2013年6月10日月曜日

母親の物語(4)

叔母さん宅では、おじさん、K伯母さん、母と楽しい会食。
昔話に花が咲く。
80歳前後のお婆婆たちが娘時代に返り、「箸が転げても可笑し」く大声で笑っている。
このシーンは記憶がある。

私が子どもの頃、毎年お盆休みは四国に帰省していた。
当時の四国への帰省は、今の欧米くらいの感覚だ。寝台列車「瀬戸号」で夕方に東京を発ち、宇野から宇高連絡船で高松へ。そこから予讃線のディーゼル急行で壬生川まで。まるまる一日かかっていた。でも若い母にとっては貴重な帰省だったろう。親のもとにきょうだい7人が集まる。母が懐かしい大家族に囲まれ談笑する姿をみて、幼かった私も気持ちが安らいだ。上下20年くらいに散らばったいとこたちは2+3+2+4+2+2+2=総勢17人が集まる。旧家の縁側に並んでスイカを食べたり、おじさんの運転するトラックの荷台に乗り込み、「おまわりさんが来たらむしろをかぶって隠れるんだよ!」とはしゃぎながら海水浴に出かけたり、蚊帳を吊って雑魚寝するといとこのお兄ちゃんの怪談が怖くて眠れなかったり。

楽しい思い出ばかりではない。おばあちゃんにお灸をすえられる。べつに悪いことをしたからではなく、背中にモグサをすえて線香で火をつけるのが癒しになるわけで、娘たちにやってもらうついでに孫たちにもやってくれる。恐かった。体調を崩すと浣腸する習慣もあった。お尻からぬるま湯を入れられるのが恐いし、旧家の汲み取りトイレの下は明るく汚物が丸見えで、ものすごく臭く恐かった。
小学4−5年生だったろうか、海水浴で沖を泳ぐお兄ちゃん目指してやっと覚えた平泳ぎでのんびり楽しんでいた。すると、手漕ぎ舟がやってきて、私とお兄ちゃんが「救助」され、岸に戻ると母が泣いていた。岸からは潮に流されていると見えたらしい。「タケシくんが溺れてる!」とおばさんが騒ぎ出し、岸では大パニックだったそうだ。

これらも含め、今では懐かしい大切な思い出だ。
今回の旅行は、母親のケアを口実にした私自身の追憶の旅なのだ。

母親の物語(3)

母との二人旅は久しぶり。というか、ふたりだけの旅行なんて過去にあっただろうか?
通勤電車に乗れば、みんなさっと席を譲ってくれる。明らかにそういう歳なんだ。
新幹線に乗ると、タイムスリップが始まる。ボソボソと昔話を語りかけてくる。原稿書きも読書もできない。まあ、希有な機会だ。母の話を聞こう。

そう!二回目のお見合いだったんだ!
仲人のハタノさんはフジボウの元工場長さんだったんだね!

京都駅でK子伯母さんと合流した。
とたんに80歳と82歳のお婆婆が童心の姉妹の顔になる。
母親が神戸の大学にいた頃、おばさんは京都へ嫁ぎ、長男が生まれたばかり。週末はすることないから(?)、よく京都に遊びにいった仲の良い姉妹。
福山までずっとしゃべりっぱなしだった。
「ものわすれ」の始まっている伯母さんと耳の聞こえが遠い母親でもちゃんと話は通じているようだ。話の内容はともかく、笑い声が絶えない。
福山駅からレンタカーでしまなみ海道をドライブして伯方のA子叔母さんと合流。
かしまし三姉妹の久々の再会だ。
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57年前、母親は四国の田舎から見合いでひとり大都会に出てきた。
翌年、私を産んだ。
知り合いは東京に嫁いでいた長姉だけだったのではないか。私が小さい頃は、よく大塚の「さだこばちゃん」の家に遊びに行った。
「おばちゃんはお料理が上手なのよ。」
私と妹はいとこのお兄ちゃんと近くの公園で遊び、母は姉から主婦の指南を受けていたのだろう。

