どうもグループワークをファシリテートした後は、私の感性が活性化されるようだ。
夜中に、目が覚めて、昨日のグループワークの様々なシーンがflashbackしてきた。同じようなことは11月のMBTIワークショップの晩も起こった。グループの人々がしゃべった内容はほとんど気にしていない。しかしグループ・ダイナミックスに細心の注意を払っている。たとえば参加者Aの言葉が全体にどう影響を与え、BとCの関係性はどうで、ファシリテータはどの関係性に注目して、どう変化させようとするのか、そのためには、誰に向かってどのような働きかけ、それも言葉の内容というよりはどのような非言語を用いてどういう感覚を伝えるかというように。
このように、全体を見回し、相互作用の感覚(いわばKYの「空気」のようなもの)をキャッチして、グループダイナミクスを進めていくセンサーがいったん活性化されると、その晩までリセットされずに残ってしまうみたい。私自身、そのようなプロセスは楽しく、昨日もグループワークがうまくいった満足感があるので、このあたりがきっと私の得意分野なのだろう。
と同時に、このあたりがグループのファシリテーションの一番むずかしい部分だ。
昨日は、ひきこもりの親グループを運営(ファシリテート)する研修会。参加者は、行政・民間のひきこもり支援機関のスタッフたち12-3名。
参加者の多くは、ひきこもり本人の関わりより、親との関わりに苦労している。
さらに、親の個人面接より、親グループの集団面接(グループワーク)に苦労する。
今回、強調したポイントは次の3つにまとめられるかもしれない。
1)準備体操をしっかり。
緊張をほぐし、リラックスして言いたいことを言い合える雰囲気・信頼関係づくりが重要。これが不十分だとグループの流れがうまくいかない。そのために、まずファシリテータが十分にリラックスる。そして、緊張をほぐし、関係性を樹立するための工夫やワークなどを紹介した。
2)参加者相互の交流を促す。
当事者性と支援者性の相互互換性について強調した。
支援者(ファシリテータ)だって当事者性を持っている。そのことを十分に言語化・意識化することが大切。
と同時に、当事者(参加する親ごさんんたちとか)が隠れ持っている支援者性を発掘することで、エンパワーされる。そのための相互交流をどううまくファシリテートするか。
3)がんばりすぎない。
ロールプレイをやってみて、みなさん一生懸命がんばっている。ファシリテータががんばってたくさんしゃべるほど、参加者たちのしゃべる機会は少なくなる。ファシリテータは感覚をフルに使って全体のグループ・ダイナミクスを把握する。しかし、あまりしゃべらない。うまいタイミングで参加者たちに発言・参加をやさしく促し、結果的には、参加者のしゃべっている時間がほとんどで、ファシリテータのしゃべっていた時間はごくわずかというのが良い。理性や言葉はあまり使わず、感性と非言語をフルに活用する。
このあたりが、ファシリテーションの勘所なんですね。私も今回、研修としてのグループワークをファシリテートしてみて、そのことに気づきました。
児童・思春期精神科医、家族療法 Child and Adolescent Psychiatrist, Family Therapist 精神科コンサルテーション(不登校・ひきこもり、家族ミーティング、男性外来、夫婦関係) 専門家支援(スーパービジョン、講演・研修、精神科医・臨床心理・教育関係者、子ども家庭福祉) International Psychotherapy; Adolescent, Marriage and Family Therapy.
