今までの社会は「弱さ」に不寛容だった。
「強く」なければ生きてゆけない。そうしないと周りの世界から取り残されてしまう。
戦前・戦後、高度経済成長期まではそういう雰囲気だった。弱者をカバーする余裕が社会にはなかった。効率性を追及するためには、弱者、異常者を切り捨てるしかなかった。
バブル崩壊以降、成長神話が崩れ、上昇志向からいったん降りて「弱さ」を認める社会へ転換しつつある(と期待したいが)。
社会の弱さ、組織(会社、学校、家庭など)の弱さ、そして個人の弱さ。
障害や弱さを除外するのではなく、メンバーとして許容し受け入れていこうとする姿勢がバリア・フリーの理念だ。
社会全体がそれを心から受け入れるためには、だれもが持っているはずの自己の弱さを認めることから始めなければならない。自分の弱さを受け入れることにより、相手の弱さも受け入れることができる。
だれにでも強さと弱さの両方を持っている。その量と質が異なるだけだ。自分の弱さを認めず、自分は強い人間だと思い込んでいたら、相手の強さしか認めることができなくなる。
社会がそのような考えを認められるようになれば、「心の弱さ」もだれもが持つ一般的なこととして認められるようになる。
心の治療は「弱さ」を取り除くことではない。弱さを抱えつつ、いかに誰もが持っているはずの隠された「強さ」を見出せるか。弱さを抱えつつ、どう生きながらえることができるかという観点に変化してくる。
自分の「弱さ」を否定せず受け入れるためには、勇気が必要だ。それが達成できたら、本当の「強さ」につながる。
そうすれば、精神医療をマトモでない人を選別するという消極的な問題解決手段から、より良く、より強く生きるための積極的な問題解決手段として使うことができるようになる。
だれでも弱さを潜在的に抱えて、相互に頼り、支援されながら生活している。その弱さが顕在化したとき、積極的な心の支援を得ることにより、弱さを克服して、次の強さに向かうことができる。
弱さが顕在化するときとはどんなときか?
大きく分けるとふたつある。
1)だれにでも起きる、ライフサイクル上のターニングポイントとしての脆弱性
生まれてから死ぬまで、変化が顕在化するとき、一定のバランス状態(恒常性)から、次のバランスに乗り換えなくてはならない。家族システム理論では、第二次変化と呼ばれる。
第一次変化=システムの在り方は変えず、強度を変えることにより変化すること。車でたとえれば、アクセルを踏んでスピードを上げるように。
第二次変化=第一次変化だけでは足らず、システムの構造自体が変化すること。車でたとえれば、アクセルの限界が来て、ギアを入れかれること。ギア比という構造を変化させることにより、エンジンの回転数とタイヤの回転数の関係性を変化させる。
人の一生(ライフサイクル)を順に追い、心の弱さが顕在化しやすい時期を確認してみよう。
幼児期:赤ちゃんから子どもへの変化。自我の獲得が、第一次反抗期として現れる。
学童期は比較的安定していると言われてきた。しかし、家庭や幼稚園・保育園という小さく慣れ親しめる環境から、学校という公的な場への移行が「小1問題」として現れることもある。
思春期:子どもから大人への変化:気持ちの上で依存から自立へ大きく変化する。
進学・就職:経済的に養ってもらう受け身の立場から、自分で収入を得るという社会的責任と自信を獲得する。
結婚:永続的(最近はそうでもないが)で、安定した緊密で排他的な二者関係を形成し、維持してゆく。セックスなら馬でもできるが、関係を長期間維持することは人間しかできない。
出産・子育て:何もわからず生まれてきた子どもは全面的に親に依存する。それに持ちこたえ、安定した養育環境を提供する。親自身がしっかりしていないと、子どもをしっかり育てることは不可能だ。
子どもの自立・独立:子どもが成長し思春期・青年期を迎える。今まで育んできた親子の緊密な関係をほどき、子どもの船出を許す。大切なものを手放すことはとても辛く、勇気が必要だ。
中年期:身体的な衰えが明らかになり、身体のバランスが危うくなる。若いころのような無理は効かない。健康のバランスが崩れ、生活習慣病、メタボリック症候群、更年期障害などなど。さらには、退職による社会生活の撤退、親の介護と死別など、今まで持っていたものを徐々に放してゆく。やがて迫ってくる自己の終焉を受け入れるプロセスでもある。
このように、生まれてから死ぬまで、越えなければならないハードルが何重にも用意されている。うまく飛び越える人が偉いわけではない。だれだって、つまづくことが当たり前だ。そういうときこそ強がらず、自分の弱さを認めて、他者からの支援を受け入れることが大切だ。そうやって、力強く、ハードルを越えてゆけばよい。
2)突発的な出来事としての危機によるストレス
事故、災害、病気、喪失、、、
これらは、お決まりのコースとして順番に用意されてはいないが、だれでも起こりえる。予期できないだけに、突然襲ってきたときの痛手は大きい。
異常ではない。しかし、乗り越えられず、立ち止まってしまう場合も少なくない。
だれでも乗り越える力は潜在的に持っているはずだ。でも、それはソロで機能するわけではない。まわりの支えがあってこそ、だれもが秘めて持つ力(レジリエンス)が発揮される。そのお手伝いのひとつが精神医療でもある。
<まとめ>
弱いから、ダメだから、甘えているからではない。
だれもが経験する困難を前向きに乗り越える力を得るための精神医療。
それは、従来の病気の発見・治療という視点とは180度逆である。
私が新たな精神医療としてこのようなイメージを持っている。
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