2013年6月9日日曜日

母親の物語(2)

今朝は5時前に目が覚めてしまった。
子ども時代の遠足気分なのか。
今回の旅行は、母親のためでもあり、自分自身のためでもある。

これは、あくまで私の中にある主観的な「母親の物語」だ。
事実に基づいた、客観的で正確なストーリーではない。
私の体験としての「母親」を私がどう主観的に語ることができるか。その中にどのようなバイアスが含まれており、それが私の人生にどう関連しているのか。
そんなことを私が主観的に体験するために書いているだけに過ぎない。

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母親は愛媛県の今治と新居浜の中間に位置する壬生川(にゅうがわ)で生まれ育った。波の静かな瀬戸内海の海辺の町。海岸沿いにはフジボウなどの大きな工場も母親の生まれ育った当時からあったらしい。
母親の家は先祖代々続く名家だった。
その昔は瀬戸内海の海賊、と子どもたちには説明していたが、水上水軍だったかな、その血を引く豪商だったかどうか、定かではない。
母親の生家は「越智の油屋」としてガソリンスタンドを経営していた。戦前のまだ車も少ない時代のガソリンスタンドが当時の社会のどういう役割を果たしていたのかよくわからない。戦前は多くの土地持ちだったが、戦後の進駐軍による農地改革で多くの土地を手放し、地主としての地位をはく奪され、家は没落していった。

母は7人兄弟の真ん中、四女として生まれた。
私の父親も7人兄弟。昭和一桁生まれの両親の時代はちょうど「産めや増やせや」の最盛時代だったのだろう。おかげで私はいとこが30人くらいいる。今となってはほとんど会わないが。
今回の旅行が決まり、母親は突然、母の父親(私の祖父)「孝一」の出生秘話を語ってくれた。
孝一の父親の妻は子どもができず(出産したのだが育たず)、そのために離縁させられた。(当時は、そんな時代だったんだ!)再婚した後妻さんは孝一を産んだあと産後の肥立ちが悪く死亡した。孝一の父は妻を失い、離縁した先妻を呼び戻し再婚し、孝一を育てた。孝一は思春期になってから母親が産みの母でないことを知り大きなショックを受けた。実母と信じていた継母とうまくやりたいと、継母の姪を妻にした。妻(=私の祖母)は7人も子どもを産み、継母とはうまくいかない。そのために継母は孫たち(私の母のきょうだい7人)を分け隔てした。継母が手をかけた孫は良い子Goodiesでその他はダメな子Baddiesと。

母親は子ども時代に勉強ができた。そういう意味ではone of the goodiesだったのだろう、きっと。
当時の女子は高等教育は不要。花嫁修業して順番に嫁いで行くことが目標だった。
勉強ができて、名家のお嬢だった母親は例外的に一度だけ大学受験のチャンスが与えられた。もしダメだったら当然、花嫁修行の道へ進むはずだったが、幸いに神戸の女子大に受かった。
神戸では4年間、大学の寄宿舎で生活した。四国の才女も都会ではただの田舎者だったのだろうか。まわりの都会の雰囲気に圧倒されたのか、大学時代の話はあまり母親から聞かされない。

大学を卒業して実家に戻り、地域の子どもたちに家で英語を教えながら花嫁修業のお茶やお花をやっていた。
東京に嫁いだ母が里帰りすると、よく幼い私をと妹を連れてお茶の先生を訪ねていた。落雁やおまんじゅうみたいな和菓子と渋いお抹茶は子ども心にも美味しかった。そのお茶仲間のひとりがカネボウ壬生川工場長の麻生さんの奥さんだった。田舎のお嬢さんのサークルみたいなものだったのだろう。麻生さんも娘の圭子ちゃんを連れてきていた。小学校に上がるか上がらないかくらいの圭子ちゃんといとこの淳三くんと私、タケシちゃんは同い年だった。後に芸能界にデビューしても、私は母親目線から語られる「圭子ちゃん」しか知らない。
唯一の男きょうだいであった長男は家を継ぎ、他の娘たちは「適齢期」になるとお見合いをして上から順に東京、大阪、京都、東京、愛媛、愛媛とお嫁にもらわれていった。前半はずいぶん遠征したけど後半は力尽きたのか、でもあくまで地元の「名士」だったのだろう。ルールは上から順番であり、何かの都合で順番が逆になると問題が生じる。孝一お父さんは家業を継ぐために果たせなかった「医者になりたかった」願いを娘のムコさんに託した。6人娘のうち2人はお医者さんの家に嫁いで行った。

母は群馬出身で東京で就職していた父親と東京でお見合いしてお嫁にもらわれた。何度目のお見合いかは語られないが、少なくとも初回ではなかったらしい。

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