母親は子どもの目にも頼りなかった。
嫁いできた当初、方向オンチだった母は、買い物に出かけ、家に戻れなくなって迷子になったという。
何かの用事で横浜まで外出し、大森に戻るときJR(当時は国鉄)の京浜東北線に乗るはずが、京浜急行に乗ろうとする。真っ赤な車両はどうみても普段乗る京浜東北線ではない。
「ママ、これでいいの?」
「良いのよ、品川に行くと書いてあるから」
そりゃあ品川は行くけど大森は行かないでしょ。

母は喘息持ちだった。嫁ぐ前はそんなことなかったという。埃がダメで、布団の上げ下げはできずに父親がやっていた。喘息は私が成人になる頃まで続き、その後は自然に回復した。今から考えれば東京の空気が合わなかったのか。何かの心因があったのかもしれない。23歳で故郷から遠く離れた大都会での生活自体、特に具体的な問題がなかっとしても、喘息を引き起こすほどの慢性的ストレス状態であってもおかしくはない。

一度、家で倒れたこともある。
トイレから出て意識を失い倒れた。今から振り返れば起立性低血圧だろうが、洗濯機に頭をぶつけたからなのか、意識を回復した後も「ここはどこ?私はだれ状態」、失見当識状態が続いた。父が早く家に帰り、かかりつけの町医者が往診に来てくれ、「おかしい」状態が2−3日ほど続いたのではないだろうか。父親は「ああこれで妻はおかしくなっちゃうのか、、、」不安だっただろう。

そんな頼りない面とは矛盾しているが、母はとても生き生きと元気だった。
専業主婦として子育て以外に社会との接点を持たない母は、子育てを通じて地域のネットワークを作っていった。
母は明るく能天気、人付き合いが良い。その性格は私にも受け継がれていると思う。
人望や指導力があったとは子どもの目からとても見えないけど、小学校でも中学校でもPTAの副会長まで出世した。私の番でPTAにデビューして、2歳下の妹のとき役職についた。PTA活動の様子は知る由もないが、多くの保護者や先生と交わる母の姿はとても生き生きしていた。

家では近所の子どもを集めて小さな英語塾をやっていた。私も小学生5年くらいになると一緒に混じり、食卓で英語の単語カルタで遊んだりしていた。
ピアノも親子で習っていた。私としてはりっぱな先生だが、母から見れば年下の女の子だろう。レッスンよりも話し相手だった。
母親は社交的で良く人と交わっていた。
父親は人付き合いが良い方ではなく、晩の帰宅も早かったし、週末に家を空けることは少なかった、
私は母親の性格を引き継いだと思う。

2013年6月9日日曜日

母親の物語(2)

今朝は5時前に目が覚めてしまった。
子ども時代の遠足気分なのか。
今回の旅行は、母親のためでもあり、自分自身のためでもある。

これは、あくまで私の中にある主観的な「母親の物語」だ。
事実に基づいた、客観的で正確なストーリーではない。
私の体験としての「母親」を私がどう主観的に語ることができるか。その中にどのようなバイアスが含まれており、それが私の人生にどう関連しているのか。
そんなことを私が主観的に体験するために書いているだけに過ぎない。

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母親は愛媛県の今治と新居浜の中間に位置する壬生川(にゅうがわ)で生まれ育った。波の静かな瀬戸内海の海辺の町。海岸沿いにはフジボウなどの大きな工場も母親の生まれ育った当時からあったらしい。
母親の家は先祖代々続く名家だった。
その昔は瀬戸内海の海賊、と子どもたちには説明していたが、水上水軍だったかな、その血を引く豪商だったかどうか、定かではない。
母親の生家は「越智の油屋」としてガソリンスタンドを経営していた。戦前のまだ車も少ない時代のガソリンスタンドが当時の社会のどういう役割を果たしていたのかよくわからない。戦前は多くの土地持ちだったが、戦後の進駐軍による農地改革で多くの土地を手放し、地主としての地位をはく奪され、家は没落していった。

