2019年10月20日日曜日

愛着システムと不登校・ひきこもり

なぜ、日本やアジアにひきこもり・不登校が多いのか?

国際学会で何度も発表するたびに、国内にいたら気づかぬ視点が発展します。
今回も、タイとオーストラリアで二週続けて発表する中で気づいたことを書きます。

Hikikomoriは日本・アジアだけではありません。
今回も、オーストラリアの学会で、地元の人がhikikomoriのケースについて発表していました。演者は日本に来たことのあるセラピストでした。発表そのものは惨憺たる内容でしたが、どの文化でも日本と同じようなhikikomoriは存在し、近年増えてきています。ただ、その頻度や、まわりの人が「問題」として認知する(周りが騒ぐ)程度は日本の方がはるかに高いです。個々のクライエントとその家族レベルを超えて、社会レベルで問題にするってことが日本の特徴です。

どうやって「ひきこもり」が多いことを比較文化的に説明できるか??
これから書くことは、先週に書いたブログ:

ひきこもりは日本だけ、それともアジアの現象?

の中の、
「5. 一生続く世代間の愛着関係」
で述べたことの発展形です。

どうやって「ひきこもり」が多いことを比較文化的に説明できるか??
そのために、愛着理論をちょっといじって発展させてみました。
(このあたり、愛着理論をそのまま信奉している人たちにとっては許しがたいことと思いますが、理論的枠組みも時間と文化的な多様性に基づいて進化していくべきでしょう。とりあえずここに記述しておいて、もう少ししっかり元の理論も勉強します。)

この世の中は、危険なことで満ちています。自分の命が、生活が、安全が脅かされる可能性と常に向き合っていかねばなりません。
その中で、どうやって安心感を得るか。それが愛着です。
安心感がなければ、危険性を避けるために、いつも縮こまっていなければなりません。(そのひとつの形が「ひきこもり」です。)
安心感は一人では生み出せません。
人との関わり中で生み出されます。
自分はこの世の中で孤独ではない。
自分を見守っていてくれる人がいる。
自分のことを認めてくれる人がいる。
自分を大切に思っていてくれる人がいる。
そして、その人は決して裏切ることはない。ずっと自分の味方でいてくれる。
そのような確信が安心の愛着(secure attachment)です。
それが得られないと不安な状態になります。それが心の非安心(insecure attachment)です。心の問題のリスクが高まります。

改定1)関係性の中で生まれる愛着タイプ

a) 人の心が安心(secure)に傾くか、非安心(insecure)に傾くか。それは心のもっとも根底にある基本的なあり方ですが、そのでき方が心理学の理論によって異なります。
元々の愛着理論は精神分析の伝統の中で生まれました。つまり、幼少期の体験がその後の人生を決定づけるという考え方です。乳幼児期に保護者との間で形成された愛着のタイプ(secureか、insecureか)は心の「鋳型」として成長した後も残り、その後に形成する様々な対人関係(友だちとかパートナーとか)のあり方も、幼少期に形成された元々の鋳型に沿って決まっていきます。まあ、そういう考え方があっても良いでしょう。心理学は全て仮説ですから。

b) 認知行動療法では、その鋳型(心のくせ)は学習されたものであり、そのことに気づき、学習し直せば、変化しうるという考え方です。

c) システム理論では、鋳型説を否定し、愛着のタイプはhere and nowの関係性の中でいくらでも塗り替えられるという考え方です。現在維持されている関係性が安全(secure)であれば、人は安心感に満ちた関係性(secure attachment)を作ることができます。
逆に、過去が安全であったとしても、現在が非安全な関係性に変化すれば、人は安心の関係性を作ることができなくなり、築こうとする関係性は非安心(insecure)に傾き、不安定になります。そのような状況からひきこもりをはじめ、様々な精神病理が出現します。

まあ、どの理論が正しいか正しくないかというわけではありません。
私はシステム理論に準拠していて、それがもっともしっくり納得できますが、「心の鋳型説」もそうなんだろうなぁと思ったりします。しかし、鋳型を作り直すのは大変だしそれは無理なんじゃないかと悲観的になるので、支援するときにはシステム理論の仮説を用います。