2011年12月18日日曜日
2011年12月2日金曜日
やりがいのある面接
今日は、開院以来はじめて4コマの面接時間帯がすべて埋まった。
4人(家族)連続して面接。
とても疲れました。でもそれは心地よい疲労感。
どれも、ある意味たいへんな、問題解決の道筋は並大抵ではない方ばかり。
もし短時間の面接で、薬を処方するだけの治療なら不全感(ストレス)がかなり残ったでしょう。
これが私が本当にやりたかった心の支援のカタチです。丁寧に、じっくり向き合ってお話を十分に掘り下げてゆきます。人が生きる苦悩と幸せは、並大抵ではない。「疾患」、つまり脳代謝の異常とラベルして、薬物で治そうとしてもうまくはいきません。
日常会話では避けて通るべき、傷つきやすさの根底にある原体験に伴う深い感情(悲しみ、不安、恐怖、自責、自信喪失)に迫り、根底からエンパワーしていく。安全な環境を造り、そこまで深く迫ることはとても消耗します。でも、そこにやりがいを感じます。
4人(家族)連続して面接。
とても疲れました。でもそれは心地よい疲労感。
どれも、ある意味たいへんな、問題解決の道筋は並大抵ではない方ばかり。
もし短時間の面接で、薬を処方するだけの治療なら不全感(ストレス)がかなり残ったでしょう。
これが私が本当にやりたかった心の支援のカタチです。丁寧に、じっくり向き合ってお話を十分に掘り下げてゆきます。人が生きる苦悩と幸せは、並大抵ではない。「疾患」、つまり脳代謝の異常とラベルして、薬物で治そうとしてもうまくはいきません。
日常会話では避けて通るべき、傷つきやすさの根底にある原体験に伴う深い感情(悲しみ、不安、恐怖、自責、自信喪失)に迫り、根底からエンパワーしていく。安全な環境を造り、そこまで深く迫ることはとても消耗します。でも、そこにやりがいを感じます。
2011年11月30日水曜日
いのちの電話の講演
アンケートでも、
「理屈で話すのではなく、心で話をしたいという先生の言葉に共感した」
「事例を具体的にお話いただきわかりやすかったです」
「個人的な気持ちも話していただきありがとうございました」
「先生も大変な中お疲れ様です。ありがとうございます」
「実体験を通してのお話は理解しやすかった」
「後半の、質問のところがわかりやすかった」
など、具体的でわかりやすかったという感想が多かったです。
講演に来ていただいてありがとうございました。
ふつう講演といえばどうしても理屈(理性)の話になってしまいますが、気持ち(感性)の話をみなさんに伝えることができて嬉しいです。
心の問題は理性ではなく感性(=こころ)なわけですよね。それを支援しようとする我々も、理屈を振りかざすのではなく、どう感性に迫ることが出来るかということが大切です。それをどうやったら伝えられるか、私なりに工夫してみました。
原理原則や一般論の話ではダメなんですよ。主観的、体験的な話になります。私が体験した震災支援の話、患者さんの具体的な話(プライバシーを守りつつ)、あるいは自分自身の感情体験を語ることになります。私自身、話しながら心が痛むんですけどね。でもその痛みを聴いてくれるみなさんに放出してコリをほぐしてもらうみたいな効果もあって、私も実は得しちゃっているんです。
いかにして、心(感性)に迫ることが出来るか。グループカウンセリングでは、私自身の体験も語りますが、個別のカウンセリングでは語りません。
では、どうやって迫るか?