母は7人兄弟の真ん中、四女として生まれた。
私の父親も7人兄弟。昭和一桁生まれの両親の時代はちょうど「産めや増やせや」の最盛時代だったのだろう。おかげで私はいとこが30人くらいいる。今となってはほとんど会わないが。
今回の旅行が決まり、母親は突然、母の父親(私の祖父)「孝一」の出生秘話を語ってくれた。
孝一の父親の妻は子どもができず(出産したのだが育たず)、そのために離縁させられた。(当時は、そんな時代だったんだ!)再婚した後妻さんは孝一を産んだあと産後の肥立ちが悪く死亡した。孝一の父は妻を失い、離縁した先妻を呼び戻し再婚し、孝一を育てた。孝一は思春期になってから母親が産みの母でないことを知り大きなショックを受けた。実母と信じていた継母とうまくやりたいと、継母の姪を妻にした。妻(=私の祖母)は7人も子どもを産み、継母とはうまくいかない。そのために継母は孫たち(私の母のきょうだい7人)を分け隔てした。継母が手をかけた孫は良い子Goodiesでその他はダメな子Baddiesと。

母親は子ども時代に勉強ができた。そういう意味ではone of the goodiesだったのだろう、きっと。
当時の女子は高等教育は不要。花嫁修業して順番に嫁いで行くことが目標だった。
勉強ができて、名家のお嬢だった母親は例外的に一度だけ大学受験のチャンスが与えられた。もしダメだったら当然、花嫁修行の道へ進むはずだったが、幸いに神戸の女子大に受かった。
神戸では4年間、大学の寄宿舎で生活した。四国の才女も都会ではただの田舎者だったのだろうか。まわりの都会の雰囲気に圧倒されたのか、大学時代の話はあまり母親から聞かされない。

大学を卒業して実家に戻り、地域の子どもたちに家で英語を教えながら花嫁修業のお茶やお花をやっていた。
東京に嫁いだ母が里帰りすると、よく幼い私をと妹を連れてお茶の先生を訪ねていた。落雁やおまんじゅうみたいな和菓子と渋いお抹茶は子ども心にも美味しかった。そのお茶仲間のひとりがカネボウ壬生川工場長の麻生さんの奥さんだった。田舎のお嬢さんのサークルみたいなものだったのだろう。麻生さんも娘の圭子ちゃんを連れてきていた。小学校に上がるか上がらないかくらいの圭子ちゃんといとこの淳三くんと私、タケシちゃんは同い年だった。後に芸能界にデビューしても、私は母親目線から語られる「圭子ちゃん」しか知らない。
唯一の男きょうだいであった長男は家を継ぎ、他の娘たちは「適齢期」になるとお見合いをして上から順に東京、大阪、京都、東京、愛媛、愛媛とお嫁にもらわれていった。前半はずいぶん遠征したけど後半は力尽きたのか、でもあくまで地元の「名士」だったのだろう。ルールは上から順番であり、何かの都合で順番が逆になると問題が生じる。孝一お父さんは家業を継ぐために果たせなかった「医者になりたかった」願いを娘のムコさんに託した。6人娘のうち2人はお医者さんの家に嫁いで行った。

母は群馬出身で東京で就職していた父親と東京でお見合いしてお嫁にもらわれた。何度目のお見合いかは語られないが、少なくとも初回ではなかったらしい。

2013年6月8日土曜日

母親の物語(1)

父の物語は書けた。母の物語は未だ書けていない。いつまでも済んだ物語にならないからだ。
妻の物語も、済ませるまでは書けなかった。というか、済ませるために書いた。
この物語も同様なのだろう。