以上が愛着理論の改定その1です。

改定2)一生続く親子の愛着

オリジナルな愛着理論では、愛着の形成は乳幼児期に限られていました。
その後、大人の夫婦(パートナー)間の愛着として大人の愛着という概念に発展しました。

私は、それをさらに発展させてしまいます。
親子間の愛着は一生続きます。しかもそれは親から子どもへ備蓄されるだけではなく、子から親へも備蓄されるという双方向的なものです。

この考え方は、子どもが親離れ(leaving home)したら親子はもう離れて別の家族になる。という欧米の独立主義的な家族観ではどう考えても生まれてこない発想です。

親が安心していれば、子どもも安心します。
子どもが安心していれば、親も安心します。

親の七光り)本来は「権力を持つ親を持った子供がその恩恵を受ける」といった意味ですが、それを拡大解釈して「親がしっかりしていれば、子どももしっかりできる」とすれば、
子の七光り)も成り立ちます。「子どもがしっかりしていると、親も幸せになれる」
韓国で以前、三人の子ども達をソウル国立大学(日本の東大みたいなもん)に入学させた母親が本を書いて社会的なヒロインになりました。
私の子どもたちも順調な道を歩んでいます。すると父親である私もその部分において多くの幸福感を得ることができます。子どもが順調でないと、親はとても不安になります。私にもその経験があります。

「親孝行」は親子間の愛着のひとつのスタイルです。親が困っている時、子どもは親を助けようとします。特に親が老いて自立した生活が困難になると発揮されます。社会的養護が発達してきましたが、それでも子ども世代は親に関わろうとします。

スムーズな親孝行が成就するためには、高齢の親と子どもとの間に安心の愛着関係が築かれていることが前提となります。それが非安心だと葛藤が再現されます。

事例)親から安心感を得られず、成人しても老親から愛着を求め続けるのだがうまく得ることができず、insecure attachment mixed type(不安と拒否の混合)の親子がいます。親も子も相手に承認を求めるのだが、得られないために拒絶して接触を避けたり、交流しようとすると葛藤から攻撃に転じて結果的に傷つけてしまう。そのために不安感が増強され、非安心のパターンから抜け出せない。この親は80代で、子は50代です。子世代である人は自分の子どもにも葛藤を投影し、その思春期の子は臨床的な問題を生じています。

子ども世代は、愛着の備蓄源は保護者(親)のみです。
大人世代は、いくつかの備蓄源があります。
・夫婦(パートナー)間の愛着。
夫婦がお互いに向き合い、安心した愛着関係を築いていたら、親子の愛着利用しなくても大丈夫です。
例えば、私は両親が人生を終わるプロセスで色々支援しましたが(親孝行)、そのことで私自身がブレることはありませんでした。私は他の愛着の備蓄(ないし鋳型)を持っていたと思います。
老親が病気になったり亡くなることで、かなりブレて臨床的な問題を呈した人(4−50代)が多くいます。そこにはパートナー間の安心の愛着が欠如していたりします。また親との愛着も安心型ではなく非安心であったりします。
私の母親は夫(私の父親)を亡くすと、あっという間に認知が低下し、後を追って1年半後に亡くなりました。母親にとって、夫との愛着を失ったことは大きな痛手だったのでしょう。息子である私は、そこまでカバーできませんでした。
この辺りは欧米の愛着理論と同様に、大人の愛着対象は夫婦間がprimaryです。Secondary attachmentとして親子関係が存在するという点が欧米と異なります。

夫婦間の愛着がうまくいかず、疎遠であったりすると、それが他の人に投影されます。
よくあるのは、子どもへ投影されること。典型的には、母親が夫からの愛着を得られず、子どもの中で一番聞いてくれそうな人を選んで、自分の気持ち(夫への不満など)を伝え理解者であることを求めます。子どもは親の保護者役をやらされ、頑張れている時は良いのですが、くたびれてくると、その負担のために臨床問題を生じたりします。
あるいは、夫婦の愛着を得られず、家庭外の人に愛着を求めます(浮気)。

・家族外の社会サポートからの備蓄
家族以外からも、友だちや社会の所属集団、あるいはカウンセラーなどから愛着の備蓄を得ることも可能です。それができるのは思春期以降の人です。幼い子どもは難しいでしょう。
カウンセラーはそのことを利用して不安の強いクライエントを支援できます。
また、幼い子どもに対するカウンセラーの役割は限定されます。

