。第一学区で受けられる11群(日比谷・九段・三田)だけ受けて、国立や私立進学高もねらってみたらという先生の勧めもあったが、親の教育方針で受けなくてよいということだった。当時は塾に行っている子が多かったが、私は行かなかった。大学受験の半年前の夏にアメリカから帰ってきて全然受験体制ではなかった。浪人するつもりでいたら、現役で希望する大学に受かってしまった。つまり、親にとっても私自身にとっても、勉強面については不安要素がなかった。平たくいえば、「勉強のできる良い子」を通すことが出来た。
いとこのAちゃんは勉強ができて、医学部に進学して医者になった。その弟のBちゃんは勉強ができなかった。子ども時代からGoodiesのAちゃんとBaddiesのBちゃんに対する親の対応の差は歴然だった。Bちゃんは離婚したんだって。親から受け継いだ家を人に貸し、都会の方に行ったらしいよ。何してんか知らんけど。 
祖父は大切な跡取り息子として大切に、つまり甘やかされて育てられた。医者になる夢を諦め、やる気をなくし、受け継いだ家業には熱心でない。戦後、農地改革でたくさんあった土地を取られていく中で「ヘンな宗教」にはまり、朝から酒を飲み高等遊民気取りだった。祖母は不満を漏らさず夫に使えていたがとても苦労した。
その祖父のひとり息子のKおじさんも大切に(=甘やかされて)育った。のんきでとても人あたりが良い。帰省すると皆を歓待してくれ、私は大好きなおじさんだった。でも仕事の詰めは甘く、肝心のことは決められず人任せにしていた。大人になってから母親(私の祖母)を責め、仲が悪かった。
妹たちから聞かされる兄の評価は厳しい。
経済的に豊かではなかった。
でも貧しくもなかった。
父親は国家公務員だった。決して余剰の金があるわけではないが、経済的に不自由はせず、きわめて安定していた。
父の実家は温泉旅館。母親の実家は旧家の土地持ち。両方の実家は経済的に豊かだった。お医者さんや商売をやっている親戚は羽振りが良く、自家用車を持っていたり、大きな家に住んでいたり。私にはそういう体験がない。おもちゃをいっぱい持っているいとこを「いいなあ!」とは思ったが、持っていないことが不自由ではなかった。
お金が増えればトラブルも増える。贅沢な暮らしに慣れてしまうと、レベルを下げられなくなる。医者仲間には贅沢路線で突っ走る友人もいるが、私はあまり興味がない。

家族の中に葛藤関係がなかった。
核家族だった。
次男坊の父親と四女の母親が郷里を遠く離れ東京で小さな家族をスタートさせた。母親の姑さんは群馬の山奥で、年1-2回の帰省時しか接点がない。それに嫁入り6年後に姑は心臓病で他界してしまった。
父は旧制中学で山奥から県庁所在地の前橋に出て以来、家から離れ暮らした。特に親が心配する要因もなく、まあ順調に思春期を過ごしたのだろう。親の期待は長男に集まり、次男である父親は放っておかれたのではないか。父の両親から良い意味でも悪い意味でも気持ちが投影されることはなく、夫(息子)・嫁・姑の黄金の三角形(トライアングル)は形成されなかった。

継ぐべき家業がなかった。
父親はいわゆるサラリーマン。財産も家業も持たないから、私への遺産もない。
母方の祖父は医者になりたかったがその希望を捨て家業を継いだ。
父方の祖父は婿養子として山奥の旅館を継ぐことが決められていた。
ふたりは継いだ家業を熱心にやることもなく、運動の得意だった父方祖父はゴルフに、母方祖父はお酒と「ヘンな宗教」にハマっていた。それでも家業は潰れることなくなんとかなり、経済的な余裕があったので、特にそれが家族問題の遡上に上らなかった。というか、そもそもその時代に「家族の問題」なんてなかった(意識化されなかった)のではないだろうか。
このふたりの祖父のように自分のやりたいことを犠牲にして経済的な潤いを保証されるという葛藤とは無縁で、自分で職業を選ぶ自由と不安が与えられていた。そしてどうにか「なりたい自分」を実現することができた。
いとこのGちゃんとFちゃんは父親が共に医者だ。GちゃんもFちゃんも医学部を目指した。Gちゃんは5浪して医学部を諦め他学部に進学して会社に就職した。Fちゃんは5浪して見事に医学部に受かり、父の医院を継いだ。しかしその後のうわさでは良い話が出てこない。 
Hちゃんの家は代々続く医者のおうち。みな万難を排して医者になった。Hちゃんの母親はとても家族思いで、Hちゃんにも息子くんにも多大な期待を寄せてきた。ところがHちゃんの息子は医学部ではない学部に進学した。H家に代々受け継がれた伝統が途絶え、家族思いのおばさんはキレた。前々からあった嫁姑葛藤が炎上し、嫁さんをサポートするHちゃんは実家と距離を置くしかない。Hちゃんは母親対策、奥さん対策、まだアイデンティティの定まらない息子くん対策で頭を悩ましている。
戦争の爪痕は?
母方、父方の両祖父は何度か出征した。でも職業軍人でもなく、守るべき家も子どももたくさんいたので戦士せず、復員してきた。戦争によって失った家族は私の知る限りではいない。戦争が激化しても愛媛と群馬の田舎は空襲を受けることはなく、むしろ都会からの疎開先だった。
父親は職業軍人のタマゴとして陸軍幼年学校に通い、その途中で終戦を迎えた。20歳まで命が続くとは思っていなかったらしい。終戦後旧制高校・新制大学と進学する中、大きく変化する価値観の中でどう思春期のアイデンティティを形成したのだろう?