私にとって父親のことは比較的語りやすかった。
過去を振り返り、分離してきたプロセスを言語化し、確認することで、改めて意図的に関係を構築できる。基本的に分離した人だからだ。

母親のことは語りにくい。
振り返ればまだ十分に分離できず、ずっと母親の渦中にいることがバレてしまう恐怖がある。
ドロ沼的な母性愛から必死に脱しようとするプロセスの一部としての母親記述になってしまう。

無意識の中でそんな風に思っていたのだろう。

二世帯住宅を共有する母親には、日常の家事をお願いしている。

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2012年12月
シンガポール出張から帰り、次の国内旅行の予定を伝えると、母親はキレた。

ちょっとあんた旅行ばかり行って、家を放り過ぎ!
子どもも大きくなったとはいえまだ頼りにならないし、家のこともちゃんとやりなさい。
おばあちゃんが今死んだらたいへんなことになるのよ。
洗濯ものだって、流しの食器だって、部屋の掃除だってぜんぜんできていない。
孫のことが心配、タケシのことが心配、夫の健康が心配。。。

感情の世界。
客観性が成り立たない。理屈が通らない感情の勢いで包み込んでくる。
もしこの文章を読んでも理解されず、気持ちで迫ってくる不安。感情に巻き込まれてしまう恐怖。
だから記述できなかった。

母親は心配するのよ。

何を心配するわけ?

息子である私へは、仕事がうまくいくか、健康かどうか。
娘へは、健康か、嫁ぎ先でうまくやれているのか。
夫へは、健康のこと。いつもは偉そうなことを言うが、ちょと体調が悪くなると、とたんにダメになってしまうから。
あと、孫たちへの心配。ちょっとでも帰りが遅くなると心配を始める。

母親の心配が及ぶ範囲はこれで完結。それ以上に広く及ぶことはない。狭い世界。
えっ、嫁いだ娘にも心配するの?
ということは、これはもう母親と息子である私の二者関係の属性ではなく、母親に備わった属性なんだ。ということに気づいた。
それなら相対化できそうな気がしてきた。

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Genderの視点。
女性は関連性の中で自己を維持する。
自分自身のニーズではなく、親密な他者(家族)のために生き、そのニーズを満たす犠牲的スタンス。
しかも、Powerless positionにいる。母親がなんと言っても、結局私は旅行に行ってしまう。母親は他者を決定するパワーを持たない。相手に従わざるを得ない。
男性だったら「怒り」により影響を及ぼすことができる。母親の怒りはそこまでのパワーを持ちえない。怒りつつも相手に配慮して、結局はタケシのやりやすいようにと配慮するしかない。Angerではない、Naggingになってしまう。
経済的なパワー、社会的なパワーを持たないsubordinate position。それが心理的なパワーを削いでしまっている。

育児不安。過保護・過干渉。
これらは母親の問題性の表現だ。
しかし、突き詰めて考えれば、これが(少なくとも近代の)母親にとってのdefaultな状態なのかもしれない。
相手のことを考え、相手の気持ちをわかりたい、相手のことに関心がある。
関連性に指向した関係性の持ち方だ。
愛情のひとつの表現型だ。乳幼児期・学童期までは良いが、思春期以降はnegativeなチカラとなってしまう。だが、negativeだからこそ関わりを続けることが出来る。もしPositiveであれば、関わる必要がなくなるから。自立していってしまう。自立してバラバラになってしまう。
心配性であること、不安を持つことは関係性の維持に必要なのだ。

自立とは、関係性を断つことだ。心配を払拭して、もう関わらなくてもいいのだ。無視して良いのだ。そうやって、人々は切り離されていく。

根拠のない不安。
身の危険を守れない幼い子どもを危険から守るために不安は重要な役割を果たした。
50代の専門職の息子が大学教授をやめて開業した。うまくいくかどうか心配したところで、それを守る術はなにもない。でも、とにかく心配する。理屈では心配しても意味がないのだが、感情では心配やめない。際限なく心配する。

