2013年5月25日土曜日

支援者の自己と向き合うワークショップ

さあ、今日から始まります。
あと1時間ほどで始まる前に、私自身、どのようにワークショップを進めるか、自分の考えと向き合っています。特に前もって定められたプロトコールがあるわけではありません。その都度、参加者とともにかじ取りしていきたいと思います。進めるのは私ではなく、参加するみなさんの力ですから。

「支援者の自己と向き合う、、、」
、、、って、どういうことですか?
どう向き合ったらよいのですか?
何に向き合ったら良いのですか?

この問いに、すぐに、何となくではあっても答えられる人もいるでしょう。
前々から思っていました。
自分は〇〇こ向き合いたいのです、、、と、自らお題を持ってきます。

良いですよ。この場所を使って、それを展開してゆきましょう。
まず、安全な場所を確保すること。
それが何よりも大切な準備作業です。

「支援者の自己と向き合う、、、」
、、、いやあ、よくわからない。
何となくその必要性は感じる、というかその大切さは理解できるけど、、、実際に何をどうしたらよいのか、よくわかりません。

そのような人もいるでしょう。
その場合、私がお手伝いしましょう。

自己と向き合うにはさまざまな方法があるのですが、ひとつの方法として支援者が日常関わる臨床経験から糸口を導き出すことができます。

もしクライエントを理性的・理論的にのみ理解しようとするのであれば、支援者は自己と向き合う必要はありません。感性を耕す必要はなく、たくさん勉強して、知識を仕入れて、理性を耕してください。
しかし、クライエントを感性的に、気持ちの動きを理解(というか共感)するのなら、まずその元となる自分の感性を耕すことが必須です。

どこを、どうやって耕すのでしょうか?

それを見出すカギは、普段の臨床活動の中に埋め込まれています。
Q)いったい私は支援者としてクライエントの中に、何を見ているのですか?
Q)いったい私は、その部分にどのような自己の体験を投影しているのですか?
結局、他者の中に見ているものは、他者という鏡に映し出された自分自身なのです。
それを明確にすることで、自然に自己と向き合うことができます。

これ以上は理屈で説明できませんので、具体例として私の場合をご紹介しましょう。
といっても、ここで紹介できるのは耕し済みのことばかりです。
現在、取り組み中の部分は残念ながらまだご紹介できません。

----

問い)次の小問に答えながら「私が投影しているもの」を見つけなさい。
 小問1)私は、どういうクライエントと関わっているのでしょうか?
 小問2)私は、彼らにどのような眼差しを投げかけているのでしょうか?
 小問3)私は、そこに自分自身の体験をどのように投影しているのでしょうか?

★ひきこもりの若者たち:本人から話を聴く場合

私はひきこもる気持ちを本当にわかっているでしょうか?
⇒私自身は今も、若い頃も「本当にひきこもりたい」、、、というか「ひきこもざるを得ない」と感じた経験がありません。だから彼らの気持ちを本当にはわかっていないと思います。
でも彼らの心情を細かくみていけば、私自身の体験に通じるところがあります。

彼らは不安がいっぱいです。まわりの人たちに対して不安を抱きます。周りの人たちと渡り合える自信がありません。
⇒私にとって「自信」ってどんな具合だっただろう?
自信があった時もありました。自信がなかった時もありました。
今現在だって、半分は自信があり、半分は自信がありません。
自信を喪失した体験は多分いろいろあります。でもそれらを思い出し、語ることは辛いです。あまり思い出したくありません。
自分だけ場にそぐわないのじゃないだろうか。周りの人たちはわかっていることを、自分だけわかっていないんじゃないだろうか。
まわりは自分のことをどう見ているんだろうか。まわりから受け入れられているか不安だ。周りの人は自分のことをヘンと思っているのではないだろうか。あるいは、ぜんぜん無視して私の存在なんて気にも留めていないのでは?
自分だけ仲間から外されているんじゃないだろうか? 
だれも言ってくれないからわからないけど、そうかもしれないと思い込んでしまう過剰な自意識。
小学生の頃はそんな風に感じたことは多分ありませんでした。中学生・高校生の頃に一番強かった思います。大学に入ってからは、そんなことバカバカしくてあまり考えなくなった、あるいは考える必要がなくなったのだと思います。