こればかりは理屈で文字に書き起こして説明できないんですよ。
実際に体験してもらうしかありません。
(でも、何とかして本に書き起こしたいですねぇ。そうなるとどうしても私自身のナラティヴということになるのかもしれません。)
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(主催者の方が、機関誌のために講演要旨をまとめてくれました)
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(主催者の方が、機関誌のために講演要旨をまとめてくれました)
社会福祉法人浜松いのちの電話
開局25周年記念 2011年度浜松いのちの電話公開講座
「支え合ういのち」
~今、私たちにできること~
精神科医・東京いのちの電話理事 田村 毅氏
☆ 2011年11月27日(日)、静岡新聞社プレスタワー17階ホールで、開局25周年記念「浜松いのちの電話」公開講座が開催されました。講座は1部の講演と2部の質疑に分かれて行われ、参加者は田村氏の話に熱心に耳を傾けました。
震災直後、被災地で心のケアをした。娘からなぜ被災地へ行ったのかと聞かれ、「救いを求めている人がいる、そこで自分に出来ることがあるのではないか。」と答えた。いのちの電話相談員も、なぜいのちの電話の活動しているのかを見つめてみるのも大切なのではないだろうか。
いのちの電話は1953年、チャッド・バラがイギリスで始めた。一人の少女の自殺がきっかけであった。相談者が多くなり、ボランティアと共に活動するうち、相談の待ち時間に、ボランティアと話すことで気持ちが軽くなる人がいることに気付いた。このことが、ボランティアによる電話相談につながった。
では、いのちの電話で何が出来るのか。日本では、1971年にルツ・ヘットカンプ氏が、東京で開始した。その特徴は、①専門家でない市民ボランティアによること、②相談者も相談員も匿名(名前を明かさない)であること、③2年近いしっかりした研修を行うこと、である。心の苦しさを、薬物や専門知識に依らず、心をつかって癒していくのである。
人々は、なぜ自殺するのか。様々な理由があるだろうが、根本には絶望感や孤独がある。絶望とは、生きていることが、あまりに苦しい、生きている意味がないということ。孤独とは愛する他者から切り離される、愛する他者がいないということだ。
この苦しみを癒すには、辛い、苦しい、心がザワザワする、というような、自分でもよく分からない気持ちを、「哀しい・怖い・不安・寂しい」というよく分かる気持ちとして表現できるようにしていく。これなら、解決できる。
では、悲しみとは何か。それは、大切なことを失うことだ。不安とは、大切なものを失うかもしれないという未来予想だ。そして、自分の希望がなくなることだ。孤独とは、大切なものがなくなった、独りぼっちの状態といえる。
自分は2年半前に突然妻と死別し、とてつもない悲しみを体験した。このように、人は誰でもマイナスの気持ちをもっている。これを表現するのは辛いことだ。そこで、悲しみなどを囲み、おできのような状態にする。しかし、さわると痛い。その痛みが怒りに変わる。怒りの背後には、このような気持ちが潜んでいる。そのおできが大きくなると、何もしなくても辛い。そこで、自分の気持ちをシャットアウトしてしまう。すると、プラスの気持ちを含めて心全体が動かなくなり(うつ状態)、非常に辛くなる。
いのちの電話は、心をつかって安全にそっと、この悲しみや不安、寂しい、怖い、という気持ちを外に出していく。受け止める他者による傾聴・受容・共感によって、おできの膿を出していくと、プラスの気持ちを使えるようになり、自分自身で前向きになっていける。
電話をかけてくる相談者は、心の中に哀しみを抱えている。その感情を受け止め、受け止めた気持ちを返していく。それが相手の悲しみに向き合うことだ。
こうした相談するには、あえて自分の哀しみに向き合う必要がある。普段隠している問題が吹き出す危険もあり困難であるが大切だ。
いのちの電話が行っているビフレンディングとは隣人となることで、カウンセリングや薬物療法とは違い、自分自身の心をつかって相手と向き合う。どの方法がいいということではないが、これは医師やカウンセラーには出来ない。
支え合ういのち。人を癒しながら、自分を癒していく。この社会は、支え合い癒し合う共同体である。いのちの電話の活動は、家族など親しい人への愛とはまた違う、隣人愛というもので、人と関わりたい、助けたいという思いが、苦しむ人々のいのちを支える。いのちの電話はそういう活動をしている。
2011年11月26日土曜日
FacebookとMacBook
ここの所すごくお忙しそうですね! やっぱり忙しいのはいいですね!
そうですか?
そう見えますか?
忙しいのは前からで、特に変化はないのですけど。
患者さまは徐々に増えてきているものの、ひっきりなしで忙しいというわけではありません。
どうしてそう見えるかというと、多分、Facebookで私の様子が可視化されちゃったからじゃないでしょうかね。
そうなんですよ。この1週間ほどFacebookにはまっちゃって(笑)!