今までは、感情的に近接する母親を遠ざけることに必死だった。
不安という名の愛情のドロ沼に引きずり込まれるのが怖かった。

でも、少し開き直って考えてみよう。
不安=negativeなカタチの愛情表現
という具合にその感情を客体化すれば、恐れる必要がなくなるのではないだろうか。

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2013年1月
母親の不安が足かせになり、旅行に出ることができないと、ある人に相談した。
Aさんからは、母親に旅行をオファーしたらという逆転の発想。
Bさんからは、逆に母親以外の家族が犬も含めて旅行に出かけ、のんびりひとりにさせてあげたらというさらに逆転の発想。

母の誕生日に、思い切ってオファーした。

四国に里帰りするか?
私がエスコートするから。

母親はしばらく沈黙した後、急に泣き出した。
如何に家族のこと:夫のこと、息子のこと、孫たちのことが心配で、気持ちが晴れないか!
だから、とても旅行なんて考えられない。
今は寒いし、温かくなったら考えておくよ。

その後、話が止まらなくなった。
孫たちから始まり、娘や姪たち。
義理の息子と、義理の娘と、その親たち。
自分のきょうだい、さらには自分の父親の昔話。
母親のまわりの人々のことを語り始め、こういう人で、こういうところがダメで、、、
小一時間ほどしゃべっていた。
私と父親はそばで黙って聞いている。不安がどんどん解放されていく。
父曰く、「時々こういうの、やってくれな。」

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2013年4月3日
A子おばさん、無沙汰しております。お変わりないでしょうか?
実は母のことでご相談があります。身体は相変わらず元気なのですが、すっかり気持ちが弱くなりました。父や私それに孫たちの面倒をよく見てくれて大変ありがたいのですが、心配性が強まり気が休まりません。それを尻目にあちこち外出する私や子どもたちへ不満をよくもらします。そこで1月の誕生日に「暖かくなったら四国へ行こう」と提案したのですが。もともと旅行好きではなく、耳が遠いのも手伝って「故郷は遠く思うもの」と、なかなか首を縦に振りません。私としてはいつものねぎらいも込め3−4日休みを取り新幹線とレンタカーでエスコートして、留守中は妹が来て父の面倒をみるからと言ってもダメです。
もし叔母さんからのお誘いがあると、母の気持ちも動くのではと期待しています。ぶしつけなお願いで恐縮ですが、ご一考いただければ幸いです。

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5月25日
すっかりご無沙汰しております。お変わりございませんか?
実は、来月に母を四国に連れて行こうと計画しております。
80歳を迎えた母はアタマの方は一応大丈夫なのですが、気持ちと聴力がかなり弱ってきました。
父や子どもたちの食事や洗濯など家事をやってくれ助かってはいるのですが、何でも心配・心配が先に立ちマイナスにとらえてしまいます。
気分転換に私から帰郷を勧めるのですが、留守宅を心配してなかなかウンと言ってくれませんでした。A子おばさんとS子さんにもお願いして説得していただき、やっと行く気持ちになってくれました。親孝行といえば聞こえは良いのですが、母が不安を少し解放してくれないと、私も海外・国内出張などに出れないという事情もあります。
具体的には、6月9日(日)に出発して、京都でK子おばさんと合流し、福山からレンタカーで伯方島へ。
10日(月)と11日(火)はA子おばさんとK子おばさんにも付き合っていただき国民休暇村泊。
12日(水)に帰京する予定です。
その間、ご都合がつけば、ぜひSおじさんにもお目にかかることができればと思います。
突然の計画で済みません。お目にかかることができればとてもうれしく思います。

