2012年11月11日日曜日

中学時代の恩師

吉澤先生は、私の基盤の重要な部分を占めている。
思春期前の子ども時代に両親が基盤であったことは間違いないが、自立心が芽生えはじめた中2・中3に担任だった吉澤先生は、ソトの世界における基盤だった。

その前の中1の担任のX先生はひどかった、、、と自分で思っている。
具体的にX先生のどこがヘンで、Y(=吉澤)先生のどこが良いのか説明しにくい。
中学時代、私は相当やんちゃだった。別に不良っぽいというほど大したことはないが、廊下を走ったり、屋内でボール投げをしたり、習字の時間の後、書き損じの半紙をまるめて雪合戦をしたりホントに他愛ないやんちゃだった。X先生の授業中の態度が悪く(そう、内心先生をバカにしていました)、壁に立たされて、授業終了の「起立!、きをつけ!、礼!」の号令を学級委員だった私が立たされた状態でやった記憶がある。ウッシッシ!
本気で人を傷つけるわけじゃないが、何かを壊したかった。授業で将来の夢を書かされ、「ナポレオンみたいに革命を起こす人」と書いた記憶がある。体制を崩したかった。それは今までの自分を崩して、新しい別の自分になりたかったのかもしれない。
普段、X先生はダメダメのトーンから入っていった。「田村クンは勉強はできるけど、態度が悪い!」と否定された記憶がある。X先生の人となりに何かウソ臭い、イヤなものを感じていたのだと思う。手抜きで、生徒の前ではつまらなそうな機嫌悪そうな表情をしていて、放課後先生同士でテニスに興じていたときはすごく生き生きとしていた。生徒に見せる雰囲気とはぜんぜんちがっていた。今から思えば自己評価の低い先生だったのだろう。

中2のY先生は対照的だった。授業やホームルームで接していても何か肯定的なものを感じた。クラスのスローガンが「人に迷惑をかけない限り、何でもやってみよう。」これは気に入った。夏休みに友だち4人で2泊3日で尾瀬に行くかなり大胆な計画をY先生が認めてくれた。よっぽど信頼してくれたんだ、、、という基盤ができた。
夏の林間学校。昼の行事はどうでもよく、夜のアドベンチャーをよく覚えている。昼間、女子に「今晩行くからな!」と告げておき、就寝時間の後、定期的に見回りにくる先生の間隙を縫って悪ガキ仲間と一緒に別の棟の女子部屋へ遠征した。別にエッチなことをするわけではない、行って戻ってくるスリルを味わいたいだけ。人に迷惑をかけないで、何でもやっているだけなんですけど。
先生に見つかって、廊下に正座させられて、ひどく叱られるのも敵軍の捕虜になった気分だった。
その後もはしゃいで寝ようとしない我々の部屋にY先生が黙って入ってきた。我々は寝たふりをしてるが、先生は一緒に横になり寝ている。えっ、いつまでいるの?ずっと息を潜めて伺っていると、しばらくして黙って去って行った。他愛ない中学生の修学旅行的風景だが、なぜかそういう体験が私にとってのソトの世界の基盤になってしまった。
高校に入ったらアメリカ留学したいと漏らしたら、AFS留学体験のある卒業生と会わせてくれた。
高3で夢が叶った時、出発前に横浜のホテルニューグランドでお祝いの食事会をしてくれた。
その後も、クラス会をやったり、結婚前に妻とお宅を訪問したり、結婚式に来てもらったり、テニスを一緒にしたり、親交が続いていた。

そのY先生が手術不能の肝臓がんをわずらい、積極的な治療もやめた。
80歳を過ぎれば亡くなることはぜんぜん怖くもなくなるんですよ。でもその前に教え子たちに会っておきたい。
「じゃあ先生の趣味の写真の展覧会をやろう!」というクラス会の酒の席での話を真に受けて、実現に向けて進めている。
1月はもしかしたら間に合わないかもしれない。
しかし、これはY先生のためというより、私自身の基盤を確認し、リリースするための儀式なのだと思う。

追加)
繰り返しになるけど、Y先生はソトの世界の人だったんだ。ウチの世界の基盤はその時点でだいたいできていた。Y先生はウチからソトへの架け橋だった。1年生の担任X先生も、高校時代のS先生も大したことない、つまらない大人にしか見えなかった。彼らだけだったらソトの世界は大したことないつまらない世界だっただろう。Y先生は、私と十分に離れた位置からソトの世界をぐっと近づけてくれた。

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