いえ、FB自体は半年くらい前から登録してはいたのですけど、ほぼほったらかし状態でした。でも、勝手にPCのアドレスを拾ってきて何となく「友達」は結構いたことはいました。
で、最近、なんとなく(ほんとに何となく)投稿してみたら、反応がすごいんですね。「いいね!」の反応がすぐにあったり、英語でちょっと書いたら海外の友人からすぐにチャットが来たり。なんかFBのパワーってすごいなと改めて感じました。それで、友達をつなげて増やしていって、現実の接点がある人だけでも300人を超しちゃったんですよ。ツイッターでもそれくらいはフォローしてくれているんだけど、なんかinteractive性が高いというか。このブログだってたくさんの人が読んでくださるとは思うのだけど、コメントがあるわけでもなく、一方向的でしょ。FBはなんかそこが違うんですよね。でも、こんな風に長い文章をダラダラ書くところでもなさそうなので、書きたいときはこっちを使ってます。FBを使った経営戦略本なんかも読んでみたりして、私の研究室の広報に使えないかなと思って。月例研究会の様子なんかもアップできそうだし、私の普段の講演や講座の情報もアップするもんだから、けっこう忙しく見えるのだと思います。
あともう一つは、これもITがらみなんだけど、MacBook AirとiPhoneの新バージョンをゲットしました。別にスティーブ・メモリアルというわけじゃあないんだけど、先日、広尾の中央図書館をふらっと訪ねたら、閲覧室でMacBookを使ってる人が多かったんですよ。それ以外でもいろんな友人・知人が使ってたりして。そうすると、すぐに欲しくなってしまうんですよね。私はもともとClassic Ⅱなんか出た15年くらい前まではMac派でした。その後ずっとWindowsに転向しちゃったんだけど、なんとなくMacの方がおしゃれかなと思ったりして。
再びMacを使ってみて、前ほどMac/Windowsのギャップは感じないですね。なら、なぜMac使うの?見栄で使ってるわけ?多分、もう少し使い込めば、Mac独特の使いよさが見えてくるのだろうけど、まだそこまで達してません。
それに、iPhoneも新しくしたものだから、インストールしたり、新しい機能を試してみたり。
そんなあたりが、私自身の中では忙しく感じる要因かなと思います。
まずい!明日、図書館に本を返さないと!
そうですか?
そう見えますか?
忙しいのは前からで、特に変化はないのですけど。
患者さまは徐々に増えてきているものの、ひっきりなしで忙しいというわけではありません。
どうしてそう見えるかというと、多分、Facebookで私の様子が可視化されちゃったからじゃないでしょうかね。
そうなんですよ。この1週間ほどFacebookにはまっちゃって(笑)!
いえ、FB自体は半年くらい前から登録してはいたのですけど、ほぼほったらかし状態でした。でも、勝手にPCのアドレスを拾ってきて何となく「友達」は結構いたことはいました。
で、最近、なんとなく(ほんとに何となく)投稿してみたら、反応がすごいんですね。「いいね!」の反応がすぐにあったり、英語でちょっと書いたら海外の友人からすぐにチャットが来たり。なんかFBのパワーってすごいなと改めて感じました。それで、友達をつなげて増やしていって、現実の接点がある人だけでも300人を超しちゃったんですよ。ツイッターでもそれくらいはフォローしてくれているんだけど、なんかinteractive性が高いというか。このブログだってたくさんの人が読んでくださるとは思うのだけど、コメントがあるわけでもなく、一方向的でしょ。FBはなんかそこが違うんですよね。でも、こんな風に長い文章をダラダラ書くところでもなさそうなので、書きたいときはこっちを使ってます。FBを使った経営戦略本なんかも読んでみたりして、私の研究室の広報に使えないかなと思って。月例研究会の様子なんかもアップできそうだし、私の普段の講演や講座の情報もアップするもんだから、けっこう忙しく見えるのだと思います。
あともう一つは、これもITがらみなんだけど、MacBook AirとiPhoneの新バージョンをゲットしました。別にスティーブ・メモリアルというわけじゃあないんだけど、先日、広尾の中央図書館をふらっと訪ねたら、閲覧室でMacBookを使ってる人が多かったんですよ。それ以外でもいろんな友人・知人が使ってたりして。そうすると、すぐに欲しくなってしまうんですよね。私はもともとClassic Ⅱなんか出た15年くらい前まではMac派でした。その後ずっとWindowsに転向しちゃったんだけど、なんとなくMacの方がおしゃれかなと思ったりして。
再びMacを使ってみて、前ほどMac/Windowsのギャップは感じないですね。なら、なぜMac使うの?見栄で使ってるわけ?多分、もう少し使い込めば、Mac独特の使いよさが見えてくるのだろうけど、まだそこまで達してません。
それに、iPhoneも新しくしたものだから、インストールしたり、新しい機能を試してみたり。
そんなあたりが、私自身の中では忙しく感じる要因かなと思います。
まずい!明日、図書館に本を返さないと!