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6月4日
来週の旅行の話をしていた時の会話。

タケシのやっている家族療法ってよくわからんけど、要するに家族みんなで協力してやりましょうっていうことなんでしょ?
うちがモデルだな。

とメガネをはずして笑顔。
母親の笑顔を見たのは久しぶりだった。

2013年6月6日木曜日

ひきこもり脱出講座(第2回)「子どもに関わる勇気」

「ひきこもり脱出講座:家族の力でひきこもりを解決しよう」

第二回のテーマは「親子関係」でした。

ひきこもる子どもにどう働きかけたらよいのか、どう関わったら良いのか私からお話ししました。

第一に、現状について。毎日どう接しているかをみなさんで紹介しました。
  • 親子が良い関係で一緒にいても気にならない方
  • 子どもとの接触は極力避けている方
  • 不自然にならない程度にひとこと言葉をかけるくらい。差しさわりのない話題を話す。しかし、核心の話は言わないようにしている方
などがいらっしゃいました。
特徴的だったのはお子さんとの会話に気を遣い、遠慮して、緊張している方が多くいたことです。
  • 以前は怒って大変だったから。
  • 子どもを追いつめたり傷つけたりするかもしれないから。
第二に、今後の可能性について。
ホントは子どもにどう接したいのだろうか?親としての本音の気持ちを紹介し合いました。

グループと話し合う中で出てきたのが「勇気」でした。これが今日の裏のテーマです。

親が勇気を持って子どもに向き合えば、その勇気が子どもに伝わります。

ひきこもる人は、他者と関わる大きな不安を抱えています。
ひきこもることによって、自分が傷つくことを防御しています。
人と交わることで傷ついた体験があり、それをまた繰り返したくありません。
それを乗り越えるには勇気と希望が必要です。
また失敗するかもしれないという予想(=不安)があれば、敢えて危険を冒して外に出ようとはしません。
もしかしたらうまくいくかもしれないという予想(=希望)があれば、リスクを多少は冒す気持ちにもなれます。

Q)外に出る勇気とか元気は自然に出てくるものなのでしょうか?
Q)本人が気づくきっかけがあるのでしょうか?

いいえ。
ひとりだけだと勇気は出てきません。
きっかけが必要です。他者との交流が必要です。
自分を出して相手に否定されると、傷つき、自信を失い、不安を持ちます。
自分を出して相手に肯定される体験があると、勇気を獲得できます。

我々は、ひきこもらず普通の生活を送っていれば、さまざま人々との交流があります。
その中で、否定され傷つく体験と、肯定され自信を得る体験を繰り返しています。
傷つき、不安と、生きていくのに必要な自信や勇気と、両方を同時に得ます。
そうやって、不安や生きづらさを抱えながらも、社会の中でどうにか生きていくことができます。

ひきこもると、人との交流が途絶えるので、傷つく体験も、勇気を獲得する体験も得られなくなります。

さてどうしましょう?
唯一、交流できるのが家族であれば、家族との交流の中で勇気を生み出すしかありません。

Q)心に響くような上手な言葉がけの言葉を教えてください。

いいえ。それは、ハウツーではありません。
どういう言葉を使うかということは大切ではありません。大切なのは、どういう気持ちで伝えるかということです。

人と人とが交流すれば、必ずふたつのレベルのメッセージを同時に伝えます。

1)ひとつは言葉の内容です。
これは当然なことですね。誰でもわかります。

2)もうひとつは気持ちです。
これは難しいです。
たとえば「私は不安です」と言葉に表現しなくても、もしその人が不安な気持ちを抱えていれば、その気持ちが相手に伝わります。
言葉で「不安に思わず元気を出しなさい」という内容を伝えても、伝える人のホントの気持ちが不安に満ちていたら、そっちのメッセージが伝わります。
このような気持ちの伝達は無意識の中で行われるのでよくわかりません。自分がどんな気持ちかなんてことも普通は意識してませんし、それを伝えていることもわかりません。相手もそれを受け取っていることもわかりません。でも実際は地下水のように見えないだけで確実に伝わっています。

上手な言葉がけとは、言葉の内容のレベルではないんです。
言葉の背後にある気持ちのレベルでどう伝えるかということです。
それは意図的に伝えることができません。
伝える人が、どういう気持ちでいるのかが関係してきます。
子どもに勇気を伝えたいのであれば、親が勇気を持つことが大切です。

Q)どうやって勇気を伝えるのですか?