彼らは、本来は自分の居場所であるべき所属する場所(学校や職場や友人関係、そして何よりも家庭)を自分の居場所として受け止めることができません。
⇒私がそう感じた体験はまだ耕されていません。断片的にしか思い出すことができません。
怖いし不安だった感触は何となく記憶しています。
それほど苦労せずに乗り越えてきたはず、、、としか思い出せません。

彼らは、まだそれを乗り越えていません。
⇒私はどうやって乗り越えたのでしょう?
よくわかりません。この部分を耕しても、多分成功体験しか出てこないような気がします。
当初は失敗していても、その後、なんとか成功に繋げた体験が多いと思います。
多分、イギリス留学時代、あるいは高校時代のアメリカ留学時代にもたくさん失敗を体験したと思います。これらは、まだ耕す余地がありそうです。

彼らは親に対する気持ちも語ってくれます
父親を毛嫌いしたり、反抗したり、衝突したり。
⇒私にとって父親は子ども時代は尊敬する人、思春期は反抗して乗り越えようとする壁でした。反抗した末に、乗り越えられたという実感も得たのだと思います。それは、いつだったか、この辺りはピンポイントで振り返ることができます。

彼らは母親に対して、「うまくいかないのは母親のせいだ!」と良く言います。
⇒私もその気持ちは良くわかります。
要するに「甘えている」んですよ。
自己責任をとれません。だって、母親が責任を先取りしてくれてしまいますから。親の私が悪かったって。口にはださなくとも、そう感じているのはわかってしまいます。
私にとって母親は無条件に受け入れ、泥沼のように吸い取ってくれる存在です。
だからこそ、私には安定した部分があるのだと思うし、とても感謝しています。
でも、そこから抜け出したいと思うし、この歳になっても抜け出せないとあきらめる気持ちもあります。
親に依存したくなる気持ちは私自身もよく体験しました。ものごとが順調な時は良いのですが、自信が打ち砕かれると親に頼り、親のせいにしたくなりました。

★ひきこもりの子ども:親から話を聴く場合
⇒私の3人の子どもたちは、今のところひきこもっていません。
だから、親の本当の気持ちは多分わかっていないと思います。
しかし彼らの気持ちをよく伺うと、私自身の親としての体験・気持ちと共通点が見つかります。

子どもを生み育てるって、どんな気持ちに直面するのでしょう。
⇒とても不安です。子どもが成長してちゃんと大きくなってくれるだろうか。
この子は大丈夫だろうか。
まわりから見れば「大丈夫よ。なぜ心配しているの?」と言われても、際限なく心配です。

両親の間で意見が異なり、折り合いがつきません。父親はもっと厳しくしなければ。母親はもっと優しくしなければ。。。ふたりとも必死です。
⇒私も必死でした。
過去形ではなく、今でも必死なのだと思います。
特に問題もなく、親の気持ちも平穏なときは両親で差があってもそれほど気になりません。しかし、たいへんだ、困った、このままではダメになる、、、などと危機感を持つと、親の余裕がなくなります。必死になると、他の意見を受け入れられなくなりました。相手が自分と同じように考えたり振る舞わないことが許せなくなります。

★夫婦間の問題
さまざまな問題・不一致で相談にやってきます。
彼らはちゃんとケンカできていないなと思います。相手を否定するだけ。
正しくケンカするって、とても大切だけど、とても難しいんですよ。
⇒私も苦労しました。
何度、「離婚しかないかなぁ、、、」と思ったか、、、。
ちゃんとケンカできていませんでしたね。面と向きあえなかったし、ホントに言いたいことを言えませんでした。
自分の中に「痛い」部分があります。それは、自信のなさ、恥、知られたくないこと、考えたくないこと、悲しいこと、辛いこと、、、などなど、とにかく自分でも見たくないことです。
自分でも見たくないものを相手に指摘されると、自分の大切にしているものを台無しにされたように感じます。すごくイヤです、、、

まだまだ私自身の話は続きますが、この辺で留めておきましょう。

要するに、こういう具合なんですよ。
「彼らは(クライエントは)、xxxxです、yyyyなんです、、、」
というように、支援者が相手に見ている部分(投影している部分)を自分自身に戻してみます。

「私は、xxxxですか? yyyyですか?」
そこから、支援者の自己を掘り下げる作業が始まります。

これは多種の掘削方法のうちのひとつで、他にも方法はあるのですが、割と有効な方法なので紹介しました。

0 件のコメント:

コメントを投稿