2011年11月22日火曜日
Proactive Parenting
弱く幼い子どもの面と、一人前に強がる大人の面が錯綜する思春期の子育ては難しい。
強く言うとイジケてしまうので強く怒れないんです。落ち込んで、布団をかぶって寝てしまうから。それ以上言うと、落ち込むのが怖いのであまり言えません。だから、なるべく言わないようにしています。
厳しくした方がよいのですか、それとも子どもの自主性に任せてあまり言わず、放っておいた方が良いのでしょうか。でも、親の他には言う人がいないし。
子どもに注意しようとすると、つい感情が入ってしまい、淡々と話すことができません。
子どもは理想ばかり言って、現実をみようとしません。
子)親は私の言うことを聞いてくれればいいんだよ。私は間違っていないから。
子どもを叱ったらカンカンに怒って、壁に穴をあけ、本をビリビリに破いたんです。
子)お母さんが約束を破ったからだ。母)そんな約束した覚えはないけど。
振り返れば子どもがまだ小さい頃、自分でできることもお膳立てして親が手を出してしまいました。その頃は、子どものことを考える余裕がなかったんです。今から振り返れば、可哀そうだったという気持ちが残っています。
子どもが持つ大人的な強い側面に対しては、子どもの持つ力を信頼し、口を出さずに黙って見守る。
まだ子ども的な、自信がなく、弱い面に対しては元気と力を与えてあげる。
弱いゆえに傷ついた部分を癒し、守ってあげる。しかし、守るだけでは前に進まない。
弱さを乗り越え強くなりたいけど、まだその力を持ちえない部分に対して、親は力を与えげあげる。
「君はできるはずだ。がんばってごらん!」
力と自信を持っているはずだという前提で、子どもに働きかける。
カウンセリングの世界では一般に「がんばれ」は禁句とされている。それは弱さに注目した場合の対応だ。
「そんなことでは甘いんだよ!」厳しさを乗り越える体験は強さに結びつく。ただし、その根底に強い信頼関係ができていることが必要だ。それがなければ暴力にすぎず、子どもは傷ついてしまう。
このようなproactive parentingを親が遂行するためには、親自身が力と自信を持っていなければならない。子どものマイナス面に目を向け心配するだけではなく、プラス面に目を向け、あぶなっかしいし子どもを信頼する力。
子どもを放すこと、子どもに任せることは勇気がいる。
いじめられないだろうか、傷つかないだろうか、遅れはしないだろうか、失敗しないだろうか、、、。
心配が先に立つと、大胆に子どもを放すことは危険だから、守りの体制に入ってしまう。それでは、子どもは成長することができず、幼い子どものままでいる。
そして、子どものプラス面を見つけ出し、肯定的に評価する。
「そうか、良かったじゃない!」
「それは良いよ!」
でも、うちの子は何も良いところがないんです、という親がいる。
本当に?
完璧に100%の人はいないし、全くダメの0%の人もいない。だれでも、プラスとマイナスが何割:何割かという話だから。
どんな人にも良い面がある。それを見つけ出せるか否かは、見出す人のプラス・マイナス面と相関している。
ではお母さん、お父さん、あなた自身の良いところはどこですか?