子どもに関わる勇気です。
言葉がけの文言(内容)をどんなに工夫しても、その根底に関わろうとする勇気と自信がなければ勇気を伝えることができません。
子どもに関わる勇気と自信が今どれほどあるのかないのか。
それを回復するにはどうしたらよいのかということをグループでやりました。

言いづらいことを言葉にすることで、勇気が出てきました。

そうです!
Aさんはグループの中で勇気を表現できました。
とてもがんばったと思います。

ひとりだけでは勇気は出てきません。
自分を出して、相手に肯定される体験があると、勇気を獲得できます。

まさにそのことをこの講座で実際に体験しました。
とても良かったと思います。

2013年6月4日火曜日

「待つ」子育て

広尾近辺は外国人の家族連れが多い。
先日、対岸のホームに三歳くらいの女の子が泣き叫び駄々をこねていた。
地べたに寝転がり、ストライキを起こしている。
母親はじっと待っている。決して抱き起こさない。
対岸なので言葉は聞こえず、母子の相互作用しかわからないが、興味あるので電車をひとつ遅らせ観察していた。

日本人の親子にはまず見られない光景だ。
地下鉄のホームだから寝転がったら汚い。洋服どころか顔までベターっとつけてしまっている。
すぐに抱き起すだろう。子どもは駄々をこね、親は叱りながら、なんとか連れて行くだろう。

母親としては、こんなところで立ち止まらず、早く連れてゆきたいだろう。
しかし、子どもが寝転がっている間、手も口も出さず、腕を組んでじっと見守っている。叱るわけでもなく、ただ待っていた。
今度はお人形さんを放っぽり投げたので、さすがにそれは拾い、屈んで子どもに何かを話しかけている。でも抱き起さず、子どもが自分で起きるまでずっとホームの地べたに寝させたままだ。

この間、待つこと5分くらい。やがて子どもは諦め、起き上がり、母親に手を引かれトコトコ歩き始めた。機嫌を直したのかなと思ったら、少し歩いてまた駄々をこねてストップ。でも今回は1分もかからずにまた歩き始めた。

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日本人の母親とアメリカ人の母親の養育態度の違いについて調べが古典的な研究がある(Caudill, 1969)。生後3~4ヶ月の子どもと母のコミュニケーションパターン・子どもの時間の過ごし方(遊び方)』を観察していると、次のような違いが分かった。
  • 日本の母子の接し方……子どもとのスキンシップ(身体接触)は多いが言葉をかける頻度が少なく、抱っこしたり揺らしたりすることが多い。普段から子どもと同室で過ごすことが多い。
  • アメリカの母子の接し方……子どもとのスキンシップ(身体接触)は少なめだが言葉をかける頻度が多い。普段は子どもと別室で過ごすことが多い。
どちらが良い・悪いの問題ではない。そういうしつけ方の違いがある。

これは、日本人の対人関係のあり方にも関連する。
相手の気持ちを察し、先回りしてケアする。
数年前のNHKの連ドラ「どんと腫れ」でも岩手の老舗旅館の「おもてなしの心」がテーマだった。いかに早く客のニーズを察知し、客が言う前にこちらからそのニーズを満たすことができるか。
このような共感能力は日本的な人間関係には重要な美徳なのだが、やり過ぎると良くない。