夫婦仲に問題がなかった。
父親は短気でわがままだった。妻に甘えているだろうか、よく些細なことで夫婦ケンカしていた。きっかけが些細だから、元に戻るのも簡単だ。幼かった私にとって、大人の怒りは耐えがたいものだったが、1-2時間もすれば元に戻る。長期間続く恒常的な夫婦葛藤はなかった。
Rおばさんはダンナさんとうまくいかなかった。若い頃実家に戻ってきてもう別れようと決心したけど、なぜかまた婚家に戻っていった。息子のPちゃんは両親の間にはさまれてしまった。父親側についていたPちゃんは、父親亡き後も父の遺志を受け継ぎ、母親と代理戦争を繰り広げている。今では残されたRおばさんとPちゃんの間には全く交流がないんだって。
母親は尊敬する対象でも規範でもなかった。
父親はそうだった。だからそこから抜け出すために反抗や葛藤を経験した。
母親はいつもべったりそばにいる人だった。未だに私は母親を対象化できないのかもしれない。
母はやさしかった、良い母親だった。だからといって尊敬もしないし、規範も価値も生まなかった。
「私の時代はね。三従の教えと言って、子ども時代は父親に、結婚して夫に、夫が亡くなれば息子に従うべしと教えられたのよ。」
二従までは確かにそうだったね。ブツブツ言うけどちゃんと従ってきた。じゃあ、三番目も従うのかな。

母親の過保護・過干渉のドロ沼にハマることもなかった。
母親は子どもを自立させるという概念を持たず、いつまでも保護し干渉してくる危険性はあった。
その抑止力として父親の存在は大きかった。
それに、私が勝手に自立してしまった。

高校留学の時は、母親にとってかわいそうなことをしたと、今だから振り返る事ができる。
ジャンボジェットも成田空港もなかった1976年に旧羽田空港から飛び立った時、送迎デッキで見送る母と祖母の写真がある。別れの涙は祖母のお決まりの習慣ではあるのだが、母親(と祖母)に泣かれるのは辛い。でもそれが私の自立欲求を押しとどめる力とはならない。

私がアメリカに渡った翌月に母と妹は、たまたまサバーティカルでミネソタに滞在していた父を訪ねた。日本?アメリカに比べれば、MinnからNCは近い。母親は私を訪ねたいと言ってきたが、私は断った。
そのとき私は現地に適応することに必死だった。新しいAmerican familyを形成している最中にoriginal familyが来てはまずいでしょ。追っかけてくる母親から逃げていた。
しかし、半年後のクリスマスに父親ひとりが来るのは構わなかった。半年という時間が経過して私に余裕ができたせいもある。それに父親は来ても構わないけど、母親は困る。
父親には吸い込まれないが、母親だと吸い込まれてしまう不安があった。

私が大学受験の時、母親は喘息の発作がひどく臥せっていた。
「お弁当を作れなくてごめんね。」
いや、べつに手作り弁当で合否が決まるわけでもないし、ぜんぜん関係ないんですけど。
母親はゴメンと言うが、私はそんなことどうでもいい。
合格発表をガールフレンドと一緒に見に行って、その後ふたりで映画を見た。

結婚して留学を終え、大学に職を得て、長男が生まれた。
家を二世帯住宅に立て直したが、二世帯を行き来するドアは基本的に閉めていた。
妻との核家族を築くために、親との距離を開けたかった。
自然にしていると母子の距離が戻ってしまうことが不安で、どうにか意図的に離そうとしていた。

このように振り返れば、私の心の基盤は盤石だった。
人生最大の喪失も、なんとか乗り越えることができる。
しかし、母親にとっては嫁を喪失した悲しみと、息子の悲嘆を見る辛さのダブルパンチを受けてしまった。もし私の子どもが苦しんでいたら、自分も苦しくなるだろう。
父親も同様に苦しんでいたはずだ。でも父親は苦しみを表に出さないのでわからない。
二世帯住宅のドアが空いてしまっただけに、母親の苦しみがよく見えてしまう。それを見る私も辛くなる。

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