その部分は、子どもに受け継がれていますか?
結局、力と自信を子どもに与えるためには、親自身が力と自信を持っていなくてはならない。あるいは、どこかからかき集めてきても良い。
2011年11月20日日曜日
優しい先生
先日、〇さんが先生のクリニックに相談に行ったと聞きました。
〇さんとは先日ひさしぶりに会い、いろんな話が出て田村先生のクリニックを紹介するという経緯になりました。
〇さんは「すごくすごくしゃべりまくったから、田村先生にどん引きされたらどうしよう・・」って気にしていたので、「そんなことはないよ~。田村先生は優しい、いい先生だから大丈夫だよ、と伝えました。」
確かにたくさんしゃべっていましたけど、どん引きしませんから大丈夫(笑)。
優しさは、精神科医やカウンセラーの基本です。
お医者さんの中には患者を怒ったり、叱ったり、ずいぶん怖い先生もいますからね。確かにちゃんと病気を治すためには先生からの指示を厳しく伝えることも必要かもしれません。しかし、精神科の場合には論外です。
心の治療のために、セラピストが心がける一番大切なことは信頼関係です。この先生は話を聞いてくれる、理解してくれているという安全・安心感をまず注意深く樹立します。そこからカウンセリングがスタートします。
でも優しさって何でしょう?
何でも聞いてくれ、わかってくれる先生。
つまり、クライエントの語ることを理解し、その背後にある気持ちを共感することです。
しかし、ここで注意しなければならないのは、クライエントの言いなりになることではありません。たとえば、
・リストカットをしてしまう
・お酒を飲み過ぎてしまう
・家族にイライラをぶつけてしまう
・子どもを注意できず、過保護になってしまう
などなど、明らかに好ましくないことに対して、「それは良くないからやめなさい」と直裁には言いません。
かといって、それらを認めるわけでもありません。
そこにはそうせざるをえない、あるいはどうしてもそうなってしまう経緯があるはずです。ご本人も好きこのんでやっているわけではないのでしょう。そのあたりの事情や気持ちを丁寧に伺います。すると、当初はいかにも「好ましくない」と思っていたことでも、「なるほど、そういうことだったのですね」と腑に落ちることがある。そうやって、まずクライエントの深い気持ちに降りてゆきます。そこからスタートして今後どうしたら良いのか、解決策を一緒に探ります。
その作業は、想像以上に厳しいものです。それをやり遂げるために、クライエントとセラピストの間の信頼関係を築くことを心がけます。それは、クライエントにとって優しさと受け止められるでしょう。
しかし、それは同時に厳しいものでもあります。
〇さんとは先日ひさしぶりに会い、いろんな話が出て田村先生のクリニックを紹介するという経緯になりました。
〇さんは「すごくすごくしゃべりまくったから、田村先生にどん引きされたらどうしよう・・」って気にしていたので、「そんなことはないよ~。田村先生は優しい、いい先生だから大丈夫だよ、と伝えました。」
確かにたくさんしゃべっていましたけど、どん引きしませんから大丈夫(笑)。
優しさは、精神科医やカウンセラーの基本です。
お医者さんの中には患者を怒ったり、叱ったり、ずいぶん怖い先生もいますからね。確かにちゃんと病気を治すためには先生からの指示を厳しく伝えることも必要かもしれません。しかし、精神科の場合には論外です。
心の治療のために、セラピストが心がける一番大切なことは信頼関係です。この先生は話を聞いてくれる、理解してくれているという安全・安心感をまず注意深く樹立します。そこからカウンセリングがスタートします。
でも優しさって何でしょう?