子育ての場合、親が関わりすぎると他者に依存し、自分のニーズを自らの力で解決する動機づけを削いでしまう。その結果、子どもは自立しにくくなる。

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三歳児は立ち上がるまでに5分かかったが、思春期の子どもは数日、ときには数ヶ月以上かかる。
学校で自分の思い通りにいかず、やる気をなくし勉強をせず、夜遅くまでゲームばかり無為に過ごして、朝も起きられない。成績は下がり、停滞し、電車に乗り遅れてしまう。

親としては必死だ。何とか抱き起して歩かせたい。
この子は何かの病気でこうなってしまったのでしょうか?
どうやったら今すぐに立ち上がらせることができるのですか?
と相談にやってくる。
もし、病気なら治療をしなければならない。
しかし、病気でないのであれば、待つことが大切だ。
本人自身も起き上がらねばならないことは十分わかっている。しかし、今は起き上がることができないだけなのだ。

思春期の子どもの潜在力を信じ、自らの力で立ち上がるまで、親が腕を組み、叱ることもせず、待つことができるか。

これは、親にとってかなりの試練である。
そのようなお手伝いをする場合が多い。

2013年6月2日日曜日

父親の反省と世代間伝達

Aさんは奥さんといっしょに、子どものことについてカウンセリングに通っています。
始めの頃は奥さんに説得され、「話すことなどないから!」と消極的でしたが、今では自分の体験を積極的に語るようになりました。

私が反省するとしたら、今までーー子どもが小さかった頃ーー家族や子どものことに関心が向かなかったんです。

でも、それはお仕事が忙しかったからでしょう?

もちろんそれもあるのですが、もっと大きな要因がありました。
自分の父親は、全く家庭に興味がない人でした。

でもその時代、多くの男性はそうだったのでは?

いや、その時代に男性はソトの役割だったとしても、多少は家庭にも関心をもつものでしょう。でも、私の父親は違っていました。外ではとても良い顔をして、みんなから「良い人だね!」とほめられ、地域の名士として活躍していました。でも家のことはぜんぜん関心を向けず、すべて妻に任せていました。
だから、父は私を含め子どもたちに関心を向けませんでした。好きとか嫌いとか、厳しいとか優しいとかいう次元の話ではないんです。ただ単に関心がなかっただけなんです。

なぜかというと、私の祖父(父親の父親)もまた同じでした。ソトではとても活躍して有能な人だけど、家には興味を持たない人だでした。

父から息子へと、世代間で伝達しているんですね。
別に遺伝子レベルで伝達されているわけではない。
家庭内の生活習慣が親から子へと受け継がれたのでしょう。

ここまで来るのに、すごく大変だったんですよ。

それは、よくわかります。
Aさんと奥さんの力で達成されましたね。
Aさんが今、はこうやってとても熱心に家族のことを考え、語っていらっしゃる。それは素晴らしいことだと思います。ご先祖さまから受け継がれてきた伝統を、ここで断ち切ったのですね。
Aさんが変わることで、夫婦関係も、親子関係も、きっと変わることができます。

今さら、もう遅い。。。

ということはありません。
いつでも、挽回することは可能です。

今の世の中、男性も家庭に関わるべしという価値観に変化してきました。
もしAさんが語らなければ、相変わらずそのことを避けていると奥さんや子どもから後ろ指をさされます。Aさんご自身も家族に関わる気持ちが削がれてしまいます。

逆に、こうやってAさんが語れば、少なくとも家族のことを考えているわけですから、きっと奥さんや子どもも内心ではとても評価しているはずです。
Aさんが悪いわけでも、Aさんのせいでもありません。
もっと大きな時代を超えた枠組みの中のひとつの現象に過ぎないわけですから。

しかし、だからといって、即、家族のコミュニケーションの回復につながるわけではありません。
長年培われてきたコミュニケーション・パターンはそう簡単には変えられません。
でも、少なくとも解決の糸口がはっきりと見えましたね。
このAさんの反省をもとに、夫婦で、親子で、何ができるのかを語り始めることができます。
それが、解決への道すじです。