改定3)社会の準拠集団の中の愛着

これも独立主義(indivldualism)的な社会には生まれてこない概念でしょう。
集団主義的なアジア社会、特に日本ではこの要素が強いと思います。
若者は家庭から自立するプロセスで、家族に取って代わる愛着システムを築きます
自分にとっての居場所。自分が自分でいられる準拠集団。
学校に行っていればクラスの仲間、社会人であれば職場の仲間です。個別に会う友だちではありません。昼間の時間の多くを一緒に過ごし、その中に留まっていることが必要な所属集団です。
その中で、お互いに眼差し合い、気にし合います。いわゆる空気を読み合う空間です。空気をちゃんと読み、周りの人から自分が認められ、理解されているという感覚を得ることで、安心感が成立します。それを得られず非安心であると、「KY」になり、その場にいることが苦痛になります。日本では、どこかに所属していることが生きているためにどうしても必要です。
そのような安心の所属集団の形成に失敗すると、その場に居づらくなり、ひきこもります。
欧米では、このような愛着はあまり存在しません。クラスや職場にいても、お互いに眼差し合い、空気を読み合うことはありません。だから「KY」もあり得ません。ひきこもる必要もなくなります。

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愛着システムにおける支援者(セラピスト)の役割

このように考えていくと、セラピーも新たな考え方が生まれます。
私がやってきたこととそう変わらないと思いますが、その背後の考え方が変わります。

セラピーの目的)生きる安心感の醸成=安心の愛着(secure attachment)の形成

安心の愛着は幼少時に作られた心の鋳型ではなく、今現在の関係性によって形作られます。そういう風に考えると、セラピストが関与することにより、安心感を生み出すことができます。
IPと関わることができれば、二者関係の中で。
IP不在でも家族と関わることができれば、家族システムに治療者が加わり、治療システムを作ります。
さらに、親族・祖父母や学校関係者なども加わり、拡大治療システムに関与することもできます。
安心の土壌を作るためには、愛着の元々の定義に立ち戻ります。
・自分を見守っていてくれる人がいる。
・自分のことを認めてくれる人がいる。
・自分を大切に思っていてくれる人がいる。
・そして、その人は決して裏切ることはない。
そのような関係性を築くために必要なことは、
・各々のメンバーが十分に自分を表現できる環境。それは人間なら誰もが持っている強み(自信)弱み(不安)を隠すことなく伝えられること。
・システム内の人がそれを理解し、受け止められること。
です。いわゆる「共感」という言葉も当てはまりますが、ここで大切なのはセラピストの共感性だけでなく、システム内の人たちがお互いに共感しあう環境です。
共感性は意図したスキルでも能力でもありません。安心した環境の中で自然にできるはずのことです。
しかし、その自然さは誰でも簡単に成就できるというわけではありません。

支援者がどうシステムに入っていくかということが重要です。
支援者が入ることにより、システムを安心に傾けることも、不安に傾けることもできます。それは意図した介入や技術ではなく、支援者自身の愛着状況によって左右されます。
支援者が支援システムの中で安心感をキープできれば、システム全体を安心の方向に持ってゆけます。また、その逆もありえます。
支援者はクライエントたちに促すことと同じように、自分の本当の気持ちを伝えられるか。
支援者自身の強みと弱みも含め、本当の自分をどう伝えられるか。クライエントはその様子を見ながら自分のことを表現します。
また、クライエントたちの不安の気持ちを受け取っても、揺らぐことなく安心感をキープできるか。

そのためには、セラピスト自身がいかに「しっかり」していられるかが問われます。
Rogersのいう自己一致 (Congruence)ないし 純粋性(Genuineness)、
Bowenのいう自己分化(Self-Differentiation)
などが参考になります。
言い方、概念としての積み上げ方は異なりますが、結局は同じことを言っているように思います。

そのセラピストの「しっかり」さは、その人の持つ属性ではなく、育てていけるものだと思います。
理屈を勉強しても、臨床経験をたくさん積み上げてもできません。
セラピスト自身が安心したシステムの中で、自分自身の安心感を磨いていくことが大切です。
その場を提供するのが私の考えるスーパーヴィジョンです。

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