何でも聞いてくれ、わかってくれる先生。
つまり、クライエントの語ることを理解し、その背後にある気持ちを共感することです。
しかし、ここで注意しなければならないのは、クライエントの言いなりになることではありません。たとえば、
・リストカットをしてしまう
・お酒を飲み過ぎてしまう
・家族にイライラをぶつけてしまう
・子どもを注意できず、過保護になってしまう
などなど、明らかに好ましくないことに対して、「それは良くないからやめなさい」と直裁には言いません。
かといって、それらを認めるわけでもありません。
そこにはそうせざるをえない、あるいはどうしてもそうなってしまう経緯があるはずです。ご本人も好きこのんでやっているわけではないのでしょう。そのあたりの事情や気持ちを丁寧に伺います。すると、当初はいかにも「好ましくない」と思っていたことでも、「なるほど、そういうことだったのですね」と腑に落ちることがある。そうやって、まずクライエントの深い気持ちに降りてゆきます。そこからスタートして今後どうしたら良いのか、解決策を一緒に探ります。
その作業は、想像以上に厳しいものです。それをやり遂げるために、クライエントとセラピストの間の信頼関係を築くことを心がけます。それは、クライエントにとって優しさと受け止められるでしょう。
しかし、それは同時に厳しいものでもあります。
2011年11月17日木曜日
タム研オンライン
> 昨晩のグループワークは8人が集まり、、、、
> その内容は、参加者のひとりがFacebookに丁寧にまとめてくれている。
これ、うまく使えないかなと思案中。
タム研online versionの構想は、サイト開設当初からあったんですよ。
私はネットを使った心の支援活動もいろいろなところでやっていて、対面による支援と、オンラインによる支援の特徴を踏まえ、両者をうまくmedia mixすると効果が高くなります。
たとえば、研究会で話し合ったことの続きをオンラインでやれば、参加者のみなさんはより深めることが出来るし、私も伝えたいことを話し言葉だけでなく、文字に書き起こしてより明確化できます。(それを集めて本を書ける?)
あるいは、私の講演を聴きに来てくれた人や、クライエントとして面接にいらした方々にも参加してもらい、プライベートなことは書けないけど、いろんな疑問などをお互いにシェアして私の方からも可能な範囲でお答えするとか。
それをウェブ上で公開すれば、タム研の広報にもなる。
読めるのは誰でも。
書き込めるのは研究会や講演会に参加した人など、限定する。というのが良いのかな?
どうやって作ろうかな。
ブログでそういうことまでできるんだろうか。
それとも、個人的にそういうSNS的サイトを作れるキットとかあるんだろうか。
あるいは、mixiとかFacebook上にそういう場所を作れるんだろうか。
やっぱりウェブデザイナーの村上さんに作り込んでもらうのが良いのか。
いいアイデアあったら教えてください!
> その内容は、参加者のひとりがFacebookに丁寧にまとめてくれている。
これ、うまく使えないかなと思案中。
タム研online versionの構想は、サイト開設当初からあったんですよ。
私はネットを使った心の支援活動もいろいろなところでやっていて、対面による支援と、オンラインによる支援の特徴を踏まえ、両者をうまくmedia mixすると効果が高くなります。
たとえば、研究会で話し合ったことの続きをオンラインでやれば、参加者のみなさんはより深めることが出来るし、私も伝えたいことを話し言葉だけでなく、文字に書き起こしてより明確化できます。(それを集めて本を書ける?)
あるいは、私の講演を聴きに来てくれた人や、クライエントとして面接にいらした方々にも参加してもらい、プライベートなことは書けないけど、いろんな疑問などをお互いにシェアして私の方からも可能な範囲でお答えするとか。
それをウェブ上で公開すれば、タム研の広報にもなる。
読めるのは誰でも。
書き込めるのは研究会や講演会に参加した人など、限定する。というのが良いのかな?
どうやって作ろうかな。
ブログでそういうことまでできるんだろうか。
それとも、個人的にそういうSNS的サイトを作れるキットとかあるんだろうか。
あるいは、mixiとかFacebook上にそういう場所を作れるんだろうか。
やっぱりウェブデザイナーの村上さんに作り込んでもらうのが良いのか。
いいアイデアあったら教えてください!
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